譚海 卷之十 奥州伊達郡靈山の事
○奧州伊達郡に「りやうせん」と云(いふ)山、有(あり)。則(すなはち)、「靈山」と書(かく)なり。福島と桑折驛とのあひだより、東にあり、福島より絕頂まで、三里半あり。
山王權現の社(やしろ)あり。是を、東へ、こえ、くだりて、相馬郡中村といふへ出(いづ)る。
絕頂の景勝、甚(はなはだ)、奇なり。東海を、たゞちに見おろして、日の出を見るに、よし。
大悲閣の趾・西觀・東觀・日暮𭏳(ひぐれだに)・千人井(ゐ)・慈覺堂など、あり。
東西の觀相、距(へだつる)事、二十町[やぶちゃん注:二・一八二キロメートル。]、有(あり)。天狗岩・二子岩・坐左右(ざさう)・坊主岩など、怪石、有。
往古、建武中、北畠國司の據城(きよじやう)せし所、とぞ。
[やぶちゃん注:「奥州伊達郡靈山」現在の伊達市霊山町(りょうぜんまち)石田(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)、及び、福島県相馬市の境にある「霊山(りょうぜん)」。標高八百二十五メートル。当該ウィキその他によれば、『阿武隈高地の北部に位置する玄武岩の溶岩台地で、丘陵は起伏に富み、奇岩を連ねる岩山である。名前のついた巨岩も』、『眺めのいい展望所も』沢山、『あり』、天台『密教ならではの祈りの痕跡も多数ある。特に「護摩壇(ごまだん)」は、荒々しい岩壁にえぐられるようにして造られており』、『展望も良い』。『吾妻山・安達太良山方面の絶景』が、『よく』、ここでも述べられている通り、『相馬市方面の』太平洋を望む『眺めも素晴らしい』とある。寛文五 (一六六五)年に成立した「奥州伊達郡東根南岳山霊山寺山王院縁起」によれば、貞観元(八五九)年、『慈覚大師円仁によって開山され』、『山の名も釈迦が修行したインドの霊鷲山』(りょうじゅせん)の名に『ちなんで』、『円仁によって名付けられたと伝わる』。『円仁が霊山寺を創建したことで東北山岳仏教の聖地となった』。『南北朝時代には北畠顕家』(後醍醐天皇側近「後(のち)の三房(さんぼう)」の一人であった北畠親房の子として、前例のない数え十四歳(満十二歳)で参議に任ぜられ、公卿に登り、「建武の新政」では、義良(よしなが)親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国に下向して陸奥将軍府を称した。後、足利尊氏との間で「建武の乱」が起こると、西上し、「第一次京都合戦」で新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝の内乱が開始するに及び、再び、これを討とうとして西上、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。「青野原の戦い」で幕将土岐頼遠を破るが、義貞との連携に失敗し、直進を遮られたため、転進、伊勢経由で迂回して大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑んだが、遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、「石津の戦い」で奮戦の末、幕府執事高師直の軍に討ち取られて戦死した。享年数え二十一歳(満二十歳)。本篇の「北畠國司」が彼)『の拠点となり』、延元二/建武四(一三三七)年八月、『顕家が西国に出陣した後』、死去した。霊山城は、その後も現地に残っていた南朝方将兵によって守備されていたが、正平二/貞和二(一三四七)年、北朝方の奥州管領吉良貞家によって攻略され、その後も何度か攻防戦が行われたものの、年(一三四七)年に霊山城は落城し、応永年間(一三九四年から一四二八年)には廃城となり、『歴史の表舞台から姿を消した』。霊仙寺は、現在、麓の伊達市霊山町大石倉波(おおいしくらなみ)にあるが、本篇に出る山上の山岳密教の修行場として旧霊仙寺と、関連する修験道関連道場その他も、皆、遺跡となってしまっている。
「山王權現の社」地図上では、確認出来ないが、サイト「遺跡調査部」の佐藤俊氏の「霊山頂上に所在する山王社の石製賽銭箱について」を読むと、この日枝神社奥宮周辺に、『霊山山頂に位置する霊山城跡や東物見岩が位置する箇所から稜線沿いの登山道をさらに北上すると、山王平と呼ばれる大きな平坦地に到着する。そこには日枝神社奥宮や大宮山王社、一ノ宮山王二十一社などの名称で呼ばれている神社が鎮座しており(以下山王社)、石製の賽銭箱が安置してある』として、写真が載る。
「桑折驛」福島県伊達郡桑折町。南方に福島市を、東南に霊山城を配しておいた。]
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