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2024/04/30

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 柀

 

Mamaki

[やぶちゃん注:下方やや右寄りに右の巨木を指示していると思われる「高野槇」、その左上方の左下の背の低いものを指示していると思われる「狗槇」のキャプションがある。]

 

まゝき      眞柀【俗

          末々木】

         俗用槇字槇

【音顚】   者木頂也別

         有臭柀故爲

         之眞柀稱別之

 

△按槇以徧傍爲訓如柾樫之類俗字也此與臭柀材用

 大似而樹葉逈異也信州木曾山中多有之葉畧似松

[やぶちゃん字注:「逈」は「遙」の異体字。実際の字(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像)は異体字のリストにもない、「しんにょう」の上に入っている「向」の下方が開かずに閉じているものである。]

 而剌扁大其材色白宻理最耐水作槽桶等勝於臭柀

  打ちなひきさりくらし山のへの槇の梢のさき行くみれば

[やぶちゃん字注:以上の第一句の「打ちなひき」は「打ちなひく」が正しく、第三句の「山のへの」は「山き(ぎ)はに」が正しく、第四句「槇の梢」は「ひさきののすゑ」が正しい。訓読では修正した。しかし、その結果、この一首の引用は無効となる。後注参照。]

髙野槇 出於紀州髙野山人折小枝葉供佛前故未見

 其大木

狗槇 葉扁大於槇不結子人家庭園栽之

 

   *

 

まゝき      眞柀【俗、

         「末々木《ままき》」。】

         俗に「槇」の字を用ふ。

         「槇(まき)」は「木の

【音、「顚」。】 頂(いただき)」なり。

         別に「臭柀(くさまき)」

         有る故に、之れを「眞柀」

         と爲(な)す。之に別す。

 

△按ずるに、槇は、徧《へん》・傍(つくり)を以つて、訓を爲す。「柾(まさき)」◦「樫(かたき)」の類《るゐ》のごとし。俗字なり。此れと、「臭柀(くさまき)」と、材用、大いに似≪れども≫、樹・葉、逈(はる)かに異《い》なり。信州木曾の山中に、多く、之れ、有り。葉、畧(ちと)、松に似て、剌(はり)、扁(ひらた)く、大≪なり≫。其の材、色、白く、宻-理(きめ)、最も、水に耐ふ。槽(みづぶね)・桶《をけ》等に作る。「臭柀」に勝(まさ)れり。

  打ちなびくさりくらし山ぎはにひさぎのすへのさき行くみれば

髙野槇 紀州髙野山より出だす。人、小さき枝葉を折りて、佛前に供(きやう)する。故(ゆゑ)、未だ、其の大木を見ず。

狗槇(いぬまき) 葉、扁《ひら》たく、槇(まき)より、大《だい》≪なり≫。子《み》を結ばず。人家≪の≫庭園、之れを栽《う》うる。

 

[やぶちゃん注:書き方に大いに不審があるが、これは、

裸子植物門マツ綱ヒノキ目コウヤマキ科コウヤマキ属コウヤマキ Sciadopitys verticillata

である。当該ウィキによれば、『現生種としては本種のみで』『コウヤマキ科』『コウヤマキ属』『を構成する。ホンマキともよばれる』。二『個の葉が合着したものと考えられている特殊な線状の葉が多数輪生状につく』(以下、写真が豊富にある)。『観賞用に世界各地で植栽されている。材は古くから利用されており、古墳時代の棺に広く用いられていた。その名が示すように高野山との関わりが深く、供花の代用とされる。コウヤマキ類は中生代から北半球に広く分布していたが、現在では日本固有種であるコウヤマキのみが生き残っている』。『常緑性の高木であり、大きなものは高さ』三十~四十『メートル』、『幹の直径』は一メートルにも及ぶ。『材は樹脂道、樹脂細胞など』、『木部柔細胞を欠』き、『放射仮道管』も欠いている。『樹皮は赤褐色から灰褐色、比較的深く縦裂し、縦長に剥がれる』。『アーバスキュラー菌根』(arbuscular mycorrhiza:AM:根に菌類が共生した構造である菌根の一型であり、維管束植物の八十%に存在し、根を欠くシダ植物の配偶体(前葉体)やコケ植物にも同様な構造が、しばしば見られる。共生者となる菌根菌(アーバスキュラー菌根菌:arbuscular mycorrhizal fungi,:AMF:AM菌)はグロムス類(グロムス菌門Glomeromycota)と呼ばれる菌群であり、植物の細胞内に侵入して栄養交換用の細かく分枝した樹枝状体(arbuscule)を形成する。この菌根は十九世紀中頃から認識されるようになり、二十世紀中頃には、この共生が植物に利益を与えるものであることが明らかとなった。アーバスキュラー菌根では、菌根菌が土壌中から吸収した水や無機栄養分、特にリンを植物に供給し、一方で、植物は光合成でつくられた有機物を菌根菌に供給している。菌根には、幾つかのタイプが知られているが、アーバスキュラー菌根は、進化的に最も初期に生まれた菌根であり、また、現在、最も普遍的に見られる菌根である。この菌根は、陸上生態系の殆んどの生産者に存在し、その土壌栄養分の効率的な利用に重要な役割を果たしているため、陸上生態系の炭素及び無機栄養分循環に大きな影響を与え、農業生産にも大きな影響を与えるため、アーバスキュラー菌根菌は微生物資材としても利用されている(以上はリンクの当該ウィキから引いた。以下もいくつかは同じ))を持つ。『長枝と短枝がある。ふつうの枝は長枝であり、互生、褐色で卵状三角形(長さ約』二『ミリメートル 』『)の鱗片葉が』螺旋『状につき、長枝の節に』、『多数の短枝が』、『輪生(鱗片葉に腋生)、短枝の先に大きな線状葉がつくため、長枝に多数』(十~四十五本)の『葉が輪生しているように見える』。『線状葉は長さ』六~十三『センチメートル』、『幅は』二~四ミリメートル、『先端は』、『くぼみ、表面は光沢がある濃緑色で』、『中軸が』、『ややくぼみ』、『裏面の中軸に』、『くぼんだ白色の気孔帯がある』。『葉はしなやかで触れても痛くない』。『葉の横断面では、くぼみをはさんで両側に維管束があるが、木部が裏側、師部が表側にある』。『この配置は一般的な葉における木部・師部の配置と逆であり、このことからコウヤマキの葉は』二『枚の葉が裏返しになって側面で合着したものであるとされることが多いが』、『葉ではなく』、『特殊化したシュート』(Shoot:茎と。その上にできる多数の葉からなる単位で、維管束植物の地上部をなす主要器官。「苗条」(びょうじょう)「芽条」「葉条」「枝条」とも呼ばれる)『とする考えもある』。『樹脂道は横断面で』六~八『個あり、裏側の表皮に接して存在する』。『気孔の副細胞は』八~十二個である。『雌雄同株で』『花期』は三~四月であり、『雄球花』『は楕円形で長さ』六~十二ミリメートルで、二十から三十『個が頭状に密集して長さ約』四センチメートルになり、『長枝に頂生する』雄蘂『(小胞子葉)は互生し』、二『個の』『葯室』『(花粉嚢、小胞子嚢、雄性胞子嚢)があり、花粉は無孔粒で球形、小刺状突起で覆われ、気嚢を欠く』。『雌球花』『は長枝の先端に』一、二『個が頂生、多数の鱗片からなり、各種片には』二個から九『個の倒生胚珠がある』。『球果は翌年の』十~十一月頃に『熟し、木化して褐色、円筒状楕円形で長さ』六~十二センチメートル、『直径』四~八センチメートル、『種鱗は扇形で長さ・幅は約』二・五センチメートル、『露出面は黒褐色、上縁は丸く外側にやや反り、苞鱗はその半長ほどで大部分が種鱗に合着している』。『種子は各種鱗の内側についており、橙褐色、卵形から楕円形、長さ約』十センチメートル。『両縁に狭い翼がある』。子葉は』二『枚』。『染色体数は 2n = 20』で、『葉緑体の accD 遺伝子は核に移っている』。コウヤマキは『日本固有種であり、本州(福島県北西部、中部地方以西)、四国、九州(宮崎県まで)に散在的に分布する』。『酸性土壌を好み、木曽川沿いの山地、紀伊半島の高野山や大台ケ原、四国の面河渓など中央構造線沿いの温帯から暖帯の標高』七百メートル『近辺の山地の岩場に多く、モミ、ツガ、クロベ、トガサワラ、ツクバネガシ、アラカシなどと混生する』。『暗い林床でも実生は生育できるが、土壌が露出したギャップ』(極相林の中に出来た森林の途切れた空間のこと)『を好む』。『韓国に分布するとの記述もあるが』。『これは栽培個体に由来すると考えられている』。『材は耐水性に優れ、風呂桶、手桶、漬け物桶、味噌桶、寿司桶、飯櫃、流し板などに用いられる』。『ヒノキに比べて香りが少ないため、食料品を入れる器具に向いている』。『建築材としても使われ、また変色や腐蝕が少ないため』、『外壁用の板材にも適している』。『耐水性があるため』、『和船の用材ともされた』。但し、『蓄材量が少なく、高価であ』る。樹皮は『槙肌(槇皮、まいはだ、まきはだ)とよばれ、舟や桶、井戸の壁などの水漏れを防ぐ充填材に使われる』(☜)。『木質は柔らかく、木理は通直で肌目は精、加工は容易』である。『心材と辺材の境界は』、『やや明瞭で』、『心材は淡黄褐色、辺材は乳白色である』。『成長が遅いため、年輪の幅が狭い』。『針葉樹としては、硬さは中』ぐらいである。『木曽地方に産する』五『種の良木を「木曽五木」というが、ヒノキ、アスナロ、ネズコ、サワラとともにコウヤマキが含まれる』。『また』、『高野山では、寺院の建築用材として重要なスギ、ヒノキ、アカマツ、モミ、ツガおよびコウヤマキが「高野六木」に選定されている』。『古代日本においても材として重要な樹種であり』、「日本書紀」にも『棺の有用材としてコウヤマキが記されている』。『実際に古墳時代前期の竪穴式石室に埋葬された木棺(割竹形木棺、舟形木棺)は、コウヤマキ製のものが多い』。『また』、『コウヤマキが自生しない朝鮮半島でも、百済の武寧王の棺にコウヤマキが使われており、古代の日本と朝鮮半島の交流を示している』。『樹形が美しいため、神社、寺院、庭園などに植栽される』。『世界各地で観賞用に植栽されるが、生育には湿度・温度が高い夏と降水量が多いことを必要とする』。『日本の林学者・造園学者である本多静六は、コウヤマキとヒマラヤスギ、ナンヨウスギを世界三大庭園樹とした』(ここに高野山の黒河道の「子継地蔵」にコウヤマキが供えられている写真が載るので、見られたい)。『高野山で真言宗を開いた空海は、修行の妨げになるとして』、『高野山での花や果樹などの栽培を禁じていた』。『そのため、仏に供える花の代用としてコウヤマキが用いられる』という風習が生じた。『江戸時代に成立した』「和漢三才図会」には、『「高野槙は紀州高野山より出づ、人その小枝を折り仏前に供する故に未だに大木を見ず」と記している』(☜)。『常緑樹の小枝を神仏に捧げることは』、『あらゆる宗教で共通しており、高野山の場合はコウヤマキが最も都合がよく、トゲもなく扱いやすいことも使われた理由であろうと植物学者の辻井達一は述べている』。以下「名称」の項。『コウヤマキの学名のうち、属名の Sciadopitys は、ギリシア語の skias(日傘)と pitys(松)に由来し、輪生する葉を傘に見立てている』。『英名である Japanese umbrella pine の umbrella pine も同じ意味である』。『種小名』の verticillata は、『「輪生する」を意味する』。『別名をマキ(真木、槙、槇)、ホンマキ、キンマツ(金松)などともいう』。『マキは良い木、立派な木のことであり、コウヤマキの他にイヌマキ』(マキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus 『スギ、ヒノキを意味することもある』。『コウヤマキを特に「ホンマキ(本槇)」とよんでイヌマキに対比させることもあるが、イヌマキを本槇とよぶこともある』。『イヌマキは別名にホンマキ、コウヤマキよばれることがあり、コウヤマキとの間で名称の混乱が見られる』(ここの辺りが、本項の良安の記述でも、正確に分けて記述されてあるとは、私は全く思っていないのである)。『現在』、『標準的な和名である「コウヤマキ」は高野槇と書き、和歌山県の高野山から大台ヶ原かけて多く生えていることに由来する』。『コウヤマキは高野山との関わりも深いが』、『この地方だけのものではなく、長野県の木曽では』、所謂、「五木」の一つと『され、名の由来する高野山では、ヒノキ、ツガ、モミ、アカマツ、スギと並んで』「高野六木」の一つに『数えられている』。『コウヤマキは、コウヤマキ属の唯一の現生種である。種鱗と苞鱗が半分以上癒着しており、種鱗に多数の胚珠がつくこと、花粉や種子の形態的特徴から、スギ科』『に分類されることが多かったが、小胞子葉に』二『個の花粉嚢がつくこと、種鱗と苞鱗が一部』二『重になること、胚珠が倒生胚珠であることなど』、『マツ科に似る点もあり、また特殊な葉の形態、材の構造、染色体数など特異な特徴も多く、独立のコウヤマキ科とされるようになった』。『その後の分子系統学的研究でも、コウヤマキは他の球果類(針葉樹)と系統的に離れていることが示され、独立の科とすることが支持されて』おり、『分子系統解析からは、コウヤマキ科はヒノキ科+イチイ科の姉妹群であることが示されている』。『コウヤマキ科に関連すると考えられる化石記録は、後期三畳紀』又は『ジュラ紀にさかのぼる』。『白亜紀にはユーラシアから北米の北半球全体に広く分布し』、また、『第三紀にヨーロッパに多く生育していたコウヤマキ類は現在利用されている褐炭の起源ともなった』『しかし』、『鮮新世以降』、『ヨーロッパでは姿を消し、やがて日本のコウヤマキ』一『種のみが生き残った』のであった。『そのため、コウヤマキは「生きている化石」ともよばれる』とあった。

「柀は、徧《へん》・傍(つくり)を以つて、訓を爲す。」「柀」の(へん)の「木」の「き」と、(つくり)の「皮」(「はぐ」=「まくる」の「ま」か)の訓の合成という意味であろうか。

「打ちなびくさりくらし山ぎはにひさぎのすへのさき行くみれば」これは「夫木和歌抄」に載る詠み人知らずの一首で、「卷二十九 雜十一」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「13871」)。そこでは、確かに、

   *

 うちなひく はるさりくらし やまきはに

      ひさきのすゑの さきゆくみれは

   *

と記されてある。良安がこの表記のものを、どこから引用したかは、不明であるが、ともかくも、槇(ままき)ではなく、別種の「ひさぎ」(楸)――これは、現行、二つの種が当該種として揚げられているが、それは、コウヤマキとは全く縁のない、落葉高木である、

キントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワ Mallotus japonicus の古名

シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata の古名

であるからして、この一首は退場していただくしか、ない、のである。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 柀

 

Maki

 

まき         臭柀【俗】

           【和名末木

【音彼】    俗云久佐末木】

          別有眞柀故名

          臭柀別之

 

 

玉篇云柀作柱埋之能不腐者也

△按爾雅注云柀卽杉別名也則是亦杉之屬乎然柏檜

 之類也奧州南部津輕松前多出之其樹皮狀與檜同

 剥皮用𮏨屋或綯繩以止槽漏脫之功無異于檜葉亦

[やぶちゃん字注:「𮏨」は「葺」の異体字。]

 似檜而肥厚畧狹不結實其木甚大有髙十余丈者用

 作帆檣稠堅勝於杉又長五六尺許伐斫名橎木鼈木

 送之大坂橎木則※版覆屋勝于椹也鼈木則作桶樽

[やぶちゃん字注:「※」=「耒」+「片」。]

 皆耐水濕良材也又長二三間方五六寸者宜作屋柱

  金葉 音にたに袂をぬらす時雨哉槇の板屋の夜の寢覺めに定家

[やぶちゃん字注:「定家」は源「定信」の誤記。訓読では修正する。]

 

   *

 

まき           臭柀《くさまき》【俗。】

             【和名、「末木」。

【音、「彼《ひ》》」】      俗に云ふ、「久佐末木《くさまき》」。】

            別に「眞柀《ままき》」有り。故に

            「臭柀」と名づく。之れ、別《たり》。

 

 

「玉篇」に云はく、『柀《ひ》は、柱に作る。之れ、埋≪づむるも≫、能く、腐ちざる者なり。』≪と≫。

△按ずるに、「爾雅」に《✕→の》注に云はく、『柀は、卽ち、杉の別名なり。』≪と≫。則ち、是れ、亦、杉の屬か。然れども、柏《かしは》・檜の類《るゐ》なり。奧州、南部・津輕・松前、之れを、多く、出だす。其の樹≪の≫皮、狀《かたち》、檜と同じ。皮を剥(は)ぎて、𮏨屋(ふき《や》)に用ひて、或いは、繩に綯(な)ひて、以つて、槽(ふね)の漏脫(もり)を止《とむる》の功、檜に異なること、無し。葉も亦、檜に似て、肥厚《こえあつ》く、畧《やや》狹《せば》く、實《み》を結ばず。其の木、甚だ、大きく、髙さ十余丈有《ある》者、用ひて、帆檣(ほばしら)を作る。稠(ねば)り、堅くして、杉より勝れり。又、長さ、五、六尺許《ばかり》に伐-斫《き》り、「橎木(はん《ぎ》)」・「鼈木(すつぽん《ぎ》)」と名づけて、之れを、大坂に送り、「橎木」は、則ち、版《いた》に※(へ)ぎて[やぶちゃん字注:「※」=「耒」+「片」。]、屋に覆(ふ)く≪に≫、椹《さはら》に勝《すぐ》れり。「鼈木」、則ち、桶・樽に作る。皆、水濕に耐(た)ふ良材なり。又、長《た》け、二、三間《げん》の、方《はう》、五、六寸なる者は、宜しく、屋柱に作るべし。

 「金葉」

  音にだに

     袂(たもと)をぬらす

   時雨(しぐれ)哉(かな)

         槇の板屋の

        夜の寢覺めに 定信

 

[やぶちゃん注:これは、

裸子植物門マツ綱ナンヨウスギ目マキ科マキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus

である。詳細は当該ウィキを見られたい。

「眞柀」ヒノキ目コウヤマキ科コウヤマキ属コウヤマキSciadopitys verticillata ととっておく。これについては次の項である「槇」に譲る。

「臭柀」クサマキの異名は「臭槇」ではなく、「草槇」であろうと私は思っている。

「玉篇」南北朝時代の南朝梁の顧野王(五一九年~五八一年)によって編纂された部首別漢字字典。字書としては「説文解字」「字林」(現存しない)の次に古い。全三十巻。「中國哲學書電子化計劃」や「漢籍リポジトリ」の「玉篇」で調べても、出てこない。困り果てて幾つかの論文を探したところ、この引用部が丸々「和名類聚鈔」の中に出ることが、判った。「卷第二十」の「草木部第三十二」の「木類第二百四十八」の「柀」である。

