譚海 卷之十一 利休路次の歌幷石燈籠の事
○利休へ、路次(ろし)の事を尋(たづね)しに、
松かしはもみぢぬからに散積(ちりつも)る
おく山里の秋ぞかなしき
と云ふ慈鎭和尙の御詠をとりて、
「景容(けいよう)すべし。」
と答(こたへ)ける、とぞ。
又、石燈籠を庭へ置(おく)事は、利休、曉(あかつき)、鳥邊野を過ぐるに、墓所の煙、ほのかに見えて、殊に幽寂に覺えしかば、夫(それ)より後(のち)、石燈籠を庭へ置(おき)て、火をともし、幽栖(いうせい)の觀(くわん)を備へける事と成(なり)たりと、いふ。
[やぶちゃん注:以上の前の話は、元禄一四(一七〇一)年に刊行された茶書「茶話指月集」(さわしげつしゅう)から採ったもの。同書は藤村庸軒が、師の元伯宗旦から聞いた話を、久須美疎安(くすみそあん)が編集したもので、千利休の最初の説話集ともいうべきもの。利休に関する逸話が多く収められている、江戸中期の代表的な茶書。国立国会図書館デジタルコレクションの『茶道古典全集』第十巻(千宗室等編・淡交新社・昭和三六(一九六一)年刊)のここで、当該部(右ページ後ろから三行目以降)を正字で視認出来る。また、後者は、個人サイトと思しい「GLN(GREEN & LUCKY NET)からこんにちは」の「石燈籠の展開」の「庭園の石燈籠」の「1 茶の湯と石燈籠」に、『茶の湯を侘びと数寄の茶道に大成させた千利休の頃、茶室と茶庭についても、草庵の数寄屋とその露地と云う今日の原形が出来上がりました。そしてこの頃、石燈籠と茶庭との最初の触れ合いが始まりました。当時の記録に、「何処其処の露地に燈籠があった」とか、「どんな石燈籠が良い」とか、「その置場所は何処が良く、何時火を灯したら良いか」などと記されています。天正十五』(一五八七)年に『千利休の書いた「台子(ダイス)かざり様之記」の中にも、「朝にても夜にても、石とうろに火ともしては、しゃうじを立る物也」とあります。しかし、その頃既に何処の茶庭にも石燈籠があったのだ、と云うことにはなりません』。『寛永七』(一七〇一)年の『序のある茶道の由来法式格言などを記した』「貞要集」(じょうようしゅう)に、『千利休のことに関連して次のようなことが記されています』(以下は恣意的に漢字を正字化し、句読点・返り点、及び、推定の読みを変更・追加した)。
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石燈籠、路次に置(おき)候は、利休、鳥邊野、通りて、石燈籠の火、殘り、面白(おもしろく)靜成(しづかなる)體(てい)思ひ出(いで)て、路次へ置申候よし、云傳(いひつたへ)有ㇾ之候。又、等持院にて、あけはなれて、石燈籠の火を見て、面白がり、夫(それ)より火を遲く消し申(まふす)由、云傳(いひつたふ)る。
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『このように寺社から古びた石燈籠を茶庭に移す、と云う第一段階が始まりました』とあったので、原拠が判明した。
「路次」ここは、「露地」で、茶室に附属する庭(腰掛侍合・雪隠・中門などの施設や、「つくばい」・灯籠・井泉・飛石などが配置される)のあしらい方を言っている。
「慈鎭和尙」鎌倉時代前期の僧慈円。
「景容すべし」「その情景を心に想起して作庭するのがよろしい。」の意であろう。
「松かしはもみぢぬからに散積るおく山里の秋ぞかなしき」これは、上記原本、及び、ネットの諸記事でも、
松かしはもみぢぬからに散積る
おく山里の秋ぞかなしき
が正しいようである。慈円の「拾玉集」を見たが、この一首はなかった。]