譚海 卷之十一 嶧山の碑幷草書・行書・楷書の事
○李斯(りし)が「驛山(えきざん)の碑」は、大篆を、八分(はつぷん)減じて、書(かき)たる物にて、「八分字(はつぷんじ)」の濫觴也。
夫(それ)より、後漢に至りて、章帝、「八分」を略して、草書を書始(かきはじめ)られし故、「章草」と云(いふ)物、出來(いできた)たり。草書は、後漢の張芝、「章草」を略し、書たるより始(はじま)り、行書は、又、後漢の劉德寔、草書を略せしより、出來たり。楷書は、又、行書により出(いで)て、最(もつとも)末(すゑ)に出來たる事也。「眞書(しんしよ)」をば、「正書」ともいひ、「楷書」とも云(いふ)。
孔子の廟下に、楷木(かいぼく)といふもの生(しやう)じ、正敷(まさしく)、生長せしものゆゑ、楷書の名に取(とり)たる事也。
[やぶちゃん注:「嶧山の碑」は「嶧山刻石」とも呼ばれる、秦の始皇帝が、山東省の嶧山を巡遊した際に建てた記念碑。紀元前二一九年に刻まれたもので、その文字は秦の悪宰相李斯が書いたと伝えられるが、原石は失われて、現存しない。現在、見ることの出来る「嶧山刻石」は北宋の徐鉉(九一六年~九九一年)が写したものを元にした拓本である(滋賀県東近江市五個荘竜田町(ごかしょうたつたちょう)にある「公益財団法人 日本習字教育財団 観峰館」公式サイト内の「嶧山碑(えきざんひ)」に拠った)。
「八分字」漢字の書体の名。隷書の一種。漢代に蔡邕(さいゆう)が、又は、秦代に王次仲がつくり出したとされる。その書体が、「八」の字が分散しているように見えることから名づけられたとも、また、篆書二分と隷書八分との混じった書体であるので名づけられたともいう。
「章帝」後漢の第三代皇帝。在位は七五年から八八年まで。
「張芝」(生没年不詳)は後漢の書家。太常の官に上った名士張奐の子として生まれ、幼時から学問に励んだが、終生、仕官せず、書の修練を積んで,特に草書をよくした。鍾繇(しょうよう:後漢末から三国時代の魏において活躍した書家。同時に政治家・武将としても活躍したとされており、かの曹操や曹丕(そうひ)に仕え、魏の建国にも力を尽くしたことで宰相にまでなった人物)・王羲之とともに、「古今三筆」の一人。
「劉德寔」不詳。或いは、中国後漢末の蜀漢初代皇帝劉備の親族であった劉徳然 (生没年不詳)のことか? 当該ウィキによれば、『劉備が』十五『歳の時、劉徳然は彼と共に、儒学者の盧植に師事していた。この時、父の劉元起は自分の息子のみならず、大器と評価した劉備にも同等の学資を与えて援助したという』。但し、小説「三国志演義」では、『劉元起は史実に近い形で劉備を援助していたこととなっているが(第』一『回)、劉徳然の名は登場しない』とある謎の人物である。
「楷木」中国原産のムクロジ目ウルシ科カイノキ属カイノキ Pistacia chinensis 。当該ウィキによれば、『中国名は、黃連木(別名:楷木)』とあり、『カイノキは、直角に枝分かれすることや小葉がきれいに揃っていることから、楷書にちなんで名付けられたとされる。別名のクシノキは、山東省曲阜にある孔子の墓所「孔林」に弟子の子貢が植えた』、『この木が代々』、『植え継がれていることに由来する。また、各地の孔子廟にも植えられている。このように孔子と縁が深いことから、学問の聖木とされる』。『また、科挙の進士に合格したものに楷の笏を送ったことから、その合格祈願木とされていた』とある。]