   *

柀 玉篇云柀【音彼日本紀私記云末木今案又杉一名也見爾雅注】木名作柱埋之能不腐者也

   *

柀 「玉篇」云はく、『柀【音「彼」。「日本紀私記」に云はく、『末木』。今、案ずるに、又、杉の一名なり。「爾雅」の注に見ゆ。】は木の名。柱に作る。之れを埋めて、能く、腐ちざる者なり。』と。

   *

恐らく、良安も、ここから孫引きしたものと推定する。或いは、現存する「玉篇」には、この条はないのかも知れないと、ちらりと思った。

『「爾雅」』「の」『注に云はく、『柀は、卽ち、杉の別名なり。』』中国最古の類語辞典・語釈辞典・訓詁学書。この「注」は前に出た「爾雅翼」と踏んで、調べたところ、真逆の正しい記載を見出してしまった。「柀」の冒頭にある「柀似而異杉」である。「漢籍リポジトリ」のここである。

「髙さ十余丈有者」これはちょっと過大表現である。イヌマキは最大でも二十メートルである。

「稠(ねば)り」この漢字は現代中国語で、流動体が「濃い」、間隔が「密である・細かい」という意味がある。これは「粘(ねば)る」という様態と強い親和性があることが判る。

「橎木(はん《ぎ》)」所持する大修館書店「廣漢和辭典」を見たところ、『材質がかたく、花はさかずに実のなる木』とあった。

「鼈木(すつぽん《ぎ》)」所持する辞書にも載らず、ネットでも掛かってこない。しかし、意味は判る。粘りの強い材質を意っているものであろう。

「※(へ)ぎて」(「※」=「耒」+「片」)「剝ぐ・折ぐ」で、「薄く削りとる・はがす・はぐ」の意である。

「椹」裸子植物門マツ綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera当該ウィキによれば、『日本固有種であり、本州から九州の山地帯(冷温帯)から亜高山帯の谷筋などに自生する。材はヒノキより柔らかいが』、『耐水性に優れ、においが少ないことから、桶』・『飯櫃』・『曲物などに利用され、また木曽五木の』一『つとされる』。『「さわらか」に由来するとされる』とある。

「二、三間」三・六四~五・四五メートル。

「金葉」「金葉和歌集」平安後期の勅撰和歌集。十巻。天治元(一一二四)年、白河上皇の命により、源俊頼が撰した。二度の改修を経て、大治二(一一二七)年の完成したが、三次に亙る各撰集を「初度本」・「二度本」・「三奏本」と区別し、「二度本」が最も流布した。勅撰和歌集の五番目で、源俊頼・源経信・藤原顕季ら二百二十七名の歌約六百五十首を収録する。四季・賀・別離・恋・雑、及び、連歌十九首を雑下に分類。客観的・写生的描写が多く、新奇な傾向も目立つ。「八代集」の一つ。以下の歌は「補遺歌」にあり、作者は刑部大輔・従五位上の源定信(さだのぶ/さだざね)の歌(六八三番)。

    *

   奈良に人〻の百首の歌よみけるに、「時雨」をよめる

 音にだに袂をぬらす時雨哉まきの板屋の夜のね覺めに

    *]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(18)

 

   松笠の火は消やすき涼みかな 萬 風

 

 そこらに落ちてゐる松毬[やぶちゃん注:「まつかさ」。]を集めて火をつける。一時よく燃えさうに見えるが、ぢき消えてしまふ。その消え易いところを面白がつてゐるやうにも見える。涼み人の手すさびを詠んだので、キヤンプの人などにはかういふ經驗があるに相違ない。

 土芳が芭蕉を泊めた時の句に「おもしろう松笠もえよ薄月夜」といふのがあつた。同じ物を焚くにしても、材料が松毬となると、一種の雅致を生じ、必要以上の興味がある。町中の涼みでは到底こんな趣を味ふことは出來ない。

[やぶちゃん注:土芳の句は「猿蓑」(元禄四(一六九一)年刊)に、

   *

  翁を茅舍に宿して

おもしろう松笠もえよ薄月夜

   *

と載るもの。彼が自身の隠棲の伊賀の開いたばかり(三月四日)の些中庵(さちゅうあん)に、「笈の小文」の旅の序でに、帰郷した芭蕉を、招いた際の挨拶句である。貞享五(一六八八)三月十一日のことで、初案は、

   *

 おもしろう松笠燃えよおぼろ月

   *

で「春」(「おぼろ月」(の句であったが、「猿蓑」入集に際して「秋」(「薄月夜」)に転じたものである。この時、この庵に泊まった芭蕉は、この句を受けて、

   *

 蓑蟲の音を聞(きき)にこよくさのいほ

   *

と詠んだ(後に「栞集」に収録した際に『くさの戶ぼそに住(すみ)わびて、あき風のかなしげなるゆふぐれ、友達のかたへいひつかはし侍る』という前書を附している)。なお、この句を受けて、土芳が、蕉翁に許しを得て、庵の名を「蓑虫庵」と改名したともされる。]

 

   白雨や赤子泣出す離れ家 野 角

 

 夕立の降つてゐる中の離れ家で赤ン坊が泣いてゐる、といふだけのことであるが、もう少し補つて云へば、夕立の爲におびえたとも取れるし、夕立が俄に降つて來た爲、母親が赤ン坊を置いて立上つた、それで泣出したとも解せられる。

「離れ家」は離亭でなしに、ぽつんと一軒離れて建つてゐる家の意であらう。「闇の夜や子供泣出す螢舟」といふ凡兆の句を思ひ出す。

[やぶちゃん注:「白雨」「ゆふだち」。凡兆の句は、やはり「猿蓑」に載るもので、

   *

  「瀨田の螢見二句」トアル内

 闇の夜や小共泣出す螢ぶね

   *

と載る。所持する岩波文庫「芭蕉名句選(下)」(堀切実編注・一九八九年刊)の堀切氏の解説によれば、芭蕉が、『元禄三年六月に幻住庵から出て、一時、凡兆宅にあったころのことか』とある。なお、「猿蓑」には、芭蕉の、

   *

 ほたる見や船頭酔(ゑふ)ておぼつかな

   *

の句を、凡兆の句の後に並べて載せている。]

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(6)

○しやくり、出るには、

 柿のへた、黑燒、よし。

 

○又、一方。

 茶碗に、水、一杯、入(いれ)、其中へ、「けし炭」の火に成(なり)たるを、おとして、飮(のむ)べし。是を「陰陽水」と云(いひ)、妙也。

 

○頭上に出來物せし時の洗藥に、

 いんちん十匁、すゐかづら二十匁、合(あはせて)、目形(めかた)三十目、右三十目を三服にして、十匁づつ、三日に用(もちゆ)る分量なり。一服へ、水、「大(おほ)びさく」[やぶちゃん注:「大柄杓」。]にて、五はい、入(いれ)、四はい半に、せんじ、洗ふ。但(ただし)、半時ほどづつ、置(おき)て、一日に、七、八度づつ、あらふべし。

[やぶちゃん注:「いんちん」サイト「漢方ビュー」の「生薬辞典」の「茵陳蒿(いんちんこう)」によれば、「基原」はキク亜綱キク目キク科ヨモギ属『カワラヨモギ Artemisia capillaris ThunbergCompositae)の頭花』とあり、『主として黄疸を治す』とあった。

「十匁」三十七・五グラム。

「すゐかづら」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica 。漢方生薬名は「忍冬(にんどう)」「忍冬藤(にんどうとう)」。棒状の蕾を、天日で乾燥したもの。

「目」「匁」に同じ。]

 

○又、一方。

 米のとぎ水へ、靑袋、一味、くはへ、湯にわかし、一口に、二、三度づつ、あらふベし。「ゆ」へ入(いる)事なく、早く治する也。かみそりかぶれにも、よし。

[やぶちゃん注:「靑袋」不詳。思うに、これは「靑芥子」(あをがらし)或いは「靑芥子(あをけし)」(「靑罌粟」)の誤記か誤判読ではなかろうか。

『「ゆ」へ入』湯治のことだろう。]

 

○又、一方。

 白朮(びやくじゆつ)の粉、一味、すり付(つ)くすれば、治する也。

[やぶちゃん注:「白朮」キク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica の根茎。一般には、健胃・利尿効果があるとされる。]

 

○又、一方【是は煎藥(せんじぐすり)也。】。

 「淸上防風湯(せいじやうぼうふうたう)」の内、荆芥(けいがい)一味、除き、用ゆ【但(ただし)、油、こきもの、禁(きんず)べし。】。

[やぶちゃん注:「淸上防風湯」サイト「おくすり110番」の「清上防風湯」を見られたい。そこでは、『顔の熱や炎症をとり、また皮膚病の病因を発散させる働きがあり』、『そのような作用から、顔の皮膚病、とくにニキビの治療に適し』、『体力のある人で、赤ら顔の人に向く処方で』ある、とあった。

「荆芥」シソ目シソ科イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifolia で、花穂が発汗・解熱。鎮痛・止血作用を持つ漢方生剤。]

 

○小兒、胎毒(たいどく)にて、出來物せしを、治する祕方【「かんの蟲」にも、よし。】。

 兎の腹ごもり、一つ、此目かた、一匁二分、

 蔓荆子(まんけいし)・菊花・此二味、目形、二匁づつ、

 右、黑燒にして、服藥すべし。

[やぶちゃん注:「胎毒」乳幼児の頭や顔にできる皮膚病の俗称。母体内で受けた毒が原因と思われていた。現代医学では、脂漏性湿疹・急性湿疹・膿痂疹(のうかしん)性湿疹などに当たる。

「かんの蟲」小児の疳(かん)の病いを起こすとされた虫。また、その病気。食物をむやみにとって、消化不良を起こし、腹ばかり膨らんで、他の体部は瘦せる病状を言った。紙などの異物を食べたりもする。「脾疳」とも言う。

「兎の腹ごもり」ウサギの胎児であろう。

「蔓荆子」砂浜などに生育する海浜植物であるシソ目シソ科ハマゴウ亜科ハマゴウ属ハマゴウ Vitex rotundifolia の果実を、天日干し乾燥した生薬名。「万荊子」とも書く。強壮・鎮痛・鎮静・消炎作用があり、感冒に効くとされる。]

 

○「かしら」へ、「いぼ」の出來(でき)たるを、なほすには、

 古き墓所(はかしよ)を尋(たづね)て、其墓の水を、度々(たびたび)、付(つく)れば、よく直りて、二度、出來る事、なし。

 

○又、一方。

 「蛇退皮(じやたいぴ)」を黑燒にして、胡麻の油にて、付(つけ)て、よし。

[やぶちゃん注: 「蛇退皮」一般に「蛇の抜け殻」のことをかく呼ぶ。「蛇蛻」(だせい)とも言う。「神農本草経」の「下品」に収載されている古い生薬で、基原は、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目のナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属スジオナメラ Elaphe taeniura ・ナメラ属シュウダ Elaphe carinata ・ナミヘビ科マダラヘビ属アカマダラ Dinodon rufozonatum などの抜け殻を乾燥したもの。本邦産は主にナミヘビ科 Colubrinae 亜科       ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora や、ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata などの抜け殻を乾燥したものを使用する。]

 

○「しらくも」には、

 「せんだん」の實(み)を黑燒にして、胡麻の油にて、付(つけ)て、よし。

[やぶちゃん注:「しらくも」「白癬」「白禿」「白瘡」。小児の頭部に大小の円形の白色落屑(らくせつ)面が生じる皮膚病。毛瘡白癬(はくせん)菌(菌界二核菌亜界子嚢菌門チャワンタケ亜門ユーロチウム菌綱 Eurotiomycetesホネタケ目アルトロデルマ科 Arthrodermataceaeトリコフィトン属トリコフィトン・メンタグロフィテス Trichophyton mentagrophytes )が感染して起こる。痒みがあり、毛髪が脱落する。「頭部白癬」「しらくぼ」とも言う。

「せんだん」ムクロジ(無患子)目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach 。なお、諺の「栴檀は二葉(ふたば)より芳し」の香木の「栴檀」は、インドネシア原産のビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album のことを指すので、注意されたい。]

 

○顏へ、「くさ」の出來たるには、

 「雪の下」の黑燒、胡麻の油にて、付て、よし。

[やぶちゃん注:「くさ」「瘡」。皮膚に発症する「できもの」・「爛れ」などの総称であるが、特に乳児の頭や顔にできる湿疹・「かさ」を指すことが多い。

「雪の下」双子葉植物綱ユキノシタ目ユキノシタ科ユキノシタ属ユキノシタ Saxifraga
stolonifera
 。因みに、本種は「生物」の授業の葉裏の気孔の顕微鏡観察でよく知られるが、「天ぷら」にすると、美味い。]

 

○又、一方。

 「かんぼく樹」を黑燒にして、胡麻の油にて付(つける)。枝も、葉も、よし。

[やぶちゃん注:「かんぼく樹」マツムシソウ目ガマズミ科ガマズミ属セイヨウカンボク変種カンボクViburnum opulus var. sargentii 。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 伽羅木

 

Kyara

 

きやら ぼく 伽羅木【俗稱】

  おつこ

伽羅木    於豆古【夷稱】

 

△按伽羅木出於蝦夷及松前土人呼曰呼豆古今京師

 亦希有之髙五七尺樹葉並類檜柏而甚繁茂不見其

 枝椏結實圓青色至秋紅熟如櫻桃人取食之味甜美

 内有小白仁其𬄡微黒色光膩如奇楠木理故俗曰伽

 羅木乃柏之属也

 

   *

 

きやら ぼく 伽羅木【俗稱。】

  おつこ

伽羅木    於豆古【夷《えぞ》≪の≫稱。】

 

△按ずるに、伽羅木は蝦夷、及び、松前より出づ。土人、呼んで、「於豆古《おつこ》」と曰《い》ふ。今、京師にも亦、希《まれ》に、之れ有り。髙さ、五、七尺。樹・葉、並びに檜柏(いぶき)の類《るゐ》にして、甚だ繁茂し、其の枝・椏《また》を見はさず。實を結ぶこと、圓《まろ》く、青色。秋に至りて、紅熟≪して≫、櫻桃(ゆすら)のごとし。人、取り、之れを食ふ。味、甜《あま》く、美《なり》。内、小白仁《しようはくにん》有り。其の𬄡(しん)、微黒色。光-膩《くわうじ》、奇楠(きやら)≪の≫木-理(もく)ごとし。故に、俗、「伽羅木」と曰ふ。乃《すなは》ち、柏《かえ/かへ》の属なり。

 

