譚海 卷之十二 古筆目利了意物語の事
○古筆目利(めきき)、了意、物語せしは、[やぶちゃん注:底本では、名の「意」の右に編者による補正注があり、『(延)』とある。「りやうえん」と読んでおく。彼、了延は、代々の古筆鑑定家の家柄で、通り名をまさに「古筆了延」(こひつりょうえん 宝永元(一七〇四)年~安永三(一七七四)年)と称した。江戸時代前期の古筆鑑定家ノ古筆宗家第五代古筆了珉(りょうみん 正保二(一六四五)年~元禄一四(一七〇一)年:原姓は平沢。古筆別家初代一村の孫で、宗家第四代了周が早世したため、その跡を継いだ。別家の了仲とともに幕府に仕え、寺社奉行支配の古筆見(こひつみ)となった)の直孫に当たり、子であった古筆了音の実子である。父を継いで、古筆宗家第七代となった。名は長泰・最門。別号に玄仲庵がある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」の複数の項目を参照した。]
「『古筆三筆』と稀する中に、道風(たうふう)・行成(ゆきなり)兩卿の眞蹟は、稀にあるものなれど、佐理卿の眞蹟は、至(いたつ)て稀也。いまだ、眞蹟をみざる。」
由を、いへり。又、
「世問に源九郞義經の書といふもの、時々、あれども、皆、うたがはしき物也。義經の眞蹟と云(いふ)もの、絕(たえ)て、世間になき事。」
と、いヘり。
[やぶちゃん注:「道風」小野道風(おののとうふう/みちかぜ 寛平六(八九四)年~康保三(九六七)年)は貴族で能書家。かの参議小野篁の孫で、官位は正四位下・内蔵頭。当該ウィキによれば、『それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は』「野跡」』(かせき・「小野」の「野」から)『と呼ばれる』とある。名を音で読むのは、当時の敬称の通例。
「行成」藤原行成(ふじわらのこうぜい/ゆきなり 天禄三(九七二)年~万寿四(一〇二八)年)は公卿。当該ウィキによれば、『藤原北家、右少将藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言』で『世尊寺家の祖』。『当代の能書家として三蹟』(=三跡)『の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」』『(ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖』である。
「佐理」藤原佐理(ふじわらのさり/すけまさ )は、当該ウィキによれば、『公卿・能書家。藤原北家小野宮流、摂政関白太政大臣』『藤原実頼の孫。左近衛少将・藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書で有名』とある。但し、「佐理卿の眞蹟は、至て稀也。いまだ、眞蹟をみざる」とあるが、引用元に、現行では国宝指定など、真筆のリストが載る。
「義經の眞蹟と云もの、絕て、世間になき事」その通りである。私も確かな真筆なるものを見たことがない。「藤澤浮世絵館」の二〇一八年の企画展「藤沢と義経伝説」で、白旗神社に伝来する「伝義経御真筆」を見たが、史実上、頗る怪しいものであった。]
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