譚海 卷之十 若州醫杉田玄白解體新書の事
[やぶちゃん注:前話の腑分けで連関。]
○又、物語に云(いはく)、
「近來、和蘭人(おらんだじん)の言(い)ふ『人の臟俯を解(わけ)て見たる』を、しるせるあり。
若州小濱藩(をばまはん)の醫、杉田玄白、是を和解(わかい)[やぶちゃん注:和訳。]して、「解體新書」といへるあり。ことのほか、微妙なる事にて、玄、奥を究(きあへ)たることなり。
『我も久敷(ひさしく)、疑事(うたがひごと)ありしかば、罪骸(ざいがい)[やぶちゃん注:処刑人の遺体。]を解て見たる事、三度(みたび)に及(および)しが、ことごとく、おらんだ人の言(げん)に符合して、いよいよ、其(その)奇なる事を、しりたり。紅毛(おらんだ[やぶちゃん注:珍しい底本のルビ。])人の書も、其國にて出來(いでき)たるものにはあらず、他邦より傳へたるを據(よりどころ)として、猶、和蘭人、精微[やぶちゃん注:底本の訂正傍注では「微」を『(密)』とするが、寧ろ「緻」の方が相応しい。]を盡した事と覺ゆ。人の臟腑、罪人を解(わくる)時は、生人(いきびと)と替りて、異(こと)なれば、
「是も、なすも可なり。なさゞるも、可なり。」
などといふ人、あれども、是は、全く、空論にて、直(ぢき)に解てみるときは、適證(てきしよう)とする事、おほし。人の體中氣脈(たいちゆうきみやく)は、骨の中を通じ、血脈は肉囊(にくなう)の中を通ず。人の骨の中は、都(すべ)て空濶(くうくわつ)にして、骨の穴を、息を以て、吹(ふく)ときは、笛のやうに聲を發す。血脈は一帶の筋絡(きんらく)にして、死體を解て見るときは、べつたりと、ひしげて、赤き絲(いと)、一すぢのごとし、夫(それ)へ息を籠(こめ)て吹(ふく)ときは、ことごとく、一(いつ)の血絡(けつらく)に通じ張(はれ)ふくれて、總身(さうしん)の血脈、一時に、ふらふらと、ふくれ動くなり。是をもつて考(かんがふ)るときは、十四經(けい)に、足の少陽より、脈、起(おこ)る事を論じたるも、虛說なり。人の脈絡は一身に通徹して、循環して、何(いづ)れを起る始(はじめ)とする事、なし。其証據(しようこ)には、唐(もろこし)の古へ、人の足を斷刑あり。人、足を斷(たた)れても、存命するをみれば、十四經の說、取(とる)に足らず。少陽の脈、實(まこと)に、足より起る物ならば、足を刑せらるゝ人、存命すべからず。かたがた、かやうの理(ことわり)を考(かんがふ)るに、唐山(たうざん)の風は仁(じん)を本(もと)とする事ゆゑ、人の死體など、解(わくる)事なき故、和蘭人ほどに人の體中の事は盡す事なく、只、古人の說に因て、種々(しゆじゆ)の書を著(あらは)し、醫案(いあん)を、まうけたるものとみゆるゆゑ、其(その)論ずる所には、大に間違(まちがひ)なる事も、あり。たとへば、人家を外より見て、此家の内には何々の器物あると、察し、論ずるごとくにて、あらぬ事、おほし。解體して見たるときは、其家に、したしく入(いり)て、
『爰(ここ)は座敷、爰は主人の居所(きよしよ)、こゝは廚下(ちゆうか)[やぶちゃん注:「厨下」に同じ。台所。]。』
などと、直(ぢか)に見て、しるがごとし。解體して見て後(のち)、古人の論ずる醫書を見れば、「素問(そもん)」・「靈樞(れいすう)」をはじめ、あたらぬことのみ、多(おおき)なり。唐(もろこし)にも、醫は、三代、扁鵲(へんじやく)の比(ころ)までは、適(たまたま)、實(じつ)の說、有(あり)て、多論を用ひず、療治せし事と、おぼゆ。それも師弟口授のみを用(もちひ)たるゆゑ、後世(こうせい)に、適(たまたま)、傳(でん)の書、のこらざる故に、經絡の論は、唐山の人の說(とく)所、悉く、間違(まちがひ)なりと見得たり。只、藥方ばかりは、古來より用來(もちひいた)る所、のこりたる故、今日、解體して見ざる人も、相應に其方(そはう)を用(もちひ)て療すれば、十に、五、六は、治する事、あるなり。されども、偶(たまたま)、中(あたる)の事にして、其本(そのもと)を識(しり)て病を療するにあらでは、全く、「功をうる人」とは、いひがたし。藥方は功驗(こうげん)あるゆゑ、醫をなす人、功なきもあらざれども、今、一段、醫を以て、樂(たのしみ)として、人を治し、功をとらむとするに至(いたり)ては、解體せずしては、用を盡せる人とは、いふべからず。』