[やぶちゃん注:これは、「一位」「櫟」と漢字表記する、

裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata

或いは、その変種で、「伽羅木」と漢字表記する、

イチイ変種キャラボク Taxus cuspidata var. nana

の孰れかである。ウィキの「イチイ」によれば(今回はほぼ全文を載せる。単に私があまり見かけたことがないからである。グーグル画像検索で学名でやったものをリンクさせておく)、『常緑針葉樹。英語では Japanese Yew と呼ばれ、同属のヨーロッパイチイ T. baccataは単に Yew あるいは European Yew と呼ばれる。秋に実る赤い実(仮種皮)は、食用にできる。生長が遅く年輪が詰まった良材となり、弓の材としてもよく知られる』。『属の学名 Taxusはヨーロッパイチイのギリシャ語名で弓を意味する taxosから、種小名 cuspidata は「急に尖った」の意味』で、『和名イチイは、神官が使う笏がイチイの材から作られたことから、仁徳天皇がこの樹に正一位を授けたので「イチイ」の名が出たとされている』。『別名は数多くあり、前述の笏にまつわるエピソードからシャクノキの名称があり、そのほかアララギ』、『キャラボク、スオウ、ヤマビャクダンなどと呼ばれる。北海道や東北地方ではオンコとして知られている』。『東北地方ではこのほかオッコ』(☜)、『オッコノキ、ウンコ、アッコとも呼ばれる』。『長野県松本地方ではミネゾと呼ばれている』。『アイヌ語名』では、『ラㇽマニ(rarmani)と呼ばれ、このほか地域によりララマニ(raramani) タㇽマニ(tarmani)と訛って呼ばれた』。『浦河町』(うらかわちょう:北海道では地名の「町」は、渡島総合振興局部の茅部郡森町(もちまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)以外は総て「ちょう」である。知らない方は覚えておくとよい)『荻伏』(おぎふし:ここ)『のアイヌはクネニ(kuneni)と呼んでいたが、これは「弓(ku)になる(ne)木(ni)」の意である』。『北海道、本州、四国、九州、沖縄、日本国外では千島列島、中国東北部、朝鮮半島に分布』する。『北海道では標高の低い地域にも自然分布するが、四国や九州では山岳地帯に分布する』。『庭木としては、沖縄県を除いた日本全国で一般的に見られる』。『大抵は山地に分布するが、多くは林を形成することは少なく、暗い林の中で』、一、二『本ずつばらついて生えている』。『北海道の屈斜路湖周辺や茶内(浜中町)などでは、まとまったイチイの林が見られる』。『常緑針葉樹の高木で』、『高さ』十五『メートルほどの高木になるが、暗い場所で育つため』、『成長は遅く』、『寿命は長い』。『樹形は円錐形になる。陰樹で林の中では枝が不ぞろいになるが、明るい場所でもよく生育し、均等に枝を出してびっしりと葉に覆われた姿になる』。『幹の直径は』五十センチメートルから一『メートルほどになり、樹皮には縦に割れ目が走る。幹の目通り径が』三十『センチメートルになるまでに』、百『年かかるといわれている』。『葉は羽状に互生し、濃緑色で、線形をし、先端は尖っているが』、『柔らかく』、『触っても』、『それほど痛くない』。『枝に』二『列に並び、先端では螺旋状につく』。『花期は』三~四月で、『雌雄異株(稀に雌雄同株)。小形の花をつける。果期は』九~十『月で、初秋に赤い実をつける』。『種子は球形で、杯状で赤い多汁質の仮種皮の内側におさまっている』。『外から見れば、赤い湯飲みの中に丸い種が入っているような感じである。果肉は食べることができるが、それ以外の部分に毒がある。種子は堅く、なかなか発芽しないが、鳥が食べて砂嚢で揉まれて糞と一緒に排泄されると、発芽しやすくなると言われている』。『果肉を除く葉や植物全体に有毒・アルカロイドのタキシン(taxine)が含まれている』ため、『種子を誤って飲み込むと』、『中毒を起こす。摂取量によっては』、『痙攣を起こし、呼吸困難で死亡することがあるため』、『注意が必要である』。以下、変種「キャラボク」の項。『イチイの変種であるキャラボク(伽羅木) Taxus cuspidata var. nanaは、常緑低木で高さは』五十センチメートルから二『メートル、幹は直立せずに斜に立つ。根元から多くの枝が分かれて横に大きく広がる。雌雄異株で、花は春』(三~五月)『に咲き、雌木は秋』(九 ~十月)『になると赤い実をつけ、味はわずかに甘い』。『本州の日本海側の秋田県真昼岳 - 鳥取県伯耆大山の高山など』、『多雪地帯に自生する。鳥取県伯耆大山の』八『合目近辺に自生するキャラボクはダイセンキャラボクと呼ばれ、その群生地は「大山のダイセンキャラボク純林」として特別天然記念物に指定されている。また、国外では朝鮮半島にも分布する』。『名の由来は、キャラボクの材が、香木のキャラ(伽羅)』(熱帯アジア原産のアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の常緑高木)『に似ているためだが、全くの別種である』。『キャラボクと通常のイチイを比べた場合。全体的にはイチイの方が葉が明らかに大きい。イチイとの最大の違いは、イチイのように葉が』二『列に並ばず、不規則に螺旋状に並ぶ点である。ただし、イチイも側枝以外では螺旋状につくので注意が必要である』。以下、「用途」の項。『耐陰性、耐寒性があり刈り込みにもよく耐えるため、北海道など日本北部の地域で庭木や生垣に利用される』。『刈り込みに強い性質から、しばしばトピアリー』(topiary:常緑樹や低木を刈り込んで作った西洋庭園における造形物のこと。鳥や動物を象ったり、立体的な幾何学模様を造る。庭園技法としては、イギリスの庭園でよくみられる)『の材料に用いられ、日本でも鶴や亀などの刈り込が作られることもある』。『東北北部と北海道ではサカキ、ヒサカキを産しなかったため、サカキ、ヒサカキの代わりに玉串など神事に用いられる』。『また、神社の境内にも植えられる』。『木材としては』、『年輪の幅が狭く』、『緻密で狂いが生じにくく加工しやすい、光沢があって美しいという特徴をもつ』。『紅褐色をした美しい心材が多く、彫刻品などの工芸品、器具材、箱材、机の天板、天井板、鉛筆材として用いられ』、『岐阜県飛騨地方の一位一刀彫が知られる』。『水浸液や鋸屑からとれる赤色の染料(山蘇芳)も利用される』、『ヒノキよりも堅いとされることや』、『希少性から高価である』。『アイヌも』、『そのアイヌ語名が示すように弓の材料として用いたほか、小刀の柄、イクパスイ』(日本語では「酒箸」と書く。アイヌが儀式で使用する木製の祭具で、カムイ(神)・先祖に酒などの供物をささげる際、人間とカムイの仲立ちをする役割を果たすものとされた)『に用いた』。『また、心材や内皮を染色に用いていた』。『前述のように果実は種子が有毒であるが、果肉は甘く食用になり、生食にするほか、焼酎漬けにして果実酒が作られる』。『アイヌも果実を「アエッポ(aeppo)」(我らの食う物)と呼び、食していたが、それを食べることが健康によいという信仰があったらしく、幌別(登別市)では肺や心臓の弱い人には進んで食べさせたとされ、樺太でも脚気の薬や利尿材として果実を利用した』。『葉はかつて糖尿病の民間薬としての利用例があるが、薬効についての根拠はなく、前述のように葉も有毒である。なお、樺太アイヌには葉の黒焼きを肺病喀血患者に煎じて飲ませる風習があった』とある。

「檜柏(いぶき)」前出

「櫻桃(ゆすら)」双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa 当該ウィキを参照されたい。

「小白仁」イチイの果実は外皮は褐色だが、中身は白い。サイト「能代市風の松原植物調査」の「イチイ」の画像を参照されたい。前述の通り、有毒。

「𬄡(しん)」東洋文庫の訳では『芯』とする。種子は、黒褐色。前注のリンク先を見られたい。

「光-膩」東洋文庫の訳では『つややかなかがやき』とルビする。

「奇楠(きやら)」「伽羅」に同じ。

「木-理(もく)」「木目」(きめ/もくめ)。

「柏《かえ/かへ》」読みは前出当該項に拠った。]

2024/04/29

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 檉

 

Muronoki

[やぶちゃん注:右の図の右上に「檉」、左の図の右上に「姫檉」とキャプションがある。]

 

むろの木   檉

       【和名無呂】

【音偵】  姬檉【俗

        比女無呂】

      別有檉柳詳

      于喬木類下

 

爾雅翼云天將雨檉先知之起氣以應又負霜雪不凋乃

木之聖者也故字從檉 陸機詩疏云檉生水旁皮赤如

綘枝葉如松 沉烱賦云檉似柏而香

△按檉樹似檜柏而髙者三四丈葉甚細宻軟刺經數歳

 者結子碧色微如麥門冬子

一種姬檉 樹葉與檉同其葉軟埀不結子二種並爲材

 類柀能耐水濕

  六帖岩やとにねはふむろの木なれみれば昔の人を逢ひ見るかこと

 

   *

 

むろの木     檉

         【和名「無呂」。】

【音「偵」。】    姬檉【俗に

           「比女無呂《ひめむろ》」。】

        別に「檉柳《ていりう》」有り。

        「喬木類」の下に詳らかなり。

 

「爾雅翼」に云はく、『天、將に雨《あめ》ふらんと≪するに≫、檉(てい)、先《ま》づ、之れを知りて、氣を起こして、以つて、應ず。又、霜雪《さうせつ》を負ふ≪ても≫、凋(しぼ)まず、乃《すなは》ち、「木の聖なる者」なり。故に、字、「檉」に從ふ。』≪と≫。陸機が「詩」≪の≫疏《そ》に云はく、『檉、水旁《すいばう》に生じ、皮、赤≪くして≫、綘《もみ》のごとく、枝葉、松のごとし。』≪と≫。沉烱《しんけい》≪が≫賦に云はく、『檉は柏に似て、香んばし。』≪と≫。

△按ずるに、檉(むろ)の樹(き)、「檜柏(いぶき)」に似て、髙き者、三、四丈。葉、甚だ細宻≪にして≫軟刺《なんし》、數歳を經る者、子《み》を結ぶ。碧色、微《やや》、麥門冬《ばくもんとう》の子《み》のごとし。

一種「姬檉《ひめむろ》」 樹・葉、檉と同じ。其の葉、軟(やはら)かに埀(た)れ、子を結ばず。二種、並びに材と爲《な》す。柀《まき》に類《るゐ》≪して≫、能《よ》く水濕《すいしつ》に耐ふ。

 「六帖」

   岩やどにねはふむろの木なれみれば

            昔の人を逢ひ見るがごと

 

[やぶちゃん注: 前項に引き続き、同属の、

裸子植物門マツ綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ亜科ビャクシン属 Juniperus 節ネズ Juniperus rigida

である。当該ウィキによれば、『ネズミサシ』(鼠刺)『ともよばれ、これを標準名としていることも多い。別名として、他にムロ(榁)』・『トショウ(杜松)』『などがある。低』『高木で小枝は垂下し、触ると』、『痛い尖った針葉が』三『輪生する。雌雄異株であり』、『花期』『は春、球果は翌年以降に熟し、多肉質で液果状(漿質球果)。本州、四国、九州、朝鮮半島、中国北部に分布し、尾根筋など痩せた土地に生育する。木材、薬用(球果は杜松子とよばれる)、観賞用(盆栽など)として利用される』とある。「ネズミサシ」の名は、『針葉が硬く尖っているため、ネズミの通り道に置いておくことでネズミ除けになるという意味で「ネズミサシ(鼠刺)」の名前がつき、これが縮まって「ネズ」となったとされる』。『古くは、「皆の木」を意味する「ムロノキ」とよばれ』、「万葉集」でも『いくつか詠まれている』但し、『このように詠まれている木は』、『瀬戸内海沿岸に生える大木であることから、実際には同属別種のイブキのことではないかともされる』とあって(太字下線は私が附した)、「万葉集」の巻三の大伴旅人の一首(四四六番)の以下の短歌が示されてある。これは、「天平二年庚午(かうご)。冬十二月に、太宰師大伴卿(だざいのそちおほとものまへつきみ)の京(みやこ)に向ひて上道(みちだち)せし時に作れる歌五首」の前書を持つものの、冒頭に配されたものである。

   *

 吾妹子(わぎもこ)が

   見し鞆(とも)の浦の

  むろの木は

     常世(とこよ)にあれど

           見し人そなき

   *

「爾雅翼」中国最古の類語辞典・語釈辞典・訓詁学書として知られる「爾雅」の不足を補うために、南宋の羅願(一一三六年~一一八四年)が書いたもので、草・木・鳥・獣・虫・魚に関する語を集め、それに説明を加えた、「爾雅」の篇立てに倣って分類・解説してあり、謂わば、「爾雅」中の動植物専門の補填辞典。書名は「爾雅を補佐する」の意である。当該部は「中國哲學書電子化計劃」のここで、当該部の影印本と電子化物が視認出来る。こちらのものは、ちょっと異同があるので、以下に示す。

   *

天之將雨檉先起氣以應之故一名雨師而字從聖字說曰知雨而應與於天道木性雖仁聖矣猶未離夫木也小木既聖矣仁不足以名之音

   *

『別に「檉柳《ていりう》」有り。「喬木類」の下に詳らかなり』この「檉柳」は、東洋文庫の訳では、『しだれやなぎ』のルビと、『(ヤナギ科)』という割注があるのだが、これには、私は当初、「檜」の日中の決定的齟齬と同じぐらい、疑問を感じた。何故なら、中文ウィキの「檉柳」が容易に見つかったのだが、ここから日本語版を起動すると、これはヤナギ科Salicaceaeなんぞではないからなのだ! 「ギョリュウ」が標題であって、そこには、中文と同じ分類が記されているのだが、それは、

ナデシコ目ギョリュウ科ギョリュウ属ギョリュウ Tamarix chinensis

なのである! 一方、東洋文庫の示す「しだれやなぎ」が標準和名であるとすれば、これは、

キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ変種シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica

で、最早、「一昨日来い!」レベルの、全く異なる種なのである! さて、そこで日本語版「ギョリュウ」を見ると、漢字表記は「御柳」となっており、『モンゴルから中国北部にかけての乾燥地域が原産地で』、『日本には江戸時代中期に伝わった』とあり本「和漢三才圖會」の成立と同時期だが、調べたところ、本書の成立の方が早いことが判明した、『和名では別名としてサツキギョリュウが挙げられる』。『中国名(漢名)は檉柳(ていりゅう)』『で、一年に数度花が咲くことから』、『三春柳』『の名もある。ほかに、紅柳』『などの別名もある』と、くるのである。良安の指示する「喬木類」の「檉柳」を見てみると(取り敢えず、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版で原記載の当該部をリンクさせる)……う~ん……確かに、「しだりやなぎ いとやなぎ」の和名を添えて、「檉柳」が立項されてあり、御丁寧に『今云絲垂(シタレ)柳又云糸柳』(イトヤナギは現在もシダレヤナギの別名である)とあるのであった。而して、東洋文庫で当該部を見ると、後注で『中国の檉柳はギョリュウ、柳はシダレヤナギ。楊はカワヤナギ。現在は日本でも同じ』とあったのである。私が以上を牛の涎みたようにだらだらと調べながら、ふと、厭な予感がしたので、上で太字下線で示したのが、ああ! 当たってしまった、のである。則ち、良安は、丁度、本書を書き終わった頃に、同時期にギョリュウが本書成立時には日本に渡来しておらず、本草学上でもギョリュウという木があることも知らなかったということ、そして、良安が「檉柳」を、安易に、シダレヤナギに種同定してしまっていたことが、(図らずも)2で、ここで明らかにされてしまっていたのであった。

「陸機」(二六一年~三〇三年)は中国三国時代の呉から西晋にかけての政治家・文学者・武将で、ここに出た「詩」は「詩經」(=「毛詩」)で、「疏」は解釈を言い、彼が「詩經」に詠まれた動植物について解説した書「毛詩草木鳥獸蟲魚疏」。詩経名物学書の筆頭とされる著名なものである。「中國哲學書電子化計劃」のここで、当該部の影印本と電子化物が視認出来る。

「沉烱」(生没年不詳)は南朝梁から陳にかけての文章家。詳しくは当該ウィキを見られたい。但し、この引用文は後漢の詩人・学者・発明家として知られる張衡(七八年~一三九年)の書いた「南都賦」の一節である。

「麥門冬」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus の根の生薬名。現行では、これで「バクモンドウ」と濁る。鎮咳・強壮などに用いる。

「姬檉」裸子植物門マツ綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera(椹)の園芸変種ヒムロ Chamaecyparis pisifera ‘Squarrosa’。「檜榁」「姫榁」・ヒムロ杉」「シモフリヒバ」「綾杉」等の異名がある。ウィキの「サワラ(植物)」によれば、『葉が軟質で針状線形』を成し、『長さ』六ミリメートル『ほどになり、やや開いて密に十字対生し、青白緑色を呈し、裏面(背軸面)に』二『本の気孔帯がある』。『新芽が黄色になるオウゴンヒムロ、低木で葉がやや短く細いヒメヒムロ、低木で樹形が球状になるタマヒムロなどがある』とある。

「柀」この「まき」は、辞書類には、スギの古称、又は、ヒノキ・イヌマキ・ラカンマキの別称などとある。

「六帖」平安中期に成立した類題和歌集「古今和歌六帖」のこと。全六巻。編者・成立年ともに未詳。「万葉集」・「古今集」・「後撰集」などの歌約四千五百首を、歳時・天象・地儀・人事・動植物などの二十五項・五百十六題に分類したもの。]

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(5)

○「かく」のくすり。

 根津權現總門脇右側、御書物方同心衆、井田政右衞門と云(いふ)人の所に有(あり)。奇妙也。

[やぶちゃん注:「かく」底本ではこの右に編者補正注で『(霍)』とある。「霍亂」であろう。急性日射病で昏倒する症状や、真夏に激しく吐き下しする病気の古称である。急性胃腸炎・コレラ・疫痢などの総称に該当するものとされるが、「霍亂」は古くから二字熟語で用いられることの方が多い。先行する「譚 海 卷之十三 かくの病ひ妙藥の事」が、内容がほぼ一致する。]

 

○「かく」にて、藥を、かへし、うけざるには、

 山ある所の赤土を取(とり)て、池を、こしらへ、藥を、せんじて、一時ほど、此池に入(いれ)て置(おき)、取出(とりいだ)し用(もちゆ)る時は、藥、かへす事、なく、服用せらるゝ也。粥も如ㇾ此して用れば、かへさず。

 但、池、造(つくり)がたき時は、大成(だいなる)瀨戶物の内を、赤土にて、ぬり、麻の切れを敷(しき)て、其中へ、煎藥(せんじぐすり)を、ひたし置(おき)て、用(もちい)ても、よろし。只、土と、藥と、ひとつにならぬやうにする斗(ばか)り也。

 

○齒の痛(いたみ)には、

 正月の「うらじろ」【齒朶(しだ)の事。】貯置(たくはへお)き、きざみて、切れに包み、ふくみ居(を)れば、治す。

[やぶちゃん注:「うらじろ」シダ植物門シダ綱ウラジロ目ウラジロ科ウラジロ属ウラジロ  Gleichenia japonica 。]

 

○又、一方。

 「こずいほう」・乳香(にゆうかう)、右、二味、等分、粉にして、はぐきへ、すり付(つけ)て、よし。

[やぶちゃん注:「こずいほう」不詳。識者の御教授を乞う。

「乳香」インド・イランなどに産する樹の脂(やに)の一種で、盛夏に砂上に流れ出でて固まり、石のようになったものを指し、香料・薬用とする「薫陸香」(くんりくこう:呉音で「くんろく(っ)こう」とも読み、「くろく」「なんばんまつやに」などとも呼ばれる。その中で乳頭状の形状を有するものを特に「乳香」と称し、狭義にはムクロジ目カンラン科ボスウェリア属 Boswelliaの常緑高木から採取されるそれを指すとされる。]

 

○又、一方。

 雞冠雄黃・乾姜(ほししやうが)、右、二味、細末、「はぐき」へ、ぬる。

[やぶちゃん注:「雞冠雄黃」硫化ヒ素As2S3の鉱物の一種である「鶏冠石」を卵形に加工したもの。殺菌効果があるが、毒性が強い。]

 

○又、一方。

 「さるをかせ」、かみて居(を)れば治る也。始(はじめ)に出(いづ)。

[やぶちゃん注:「譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(4)」の「○齒の痛(いたみ)を止(とむ)る藥」「霧精【「さるをがせ」と云(いふ)物。】一味、かみて居(を)れば、卽時に治する也」を指す。そちらの私の注を参照されたい。]

 

○齒ぐき、はれ、いたむには、

 石膏・黃柏【但(ただし)、石膏を、少々、餘計なるが、よし。】

 右、二味、「きぬ」に、つゝみ、はに、くはへゐて、度々(たびたび)、「つばき」を、はくときは、いたみ、とまる也。

 

○又、一方。

 升麻(しやうま)・露蜂房(ろほうばう)・靑木香(しゃうもくかう)・黃連・乳香・丁子・黃柏(わうばく)、以上、七味、目方、各(おのおの)、等分。

 右、せんじて、其汁へ、燒鹽を、少々、すり入(いれ)て、はの、いたむところへ、ふくみ、度々、吐出(はきいだ)す時は、口、ねつ、とれて、治る也。

[やぶちゃん注:「升麻」「ショウマ」は漢方生薬。キンポウゲ目キンポウゲ科サラシナショウマ属サラシナショウマ Cimicifuga simplex の根茎を天日乾燥させたもの。ウィキの「サラシナショウマ」によれば、これは、『発汗、解熱、解毒、胃液・腸液の分泌を促して胃炎、腸炎、消化不良に効果があるとされ』、各種『漢方処方に配剤されている』とあり、さらに、『民間では』、一『日量』二『グラムの升麻を煎じて、うがいに用いられる』とする。さらに、『なお、本種に似たものや、混同されて生薬として用いられたものなど、幅広い植物にショウマの名が用いられている』とある。最後の部分は、ウィキの「ショウマ(植物の名)」も参照されたい。

