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2024/03/05

譚海 卷之十 薩州行脚僧物語の事

○薩摩國へ行脚せし僧の物語しは、

「さつしう、至(いたつ)て嚴制なり。細川家領分と、薩摩家領分との境に、川、一ツあり、其河を半(なかば)にして、兩國の境とする故、川の眞中に、大成(おほいなる)四角の柱、二本、あはせたてて、右其領分のよしを、しるしたるあり。

[やぶちゃん注:「川」現在の鹿児島県と熊本県の県境に当たる境川。このロケーションは薩摩街道のここ(グーグル・マップ・データ)。ポイントしたのは、渡しの箇所に明治の「西南戦争」後に作られた「境橋」(アーチ橋)。江戸時代の此処の様子はサイド・パネルの水俣市教育委員会の説明版の画像がよかろう。]

 扨(さて)、橋を渡れば、薩州の入口に、番所あり。そこに、

「一向宗幷(ならびに)切支丹の者、禁制。」

のよし、札に、しるしあり。

[やぶちゃん注:「一向宗」「禁制」は薩摩藩と接する肥後南部の人吉藩でも先に行われた。薩摩藩のそれは、「浄土真宗本願寺派西本願寺鹿児島別院」公式サイトの「かくれ念仏の歴史」を読まれたい。ウィキの「隠れ念仏」もよく書けている。拷問・処刑も行われている。]

 さて、其番所へ跪(ひざまづき)て、

「行脚の僧に候間、御領分、托鉢仕度(したき)。」

よし、願へば、番所の役人、其僧の生國(しやうごく)、幷に何宗にて、何寺の弟子、何歲になるよしを糺し、僧のいふまゝを帳面にしるし、扨、

『其方、達者に候や。一日に十里もあるかれ候や。又は、七、八里もあるかれ候や。』

と相尋(あひたづね)、

『十里ほどは、一日に步行(ありき)相成(あひなり)候。』

よし、申せば、

『さやうならば。』

とて、番所にて、手紙をしたゝめ、僧に、あたへ、

『十里、今日(けふ)步行致(ありきいたし)候はば、「なにむら」と申所へ到るべし。そこにて、此手紙を出(いだ)し、庄屋へ相賴(あひたより)宿(やど)すべき。』

由、申含(まふしふくみ)、手紙を、わたす。

 夫故(それゆゑ)、其日、くるゝといへども、其手紙にしるしてある、名前のある所までゆかざれば、旅宿する事、かなはず。手紙のあてどころならぬ所にては、決して、とむる事、なし。

 ゆゑに、其處に一宿し、翌日、出立(いでたつ)時、又、其(その)庄屋より、今夜、とまるべき所までの手紙を、したゝめて、つかはす。

 其手紙を持(もち)て、其所(そこ)まで持行(もちゆき)て、とまる。

 翌日も又、如ㇾ此し。

 さつま國中、めぐり終(をはり)て、もとの番所へ歸り出(いづ)るまで、遲くある事、なし。

[やぶちゃん注:最後の一文は、入国時に、十里計算で厳密に指示されており、遅れることが許されない、というよりも、以上の通りで、宿る箇所が自動設定されているため、遅れようがないということを言っている。]

 尤(もつとも)、人、とむる所にては、殊の外、念比(ねんごろ)に、とりあつかひ、食膳も、相應に、とゝのへ出(いだ)す。

 又、國中步行(ほぎやう)の間も、村より村へ、村送りに、一人づつ、付添(つきそひ)て行(ゆく)。

 橫道へ、よぎり、外(ほか)の所を見る事も、かなはず。

 馬士(うまかた)・田をかへす農人といへども、皆、一刀づつ、腰にさして、あり。

 道の行先を、とへば、かたはらに置(おき)たる刀をさし、笠をぬぎ、丁寧に、をしへしらするなり。他邦になき風俗。」

とぞ。

「城下は、至(いたつ)て殷富(いんぷ)[やぶちゃん注:「殷」は「盛ん」の意で、「栄えて豊かなさま」を言う。]にして、城郭も、嚴重にみゆ。しかれども、是は『二の丸』にて、公儀上使等をも、爰(ここ)にて、うくる所にして、本城は、全く、此城の奧にありて、侯館は南海濱に構へ、琉球へも、こゝより、舟路(ふなみち)を發す。公儀より、每年、唐山(たうざん)へ、船一艘づつは、交易御免ありて、福縣[やぶちゃん注:「福建」。]の舟抔の港も、こゝにあり。城中に、方六里の田地ありて、軍民、常に耕種(こうしゆ)なし、萬一籠城に及(およぶ)時は、屯田(とんでん)して、長く守るべき計(はからひ)に備へたる事。」

とぞ。

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