譚海 卷之十一 いまり五郞太夫の事
○「いまり」、五郞太夫と云(いふ)もの、「いまり燒」の上手也。
依之(これによりて)、遠州、臺德院殿へ申上(まうしあげ)、南京(なんきん)へ燒物に遣(つかは)され、五郞太夫、南京にありて、種々(しゆじゆ)の物を燒(やき)て渡したる也。後に、五郞太夫、「ぬけ荷」をたくみて、其科(とが)を恐れて、南京に留(とどま)りて、歸京せず。「祥瑞(しやうずい)」と改名して、彼(かの)國にて卒したり。「祥瑞」を唐音に「しよんずい」と唱ふ。「しよんずい」に成(なり)て、燒(やき)て渡したる物、殊に高價也。其名に、
「五郞太夫吳詳瑞」
と有(あり)、手跡、至(いたつ)て見事也。
南京人、代(かは)りて書(かき)たるにや。
[やぶちゃん注:この人物については、「有田町歴史民俗資料館」公式サイト内の恐るべき膨大な論考「有田の陶磁史」で考証されている。例えば、ここを見られたい。後は、各自ご自由に。悪しからず。]