譚海 卷之九 奥州南部風土の事
[やぶちゃん注:再び、前話の南部盛岡藩繋がりである。津村の奥州行の記事らしいが、やはり、寺名や地名に不審がある。]
○南部城下に、東見寺(とうけんじ)といふ境内に「みつ石」と云(いふ)有(あり)。馬蹄の跡、付(つき)て有り。
「源九郞判官の乘(のり)たる馬なり。」
と、いへり。
又、同所、天滿宮境内に、
「辨慶法師、こゝの『あたご山』より、なげこしたる。」
といふ石(いし)、有(あり)。
又、同所、法仙寺といふには、怪松、有(あり)。二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]ばかり、ひろごりて、其形、言語同斷なり。其根より、淸水、湧出(わきいづ)る。
此寺に金森侯の墳墓、有(あり)。其(その)鄰寺(となりでら)を總往寺といふ。南部侯の「ぼたい所」なり。
同所に、金毘羅權現あり。堤(つつみ)、三つ、有(あり)。又、怪松、おほし。
同所八幡町といふ所の、八幡宮の石の鳥居、一枚石にて造(つくり)たるあり。
境内に、「やぶさめ」を興行せし跡、有(あり)。
城下、中町と云(いふ)所は、のこらず、上方店(かみがたみせ)ありて、爲替(かはせ)の都合、辨ずる所なり。
仙臺領、瀨原と云(いふ)所に、癪(しやく)の妙藥、有(あり)。錢(ぜに)の丸さの如くにして、うるなり。
又、同領、岩沼に、「ひゞ・あかぎれ」の「かうやく」[やぶちゃん注:膏薬。]あり。德兵衞といふものの所より、出(いだ)す。
いづれも、名物(めいぶつ)なり。
[やぶちゃん注:「南部城下に、東見寺といふ境内に「みつ石」と云有。馬蹄の跡、付て有り」「源九郞判官の乘たる馬なり」「と、いへり」「同所、天滿宮境内に」「辨慶法師、こゝの『あたご山』より、なげこしたる」「といふ石、有」盛岡城跡の北直近に、曹洞宗松峰山東顕寺(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)があり、その北側に三ツ石神社があって、そこに「三ツ石(鬼の手形)」があるが、義経・弁慶由来ではない。同神社のウィキによれば、『盛岡市の東顕寺の裏手にあり、境内に注連縄が張られた』三『つの巨大な花崗岩が立ち並ぶ。この』三『つの石は』、『岩手山が噴火した時に落ちてきたとされ、古くから「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた』。『実際には』、『この花崗岩は』、『もとから』、『この地にあったもので、噴火で落ちて来たという通説は誤りである事が岩手県立博物館でも紹介されている』。『伝説では、現地に羅刹鬼という鬼が』、『里人や旅人に悪事をし、困り果てた里人たちは「三ツ石様」に「悪い鬼をこらしめてください」とお願いしたところ、三ツ石様がたちまちに羅刹鬼をこの』三『つの大石に縛りつけた。仰天した羅刹鬼は降参し、二度と悪さをしないこととこの土地に来ないことを約束し、証として』、『石に手形を残して』、『南昌山の彼方に逃げ去った。この「岩に手形」は「岩手」の名の起こり、「二度とこの土地に来ないこと」は「不来方」の名の起こりとされている。また、鬼の退散を喜んだ里人たちが、三ツ石のまわりを「さんささんさ」と踊ったのが』、「さんさ踊り」の『始まりだと言われる』とあった。巨岩の写真も二枚ある(これと、これ)。「三ツ石(鬼の手形)」のサイド・パネルのここに手形らしきものが巨岩にある写真がある。現行では、巨岩の当該部には苔が表面に生えていて、岩自身のそれは、ピンとくる写真はない。なお、義経の馬の馬蹄跡があるのは、岩手県前沢町にある経塚山で、盛岡からは、遙かに南方である。Hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」の「番付外 岩手県前沢町経塚山:体内石&経塚石&馬蹄石」に『馬蹄石』とあって、『経塚山の頂上付近には馬の蹄に似たくぼみがある岩は、馬蹄石と呼ばれている』とある。写真もある。
「同所、法仙寺」三ツ石神社の北西方の近くに、臨済宗妙心寺派大智山法泉寺なら、ある。流石に、松は生き残っていないか。
