譚海 卷之十一 東叡山兩大師鬮識文の事
[やぶちゃん注:「鬮」は「くじ」。]
○東叡山兩大師の「みくじ」の文(ぶん)は、信州戶隱山に有(あり)しを、慈眼大師、取出(とりいだ)されて、今、かく、用(みちひ)る事にて、末世の利益と成る事と、いへり。
[やぶちゃん注:「東叡山兩大師」寛永寺開山堂は別に「両大師」とも呼ばれる。同寺公式サイトのこちらによれば、『開山堂は、東叡山の開山である慈眼大師』『天海大僧正をお祀りしているお堂です。天海僧正が尊崇』『していた慈惠大師良源(じえだいしりょうげん)大僧正もお祀りしているところから、一般に〝両大師〟と呼ばれ、庶民に信仰されてきました。 初建は正保元』(一六四四)『ですが、現在のお堂は平成五』(一九九三)『年に再建されたものです』とあった。
『「みくじ」の文は、信州戶隱山に有しを、慈眼大師、取出されて、今、かく、用る事にて』戸隠神社公式サイトの「祈祷御神籤(きとうおみくじ )」の「戸隠とおみくじ」によれば、『おみくじが大衆に浸透していくのは江戸時代に入ってからのこと。東京上野の寛永寺を創始した天海僧正の夢に、日ごろ帰依する元三大師が現れ「信州戸隠山にある観音籤で、信心して占えば、人の願いに応じて吉凶、禍福を知らしめるであろう」とのお告げがありました。早速、天海は戸隠のおみくじを取り寄せ、経をとなえ、ゆすりながら筒の口から出た籤で占ってみると、将来のことが手に取るように明らかだった、との逸話が残されています。この観音籤』(リンク先の前段参照)『の広まりと』、『おみくじの解説本の登場により、庶民も病気、待ち人、縁談、引越し、商いなどを占うことができるようになりました』。『戸隠神社は明治維新まで戸隠山顕光寺という天台宗のお寺でした。天海僧正の夢の逸話から、すでに江戸時代初頭には戸隠に御神籤〈おみくじ〉があったことがうかがわれます』。『明治維新の変革を経て、戸隠神社では仏教色の強い観音籤を改める試みがなされました。やがて神話に即した現在のおみくじとなり、神々の物語に基づく和歌を柱として、吉凶をはじめ和歌の解釈、信心すべき神様、方位、待ち人、旅立ち、家造り、引越し、縁談、商い、失せ物、訴訟事、生死などについて戸隠の大神様より示されます』。『神職が祝詞(のりと)の中で、参拝者からお聞きした年齢(数え年)と男女の別を戸隠の大神様に告げ、吉凶をお尋ねしています。この独特のおみくじの引き方は〈経をとなえ、ゆすりながら筒の口から出た籤で占う〉というお寺の時代を彷彿とさせます』とあり、現在は当時の鬮の文言は見られないことが判る。]