と、いへり。
[やぶちゃん注:中医学の用語は、注するとキリがないので、略した。悪しからず。
「杉田玄白」(享保一八(一七三三)年~文化一四(一八一七)年)は蘭学医。若狭国小浜藩医で、私塾「天真楼」を主催した。詳しい事績は当該ウィキや諸辞書・諸記事等を見られたいが、彼が最初に人体解剖を実見したのは、明和八(一七七一)年で、『自身の回想録である』「蘭学事始』に『よれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書』「ターヘル・アナトミア」(実際の原本の標題は、‘ Ontleedkundige Tafelen ’ (オントレートクンディヘ・ターフェレン:「解剖図譜」)で、著者はドイツ(プロイセン)の解剖学者ヨーハン・アーダム・クルムス(Johann Adam Kulmus 一六八九年~ 一七四五年)で、原著はドイツ語で書かれた簡明解剖書である。初版は一七二二年にダンチヒで出た。その第三版を、オランダ人医師ヘラルト・ディクテン(Gerard Dicten 一六九六年?~一七七〇年)がオランダ語翻訳し、一七三四年にアムステルダムで出版された。杉田玄白らは、それを使ったが、「解体新書」では本文だけが訳され,全体の半分以上を占める脚注は訳されていない。「解体新書」の欧文通名は、扉絵に書かれているラテン語題名‘ Tabulæ Anatomicæ ’ (タブラェ・アナトミカェ「解剖図譜」)に由来するとみられる通称に過ぎない。また、原著書の注釈は訳されておらず、また、他にも数冊の洋書が参考にされており、杉田玄白による独自の注釈も付けられてあるものの、オランダ版自体の誤記もあり、玄白自身、「解体新書」が誤訳だらけであることを認識していた)を『もって玄白のもとを訪れ』た。『玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談し』、『これを購入』している。また、直後に『偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」』(現在の東京都荒川区南千住小塚原刑場跡。この近く。グーグル・マップ・データ)『で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆』している。
「素問」中国最古の医書。二十四巻。秦・漢の頃の人が黄帝に名を借りて撰したと伝えられる。陰陽五行・鍼灸・脈などについて、黄帝と、その臣の名医岐伯との問答体で書かれている。唐の王冰(おうひょう)の注を付したものが現存。「黃帝内經素問」(こうていだいけいそもん)。
「靈樞」医学書。実際には、前注の「黄帝内経」の一部で、鍼術(しんじゅつ)の重要な古典とされる。著者・成立年代は、ともに未詳だが、前漢期の作と推定されている。
「扁鵲」「史記」に伝記のある周時代の名医。生没年不詳。姓は秦、名は越人で、渤海郡(現在の河北省)の人であるが、弟子とともに諸国を診療して廻り、「扁鵲」という名は趙の国に行った時に名乗ったとされる。彼は、広範囲の病気を鍼(はり)や薬物などで治療しているが、脈摶による診断を最も得意としたという。「史記」には趙簡子が人事不省に陥った時に蘇生を言い当てた話、虢(かく)の太子が尸厥(しけつ)という病気に罹り、死んだと思われていた時、鍼石と熨法などを用いて治癒させた話、斉の桓公の顔色を見ただけで病気の所在を知った話などが記載されている。しかし、同じ書の該当人物の伝に、その記録がないことと、彼らの生存年代が数百年にわたっていることから、扁鵲は実在の人物ではなく、数種の伝説をまとめたものであろうとか、山東地方にあった鳥の伝説が変化したものであろうなどの説がある。「難經」(なんぎょう)の撰者であるという説もあるが、それは彼の名声に仮託したものである。後世、名医の代名詞としても使われた(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

