譚海 卷之十一 日蓮宗中山相傳加持の事
[やぶちゃん注:「□□」は底本自体の脱字表記。【 】は割注。底本では、前話と『同前』とあるのを、字起こしした。]
○日蓮宗の中に、「中山相傳(ちゆうざんさうでん)の加持」といふ者は、多くは、狐をつかひて、行ふ事あり。
先年、右の加持をする僧あり、病人に口ばしらせて、思ふ事をいはせて後(のち)、加持にて、本性(ほんしやう)にかへし、祈禱するを、
「奇妙なる事。」
に、沙汰せしかば、試に、行(ゆき)て見たるに、
『全く、狐をつかひてする事。』
と覺えたり。
加持を願ひに集(あつまり)たる人を、一席に居(を)らしめて、一度に加持をすること也。
「法花經」の「方便品(はうべんほん)」を一卷づつ、紫の「ふくさ」に包(つつみ)たるを、人ごとに、もたせ、左右の手に、さゝげもたせて、しばらく呪(じゆ)を唱へて後、其一卷をば、取(とり)のけ、そのさゝげ持(もち)し手をば、そのまゝにて、
「經を持(もち)たるごとく、心得て、ゐよ。」
と、いふて、又、呪を唱へ加持すれば、其人、ふるひ、をのゝきたちて、口ばしる樣子なり。
我々も、空手(くうしゆ)にて、左右の手をならべ坐(ざ)したるに、しばらくして、左の大指(おやゆび)の爪の間より、入(はい)る物、あり。小き蛛(くも)ほどの樣(やう)なる物、
「ひなひな」
と脈所(みやくどころ)まで入(はいり)たりと覺えたれば、
「さてこそ、狐は入(はい)らんとするなれ。年來、修行したる功力(くりき)はこゝの事也。」
と、一心不座に陀羅尼を唱へ、三寶を念じたれば、脈所より戾りたり。□□に及(および)しかば、
「我家門(わがかもん)にても、『中山の加持』は殊に新法(しんほふ)也。皆、狐をつかふ事なれども、年久しくありて、狐、其僧に別(わかる)る時は、大に難儀なるめにあふ事なり。」
といへり【註。この條、別本になし。】。
[やぶちゃん注:「中山相傳」千葉県市川市中山にある正中山遠壽院(しょうちゅうざんおんじゅいん:グーグル・マップ・データ)で現在も続く祈禱であるようだ。個人ブログ「Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めてⅢ」の「正中山遠壽院(2018年2月17日参拝)」(境内の写真有り)に、『根本御祈祷系授的傳加行所と称され、また荒行堂とも通称されるように正中山修法の相伝を使命とする加行道場をして、約四百年の伝統と歴史を有する日本仏教界でも特異な寺院である』とあった。但し、狐を祈禱に関わらせることは、触れていない。同寺の公式サイトでも、現国學院大學の千々和到教授の論文「遠寿院所蔵の起請文-Part2」の中で、ある資料に、『規制されている内容』があり、それは『単なる修行中のきまりではありません。今後行僧が祈祷師としてやってよいこと、悪いことを規定しております。たとえば、上人の置文では、祈祷にあたっては相伝の旨を守り、「臨時・私」の新義を交えてはいけないとか、「便狐」(狐を使う祈祷でしょうか)を執行してはいけないとか』(☜ ☞)『「侘立」(たくだて、つきものの祈祷)や「子消」(こけし、無理に流産させることでしょうか)はむやみに』(☜ ☞)『やってはいけない、などと具体的に決められています』とあるだけであるが、これは、わざわざ禁じている、無暗にと添えているということは、嘗つて、この中山相伝の祈禱の中には、狐を呪(じゅ)に関わらせた例があったことがあるからこその禁であろうと推定が出来る。]