「露蜂房」膜翅(ハチ)目スズメバチ亜目スズメバチ上科スズメバチ科アシナガバチ亜科アシナガバチ属キボシアシナガバチ Polistes mandarinus、或いは、スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属オオスズメバチ Vespa mandarinia などの蜂の巣を基原とする漢方生薬。「ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 」の「ロホウボウ(露蜂房)」によれば、「神農本草経」に載る古くからの処方で、本邦の『民間療法では、「化膿性の腫れや痛みに、半分は生のままで、半分は炒って混合粉末として服用する。虫刺されに、粉末を水または胡麻油で練って貼る。粉末を蜂蜜で練って飲むと強壮剤となり、乳汁不足、麻痺などに効果がある。黒焼きの粉末を酒や甘酒で服用すると、乳汁不足、夜尿症、腎臓病などに効果がある。火傷、とびひには黒焼きの粉末を胡麻油で練って外用する」などの用い方が知られており、黒焼きとして用いることが多いのが特徴』とあった。

「靑木香」(しょうもっこう)は「馬鈴草」(うまのすずくさ:コショウ目ウマノスズクサ科ウマノスズクサ亜科ウマノスズクサ属ウマノスズクサ亜属ウマノスズクサ Aristolochia debilis )の異名。過去、漢方薬種の一つとしたが、ウィキの「ウマノスズクサ」によれば、『含有成分であるアリストロキア酸が腎障害を引き起こすため、薬用とはされなくなった』とあった。

「和」単に「少し混ぜる」の意か、又は、漢方ではない「和方」の意か。

「黃連」既出既注だが、再掲すると、キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica の髭根を殆んど除いた根茎を乾燥させたもの。

「丁子」既出既注だが、再掲すると、クローブ(Clove)のこと。バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum のこと。一般に知られた加工材のそれは、本種の蕾を乾燥したものを指し、漢方薬で芳香健胃剤として用いる生薬の一つを指し、肉料理等にもよく使用される香料である。

「黃柏」ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense の黄色い樹皮を乾した漢方生薬。]

 

○「蟲ば」を治する法。

 「にら」の玉を、土器の内へ入(いれ)、火にかけ、あたゝめ、其中へ、胡麻のあぶらを、少し、おとせば、「にら」、はりはりと、なる也。其とき、銅の上戶(じやうご)を土器の上へ、かぶせ、上戶の口を、「蟲ば」の、いたむ方(かた)の耳へ、あてて、「にら」の煙を、耳の内へ、いるゝやうにすれば、「蟲ば」、治して、四、五年づつは、大(おほ)おこり、せぬ也。若(もし)、「蟲ば」の蟲を、みたき時は、さらへ、水を、いれ、其中へ此(この)火鉢を置(おき)、如ㇾ此すれば、蟲、ことごとく、水に、うかんで、みゆる也。

[やぶちゃん注:最後の叙述から、全く信じ難い。但し、前半部は、当該ウィキによれば、ニラには、『ニンニクの成分であるアリインに似たアリルスルフィドという含硫化合物の精油成分を多く含む』。『この成分は、炎症を鎮め、汗を出して熱を下げる作用があるといわれている』とあるから、齲(むしば)の痛みによって、頭部側辺のリンパ腺が腫れていれば、それへの対症効果は認められる可能性はあろう。]

 

○又、一方。

 羗蜋(きやうらう)の黑燒、耳かきに、一すくひ、「蟲ば」の穴へ入(いる)べし。妙也。

[やぶちゃん注:「羗蜋」前回で既出既注。]

 

○又、一方。

 牛房[やぶちゃん注:「牛蒡」であろう。]の種を煎(いり)て、常の如く、せんじて、ふくみて、治す也。

 

○蟲齒の「まじなひ」。

 紙を、三十二に折(をり)て、「蟲」といふ字を書(かき)て、「かなづち」にて、うち、はしらに、はさみ置(おく)べし。

[やぶちゃん注:ありがちな共感呪術である。]

 

○ねぎ・にんにく抔(など)くひて、口の、くさきを、なほす法。

 「なんてん」のはを、せんじ、其湯を、のめば、なほる也。

 

○又、一方。

 飴を、一切れ、くひて、其後にて、水を、一口、のめば、なほる也。

 

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(17)

 

   風の香も麻のうねりや馬の上 冠 雪

 

 炎天下を馬上で行く場合であらうか。道端の麻畠を吹いて來る風も、生ぬるくてムツとするやうな感じが想像される。「風の香」は勿論麻の香で、靑い麻の葉がゆさゆさ搖れている樣らしく思はれる。

 けれどもこの句は決して右のやうな光景を的確に表現してゐるわけではない。一讀何となく暑さうな感じがした爲に、さう解したまでであるが、作者の意は或は日も少し昃つた[やぶちゃん注:「かげつた」。]場合で、麻を吹く「風の香」に多少爽涼の氣を含ませてゐるのかもわからない。要は「風の香」といふ語の解釋如何に在る。讀者は自己の連想によつて、之を解するより仕方がない。

 

   手にすゑて淺瀨をのぼる鵜匠かな 一 之

 

 讀んで字の如くである。

 一羽の鵜を手に据ゑて、淺瀨をざぶざぶ上つて行く鵜匠の姿を描いたので、現在鵜を使つてゐるわけではない、準備的狀況のやうに思はれる。「淺瀨」の一語によつて、自ら徒涉の樣を現してゐる。勿論晝の景色であらう。

 

   夏旅やむかふから來る牛の息 方 山

 

 今は夏を以て旅行シーズンとするのが常識になつてゐるが、昔はさうでなかつた。一所不住のやうな惟然坊にして猶且「夏さへも有磯行脚のうつけ共」といふ句を作つてゐる位だから、その苦痛は思ひやられる。

 こゝに「夏旅」といふのも、さういふ季題があるのではない。今日の人が夏になつて旅を想ふのとは反對に、寧ろ夏の旅の苦しさを現す爲に、先づこの語を置いたものではないかと思ふ。

 喘ぎ喘ぎ炎天下の道を行く。現代のやうな廣い道路は無いから、厭でも向うからのろのろ步いて來る牛とすれ違はなければならぬ。牛の熱い鼻息を身に感ずる、といつたやうな、昔の旅の暑さ、侘しさを捉へたものであらう。そこまで云はないでも、向うから牛が息を吐き吐き來るといふだけでも差支無いが、特に「むかふから來る牛の息」といふ以上、どうしてもその息は身に近く感ずるやうに思はれるのである。

[やぶちゃん注:「方山」滝方山 (たきほうざん 慶安四(一六五一)年~享保一五(一七三〇)年)は。京都の人。東本願寺で、一如に仕えた。俳諧を松江重頼・富尾似船に学んだ。通称は主水。編著に「枕屏風」「北之筥」などがある。

「夏さへも有磯行脚のうつけ共」惟然坊は好きな俳人だが、この句は知らなかった(サイト版横書「惟然坊句集」・同縦書有り)。調べたところ、前書に「有磯にて」とあるようである。芭蕉の「わせの香や分入右は有磯海」(私のブログ版『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 61 越中國分 早稲の香や分け入る右は有磯海』)を受けて北陸路を旅した際のものであろう。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 檜柏

 

Ibuki

 

いぶき

      俗云以不木

檜柏

 

クハイ ポツ

 

本草綱目松檜相半者檜柏也

△按檜柏樹其葉細宻遠望之與栢杉無別伹葉柔刺不

 尖硬有繩文而如柏及檜葉之文不結實髙一二丈植

之庭園可愛其木不宜爲材相州鎌倉之產葉最美

 

   *

 

いぶき

      俗に「以不木《いぶき》」と云ふ。

檜柏

 

クハイ ポツ

 

「本綱」、『松と、檜と、相半《あいなかば》する者、檜柏なり。』≪と≫。

△按ずるに、檜柏≪の≫樹は、其の葉、細宻[やぶちゃん注:「宻」は「密」の異体字。]、遠く之れを望めば、栢杉(びやくしん)と、別、無し。伹《た》だ、葉、柔かなる《→にして》、刺《とげ》≪も≫、尖り《→るも》、硬からず。繩文、有りて、柏、及び、檜≪の≫葉の文《もん》のごとく、實を結ばず。髙さ、一、二丈。之れを庭園に植ゑて、愛《め》でしを《→でる》べし。其の木、材と爲《す》るに宜《よろ》しからず。相州鎌倉の產、葉、最も美なり。

 

[やぶちゃん注:遂に正しく同定されたもので、

裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属 Juniperus節イブキ変種イブキ  Juniperus chinensis var. chinensis

である。イブキは前項「栝 びやくしん」で、詳しく述べたので、ここでは繰り返さない。「本草綱目」の引用は、やはり同じく「卷三十四」の「木之一」「香木類」の冒頭の「栢」の「集解」の一節。「漢籍リポジトリ」のこちらのガイド・ナンバー[083-2a]の四行目にある。

   *

松檜柏半者檜柏也

   *

この時珍の言う「松」は、本邦の裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Pinus と同じで、問題ないが、「檜」は、何度も繰り返し注したように、

本邦固有種であるマツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa

ではなく、

裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属 Juniperus

或いは、

ビャクシン属Juniperus節イブキ変種イブキ  Juniperus chinensis var. chinensis

となる。無論、ここに至っても、良安や他の本草家も、実は「檜」も「柏」もまるで違うなどとは、夢にも思わなっかただろうが、ね……。

「相州鎌倉の產、葉、最も美なり」建長寺(ここのものが最も素晴らしい)・円覚寺のそれを指していると思われるが、「產」はいただけない。建長寺のビャクシン(イブキ)は、建長五(一二五三)年に北条時頼によって鎌倉に建長寺が創建され、招かれて開山となった南宋の大覚禅師蘭溪道隆(一二一三年~弘安元(一二七八)年)が植えたと伝えられるもので、推定樹齢は約七七〇年である。これが濫觴となって、鎌倉市内の寺社に植えられたものであるなら、「產」は、厳密な意味では、ちょっと、おかしい。但し、ビャクシン類は現在、世界に六十種、日本に五種ある。しかし、例えば、種としての、このイブキは北海道から九州に分布するが、自生は稀れであり、殆んどは人為的に植えられたものである。だが、実は中国でも自生は稀れで、庭園に植えられたものである、と信頼出来ると思われる記事にはあった。されば、種小名の二箇所の「chinensis」は「中国産」というのも、怪しいとは思われる。建長寺のそれは、私の偏愛する個体であるから、写真が欲しい(大学時代、「鎌倉探訪会」を組織し、会員と訪ねた際の写真があるはずだが、書庫の藻屑となって発見出来ない。見つけたら、揚げる)ので、「木のことばを聴くエッセイスト 杉原梨江子 オフィッシャルサイト」の「建長寺のビャクシン Juniper in Kamakuraをリンクしておく。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 栝

 

Biyakusin

 

[やぶちゃん注:挿絵の下方右寄り位置に下図の樹種に対するキャプション「跋柏杉(ハヒヤクシン」が縦書されてある。]

 

びやくしん 圓柏

      【俗云柏杉】

 

 

本綱柏葉松身者檜也其葉尖硬亦謂之栝今人名圓柏

以別側柏

△按栝髙者二丈余樹皮似杉及檜而材不堪用葉似柏

 而尖硬微似杉甚茂盛其枝椏隱不見葉與身皆曲蓋

 此柏與杉相半者也俗爲柏杉人植庭園愛其綠葉也

 不結實伹本草所言則檜與栝混註而已

一種跋柏杉 其木葉似栝而如蔓跋行橫延數丈捕枝

 亦生植之庭砌撓爲龍虎船車之形

 

   *

 

びやくしん 圓柏《ゑんはく》

      【俗に云ふ、「柏杉(びやくしん)」。】

 

 

「本綱」、『柏≪の≫葉、松≪の≫身者は、檜なり。其の葉、尖り硬く、亦、之れ、「栝《かつ》」と謂ふ。今人《きんじん》、「圓柏」と名づく。以つて、側柏に別《わか》つ。』≪と≫。

△按ずるに、栝《びやくしん》、髙き者、二丈余り。樹の皮、杉、及び、檜に似て《→似れども》、材、用ひるに、堪(た)へず。葉、柏に似て、而≪も≫尖《と》がり、硬《こは》く、微《やや》杉に似て、甚だ茂盛《しげさか》りて、其の枝椏《えだまた》、隱れて、見へ《✕→え》ず。葉と、身と、皆、曲(まが)る。蓋し、此れ、柏と、杉と、相半《あひなか》ばする者なり。俗に「柏杉《びやくしん》」と爲《な》す。人、庭園に植ゑて、其の綠葉を愛す。實は結ばず。伹し、「本草」言ふ所は、則ち、檜と、栝と、混註するのみ。

一種「跋柏杉(はひびやくしん)」 其の木、葉、栝に似て、蔓(つる)のごとく跋(は)ひ行(ある)く。橫に數丈を延ぶ。枝を捕(さ)しても、亦、生《しやう》ず。之れを、庭の砌《みぎり》に植(う)へ《✕→「ゑ」》、撓(たわ)めて、龍・虎・船・車の形に爲《つく》る。

[やぶちゃん注:冒頭からの、中国の種と、本邦の種との、致命的な相違が続くわけだが、それを不審に感じている良安は、自身の誤認に気づいているわけではないものの(これは彼に限らず、江戸時代の本草家総てに共通する誤認であるのだが)、なんとか、補正しようとする努力をしている。そうした中で、各記載が全て無化されずに、辛うじて救われて有効となっている(或いは、肝心要の種同定が誤りなのだから、「一見、有効であるかのように見かけ上は感じられる」というべきか)箇所が、ここまでにもあったが、そうしたものの収斂(杜撰ではある)が、ここに一つ、不全ながら、現われていると私は感じている。

 この冒頭の引用は、「本草綱目」の「卷三十四」の「木之一」「香木類」の冒頭の「栢」の「集解」の一節。「漢籍リポジトリ」のこちらのガイド・ナンバー[083-2a]の三行目の後半から四行目にかけてある。

   *

柏葉松身者檜也其葉尖硬亦謂之栝今人名圓柏以别側柏

   *

 さて。この「栝」は、既に示したのだが、良安の努力が実って、図と本文の解説は、非常にすっきりと、真の同定と合致し、まず、「栝」の包括的種解説と、図の右上に、すっくと立っている個体が、

裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属 Juniperus

の一つの直立型のビャクシン類のタイプを正しく示していることが判る。一方、本文で改行で補足して記載した別種とする「跋柏杉(はひびやくしん)」(はいびゃくしん:這柏槇)が、まさに、匍匐するように低く延びる挿絵の下方の図「跋柏杉(ビヤクシン)」で、これは間違いなく、正しい、

ビャクシン属Juniperus節イブキ変種イブキ  Juniperus chinensis var. chinensis

を指している。なお、このイブキには変種があり、これはまさに、

「這柏槇」=ハイビャクシン Juniperus chinensis var. procumbens

という標準和名を持っている。ハイビャクシンは匍匐低木で、幹や枝は地を這い、通常は、針葉を持つが、稀に鱗形の葉をつける。福岡県(沖ノ島:残念ながら絶滅寸前)・佐賀県(馬渡島)・長崎県(五島列島美良島・壱岐・対馬)及び韓国の大黒山島に分布し、海岸の砂地又は崖に分布する。以上は、ウィキの「イブキ」、及び、ウィキの「ハイビャクシン」を参考にしたが、後者には、『古くから庭園などに植栽されている』とあり、『庭園のグランドカバーとして植栽され』、『盆栽仕立てや』、『日本庭園にも使われる』。『海岸近くに生えることから、潮風や砂地に強い性質で、挿し木でも殖やすことができる』とあって、これは、良安の解説の前半部を訳したようにそっくりだ。

 私はビャクシンが好きなので、よく観察するが、知らない方のために、直立型・匍匐型の混ざって見られるグーグル画像検索「Juniperusと、ズバり! グーグル画像検索「Juniperus chinensis var. procumbensをリンクさせておく。特に語注は不要だろう。因みに、次の項は、ズバり! 正しく「檜柏(いぶき)」なのだ!]

2024/04/28

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(16)

 

   庭砂のかわき初てやせみの聲 北 人

 

 朝のうちはしつとり濕つてゐた砂が、日の高く上るにつれてだんだん乾いて來る。今日の日和を卜するやうに、そこらで蟬が鳴き出す、といふのである。句の表には格別時間を現してゐないようであるが、暑くなりさうな夏の日の感じが溢れてゐる。

「かわき初てや」の「や」は必ずしも疑問の意ではない。併し「かわき初むるや」といふのとは、少し意味が違ふ。かういふ言葉の味を說明するのは困難である。これを誦して會得する外はあるまいと思ふ。

[やぶちゃん注:句は「庭砂」は「にはすな」と清音で読みたい。「初てや」は言わずもがなだが、「そめてや」。]

 

   實櫻や古茅はこぶ宮の修理 邑 姿

 

「修理」は「シユリ」と詰めて讀むのであらうか。普通人名の場合はシユリ、修繕の場合はシウリと發音するやうであるが、こゝは詰めないと調子が惡い。

 櫻の實の熟した、もの靜な宮の境内らしい。そこへ宮修理の爲の古茅を運んで來るといふ光景である。櫻の實は境内の土の上に落ちていさうな氣がする。

 直に俳畫になり得べき趣である。日本の櫻の實は、花と違つて多くの場合閑却された形であるが、この句は實櫻にふさはしい趣を捉へてゐる。人目は惹かぬけれども、面白い句である。

[やぶちゃん注:「古茅」「ふるかや」。]

 

   晝顏や魚荷過たる濱の道 桃 妖

 

 眼前の景色である。

 晝顏の咲いてゐる濱の道を、魚荷を運ぶ人が通る。この句は魚荷が通つたあとの光景らしい。一面の砂濱の日が照りつけてゐる中に、炎威にめげぬ晝顏の花の咲いてゐる樣が眼に浮ぶ。あたりには魚荷の腥い香がまだ漂つてゐさうな氣もする。

 

   飯鮓や竹の廣葉の折かへり 木 因

 

「月潺堂にまいりて[やぶちゃん注:ママ。]」といふ前書がついてゐる。多分人の住ひであらうと思ふが、よくわからない。句の表は鮓[やぶちゃん注:「すし」。]の寫生が主になつてゐる。

 飯鮓[やぶちゃん注:「いひずし」。]の中に入つてゐる笹の廣葉が折返つてゐた、といふだけのことであるが、「折かへり」の一語がこの句に或生趣を與へているやうに思ふ。かういふ微細な寫生が元祿に已に行はれてゐる點に注意すべきである。「隈篠[やぶちゃん注:「くまささ」。]の廣葉うるはし餅粽」といふ岩翁の句なども、元祿の句としては相當印象的であるが、この句の「折かへり」は觀察の點に於て更に一步を進めている。今のやうな握鮓の句でないことは云ふまでもあるまい。

