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2024/03/06

譚海 卷之十 畿内の人御影參り幷大坂沙もちの事八軒家(はちけんや)船つき場跡

[やぶちゃん注:この前話「下野國日光山狸鷲につかまれたる事」は既にフライング公開してある。]

 

○大坂の人、物語がたりせしは、

「此さき、一年(ひととせ)、『御影まゐり』といふ事、はやりて、畿内の人、上下、おしなべ、伊勢參宮せざるもの、なし。何ゆゑともなく、諸人、まことに、ものにとられたるやうにして、あきなひ・所務を、うちすてて、まゐる事なり。先(まづ)、大坂の宿をいづれば、有德のもの、家ごとに、鳥目(てうもく)を、つみ、たくはへ、往來の人に、百錢、二百錢、分げんに應じて、施し與(あた)ふ。是を、もらひて行けば、行先々々の所にても、おなじやうに、錢を、ほどこす。八間[やぶちゃん注:底本では編者による割注の補正注で『(や)』とある。これは「八軒家(はちけんや)船つき場」を指す。ここ(グーグル・マップ・データ。サイド・パネルのこの写真で判明する)。]にては、京上りの『舟ちん』をほどこすよしにて、乘(のり)かゝる人を、錢を、とらずに、伏見まで、舟にて、おくる。伏見へ着(つき)たれば、伏見の船宿、あるは、はたごやなど、いひあはせて、

『まづしければ、ものやるべきやう、なし。其かはりに。』

とて、居風呂(すへぶろ)を焚(たき)て、往來の人を要して[やぶちゃん注:待ち受けて。]、是非をいはず、風呂に入(いれ)さするなり。それより、東海道、關(せき)[やぶちゃん注:現在の三重県亀山市関町(せきちょう)にあった「東海道五十三次」第四十七番目の宿場である関宿(グーグル・マップ・データ)。この宿の東の追分から伊勢別街道が分岐する。]を入(いり)て、御宮(おみや)までの道すがらは、錢をほどこし、食物ふるまふ所など、たえねば、ひだるく、もののほしきといふことも、わすれ、よるひるのわかちなく、往來、にぎはしければ、よもすがら、旅行して、つかれたる所にて行(ゆき)とまる事とす。「かご」かくものも、道に待居(まちゐ)る、おほくて、往來の人を、すゝめて、

「かごに、のれ。」

といふ。

「いな。まだ、くたびれず。」

とて、行過(ゆきすぎ)る人の、袖をひかへて、無理に「かご」に引入(ひきいれ)て、かつぎ行(ゆき)、これも、錢(ぜに)とらずして、人をのせ行(ゆく)。あまりに、錢、をほく[やぶちゃん注:ママ。]もらひて、つかう[やぶちゃん注:ママ。]べきわざもなければ、重荷に成(なる)まゝ、錢を、とりすてて、道のかたへの松の木などに打(うち)かけて過(すぐ)るに、參宮して、かへるさに尋(たづぬ)れば、猶、其錢、ありしまゝにて、松にかゝりて、とる人もなく、あるほどの事なれば、あまりに、おもしろき事におぼへて、その年、八度まで參宮せし。」

と、いへり。

「寬政より、十四、五年以前の事成(なり)し。」

とぞ。

 めづらかに、ふしぎ成ること共(ども)なり。

 又、一年、城の南にある眞田山(さなだやま)の稻荷の祠(ほこら)に、「砂もち」といふ事、おこりて、これも、上下を、わかたず、ちいさき笊(ざる)、あるは、絹などのものに、人々、砂を入(いれ)、もちて行(ゆき)て、祠のかたへに積置(つみおく)事なり。

 是もみな、家業をなげうち、奉公人のたぐひまで、日々、かくする事になりて、家のあるじの翁(おきな)・うばなど、

「ふよう成(なる)事。」

と、はら、立(たて)、いひしが、のちのちは、此翁も、うばも、うかれ出(いで)て、砂、もちて、行(ゆく)事に成(なり)たり。されば、しん町の遊女・道頓堀の藝子(げいこ)などといふものも、あかき「たすき」をかけ、うつくして出立(いでたち)て、砂を、もちはこぶ事のみ、なせしかば、其頃は「くつわや」[やぶちゃん注:「轡屋」で「遊女屋・置屋」のこと。]も、あきなひをやめて有(あり)けるほどのこと也。

 されど、かく、群集(ぐんしゆ)すれど、

「女の尻など、つむものは、立(たち)すくみに成(なる)。」

とて、恐(おそれ)つゝ、男女(なんによ)いりまじりても、誰(たれ)も、たはむれいふものもなく、只、ひたぶる、砂を、はこぶわざを事(こと)とせしかば、旬日(じゆんじつ)[やぶちゃん注:十日程の日数。]のうちに、祠をば、砂に埋(うづめ)て、したゝかなる山を築(きづき)たり。此事、二(ふた)、三月(みつき)をへて、いつとなく、やみぬ。その後、稻荷のやしろをば、莊嚴(しやうごん)、いみじく、つくりいでたる、とぞ。

 これも、めづらしき事なり。

「大和・河内・攝津國などには、稻荷のやしろ、再興あらんとては、時々、かゝる事あり。」

と、かたりぬ。

[やぶちゃん注:「沙もち」は「砂持ち」である。砂を各人が持ってきて、そこに移すのである。現行では、真田山には、それらしい稲荷は見当たらないが、信頼出来る論文に、『真田山には真田山稲荷社があって、青蘇大明神に毎月朔日に参詣すると中風になることはない、と云はれている』とあるので、これが、そこであろう。しかも、酷似した社会現象は、「大阪市」公式サイトの「歴史の散歩道」の中の「59.玉造稲荷神社」ここ(グーグル・マップ・データ)は真田山の北直近である)にも記されてあり、『現地は急崖に面し、東側がひらけ眺望がよく、起伏に富む地形であった。それを少しでも平坦化するため、寛政元年』(一七八九年)に、『川ざらえで出る土砂を市民が運び込む「砂持(すなもち)」が行なわれた。このときは大坂三郷はもとより』、『それ以外からも、揃いの着物を着た老若男女が集まり、約』一『カ月も賑わったと伝える』とあるから、或いは、この稲荷神社を本篇に出るそれに同定候補としてもよいように思われるのである。

「此さき、一年、『御影まゐり』といふ事、はやりて」本巻の最新記事は寛政七(一七九五)年であるが、前の巻は寛政元(一七八九)年である。さて、ここでははっきりと集団ヒステリーの一種である伊勢参宮の爆発的参宮は、それ以前から発生していたものの、こ明和八(一七七一)年のピックの際、それまで「拔け參り」(使用人等が主人等に無許可で勝手に伊勢参りすることを言った)と呼ばれていたものが、「御影まゐり」(=「御蔭參り」)と変わったのである。ここで話者は「寬政より、十四、五年以前の事成し」とあることから、この話者の言うそれは、やや数値が越えるが明和八年前後の「御蔭参り」であると推定出来る。この集団の異常な現象については、腐るほど、記事注をしてきたので、少々、飽きた。まあ、本書で先行する「譚海 卷之八 房州の犬伊勢參宮の事」、及び、その私の注、その私の別記事のリンク先をご覧になられたい。そこにある通り、人間だけでなく、実は、犬や豚まで「御蔭參り」したのである!

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