譚海 卷之十 羽州酒田藩荒川四郞剛力の事
〇酒井左衞門尉殿家中に、荒川四郞といふ人あり。剛力、人にすぐれ、且(かつ)、步行、甚(はなはだ)、輕捷なり。みづから、精力をも、こゝろみがてら、兼て、
「主人の用にも、そなへん。」
とて、願(ぐわん)を立(たて)、只一人、鍋と米とを負(おひ)て、鑓(やり)を杖となし、羽州庄内を出立(いでたち)、江戶へ、をもむき[やぶちゃん注:ママ。]けるが、山路(やまぢ)・村里をも、ろんぜず、日影をめあてにして、眞直に江戶へ、おもむきける。
日のくるゝをかぎりに、峻嶺窮谷、ともに、いとはず、止宿し、嶮岨をしのびて、步行せしかば、庄内より二日半にして、江戶へ着ける、とぞ。
眞直に步行すれば、はなはだ、近道あるよし。めづらしき事なり。
「いま、その人、歿したり。をしむべき事。」
と、かの藩中の人の、かたりぬ。