譚海 卷之十 江州竹生島幷湖水風土の事
[やぶちゃん注:「竹生島」は当該ウィキを見られたい。私は行ったことがないので、謂い添えることはない。]
○江州竹生島辨財天の宮殿は、豐臣太閤寄進のよし。總黑漆ぬりにて、布(ぬの)きせなり。甚(はなはだ)、結構、美麗なり、とぞ。
竹生島は、何(いづ)かたより、舟の往來も、舟を着(つく)る所は、只、壹ケ所なり。其舟着場の前を、巖石を疊(たたみ)て、入江の如くなし、其内へ、船を着るやうに構(かまへ)たるなり。左(さ)なくては、湖中、臨時に、風波、起(おこ)る事あれば、覆溺(ふくでき)計(はかり)がたきゆゑ、かく構たる、とぞ。
右舟着場の外は、四面、削壁(さくへき)數仭(すじん)にして、舟を着る所、なし。湖中をわたる舟も、常に風波を愁ふ。
其故(ゆゑ)は、湖上、山、圍(かこみ)たる間(あひだ)、四山(しざん)より、風、吹(ふき)おろすまゝ、かぜのやうす、一槪に定まらず。されば、湖上にて、のぞめば、ゆく舟、かへす舟、皆、帆を、かけたる、おほし。是、風のさだまらざるゆゑなり。
臨時(ときにのぞみ)、大風、起(おこり)て、浪を揚(あぐ)る事、おびたゞしきときは、湖邊の地二十町[やぶちゃん注:二・一八二キロメートル。現在の竹生島の海岸線長は二キロメートル。]ばかりは、水押し入(いり)て、洪水のごとし。此ゆゑに、湖水の際の田地は、無年貢にして、百姓、かせぎ次第にする事なり。
幸(さいはひ)にして、水波(すいは)、押入(おしいる)る事、すくなき年は、倍々の利を得る。しかれども、水波に妨(さえぎ)られて、成熟を得る年、すくなしと、いへり。
[やぶちゃん注:「江州竹生島辨財天の宮殿は、豐臣太閤寄進のよし」ウィキの「都久夫須麻神社」(つくぶすまじんじゃ)によれば、『神仏習合時代(本地垂迹時代)には、同島の宝厳寺と習合して、竹生島弁才天社/竹生島弁財天社』、『竹生島権現』、『竹生島明神』『などと呼ばれていた。往時も今も「日本三大弁才天(日本三弁天)」の一つに数えられる』とある。「豐臣太閤寄進」は誤りで、『永禄元』(一五五八)『年の大火後、慶長』七(一六〇二)年に『豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として竹生島権現を復興している。この際』、『復興されたのが』、『現・宝厳寺の唐門・観音堂・渡り廊下、その渡り廊下と繋がっている現・都久夫須麻神社本殿である本堂である。唐門・観音堂・渡り廊下は京都東山にあった豊臣秀吉の霊廟である豊国廟から移築し、現・当社本殿は伏見城の日暮御殿を移築したものである』とある。]