譚海 卷之十 信州更級郡姥捨山月見の事
譚海 卷之十 信州更級郡姥捨山月見の事
○信州「姥捨山」は更科郡(さらしなのこほり)なるゆゑ、「更科山」とも、いへり。
ひくき山にて、西南にむかひて、ふもとにながるゝを「さらしな川」といふ。
[やぶちゃん注:「姥捨山」グーグル・マップ・データ(以下、無指示は同じ)のこちらの、左下方にある「冠着山」(かむりきやま:標高 千二百五十二メートル)の俗称。「更科山」も異名の一つ。
「さらしな川」ここは「ひなたGPS」の「国土地理院図」がよい。中央やや上に「更級川」を確認出来る。(千曲川左岸直近を並行して流れる小流れ)また、戦前の地図の左下方に『村級更』の村名が確認され、「国土地理院図」に戻ると、その東方に『∴姥捨(田毎ノ月』とあり、その左に『姥岩』がある。但し、姥捨山=冠着山は、ズーム・アウトして南に南南東に四キロメートル下がった位置にある。]
山に神社、有(あり)。じんしやのうしろの山より、月、いづるなり。その山を「鏡臺山(きやうだいさん)」といふ。
[やぶちゃん注:「山に神社、有。」「じんしやのうしろの山より、月、いづるなり」『その山を「鏡臺山」といふ』私も行ったことはないが、地図上で「角の老人」をやらかしてみよう。まず、流れから言うと、この「山に神社」が「有」って、その「じんしやのうしろの山」から「八月十五夜の月」が見事に「いづる」というのだが、前の文脈から、この神社というのは姨捨(冠着)山としか読めないから、この山頂の頂上直近にある冠着神社ということになる。「じんしやのうしろの山より、月、いづるなり」『その山を「鏡臺山」といふ』というのは、神社の後背の山(場所柄、姨捨(冠着)山ととるしかあり得ない)という意味ではないのである。この「鏡臺山」というのは姨捨(冠着)山冠着神社の東北東遙か九・二六キロメートル離れた千曲川右岸の「鏡台山(きょうだいさん)」を指しているのである。則ち、姨捨(冠着)山から、遙かに離れた、その鏡台山に登る月を楽しんだのである。しかし、鏡台山を姨捨(冠着)山の「うしろ」と表現するのは、逆立ちしても、相応しくない。さればこそ、これは津村の実見とは思われないのである。サイト「日本遺産 月の都千曲」の「鏡台山(きょうだいさん)」によれば、『今に生きる「月見の地」 伝統的な地』として、『千曲川右岸にある標高』千二百六十九メートルの『山』とあり、『中秋の満月が山頂付近より昇ることから、山名の由来となった』。『鏡台山から昇る月を松尾芭蕉が俳句に詠み、歌川広重が浮世絵に描いた』。『古代では、姨捨山(冠着山)に照る月を仰ぎ見ていたが、江戸時代になると』、『鏡台山から昇る月を見て楽しむようになり、月の見方が大きく変化した』とあるのである。芭蕉のそれは、「更科紀行」に、芭蕉が弟子らに自身作として示した二句、
姨捨山
俤(おもかげ)や姥(おば)ひとり泣く月の友
十六夜(いざよひ)もまだ更科の郡(こほり)かな
であり、歌川広重のそれは、「六十余州名所圖會」の「信州【更科田毎ノ月鏡臺山』で、姨捨の棚田を配したそれは、サイト「信州STYLE」の「姨捨の棚田」で見ることが出来る。]
八月十五夜の月、いつも、此鏡臺の山(やま)、凹(へこみ)たる所より出(いづ)れば、さながら、鏡をかけたるやうにおもはるゝより、いつしか、この名を呼(よび)ならはせる、とぞ。
其餘の月は、夜の遲速によりて、凹たる所にあたりて出ざるゆゑ、良夜をことに賞翫する事なり。
又、神社の前より、ふもとまで、片さがりに、岨(そば)へ、つくりたる田、四十八あり。これを「田ごとの月」とて俳諧師芭蕉の愛せしより、今は名高いき事になりて、好事のもの、かしこにあそべるは、わざわざ、其田の稻の、まだし、みのらざるを刈(かり)のけて、月をみる事をなす。月をうしろにて、田面(たのも)を、みおろせば、月の影、四十八の田面にうつる故、「田ごとの月」といへる、とぞ。
此田は神領なれば、刈除(かりのく)る稻の價(あたひ)を、いだして、月をみる事なり。稻のあたひ、四斗入四拾俵ほどなり、とぞ。
「近來、良夜には、『姥捨の月』、みる人、たえず、諸國より旅人來(きた)る故、中秋には、みな、ふもとの村々、旅宿を、いとなみて、其人を、とゞめ、黃昏(たそがれ)より饌具(せんぐ)など、もたして、山へのぼる事とす。山路、ふもとより頂上まで二十町[やぶちゃん注:二・一八二キロメートル。]ばかりあり。」
と、いへり。