「金森侯の墳墓、有」美濃郡上藩の第二代藩主金森頼錦の墓がある。金森頼錦(かなもりよりかね 正徳三(一七一三)年~宝暦一三(一七六三)年)は江戸時代の金森可寛(よしひろ)の長男。当該ウィキによれば(一部でウィキのリンクを保持した)、『父の可寛は初代美濃郡上藩主金森頼旹』(よりとき)『の嫡子であったが』、享保一三(一七二八)年に三十七歳で『死去したため、頼錦は』翌享保十四年に『跡継ぎとなり、将軍徳川吉宗に拝謁、従五位下若狭守に叙任した』。享保二一(一七三六)年の『祖父の死去により家督を継ぎ、兵部少輔に改めた』。延享四(一七四七)年、『奏者番に任じられ、藩政では』、『目安箱を設置したり、天文学に興味を持ち天守に天文台を建設するなどの施策を行った。金森氏の当主らしく文芸に優れ、また、先人の事跡をまとめた』「白雲集」を『編纂するなど、文化人としても優れていた』。『頼錦の任じられた奏者番は出費の多い職であった、しかし同時に幕閣の出世コースの始まりであり、ここから先の出世を目指すためには』、『さらに相応の出費が必要であった。藩邸の立て直しにも相応の費用がかかった』。『頼錦は藩の収入増加を図るため』、宝暦四(一七五四)年、『年貢の税法を検見法に改めようとした。これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発した。これに苛烈な処断で対するが、さらに神社の主導権をめぐっての石徹白騒動』(いとしろそうどう)『まで起こって藩内は大混乱となった』。この結果、宝暦八(一七五八)年十二月二十五日、『幕命によって改易処分となり、頼錦は陸奥盛岡藩の南部利雄に預けられた』。宝暦一三(一七六三)年六月六日、病死した。享年五十一であった。サイド・パネルの写真の説明版では、「金森頼錦の碑」とあるが、ここは前出の法泉寺の墓地で、当初の埋葬地はここで、亡くなった折りにこの碑が建てられ、同寺が守り続けているとある。彼の六男頼興によって、金森家は再興され、翌寛政元(一七八九)年、遺体を引き取り、『火葬の上、京の大徳寺の金森家歴代の墓所に改葬した』と彼のウィキにある。
『其鄰寺を總往寺といふ。南部侯の「ぼたい所」なり』臨済宗妙心寺派大光山聖壽禪寺(しょうじゅじ)、法泉寺の東北にあり、盛岡藩主南部家の国元の菩提寺。
「怪松、有」ありそうで、なさそう。
「同所に、金毘羅權現あり」聖壽禪寺の後背の北山の後ろに、金比羅神社とあり、この神社と、東北に飛び地で岩手県盛岡市三ツ金比羅前という地名が残る。神社は写真が(「日本の神社・寺院検索サイト 八百万の神」の「金刀比羅神社(コトヒラジンジャ) 金毘羅神社(コノピラジンジャ)」)で、視認出来る。
「堤、三つ、有。又、怪松、おほし」辛うじて、ストリートビューで近くの画像が見られるが、「堤」というのは、この神社の盛り上げた(上がった)台地を言っているようだ。「怪松」は見当たらない。
『同所八幡町といふ所の、八幡宮の石の鳥居、一枚石にて造たるあり。境内に、「やぶさめ」を興行せし跡、有』岩手県盛岡市八幡町にある盛岡八幡宮。盛岡の総鎮守にして、神事の「チャグチャグ馬コ」(当該ウィキ)、例祭の「山車(だし)行事(盛岡山車)」(同前)、「流鏑馬神事」で知られる。公式サイトはこちら。冒頭のドローン撮影の動画は迫力がある。「鳥居」であるが、当該ウィキによれば、二〇〇二年に『正面一の鳥居が建て替えられた。旧鳥居は』宝暦一三(一七六三)年に『南部利雄(南部藩』八『代藩主)によって築造された歴史のあるもので、境内の別の場所に移築されている』とあった。
「城下、中町」現在の盛岡城跡西北直近にある岩手県盛岡市中央通附近か。
「仙臺領、瀨原」岩手県西磐井郡平泉町(ひらいずみちょう)平泉瀬原(ひらいずみせわら)。中尊寺の北直近。江戸時代、平泉は仙台藩領であった。
「癪」多くは古くから女性に見られる「差し込み」という奴で、胸部、或いは、腹部に起こる一種の痙攣痛。医学的には胃痙攣・子宮痙攣・腸神経痛などが考えられる。別称に「仙気」「仙痛」「癪閊(しゃくつかえ)」等がある。
「同領、岩沼」前と併置しているので岩手県平泉町西磐井郡内と思われるが、現行では「岩沼」の地名はない。この周辺の「沼」とつく場所をポイントしておいた。]