 但「月潺堂にまいりて」なる前書に何か意味があつて、飯鮓竝に「折かへり」の語も漫然置いたものでないといふことになれば、更に出直して解釋しなければならぬ。今はさし當り見たまゝの句として置く。

[やぶちゃん注:「月潺堂」は「げつせんだう」。「潺」は「せせらぎ」の意であろう。されば、この堂は小川の畔りにあるか。]

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(4)

○「耳だれ」出(いづ)るには、

 「ぬかみそ」の中の、三、四年、經たる古なすびを、引(ひき)さき、其汁を、耳中へ、しぼりこむべし。

 

○又、一方。

 大根のしぼり汁を、こよりにて、さして、よし。

 

○口中腫痛(こうちゆうしゆつう)には、

 黃柏(わうばく)・くちなし(山梔子)・南天の葉、右を紅(くれなゐ)の「きれ」に包(つつみ)て、ふくみ居(をれ)れば、痛(いたみ)を治する事、妙也。

[やぶちゃん注:落葉高木アジア東北部の山地に自生し、日本全土にも植生する、ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense の樹皮から製した生薬。薬用名は通常は「黄檗(オウバク)」が知られ、「黄柏」とも書く。ウィキの「キハダ」によれば、『樹皮をコルク質から剥ぎ取り、コルク質・外樹皮を取り除いて乾燥させると』、『生薬の黄柏となる。黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つといわれる。チフス、コレラ、赤痢などの病原菌に対して効能がある。主に健胃整腸剤として用いられ、陀羅尼助、百草などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたといわれているほか、中皮を粉末にし』、『酢と練って』、『打撲や腰痛等の患部に貼』り、『また』、『黄連解毒湯、加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。日本薬局方においては、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている』。『アイヌは、熟した果実を香辛料として用いている』とある。

「山梔子(さんしし)」「さんざし」で、リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides の異名。その強い芳香は邪気を除けるともされ、庭の鬼門方向に植えるとよいともされ、「くちなし」は「祟りなし」の語呂を連想をさせるからとも言う。真言密教系の修法では、供物として捧げる「五木」(梔子・木犀・松・梅花・榧(かや:裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera )の五種の一つ。]

 

○齒の痛(いたみ)を止(とむ)る藥。

 霧精【「さるをがせ」と云(いふ)物。】一味、かみて居(を)れば、卽時に治する也。

[やぶちゃん注:「霧精」地衣類の菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ属 Usnea 。「猿尾枷」「猿麻桛」「霧藻」「蘿衣」等と漢字表記する。当該ウィキによれば、『落葉広葉樹林や針葉樹林など、霧のかかるような森林の樹上に着生する』とあり、異名からもしっくりくる。]

 

○咽喉(のど)腫痛(はれ・いたみ)。

 「くちなし」の黑燒、用(もちゆ)べし。又、生(なま)にて煎じ用(もちい)て、よし。

 

○「のんど」へ、「とげ」立(たち)たるを治する。

 土用中の芭蕉の卷葉を、黑燒にして用べし、祕法也。

 

○又、一方。

 「かんらん」一つ、口中に含み、其唾(つば)を、ひたと、のみこみ、のみこみ、すべし。いつとなく、とげ、ぬける也。

[やぶちゃん注:「かんらん」「橄欖」。ムクロジ目カンラン科カンラン属 カンラン  Canarium album ウィキの「カンラン科」によれば、『インドシナの原産で、江戸時代に日本に渡来し、種子島などで栽培され、果実を生食に、また、タネも食用にしたり油を搾ったりする。それらの利用法がオリーブ』(シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea )『に似ているため、オリーブのことを漢字で「橄欖」と当てることがあるが、全く別科の植物である。これは幕末に同じものだと間違って認識され、誤訳が定着してしまったものである』とある。]

 

○又、一方。

 南天葉を、せんじて、其湯を、のむべし。

「南天」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica

 

○又、一方。

 串柿を黑燒にして、「さゆ」にて、用(もち)ゆ。

 

○咽喉へ餅のつまりたる時、

 「おはぐろ」、一雫(ひとしづく)、飮(のむ)時は、其儘、餅を吐(はく)也【「くだ」にて飮込(のみこみ)て、よし。】。

 

○胡椒に、むせたるには、

 胡麻の油を、一雫、飮(のむ)時は、其まゝ、治する也。

 

○山椒、又は、「からし」などに、むせたるには、

 「いわう」を少し飮(のむ)時は、其まゝ、治する也。「いわう」なき時は、付木(つけぎ)に付(つき)たるを、けづり飮(のむ)べし。

[やぶちゃん注:先行する「譚 海 卷之十三 舟の醉を治する事(二条)」の一条には、相同の処方が記されてある。]

 

○赤子、口中に、「乳のかす」のやうに、しろき物、出來(いでき)、又は、「うはあご」抔(など)へ出來(でき)ものせしを、なほす妙藥。

 羗蜋【雪隱の壺に出る蟲。「うなむし」といふもの。】

 右一味、飯つぶに、すりまぜ、紙にぬり、小兒の足のうらへ、張(はり)おく時は、直(なほ)る事、奇妙也。黑燒にしても、よし。

[やぶちゃん注: 「羗蜋」(きやうらう(きょうろう))「雪隱の壺に出る蟲」「うなむし」は恐らく昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科 Scarabaeoidea及びその近縁な科に属する種のうち、主に哺乳類の糞を餌とする一群の昆虫を指す語である。「食糞性コガネムシ」とも呼ばれる。中文ウィキのその種群を示すそれは「蜣螂」の漢字が当てられている。その日本語版「糞虫」も見られたい。]

 

○むしづはしる時は、

 昆布一切れ、少し斗(ばか)り燒(やき)て、くふべし。妙也。

[やぶちゃん注:「むしづ」「蟲唾」。胃酸過多によって、胃から口に出てくる不快な酸っぱい液。なお、「ず」を「酸(す)」と考えて、歴史的仮名遣を「むしず」とする説もある。]

 

○舌をくひて、血の、いづるとき、

 何の草にても、三種取(とり)て、もみて、口にふくみ居(を)れば、血、留(とま)る。

[やぶちゃん注:「何の草にても」はアカンでしょう!!!]

 

○舌の、あれたる時は、

 なすびのへた、黑燒を付(つく)べし【但(ただし)、殊の外、しみる也。】。

 

○小舌(こじた)と云(いふ)物、舌のしたへ、出來(いでき)て、後(のち)には、物、いひ、きゝにくゝ、命に、さはる事、有(あり)。其時は、芝、大好庵の目ぐすりを、たえず、つくる時は、自然(おのづ)と治する也。

[やぶちゃん注:「小舌」当初は舌の下部に生じた舌癌のことかと思ったが、それは、そう頻繁に発症するものではないので、別に考えてみたところ、「舌小帯」(ぜつしょうたい)のことではないかと重いが至った。これは、舌の裏側に附いている襞(紐状の場合もある)を指す。これが先天的に短かったり、襞が舌の先端に近いところに附いていることがあり、このような状態を「舌小帯短縮症」と称する。舌を前に突き出すと、舌の先端に「くびれ」が生じ、ハート型の舌になる(この病気には、いろいろな呼び方があり、「舌強直症」「舌小帯癒着症」「舌癒着症」等とも言う。軽度の場合は全く問題ないが、「中等度」「重度」の場合には、発音や摂食嚥下機能に問題がある場合が生じてくると、昭和大学歯科病院口腔機能リハビリテーション科公式サイト「おくちでたべる.com」のコラム第十五回 「舌小帯短縮症と発音障害」にあった。

「芝、大好庵」不詳。しかし、「小舌」で「目ぐすり」は、ない、だろ!]

 

○「こうひ」、出來(でき)たる時は、

 巴豆(はず)、黑燒一さじ飮(のむ)時は、たちまち、やぶれ、治する也。但(ただし)、此黑燒、飮(のみ)たる後にて、水を、茶わんに一口、飮(のむ)べし。水を、のまざれば、巴豆の氣(き)にて、腹、くだり、難儀する也。

[やぶちゃん注: 「こうひ」当初、皮膚表層の表皮が持続的な炎症を起こして、全身の皮膚が潮紅(ちょうこう)と落屑(らくせつ)を呈する全身性炎症性疾患の紅皮症(こうひしょう)のことかと思ったが、「やぶれ」て即座に治癒するというのは、この病態とは、ちょっと違う。処方内容が、飲み薬であることから、口腔・咽喉内に生じた炎症のことのように思える。但し、だとすると、「こう」は「腔」か「喉」であろうが、「ひ」は判らぬ。

「巴豆」キントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科ハズ連ハズ属ハズ Croton tiglium当該ウィキによれば、『種子から取れる油はハズ油(クロトン油)と呼ばれ、属名のついたクロトン酸のほか、オレイン酸・パルミチン酸・チグリン酸・ホルボールなどのエステルを含む。ハズ油は皮膚につくと炎症を起こす』とあり、『巴豆は』「神農本草経下品」や「金匱要略」に『掲載されている漢方薬で』はあるが、微量でも『強力な』下瀉『作用があ』り、『日本では毒薬または劇薬に指定』『されているため、通常は使用されない』とあった。]

 

○又、一方。

 サボテン、「植木や」にて求置(もとめおき)、小口切(こぐちぎり)にして、蔭ぼしにして、たくはへおき、「こうひ」出來たる時、サボテン少(すこし)斗(ばか)り、みそ汁にて煎(せんじ)、其汁を、あふのけに成(なり)て、口に、ふくみ居(を)るべし。自然(おのづ)と、のんどへ、みそ汁、とほりて、こうひ、直る也。

 

○又、一方。

 燈心を、手一束に切(きり)て、燒鹽(やきじほ)を少(すこし)加へ、黑燒にして、其座にて、「くだ」にて、のんどへ、吹入(ふくい)べし。妙也。

 

○又、一方。

 「なた豆」を黑燒にして、「くだ」にて、吹込(ふきこん)で、よし。

[やぶちゃん注:「なた豆」「鉈豆」。マメ目マメ科マメ亜科ナタマメ属ナタマメ Canavalia gladiata 。現行では福神漬に用いられることで知られる。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 檜

 

Hinoki

 

ひのき   檜

      【和名非

【音膾】  言心ハ火乃木也】

       幸種【倭俗

        左木久佐】

クワイ

 

字說云檜葉與身皆曲以曲會名檜【樅葉與身皆直以直從名樅也】詩經

檜揖松舟是也

△按本草綱目柏葉松身者檜也其葉尖硬一名栝【又圓柏】

 蓋此時珍誤檜與栝二種相混註之乎檜葉不尖硬而

 似柏葉而肥厚有繩文柏直枝檜曲枝其樹相摩則有

 出火故名火木其實纍纍似杉實而無刺又有無實者

 今人盛饅頭器鋪檜葉不知其㨿焉其材白濃密無橒

 而美也能可堪水濕宜爲屋柱宜作箱器最良材也皮

 以覆宮屋謂之檜皮葺土州之產堅而宜柱材尾州之

 產柔而宜噐木

一種阿須檜 似檜而木心似柀爲噐脂出不佳此與檜

 只如有一夜之差乎匠人用僞檜【又阿須奈呂】卽柏木也

                          西園寺入道

  夫木 君か代を我立杣に祈りおきてひはら杉原色もかはらし

    此殿はむへも富みけりさき草のみつはよつはに殿作りして

五雜組云孔子廟中檜歷周秦漢𣈆幾千年至懷帝永嘉

三年而枯三百九年子孫守之不敢動至隋恭帝時復生

五十一年至唐髙宗時再枯三百七十四年至宋仁宗時

復榮至金宣宗時兵火摧折後八十二年至元世宗時故

根復生至明太祖洪武二年凡九十六年其髙三丈有竒

至明弘治巳《✕→己》未爲火所焚今雖無枝葉而未嘗枯也聖人

手澤其盛衰關於天地氣運豈可得思議乎

 

   *

 

ひのき   檜

      【和名「非《ひ》」。

       言心《いふこころ》は「火の木」なり。】

【音膾】

       幸種《さきくさ》【倭俗、

        「左木久佐《さきくさ》」。】

クワイ

 

「字說」云はく、『檜は、葉と身と、皆、曲る。曲會《きよくくわい》を以つて「檜」と名づく【樅は、葉と身と、皆、直《す》ぐなり。直ぐに從ひて、以つて、「樅」と名づくなり。】。「詩經」に、『檜の揖(かひ)の松の舟』と云ふ、是《これ》なり。

△按ずるに、「本草綱目」に、『柏の葉、松の身なる者は、「檜」なり。其の葉、尖り、硬《かた》し。一名、「栝《かつ》」【又、「圓柏《ゑんぱく》」。】』≪と≫。蓋し、此れ、時珍、誤りて、檜(ひのき)と栝(びやくしん)と、二種、相混《あひこん》じて之れを註するか。檜の葉は、尖り硬からずして、柏《かしは》の葉に似て、肥厚《し》、繩文《じやうもん》、有り。柏は、直枝、檜は、曲枝。其の樹、相摩(《あひ》す)る時は、則ち、火《ひ》、出づること有り。故に「火の木」と名づく。其の實《み》、纍纍として、杉の實に似て、刺《とげ》、無し。又、實、無き者、有り。今の人、饅頭を盛る器《うつは》に檜≪の≫葉を鋪(し)く。其の㨿《よるところ》を知らず。其の材、白く、濃密なり。橒(もく≪め≫)無く、美(うつく)し。能く水濕に堪ふべく、屋柱に爲るに宜《よろ》しく、箱・器に作る≪も≫宜≪しく≫、最も良材なり。以つて、宮屋《きうをく》を覆ふ。之れを「檜皮葺(ひわだぶき)」と謂ふ。土州の產、堅くして、柱材に宜し。尾州の產は、柔かにして、噐≪の≫木に宜し。

一種「阿須檜(あすひ)」 檜に似て、木≪の≫心、柀(まき)に似たり。噐に爲《つく》る≪も≫、脂《あぶら》出でて、佳ならず。此れ、檜と、只だ、「一夜の差(ちが)ひ」有るか。匠人《たくみ》、用ひて、檜に僞《いつは》る【又、「阿須奈呂《あすなろ》」。】。卽ち、柏木(このてがしは)なり。

                  西園寺入道

 「夫木」君が代を我が立つ杣(そま)に祈りおきて

              ひばら杉原色もかはらじ

     此の殿はむべも富みけりさき草の

             みつばよつばに殿作りして

「五雜組」に云はく、『孔子廟の中の檜(ひのき)、周・秦・漢・𣈆[やぶちゃん注:「晉」の異体字。]を歷(へ)て、幾千年、懷帝永嘉三年に至りて、枯れて、三百九年、子孫、之れを守り、敢へて動かさず。隋の恭帝の時に至りて、復《ま》た、生(は)へ、五十一年にして、唐の髙宗の時に至りて、再たび、枯れ、三百七十四年して、宋の仁宗の時に至りて、復た、榮《さか》ふ。金(きん)の宣宗の時に至りて、兵火《に》、摧(くじ)き折(を)れて後、八十二年、元の世宗の時に至りて、故根(ふる《ね》)、復た、生じ、明(みん)の太祖洪武二年に至りて、凡《すべ》て、九十六年。其の髙さ、三丈有竒《あまり[やぶちゃん注:二字への読み。]》。明(みん)の弘治己未に至りて、火の爲(ため)に焚(や)かるる。今、枝葉、無しと雖も、未だ嘗つて枯れざるなり。聖人の手澤《しゆたく》、其の盛衰、天地の氣運に關(あづか)る。豈《あ》に、得て思議《しぎ》すべけんや。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:前回同様、同一漢字が、中国と当時の日本とでは、種が異なることが判らずに読み解いている。ちょっと良安が可哀そうな感じがしてくる。東洋文庫の後注にも、『現代の植物学界では、日本のヒノキに当るものは中国になく、中国でいう檜とは日本のヒノキ(ヒノキ属)ではなくビャクシンまたはイブキ(ビャクシン属)とされている。どうやら良安は『本草綱目』の檜を日本のヒノキと同じとして言をすすめているようにみえる』とある。本邦の「檜」=ヒノキは、日本固有種で中国には自生しない

球果植物(裸子植物)門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa

であるが、当該ウィキによれば、『日本の固有種であり』、『本州の福島県以南、四国、九州の屋久島まで分布する』。『スギ』(ヒノキ科スギ亜科スギ属スギ 属 Cryptomeria japonica )『と分布域は重なるが、北限は福島県でスギよりはやや南の地域となる』。『多雪を嫌うため』、『日本海側にはあまり見られず、スギに比べて分布地は著しく太平洋側に偏る』とある。

 それに対し、「檜」は、中国では、まず、

裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属 Juniperus

を指す。「ビャクシン属」は、現代中国では「刺柏属」である同中文ウィキ参照)。次いで、現代中国では「檜柏」(簡体字では「桧柏」)と書く、

ビャクシン属Juniperus節イブキ変種イブキ  Juniperus chinensis var. chinensis

で、日中では、「檜」の字が想起させる樹種が全く異なることが判明するのである(同中文ウィキ参照。ウィキの「イブキ」も見られたい)。

「字說」北宋の政治家にして著名な文人であった王安石(一〇二一年~一〇八六年)が書いた、漢字の由来を述べた大著で、彼の代表的作品として知られる。初め全二十巻であったが、後に二十四巻となった。漢字研究のバイブルである「說文」の解釈法を採用せず、会意に依って、漢字を説明・解釈する手法を採ったものである。但し、それに拘り過ぎ、牽強付会の弊に陥ったとも評される。中国も探してみたが、ネット上に視認出来るデータがない。

「曲會」樹の葉も幹も、折れ曲がって、相互に絡み合っていることを言う。私の好きなビャクシンはまさに「曲會」に相応しい!

「樅」前回で述べた通り、日本特産種であって中国には分布しない裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科モミ属モミ Abies firma ではなく、これは「馬尾松」=マツ属バビショウ Pinus massoniana であるので、注意!!!

