譚海 卷之十二 盜賊方藤掛伊織殿事
○藤掛伊織樣と云(いふ)、盜賊御改[やぶちゃん注:底本では「御改」の右に、補正傍注で『(改役)』とある。]ありて、きびしく、惡者を、とらへ給ひ、直(ただち)に御長屋にて、せめさせ給ふに、其中に惡者にも、あらで、まぎれ取(とら)れたる者も、强き責(せめ)に逢(あひ)て苦しさのあまり、えせぬ事までも、罪におちて、「火あぶり」抔(など)になり、又は、「引き責め」にて死(しし)たる者もありて、諸人、久敷(ひさしく)恨(うらみ)を含(ふくみ)て有(あり)しが、御役御免ありし其日、あぶれ者共、押込(おしこみ)て、其屋敷を打(うち)こはし、雜具等まで、みぢんに引(ひき)ちらし、さわがしかりし事也。其屋しきは、神田御玉が池にて、ありし。
[やぶちゃん注:「藤掛伊織」喜安幸夫「隠れ浪人事件控 隣の悪党」(学研プラス・二〇〇八年刊)の「あとがき」によれば(「グーグルブックス」で視認)、
著者:元文三(一七三八)年に『火盗改に任ぜられ、その仕事振りは』、ここに記されたように惨忍に過ぎたという。『当時の落首に次のようなものがあった』。『寄れば取り 触れば取って見たがるが』『手掛け足掛け さては藤掛け』とあり、『結局』、『人々の恨みを買い、ほぼ一年で御役御免となった。そのときに、どこの誰とも知れぬ者たち数百人がお玉ガ池の藤掛屋敷を取り囲み、門を破るなどの狼藉を働いたのも事実である』とあった。
「引き責め」江戸の最高刑の一つである「鋸引(のこぎりび)き」であろう。
「神田御玉が池」ここに跡がある(グーグル・マップ・データ)。]
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