『「詩經」に、『檜の揖(かひ)の松の舟』と云ふ』「詩經」の「國風」の「衞風」に載る「竹竿」。私が教授された故乾一夫先生の『中国の名詩鑑賞』「1 詩経」(昭和五〇(一九七五)年明治書院刊)を参考に以下に原文・訓読・訳を示す。

   *

   竹竿

籊籊竹竿 以釣于淇

豈不爾思 遠莫致之

 

泉源在左 淇水在右

女子有行 遠兄弟父母

 

淇水在右 泉源在左

巧笑之瑳 佩玉之儺

 

淇水滺滺 檜楫松舟

駕言出遊 以寫我憂

 

     竹竿(ちくかん)

 籊籊(てきてき)たる竹竿

 以つて淇(き)に釣る

 豈に爾(なんぢ)を思はざらんや

 遠くして之れを致す莫(な)し

 

 泉源は左に在り

 淇水(きすい)は右に在り

 女子(ぢよし)は行(かう)有りて

 兄弟父母(けいていふぼ)に遠ざかる

 

 淇水は右に在り

 泉源は左に在り

 巧笑(かうせう)の瑳(さ)

 佩玉(はいぎよく)の儺(だ)

 

 淇水は滺滺(いういう)たり

 檜楫(くわいしふ)の松舟(しようしう)

 駕(が)して言(ここ)に出でて遊び

 以つて我が憂ひを寫(のぞ)かん

 

     竹の竿(さお)

長い竹竿で

淇水に魚釣りをする

あなたを恋せぬわけではないが

遠くにあって思いを届ける術(すべ)もない

 

泉水(せんすい)[やぶちゃん注:川の名。]は左(北)にあり

淇水は右(南)にある

所詮 女は嫁に行き

兄弟父母から離れるものだ

 

淇水は右にあり

泉水は左(北)にある

にっこり笑った美しさ

佩(お)び玉(だま)の美しさ

 

淇水の流れはとうとうと

檜(びゃくしん)の櫂(かひ)の松の舟

舟に乗って出でて遊び

恋の憂いを晴らしたい

   *

『「本草綱目」に、『柏の葉、松の身なる者は……』「本草綱目」の「卷三十四」の「木之一」「香木類」の冒頭の「栢」の「集解」の一節。「漢籍リポジトリ」のこちらのガイド・ナンバー[083-2a]の三行目にある。

   *

柏葉松身者檜也其葉尖硬也其葉尖硬亦謂之栝

   *

くどいが、この「檜」はヒノキではなく、ビャクシン属か、イブキとなるが、「栝」は日中辞書では「イブキ」とし、「圓柏」も中文ウィキの「桧柏」(=イブキ)『圓柏』とある。

「橒(もく≪め≫)」木目。

「土州」土佐國。

「尾州」尾張國。

「阿須檜(あすひ)」「阿須奈呂」ヒノキ亜科アスナロ属アスナロ Thujopsis dolabrata

「柀(まき)」ヒノキ目コウヤマキ科コウヤマキ属コウヤマキ Sciadopitys verticillata の異名。

『此れ、檜と、只だ、「一夜の差(ちが)ひ」有るか』ウィキの「アスナロ」の「名称」によれば、『和名であるアスナロの名は、ヒノキに似ているが材としてやや劣るため、「明日はヒノキになろう」に由来するとされることが多く』、古く清少納言の「枕草子」、松尾芭蕉の「笈日記」、現代の井上靖の小説「あすなろ物語」『などでも』、『この意味で記されている』。『しかし、この語源は』、『俗説であり』、『正しくないとされることもあり』、『また』、『材質がヒノキに劣ることはないともされる』。『古くは高貴なヒノキを意味する「アテヒ(貴檜)」とよばれ、これが「アスヒ(阿須檜)」になり、「アスナロ」に転化したともされる』。また『西日本では、ヒノキ属のサワラ』(ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera )『をナロとよぶ地域がある』。『また、ヒノキに比べて葉が厚いことを示す「アツハヒノキ(厚葉檜)」から転じたとの説もある』。『青森県などではヒバ(檜葉)』、『石川県ではアテ(档、檔、阿天)』と呼ばれ、『他にも別名が多く、アスナロウ(明日奈郎宇)』アスヒ・アスダロ・アテビ・アスワヒノキ(明日檜)・ツガルヒバ・シラビ(白檜)・オニヒノキ(鬼檜)・クサマキ(草槇)・ラカンハク(羅漢柏)『などがある。青森県や北海道でヒバとよばれるものは変種のヒノキアスナロ』( Thujopsis dolabrata var. hondae )『のことを指していて、渡島半島の檜山地方という地名は、ヒノキアスナロが多いことから来た名前である』とあった。

「卽ち、柏木(このてがしは)なり」球果植物門種子植物亜門裸子植物上綱マツ綱マツ亜綱マツ目ヒノキ科ヒノキ亜科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis (中国北部原産と考えられているが、本邦にも古くから植栽されている)。「柏木」に「このてがしは」とルビすることについて、東洋文庫では割注があって、『コノテガシワとアスナロは別種だが、良安は同じものとしている』とある。

「夫木」「君が代を我が立つ杣(そま)に祈りおきてひばら杉原色もかはらじ」延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集「夫木和歌抄」の「卷廿九」の「雜十一」に所収する。作者「西園寺入道」とは平安末から鎌倉前期にかけての公卿・歌人で従一位・太政大臣の西園寺公經(さいおんじきんつね)のこと。

「此の殿はむべも富みけりさき草のみつばよつばに殿作りして」「古今和歌集」の「序」にあるもので、所謂、「祝い歌」の一種で、元は伝統芸能の催馬楽(さいばら)で歌われるものの一つの一節。「此殿」又は「此殿者」という歌である。

   *

この殿はむべもむべも富みけり三枝のあはれ三枝のはれ

三枝の三つ葉四つ葉の中に殿造りせりや殿造りせりや

   *

「五雜組」既出既注。以下は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここにあるものを参考に示しておく。

   *]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(15)

 

   たゝかれて沈む螢や麻の雨 其 風

 

 麻の葉にゐる螢が雨に打たれて、茂みの中に沈む趣である。この螢は無論複數であらう。雨勢の相當强い樣子もわかるし、麻の葉を打つ爽な音も連想に浮ぶ。「麻の雨」の五字で全體を纏めた句法も、なかなか働いてゐるやうに思ふ。

 畫のやうな景色といふところであるが、畫では却つてかういふ趣は現しにくいかも知れない。生趣に富んだ句である。

[やぶちゃん注:「生趣」「せいしゆ(せいしゅ)」或いは「きしゆ(きしゅ)」と読むのか? こんな日本語の熟語は私は知らぬ。中国語で「人生・生活の喜び」の意であるから、「生き生きとした、アップ・トゥ・デイトな面白さ」ということか。『柴田宵曲 妖異博物館 「赤氣」』でも使っているいるから、宵曲の好きな語であるようだが、「生趣」ならぬ「生硬」な語で、私には却っていやらしい感じがする。]

 

   霓立や影と輪になる夏の海 柳 絲

 

 昔の句では虹が季になつてゐない。西鶴の書いたものに冬の虹が出て來るのを、ちよつと妙に思つたが、その後氣をつけて見ると、俳句にも冬の風物に虹を配したのがいくつもある。虹は夕立のあとにばかり出るわけではないのだから、夏に限定する方が却つて捉はれてゐるのかも知れぬ。

 この句の虹は夏の虹である。鮮に立つた雨後の虹が海面に影を落して、大きな圓を描く。「影と輪になる」といふ言葉は、極めて大まかな言葉のやうだけれども、これ以上適切に現し得る言葉があるかどうか疑問である。昔の虹の句としては特色あるものたるを失はぬであらう。

 

   よむほどやほしに數なき夕涼 風 吟

 

 子規居士は「星」といふ文章の中で、「一番星といへば星の下に子供一人立つてゐるやうに感ぜらる」と云つた。「一番星見つけた」といふのは、吾々も子供の時に屢〻耳にした言葉であつた。一つ見つけ、二つ見つけするうちに、眼界の星はいくらでも殖えて來る。「數なき」といふと、數が澤山ないやうにも聞えるが、こゝは無數の意であらう。「眞砂まさごなす數なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」といふ子規居士の歌の「數なき」と同じことである。

「涼み臺又はじまつた星の論」と云ふ。夏の夕方、涼臺に屯たむろする人たちの注意が自ら天に向ふのは、蓋し自然の成行である。

 

   夕すゞみ星の名をとふ童かな    一德

 

といふのもやはり元祿の句であるが、天を仰いで闌干たる星斗に對する間には、天文に關する知識も働けば、宇宙に對する畏怖も生ずる。或は吾々人間は大昔から夏の夕每に、かういふ經驗を繰返して來たのかも知れない。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの『子規全集』第九巻(昭和四(一九二九)年改造社刊)で視認出来た。明治三二(一八九九)年十月初出である。内容が面白いので、以下に電子化しておく。一部に脱字があったが、他の資料で補塡した。

   *

〇ある天文學者に星の數を尋けるに三十三萬三千三百三十三を三十三萬三千三百三十三遍言ふた程ありと答へける。其外に星一つ見出ださんと空仰向いて步行きける天文學者どぶの中に落ちて茶屋の婆樣に叱られぬ。其婆樣は老人星となりしが天文學者は土になりけるとぞ』孔明死して將星落ち、西鄕死して西鄕星となる。李白死して酒星の株を讓り受けたれど大福星の名未だ詩に上らず。詩人に下戶無きにやあらん。下戶に詩人無きにやあらん。糠星といはるゝこそ、甲斐なき星の宿世なりけれ。たまたまに飛べば夜這星と名に立てられて、隕ちて石となりけるも戀の果にあらざるぞはかなき』金星といへば遊星軌道の圖を見る如く、明星といへば山の上に輝ぎ、太白といへば海の上低く垂れ、夕づゝといへば木の間にちらつき、一番星といへば星の下に子供一人立つて居るやうに感ぜらる』昔から今迄、棚機の浮名は三面記事の材料となりて、天の川水絕ゆる事なき長き契は鵲の羽の蹈み心地も面白からずと鐵橋をかけゝる。これならば大風大雨いつかな構ふ事にあらず、雨夜のむつ言身に入みて、一入なるべしと待ちし甲斐もなや去年の大水に橋桁殘さず流れける、こゝも浮世なりけり。されば急場の間に合せに又鵲のもとへ使やりけるに、二度の務めは御免蒙ると見事はねつけられ、今はせん方なしと鐵橋再架の建議に及びける。諸の星だち星集ひに集ひ、北極星を議長として星議り[やぶちゃん注:「はかり」。]に議りしに天のじやくといふ星大反對を構へ北斗七星劍を拔いて立つといふ騷ぎに議會は解散せられて鐵橋再架案も成り立たず。それをくやしがりて二星一計を案じ出で、今年天の川原に夜凉の床を設け、織女自ら酌女となりて取りもちけるに、此噂遠近に聞えて集まり來る者數を知らず。天の釣橋中絕えてチツヽンといふ歌流行りて、此遊びに身代を潰す星ども夜に紛れて飛んでしまひしも多かりしとぞ。此企大當りにて一夏の收入一千萬圓、鐵橋再架今は七分通出來上りたる天上の戀めでたし』今年十一月箒星と地球と衝突する由外國の事迄は構はれずとも日本だけ助かる工夫は無きやと心配氣にいへば、ある人髯を撫でて、それは安き事なり、日本といはず世界中の大砲に丸をこめて箒星の近づくや否や一時に打つてかからんには、いかな箒星も地球と衝突せざる前に粉な微塵になつて飛び失せなん。これがために世界中の彈丸硝藥一時に盡きて少くも十年が間はいくさの起る氣遣も無く天下太平我々枕を高うして寐るべしと星を指したやうに言ひける。

   *]

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(3)

○風眼(ふうがん)には、

 「岩ろくせう」[やぶちゃん注:底本では、「ろくせう」の右に編者補正注で『(綠靑)』とある。]一味、「あはびのわた」に、すりまぜ、用(もちゆ)べし。

[やぶちゃん注:「風眼」今の若い連中は知らない病名だろうが、所謂、性病の淋病の淋菌が眼に入ることによって発生する急性の眼疾患の俗称で、盲目になるケースもあった。正式には、「淋菌性結膜炎」(gonorrheal conjunctivitis)という。感染経路が判らなかったことから、古くは、風や空気が原因で、発症するとされたことから、非常に古くから、この名で呼ばれた。淋菌によって起こる結膜炎であるが、強い眼瞼及び結膜の腫張と、大量の膿様眼脂(目ヤニ)を伴い、病変は、しばしば角膜にも達し、角膜穿孔を起こし、或いは白い癒着白斑を残す。耳前リンパ節は疼痛を伴い、腫張する。潜伏期はごく短く、数時間から三日程度で突然、発症する。私は医学書で感染した幼児の古い写真を見たが、両目の瞼が卵大に腫れていた。この病気は、高校時代に保健体育の授業で高齢の男の先生が詳しく説明して下さったのを、昨日のことのように記憶している。「淋菌がどうして眼に入る?」ってか? 銭湯さ! 近代以前の銭湯(江戸では「湯屋(ゆうや)」と呼んだ)湯の温度が低く、しかも、湯の入れ替えも杜撰で、非常に汚れていた。「曲亭馬琴「兎園小説」(正編)  あやしき少女の事」で注したが、湯舟は、熱を逃がさないようにするため、上部に最低限の採光と換気のための、ごく小さな窓があるだけで、湯船は殆んど真っ暗で、一緒に入っている人間の顏も判らないほどであったから、湯が汚いことは入っている客には、まるで判らなかったのだ。而して、四角い湯舟の場合、温度が下がり、しかも細菌類が集まり易いのは、内側の角の部分だった。大人ならば、そこに顔をつけることはまずないが、子どもは、違う。そして淋菌が眼に入ったのだ(授業では先生は湯舟の図を描いて細かく説明されていた)。

「岩綠靑」歴史的仮名遣は「いはろくしやう」が正しい。「岩緑青」(いわろくしょう)とは、日本画の顔料の一つで、緑青色の粒状。色が濃く、画料に用いられるが、耐光性に弱い。孔雀石(くじゃくせき:水酸化銅・炭酸銅からなる鉱物。緑色で光沢があり、針状又は塊状で産出する)から製する。「青丹」(あおに)とも呼ばれる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「あはびのわた」「鮑(あはび)の腸(わた)」。脱線だが、これ、「猫が食うと耳が落ちる」というのを御存知か? ご存知ない方は、私の「耳囊 卷之五 同眼のとぢ付きて明ざるを開く奇法の事」(そちらは本条との関連はない。偶然である)の私の注を見られたい。]

 

○眼へ、鼠の小便、入(いり)たる時、

 猫の小便をさして、吉(よし)。若(もし)、猫の小便、なき時は、生姜(しやうが)のしぼり汁を、さして、よし。

 

○雪中を行(ゆき)て、めの、くらみたるには、

 其まゝ、火鉢の炭火へ、酒、一雫(ひとしづく)落して、其煙(けぶり)にて、めを、いぶすときは、卽時に、あきらかに成(なる)也。

 

○眼へ「ものもらひ」と云(いふ)「でき物」せし時、

 靑山椒の實(み)五粒、粘(ねば)にて、「金ぱく」にても、丹(に)にても、まぶし、丸藥(ぐわんやく)の如くに拵(こしら)へ、當人の齒に、あてぬやうに、のましむべし。翌朝、治する也。靑山椒なき時は、「ほしざんしやう」の皮の内に有(ある)、黑き實にても、よし。

 

○眼病療治。

 信州諏訪の住竹内新八郞と云(いふ)者、功者也。

 又、上總國わだ村、藥王寺と云ふ所に療治するもの有。右江戸より十六

里宇、船にて一日路也。目蔡代扶持方共、盲竺人百十錢ほど也。

[やぶちゃん注:「上總國わだ村」底本では「わ」の右に編者補正注で『(ぶ)』とあるが、これは恐らく「へた」の誤りと思われる。千葉県夷隅郡大多喜町(おおたきまち)部田へた:グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう。但し、現在の同地区には「藥王寺」はない。しかし、ここから約九キロメートル北北西の千葉県長生(ちょうせい)郡長南町(ちょうなんまち)山内(やまうち)に薬王寺がある。津村は、しばしば地名や、その位置を誤るから、この程度の誤差は屁でもない。そもそも「上總の其處一里」(「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月15日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十三回」)のお国柄だしな。]

 

○「めまひ」するには、

 「口なし」の黑燒一味、酒にて用(もちい)て、よし。

[やぶちゃん注:「口なし」リンドウ目アカネ科サンタンカ(山丹花)亜科クチナシ連クチナシ属クチナシGardenia jasminoides 。]

 

○目のまじなひ。

 夜中、錢(ぜに)一文をもち出(いで)て、四辻に至(いたり)て、其錢にて、めを、よく、ぬぐひて、「おく山のひのきさはらぬさしをひきあたひにはかまはぬうるべしかふベし」と唱(となへ)て、後(のち)、其錢を、うしろ手に、おとして、後(うしろ)を見ずに、かへるべし。奇妙に、なほる也。

[やぶちゃん注:異界との通底器である「辻」を用いた古い咒(まじな)いである。咒言(じゅごん)の歌は、「おく山の/ひのき/さはらぬ/さしをひき/あたひには/かまはぬ/うるべし/かふベし」のリズムだろう。]

 

○鼻血の藥。

 花蘂(ずい)石一味、粉にして用(もちゆ)べし。

[やぶちゃん注:「花蘂(ずい)石」「ずい」のルビは珍しい底本のものである。これは「Ophicalcitum」という変成した蛇紋岩大理石らしい。「香港理工大學」公式サイト内のここ(英語)で、鬱血治療薬とあるのと一致する。]

 

○又、一方。

 くちなし一味、黑燒にして、鼻の内へ吹入(ふきいれ)て、よし。

 

○又、一方。

 くみたての水を、紙に、ひたし、「つむり」の眞中を、ひやして、吉(よし)。

[やぶちゃん注:昔、小学生の頃、鼻血を出した同級生に先生が同じことをしたのを、今、思い出したッツ!!!

 

○鼻血を、とむる、まじなひ。

 其人に向(むかひ)て、右の人指(ひとさしゆび)にて、「難波津に咲(さく)や此花冬ごもり」と云(いふ)上の句斗(ばかり)を書(かき)て、「冬ごもり」の「り」の字を「理」と書(かく)べし。卽坐に、血、とまる也。

[やぶちゃん注:「難波津に咲や此花冬ごもり」これは、近代以降、「競技かるた」会に於いて、一番、最初に読まれる序歌で(無論、「百人一首」にはない。歌人佐佐木信綱が選定したとされる)、作者は王仁(わに)。

 難波津に咲くやこの花冬ごもり

      今を春べと咲くやこの花

王仁は「古事記」「日本書紀」に登場する、応神天皇の時代に百済から来た渡来人とされる人物である。詳しくは、当該ウィキを見られたい。]

2024/04/27

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(2)

○直(なほ)りこじれたる目の仕上(しあげ)には、

 艾葉(よもぎば)八錢[やぶちゃん注:約三十グラム。]ばかり、とゝのへ、火鉢へ、段々に燒(やき)て、火鉢へ鐵久(てつきう)[やぶちゃん注:鉄串。]をわたし、此「てつきう」のうへへ、御寶燒[やぶちゃん注:底本では「寶」の右に編者補正注で『(室)』とある。]の茶碗をふせて、茶わんの内へ、「もぐさ」の油煙をとり、「ゆゑん」のうすらかに黑くたまりたるとき、茶わん、とりなをし[やぶちゃん注:ママ。]、すゑおき、茶わんへ、湯を、一ぱいに、つぎこみ、そのまゝ、湯を、すて、そのあとへ、又、湯を三分目ほど、いれ、小刀にて「ゆえん」を、こそげおとし、黃連の細末を「むくろじ」ほど入れて、かきまぜ、其(その)「うは水」の、すみたるを、指につけて、目に、さすべし。血を治(をさ)め、眼をよくする事、妙也。

[やぶちゃん注:前回、既出既注。一度、注したものは、以降、挙げない。]

 

○目のいたむを治する藥、水仙の「はな」を、「かげぼし」にして仕𢌞置(しまはしおき)、眼のいたむときに、花一りんを、湯に、ひたし、度々、あらふべし。一日に治す。

 

○目のかすむには、

 へちまの水をぬれば、明らかに成(なる)也。

 又、河豚(ふぐ)の肝(きも)のあぶらを、常に「ともしあぶら」に用ゆるときは、よく、目を、あきらかにす。

 

○「とりめ」には、

 鯛の「しほから」を、くらふ時は、治す。

[やぶちゃん注:「とりめ」「鳥目」。夜盲症。夜になると、視力が著しく衰える病気。ビタミンAの欠乏が主因。]

 

○「やみめ」には

 黃達、一味、せんじ上(あげ)たる水にて、あらひて、よし。

[やぶちゃん注:「やみめ」「病み眼」であろう。]

 

○「つきめ」には、

 水仙の根の玉を、摺鉢にて、粘(ねばつち)の樣に、ねばるまで、すり、紙を、眼の大(おほい)さより、一倍に、引(ひき)さき、其紙へ、水仙をすりたるを、べつたりと付(つけ)て、いたむめへ、はりて、一夜さし置(おく)べし。治する事、妙也。

[やぶちゃん注:「つきめ」「突き目」。目を突くことによる外傷であるが、一般には角膜の突き傷から細菌が侵入して起こる化膿性角膜炎、別名、匐行(ふくこう)性角膜潰瘍を指す。角膜上皮が健全であれば、通常の化膿菌は角膜に侵入出来ないが、上皮が欠損した部分は菌の侵入口になってしまう。菌は突いた物体に付着したものの場合もあり、また、結膜嚢に寄生的に存在した菌のケースもある。往時には、木の枝や稻の葉先による刺傷など、農業従事者に、よくみられた。慢性涙嚢炎などで菌が存在する場合は準備状態にあるといえる。潰瘍部で角膜が穿孔して炎症が眼内に及ぶと、全眼球炎となって、失明する。早期に病原菌を調べ、有効な抗生物質を局所及び全身に用いて治療を行うことが必須である(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)]

 

○又、一方。

 烏蛇【カラスヘビノコト】と尾を去(さり)、「はらわた」をも、去て、古酒に、ひたす事、凡(およそ)一ケ月、其後、紅花一味を、蛇の腹に、つめて、黑燒に致し置(おき)、「め」を、つきたる時、卽時に用(もちゆ)べし。

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。以下、同じなので、向後は注しない。

「烏蛇」「カラスヘビ」「烏蛇」これはアオダイショウ(青大将:ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora )、及び、ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata 、或いはクサリヘビ(鎖蛇)科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii孰れかを指す広汎な地方名である。「カラスヘビ」は文字通り、烏のように「黒い蛇」「黒く見える蛇」「暗い色をした蛇個体」を通称総称するものであり、種名ではない。なお、ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata の黒化型(melanistic:メラニスティック)個体の別名とする記載もある。]

 

○又、一方。

 蠅(はい)[やぶちゃん注:後のひらがな表記に従った。]の頭斗(ばか)りを切(きり)て、木綿切(もめんぎれ)へ、押付(おしつく)れば、血が付(つく)也。如ㇾ此、いくらも、いくらも、「はい」のあたまの血を取(とり)て、木綿へ付(つけ)たるを貯置(たくはへおき)、「つきめ」せし時、其血を、乳汁(ちちじる)に、ときて、「め」に付(くつ)れば、直る事、妙也。

[やぶちゃん注:蠅を含む昆虫類の血液には殆んどヘモグロビンを含んでいないので、赤くない(昆虫の捕食対象によって黄色や緑色を帯びることはある)から、蠅の頭部を潰した際に見られる赤い色というのは、頭部にある臓器に沈着した色としか思われない。孰れにせよ、この民間療法は完全アウトである。]

 

○又、一方。眼の疵、一切に、よし。

 「ちゝ草」【人家、瓦の間、又は、荒地に生(しやう)ずる物、枝を折(をる)時は、白く、ねばりたる乳のやうなる汁(しる)、出(いづ)る。手に付けば、殊の外、ねばるもの也。】

 右の汁を取(とり)て、婦人の乳を、少し、まぜ、夫(それ)へ、耳かきにて、輕粉(けいふん)を、一すくひ、入て、能々(よきよく)、かきまぜ、眼へ、させば、一、二日の内に治する事、妙也。

[やぶちゃん注:「ちゝ草」「乳草」。茎や葉を切ると、乳のような液を出す草木で、複数種ある。ガガイモ(リンドウ目ガガイモ科ガガイモ属ガガイモ Metaplexis japonica )・ノゲシ(キク目キク科タンポポ亜科ノゲシ属ノゲシ Sonchus oleraceus )・ノウルシ(キントラノオ目トウダイグサ科トウダイグサ亜科トウダイグサ属ノウルシ Euphorbia adenochlora )など。「ちぐさ」とも呼ぶ。ノウルシは有毒植物なので、カットだな。

「輕粉(けいふん)」粉白粉(こなおしろい)。「はらや」とも呼ぶ。伊勢白粉。白粉以外に顔面の腫れ物・血行不良及び腹痛の内服・全般的な皮膚病外用薬、さらには梅毒や虱の特効薬や利尿剤として広く使用された。伊勢松坂の射和(いざわ)で多く生産された。成分は塩化第一水銀Hg₂Cl₂=甘汞(かんこう)であり、塗布でも中毒の危険性があり、特に吸引した場合、急性の水銀中毒症状を引き起こす可能性がある。現在は使用されていない。]

 

○又、一方。

 雀五羽を集(あつめ)て、雀の「め」へ、針を、さし、血、少しづつ出(いづ)るを、蛤貝(はまぐりがひ)へ、ためて、眼に、さすべし。治する事、妙、也。但(ただし)、雀の眼の血をとる事、めつたに、針をさしても、血、出(いづ)る事、なし。血の取處(とりどころ)有(あり)、口傳(くでん)ならでは、知(しり)がたし。

 

○又、一方。

 「まこも」の黑燒に、「上野砥(かうづけといし)」、少(すこし)斗(ばか)り、よく、すりまぜて用(もちゆ)べし。

[やぶちゃん注:「まこも」単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae イネ族マコモ属マコモ Zizania latifolia 。博物誌は私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 菰(こも) (マコモ)」を参照されたい。

「上野砥」群馬県甘楽(かんら)郡産。江戸時代は御用砥石として知られたものであった。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 樅

 

Momi

 

もみ       和名毛美

 

【音聰】

 

ツヲン

 

本草綱目松葉柏身者樅也

△按樅其樹皮有橫理而與栢檜不同其葉頗似榧其實

 似松梂而細長其中子亦如松子其材作板用爲櫃箱

 性不堪水濕故不ㇾ宜爲柱

髣髴樅 其材肌理不𭓽如疥癬痕人訝爲非樅

 

   *

 

もみ       和名「毛美《もみ》」。

 

【音「聰《ソウ》」。】

 

ツヲン

 

「本草」、『松の葉、柏の身《み》なる者は樅《》なり。』と。

△按ずるに、樅、其の樹、皮、橫理(《よこ》すぢ)有りて、栢(かし)・檜(ひのき)と同じからず。其の葉、頗《すこぶ》る榧(かや)に似、其の實、松の梂(ちゝり)に似て、細長く、其の中の子《み》、亦、松子《まつのみ》のごとし。其の材、板に作り、用ひて、櫃(ひつ)・箱と爲《な》す。性《せい》、水濕《すいしつ》に堪へざる故に、柱と爲《す》るに、宜《よろ》しからず。

 

[やぶちゃん注:「本草綱目」の引用は、前の「本草綱目」「卷三十四」の「木之一【香木類三十五種 内附六種】」の巻頭を飾る「栢」の中の「集解」の終りにあるものを引用したもので(「漢籍リポジトリ」のここのガイド・ナンバー[083-2a]の下四行目)、「本草綱目」には、そもそも「樅」は立項されていないのである。いや! そもそも、本邦の知られる「樅」、

裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科モミ属モミ Abies firma は日本特産種であって中国には分布しない

のである。当該ウィキによれば、『日本特産種で、日本に自生するモミ属で最も温暖地に分布し、その北端は秋田県、南端は屋久島に達する』。『本州(秋田県以西)、四国、九州の屋久島まで分布する』。『モミは、モミ属の樹木としては、最も温暖な地域に分布域をもつ種で、日本の中間温帯の代表的な樹種の一つである』。『モミの分布は太平洋側に偏っており』、『日本海側には局所的に分布が知られるのみである。モミを欠く日本海側においてはスギ』(マツ亜綱ヒノキ目ノキ科スギ亜科スギ属スギ Cryptomeria japonica )が、『その位置に出現するという』。『スギ、特に日本海側(裏日本)に分布するウラスギ(裏杉)と呼ばれる系統は』双子葉植物綱ブナ目ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata とともに『多雪環境に極めて適応していることで知られる』とあるのである。『モミの材は白くてやわらかく、加工が容易という特徴があり』、『天井板、腰板などの建築材、高級な棺、卒塔婆に使われる』。『蒲鉾の板は、伝統的にモミ類が使われる』。『また』、『パルプの原料にもなる』とあった。

 さて。では、中国の「樅」とは何か?

 それについては、東洋文庫の後注に、『中国語の「樅」は、バビショウのこと。日本のモミではないとされる』とあるのである。

 この「バビショウ」とは、「馬尾松」で、

マツ属バビショウ Pinus massoniana

である。邦文記事では、中国語の「樅」がモミとは異なったバビショウであることを記した記事を見出せなかったが、中文ウィキの「馬尾松」を見ると、中文異名に『青松、山松、樅松(廣東、廣西)』(☜)『松柏』、『或』、『臺灣赤松』とあるのを見出せたので、間違いない。当該の日本語のウィキによれば、『中国の南部を中心に広く分布する松で、針状の葉が』十五~二十センチメートルと『長くなり、ウマの尾を連想させるために、中国ではこの名が付いている。和名は中国語の漢字を音読みしたもの。アカマツと同じ二葉松であり、日本が台湾を統治した際によく目にしたため、タイワンアカマツ(台湾赤松)とも呼ばれる』。『中国の河南省から江西省、貴州省、海南省までの範囲の低山に広く分布する。特に福建省、広東省、広西チワン族自治区、湖南省の山地に密集している。台湾にも分布し、ベトナム北部から中部にかけても分布する』。『樹高は』二十五~四十五メートル『程度。樹皮は灰褐色で、厚い』。『中国では、松脂を採取する木として重要であり、植林も計画的に行われている。植林後、約』十五『年経つと、幹が松脂の採取が可能な直径に育つ』。『松脂を採取した後の木材は、枕木などの用途に用いられるほか、粉砕して、製紙用のパルプに利用されることが多い』とある。逆に、バビショウは日本には自生しないのである。

 ともかくも、この項は、「本草綱目」の引用が無効となり、良安の附説は本邦の樅(もみ)の木についての解説となる、イタい一項となってしまっているのである。

「栢(かし)」前の「かえ 柏」を参照されたい。

「檜(ひのき)」ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa

「榧(かや)」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera

「梂(ちゝり」球果。「松ぼっくり」のようなものと考えればよい。]

ブログ2,150,000アクセス突破記念 「和漢三才圖會」植物部 始動 / 卷第八十二 木部 香木類 目録・柏

[やぶちゃん注:禁断(私は藻類を除いて植物にはそれほど知識がない。因みに、『「和漢三才圖會」卷第九十七 水草部 藻類 苔類』はサイト版で公開済みである)の膨大な植物部(「卷第八十二」の「木部」に始まり、「卷第百四」の「菽豆類」に至る全二十二巻)に、敢えて挑戦することにする。タイピングであるので、何年かかるか想像も出来ない。死ぬまでには、やり遂げるつもりではある。

 テキスト底本は今までの通り、一九九八年刊の大空社版CD-ROM「和漢三才図会」を用いた。但し、本文中に用いた各項目の画像データは、当該底本に発行者による著作権主張表記があるので、所持する平凡社一九八七年刊の東洋文庫訳注版「和漢三才図会」が所載している画像を取り込んだものを用いる(一部の汚損等に私の画像補正を行っている)。なお、これについては、文化庁の著作権のQ&A等により、保護期間の過ぎた絵画作品の複製と見做され、著作権は認められないと判断するものである。されば、実際には、テキスト底本の著作権主張自体も無効であることを意味する。孰れにせよ、東洋文庫版の方が美しいので、私には文句はない。

 今までのものとおおよそ同じ構成法で行うが、今回は最初からUnicodeで始められる。

○良安は「本草綱目」から引用しているが、時に、誤りやカットが行われている。今までの本書の電子化注では、それを問題にしなかったが、今回は「漢籍リポジトリ」の原本等を参考にして、その問題点を明らかにした。

・各項では、良安は、「本綱」の引用の際、殆んど、「に曰はく」に相当する送りがなを原文に振っていないが、これは特異点として、それを訓読で示した。

・二行割注は【 】で本文と同ポイントで示す。

・和歌等の引用はブラウザの不具合を考えて、訓読では、引き上げて、句に分けて示す。

・正字か異体字かに迷ったものは、正字或いは表記出来る最も近い異体字を採用する。それでも、有意な相違がある場合は、文字注を入れた。

・各項目の仕儀は、まず、訓点を省略した本文を原本通りに示し(但し、割注は繋げて示す。また、私の本文の字起こしに疑義がある場合、または、以下の訓読に不審がある向きは、同一原書と推定される早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの原文を見られたい)、後に訓点に従って訓読したものを、文章として続いている箇所は改行せずに出す。

・明らかに良安の誤りとしか思われない書き癖や誤字・誤解があるが、これは《✕→□》として「□」部分に正しい漢字・熟語・表現を入れた。頻繁に現れるものは、原則、初回のみに注し、後は修正して訓読を示し、省略した。

・良安が附した読みは、( )で示し、ルビがないが、難読と判断した箇所は推定で歴史的仮名遣を用い、《 》で読みを添えた。≪ ≫は不全な訓読本文に私が添えたものである。適切でない訓読と判断したものは、《→□》で補訂注を入れた。

・読みの一部は送り仮名にして五月蠅くならぬように配慮した。

・句読点や記号は必要と思われる箇所に、適宜、打った。

・あるべき助詞・助動詞がない箇所、及び、濁音であるべき部分が清音になっている箇所は、その指示をせずに、送りがな・濁点を打った。

・以上の後に、私のオリジナル注を附す。但し、一部で東洋文庫の注を参考にし、時に引用する。但し、東洋文庫の訳や注には、頭をかしげる内容も多く、そこは批判しつつ、示した。

・サイト版で行った一丁の中央の柱の文字の電子化(例えば、以下の最初のそれは、「和漢三才圖會 香木 目録 ○一」)は、あまり意味がないので、行わない(省略する)こととした。

・本文中に頻繁に現われる漢方の四気五味(四性ともいう対象物の薬性を示す四つの性質「寒・熱・温・涼、及び平」と、味やその効能に基づく五つの性質「酸味・苦味・甘味・辛味・鹹味(かんみ=しおからい味)、及び淡味」)の意味については、今まで同様、これについては一切注を加えていない。諸サイトの中医学理論による解説等を参照されたい。悪しからず。

・一部の特異点の本文注に突如引かれる縦罫線以外の、縦・横の罫線は、基本、省略する。

 なお、この始動は、只今、午後十二時四十八分、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体は、その前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,150,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二四年四月二十七日 藪野直史】]

 

和漢三才圖會卷第八十二目録

    木部

本草綱目曰木乃植物五行之一性有土宜山谷原隰肇

由氣化爰受形質喬條苞灌根葉華實堅脆美惡各具大

極色香氣味區辨品類食備果蔬材充藥器寒温毒良直

有考分爲六類

 

   *

 

「本草綱目」に曰はく、『木は、乃《すなは》ち、植物の五行の一つ、性、「土《ど》」に有りて、山谷原隰に宜《よろ》しく、肇(はじ)めて氣化に由つて、爰《ここ》に、喬《きやう》・條《ぜう》・苞《ほう》・灌《くわん》の形質を受く。根葉・華實、堅脆《けんぜい》・美惡、各々《おのおの》、大極を具《そな》ふ。その色・香氣・味、區(まちまち)、品類を辨じ、果・蔬(そ)は、食に備へ、材は、藥・器に充《あ》つ。寒温・毒良は、直《ただ》しく考ふること、有り』。『分けて、「六類」と爲す。曰はく、「香」。曰はく、「喬」。曰はく、「灌」。曰はく、「寓」、曰はく、「苞」。曰はく、「襍(ざつ)」。』。

 

[やぶちゃん注:以上の二重括弧が二箇所にしたのは、「本草綱目」(基本、「漢籍リポジトリ」の原本を参考にした)を見たところ(ここの「卷三十四目録」の「木部」の冒頭部)、以下がカットされていることが判ったからである(漢字の一部を正字に代えた)。

   *

彚多識其名奚止讀詩埤以本草益啓其知乃肆蒐獵萃而類之是爲木部凡一百八十種

   *

しかも、このカットは離れ業であって、一見、おかしくなく見えるが、実は「直有考彙」と続く文を、切り離しているのである。ここは恐らく、

   *

直(ただ)しく考彙(かうゐ)[やぶちゃん注:グループに分けて考えること。]有りて、多く、其の名を識(し)る。奚(なん)ぞ、止(や)めん。詩を讀み、埤(たす)くるに、本草を以つて、益(ますます)、其の知(ち)を啓(ひら)く。乃(すなは)ち、肆蒐獵萃(ししゆうれふすい)[やぶちゃん注:「店に並ぶ物品(植物由来のもの)を蒐集し、フィールドに出て狩り集めること。」。]して、之れに類(るゐ)とし[やぶちゃん注:分類し。]、是れ、「木部」と爲す。凡そ一百八十種。

   *

と読むのであろう。

「山谷原隰」山・谷・原野・湿地。

「喬・條・苞・灌」東洋文庫の注に、『喬は丈が高く幹が太いもの』とし、「條」は『木が細く枝のようなもの』、『苞は節のある竹のようなもの、灌は丈が低く地表近くで枝がむらがり生えるもの』とある。]

 

[やぶちゃん注:以下、「香木類」の目録。原本は三段組(罫線区切り)であるが、一段で示した。縦罫は略した。下方の異名等は二行に亙るものがあるので、割注式に【 】で挟んだ。]

 

     香木類

(かえ) 【栢子仁(ハクシニン)】

(もみ)

(ひのき)

(びやくしん)

檜柏(いぶき)

(むろ)

伽羅木(きやらぼく)

(まき)

(まさき) 【髙野槇 狗槇】

仙柏(らかんまき)

(さわらぎ)

(とが) 【つが】

(まつ)

五葉松(ごえふのまつ)

落葉松(ふじまつ)

(すぎ)

肉桂(につけい)

桂心(けいしん)

桂枝(けいし)

箘桂(きんけい)

(かつら)

木犀(もくせい)

水木犀(もつこく)

木蘭(もくらん)

辛夷(こぶし)

沈香(じんこう)

奇楠(きやら)

木𮔉 (しきみ)

深山樒(みやましきみ)[やぶちゃん注:「樒」は異体字のこれ(「グリフウィキ」)だが、表示出来ないので、これにした。]

丁子(ちやうじ) 【毋丁香】

白檀(びやくだん)

降眞香(がうしんかう)

(くすのき)

(たぶ)

釣樟(くろたぶ)

樟腦(しやうなう)

霹靂木(へきれきぼく)

鳥藥(うやく)

櫰香(くはいかう)

必栗香(ひつりつかう)

(おかづら) 【大--子】

鷄冠木(かへで)

乳香(にうかう)

薰陸(くんろく)

沒藥(もつやく)

騏驎血(きりんけつ)

安息香(あんそくかう)

蘇合油(そかうゆ)

篤耨香(とくぢよくかう)

龍腦(りうなう)

阿魏(あぎ)

盧會(ろぐはひ)

胡桐淚(こどうるい)

返魂香(はんごんかう)

扉木(とべらのき)

山礬(さんばん)

瑞香(りんちやうけ)

 

 

和漢三才圖會卷八十二

         攝陽 城醫法橋寺島良安尙順

   香木類

 

Kae

 

かえ        掬   側柏

           和名加閉

【栢同】     俗云白檀

           又云唐檜葉

唐音         兒手柏

 ポツ      其材名阿須奈呂

[やぶちゃん注:後注するが、「掬」は「椈」の誤記である。]

 

本綱松柏以爲百木之長凡萬木皆向陽柏獨陰木而指

西猶鍼之指北故字從白白卽西方也俗作栢蓋此木至

堅不畏霜雪多壽之木其葉側向而生故名側柏葉上有

微赤毛其樹聳眞直其皮薄膩三月開花其花細瑣九月

結實其實成梂狀如小鈴霜後四裂中有數子大如麥粒

而芬香可愛𠙚𠙚皆有之乾州之柏子氣味豊美可也木

之文理亦大者多爲菩薩雲氣人物鳥獸狀極分明可觀

有盜得一株徑尺者値萬錢宜其子實爲貴也

 一種花柏葉 樹濃而葉成朶無子

 一種叢柏葉 樹綠色也右二種は不入藥

柏子仁【甘辛平】 肝經氣分藥也又潤腎其氣は清香能透心

 腎益脾胃蓋仙家上級藥也

側柏葉【苦微温】治吐衂痢及赤白崩血常服殺五臟蟲益

 人采其葉隨月建方取其多得月令氣此補陰之要

 藥久服之大益脾土以滋肺元且《✕→元旦》以之浸酒辟邪【牡蛎桂爲之使畏菊花及麪麹惡麹而以柏釀酒無妨恐酒米相和異單用也】

 麝香獸食柏而體香

[やぶちゃん字注:「伹」は「但」の異体字。良安は、盛んに、この異体字で書くので、この注はここで終わりとし、以下では、この字注は示さない。]

  新六帖千早振三室の山のかえの木の葉かへぬ色は君爲かも光俊

△按柏其葉似檜側向如薄片春月葉耑生小花褐色而

 不開𬽈結子梂如五倍子淺綠色冬四裂中有數子種

 之易生蓋本朝則柏少檜多中華則柏多檜少

和名抄云槲一名柏【加之波】按恐此枹字也枹柏似而傳寫

 之誤後人不得改傳誤矣【枹者檞屬見于山果部】

又俗以柏爲榧訓恐此不知柏栢同字【加閉與加夜】和訓

 相似故誤用矣

五雜組云嵩山嵩陽觀有古柏一株五人聮手抱之圍始

合漢武帝封之大將軍又唐武后亦封柏於五品太夫人

秦皇之封松而不知封柏也

 

   *

かえ        掬《きく》   側柏《そくはく》

           和名「加閉《かへ》」。

【栢同】     俗に云ふ、「白檀(ひやくだん)」。

           又、云ふ、「唐檜葉(からひば)」・

唐音        「兒手柏(このてかしは)」。

 ポツ      其の材を「阿須奈呂(あすなろ)」と名づく。

[やぶちゃん注:後注するが、「掬」は「椈」の誤記である。]

 

「本綱」に、松柏は、以つて、「百木の長」と爲す。凡そ、萬木、皆、陽に向ふ。柏、獨り、陰木にして、西に指(さ)す。猶を《✕→ほ》、鍼(はり)の北を指すがごとし。故《ゆゑ》に、字、「白」從ふ。「白」は、卽ち、西方なり。俗、「栢」に作る。蓋し、此の木、至つて堅く、霜雪《さうせつ》を畏れず。多壽の木なり。其の葉、側(かたはら)に向ひて、生《しやう》ず。故に「側柏《そくはく》」と名づく。葉の上に、微赤の毛、有り。其の樹、聳(たか)く、眞直(ますぐ)にして、其の皮、薄く、膩(あぶらづ)きて≪あり≫。三月、花を開く。其の花、細瑣《さいさ》≪にして≫、九月、實を結ぶ。其の實、「梂(ちゝり)」成≪なりて≫、狀《かたち》、小鈴《こすず》のごとし。霜≪の≫後、四つに裂(さ)けて、中に、數子、有り。大いさ、麥粒のごとくにして、芬香《ふんかう》愛すべし。𠙚𠙚《ところどころ》、皆、之れ、有り。乾州《けんしう》の柏≪の≫子《み》、氣味、豊美《ほうび》にして、可なり。木の文理《もくめ》、亦、大なる者には、多く、菩薩・雲氣・人物・鳥獸の狀を爲《な》す。極めて、分明にして、觀《み》つべし。一株を盜得《ぬすみう》ること有り、徑《わたり》尺なる者、値《あた》い《✕→ひ》、萬錢≪たりと≫。宜《よろ》しく、其の子《み》、實《じつ》に貴《き》たるなり。

 一種、「花柏葉《くははくえふ》」≪は≫、樹、濃(こまや)かにして、葉、朶≪はなぶさ≫成《なり》≪にして≫、子、無し。

 一種、「叢柏葉《さうはくえふ》」≪は≫、樹、綠色なり。

 右、二種は藥に入れず。

柏子仁(そくはくにん)【甘辛、平。】 肝經《かんけい》氣分藥なり。又、腎を潤ほす。其の氣、清香《せいか》≪にして≫、能く心腎に透《とほ》し、脾胃を益す。蓋し、仙家《せんか》の上級の藥なり。

側柏葉(そくはくえふ)【苦、微温。】吐《とけつ》・衂《はなぢ》・痢《りけつ》、及び赤《ながち》・白崩《こしけ》≪の≫血を治す。常に服すれば、五臟の蟲を殺し、人に益あり。其の葉を采《と》るに、「月建」の方(はう)に隨ひて、其れ、多く、「月令《がつりやう》」の氣を得るを、取る。此れ、「補陰」の要藥なり。久しく之れを服すれば、大いに脾土《ひど》を益し、以つて、肺を滋す。元旦に、之れを以つて、酒に浸《ひた》し、邪《じや》を辟《さ》く【牡蛎《ぼれい》・桂《けい》、之《こ》の使《し》なり。菊花及び麪《むぎ》・麹《かうじ》を畏《おそ》る。伹《ただ》し、麹を惡《にく》めども、柏を以つて、酒に釀り《✕→「釀(かも)さば」》妨《さまた》げ無し。恐らくは、酒米《さかまい》、相和《あひわ》すと、單用と、異《ことなる》とすなり。】

 麝獸《じやじう》、柏を食して、體《からだ》、香《かんば》し。

  「新六帖」

    千早振三室の山のかえの木の

        葉かへぬ色は君爲かも

                   光俊

△按≪ずるに≫、柏、其の葉、檜に似て、側《そばだちて》向《むきあふ》。薄片のごとし。春月、葉の耑(はし)に小花を生ず。褐《ちや》色にして、開かず、𬽈(す)ぐ子を結ぶ。梂(ちゝり)は「五倍子(ふし)」のごとく、淺綠色。冬、四つに裂(さ)け、中に、數子《すうし》、有り。之(こ)れを、種(ま)いて、生(は)へ易し。蓋し、本朝、則ち、柏、少なく、檜、多く、中華には、則ち、柏、多く、檜、少なし。

「和名抄」に云はく、『槲一名柏【加之波】』≪と≫。按ずるに、恐らくは、此れ、「枹≪かし≫」の字なり。「枹」と「柏」、似て、傳寫の誤≪り≫なり。後人、改むるを得ず、誤りを傳ふ。【「枹(かしは)」は「檞(くぬぎ)」の屬。「山果」の部を見よ。】

又、俗に、柏を以つて「榧(かや)」の訓を爲す。恐らくは、此れ、「柏」・「栢」、同字なることを、知らずして、【「加閉《かし》」と「加夜《かや》」と。】和訓、相ひ似たる故、誤≪と≫用ひるならん。

「五雜組」に云はく、『嵩山≪すうざん≫の嵩陽觀≪すうやうくわん≫に、古柏一株、有り。五人、手を聮(つら)ねて、之れを抱きかゝへて、圍≪めぐり≫、始めて、合ふ。漢の武帝、之れを「大將軍」に封す。又、唐の武后も亦、柏を「五品太夫人」に封ず。但し、秦皇の松を封することを知りて、柏を封することを知らざるなり。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:良安の種同定は、かなり錯雑している。例によって、李時珍の「本草綱目」の言う、当時の中国で「柏」「栢」とする種と、本邦の良安が「柏」・「かえ」・「かへ」と呼ぶ種とは、どうも違いがあることが、この錯綜を生じさせている。東洋文庫訳では、「本草綱目」の引用の「柏」に本文内訳注で、『(ヒノキ科コノデガツワ、またはシダレイトスギ)』とする。これは、

球果植物門種子植物亜門裸子植物上綱マツ綱マツ亜綱マツ目ヒノキ科ヒノキ亜科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis (中国北部原産と考えられているが、本邦にも古くから植栽されている)

ヒノキ亜科イトスギ属シダレイトスギ Cupressus funebris (中国揚子江沿岸に分布。本邦にも植栽されているが、かなりレアらしい)

である。時珍の実の形状の記述は、孰れとも一致する。

 しかし、本邦で現在、「柏」と言うと、全く異なった、「柏餅」でお馴染みの、

双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata

である。しかし、良安は、この「柏」について、『梂(ちゝり)は「五倍子(ふし)」のごとく、淺綠色。冬、四つに裂(さ)け、中に、數子《すうし》、有り。之(こ)れを、種(ま)いて、生(は)へ易し。蓋し、本朝、則ち、柏、少な』いとある。この「梂(ちゝり)」は頗る不審で、「梂」は通常、「いが」と読み、「毬」のことを指し、栗のイガを意味するのだが、一方、ルビの「ちちり」は松毬(球果・まつかさ・松ぼっくり)を指す語である。以下の実の形状や、本邦には植生するものが少ないというのは、カシワとは異なる種であることは論を俟たない。

 これらの不審・疑問を明らかにしてくれるのは、長岡美佐氏の論文『「柏(ハク)」と「カシハ」にみる中日文化』に若くはない。そこで、長岡氏は逐一、中国の「柏」と本邦の「柏」(今までの本「和漢三才図会」に限らず、江戸以前の本邦の本草書は殆んど「本草綱目」をバイブルとしてしまっている)について近代まで例証を掲げられて、最終的に、本邦の『本草書や古典研究者たちは「柏」の和名は「加閉〈かへ〉」であるとし、「側柏」はコノテカシハ、「扁柏」はヒノキとする説がほとんどである。また、現在の植物学者の説によれば、Juniperu(ビャクシン属)とThuja(コノテガシハ属・ネズコ属)が「柏」の主なものとして挙げられそうである』と述べておられる。ここで長岡氏が比定されたものは、

裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属 Juniperus

で、「Thuja(コノテガシハ属・ネズコ属)」とは先に示した、

コノテガシワ属 Platycladus のシノニム

である。しかし、では、良安が想起している「柏・かえ・かへ」の正体は、長岡氏の指摘されるビャクシン()属なのか、コノテガシワ(児手)属なのかが、気になる。実は、コノテガシワは、添えられた挿絵を見るに、大木になると、幹がそれらしくはなるが、強いひねこびた幹を形成するのは、建長寺で見た

ビャクシン属(ネズミサシ属) Juniperus 節イブキ変種イブキ Juniperus chinensis var. chinensis

によく似ているのである(同種は大木になると、幹が、しばしば、ねじれ、樹皮が、バリバリと言った感じで、縦に、細長く、破れ、剝がれる。されば、自身を破り棄てて、成長するところが、禅宗に大いに好まれたのである)。されば、個人的には同定比定としてはビャクシン属を推したいのである。

「掬」東洋文庫では、「椈」としている。他の活字本を見たが、やはり「掬」であるが、この漢字では「手ですくいとる」の意以外にはなく、東洋文庫のそれが正しい。「椈」は「かしわ」・「このてがしわ」或いは「ぶな」を指すからである。というより、「本草綱目」「卷三十四」の「木之一【香木類三十五種 内附六種】」の巻頭を飾る「栢」の「釋名」に「椈」とあるからである(「漢籍リポジトリ」のここなお、そこ以下の標題下部の異名はとんでもない別種ばかりが載るので、注をする気にならない。

『「本綱」に、松柏は、以つて、「百木の長」と爲す。……』前のリンク先を見られたいが(影印本画像もある)、「柏」の「集解」の終りの辺りと、その前にある「釋名」を、呆れるほど、グチャグチャに貼り交ぜしたトンデモ引用であることが判る。されば、引用符は附さない。向後もそうする。

「其の葉、側(かたはら)に向ひて、生ず」東洋文庫の訳では、『その葉は(広げた掌を向きあわせた格好で)側(そばだ)って生えている』とある。明快な訳である。

「側柏」中文ウィキの「コノテガシワ」相当を見られたい。「侧柏」とある。

「細瑣」小さく細やかであること。

「梂(ちゝり)」既注。

「乾州」陝西省咸陽市乾(けん)県(グーグル・マップ・データ)。

「柏子、氣味、豊美にして、可なり」ウィキの「コノテガシワ」によれば、『側柏仁(柏子仁)は、球果を採取して種子を取り出し、これを日干しして乾燥したものである』。『成分としては、脂肪油を含む』。『滋養強壮、鎮静作用があり、動悸、不眠、盗汗、便秘などに用いる』。『軽く鍋で炒ってミキサー等で粉末にしたものを』一『日量』三~十二『グラム』を三『回に分けて水や紅茶などに混ぜて飲む』。『また、不安やストレスによる不眠症や便秘に』、一『日量』二~三『グラムを』四百『ミリリットルの水で煎じて』三『回に分服してもよいが、下痢をしやすい人への服用は禁忌とされる』とあった。但し、同中文ウィキには、古代には、実ではなく、葉が救荒食物となった話が載り(『柏叶』の項)――東晋の葛洪の著名な仙道書「抱朴子」の記載によれば、秦王朝末期、各地で戦争が勃発し、空腹から逃げた逸話の記録の中に、松と柏の葉を食べることを教えた老人に会い、食べてみると、始めは苦かったが、時が経つうちに美味となり、冬も寒くなく、夏もつらくなくなり、体が丈夫になった――といった内容が書かれてあった。

「花柏葉」不詳。

「叢柏葉」「叢柏」は漢方生薬名で、ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワの葉及び枝が基原材で、鼻出血・喀血・吐血・血尿・血便・不正性器出血・円形脱毛症・若白髪・おりもの・空咳・百日咳などに効果があると漢方薬サイトにあった。この適応症は、後に出る「側柏仁(そくはくにん)」が「吐・衂・痢、及び赤・白崩血を治す」とあるのと、見事に一致する。しかし、「二種は藥に入れず」とあるのは不審である。確かに「漢籍リポジトリ」の「集解」中に記されてはあるのだが。

「柏子仁(そくはくにん)」「ウチダ和漢薬」公式サイトの「生薬の玉手箱 No.329」の「柏子仁(ハクシジン・ハクシニン)」に神農子氏の記載で、

   《引用開始》

基源:ヒノキ科(Cupressaceae)のコノテガシワ Platycladus orientalis Franco (= Thuja orientalis L., Biota orientalis Endl.) の種仁。

 ヒノキ科の植物にコノテガシワという常緑樹があります。『牧野日本植物図鑑』には和名について、「児ノ手ガシワで、枝が直立している有様が手のひらを立てているようだから」と説明されています。実際、この植物は平面状に広がった枝を垂直方向に広げて成長し、よって枝葉の面には表裏(上下)の区別がありません。一方、近縁で良く似たヒノキは枝葉の面には明確な表裏の区別があります。コノテガシワは中国北部や朝鮮半島が原産地とされ、日本へは江戸時代に導入されました。園芸とともに薬用目的もあったと考えられます。種子の胚乳部分が「柏子仁」、枝葉が「側柏葉」(そくはくよう)と称されて、それぞれ薬用にされます。

 柏子仁は『神農本草経』に「柏実」の名称で収載され「驚悸を主治し、気を益し、風湿を除き、五臓を安んず。久しく服すれば人をして潤沢ならしめ、色を美しくし、耳目を聡明ならしめ、飢えず、老いず、身を軽くし、天年を延べる」と記載されています。また明代の『本草綱目』には「心気を養い、腎燥を潤し、魂を安んじ、魄(魂が精神活動であるのに対し、魄は肉体活動)を定め、智を益し、神を寧くする。瀝を焼いたものは頭髪を澤(つややか)にし、疥癬を治す」とあり、さらに『列仙伝』を引用して「赤松子(人名)は柏実を食い、歯が落ちて更に生え、歩行しては奔馬におよんだ」とあります。柏子仁は古来、とくに高齢者の滋養強壮薬であったことがわかります。

 原植物について、『図経本草』には「三月に花を開き、九月に子を結ぶ。成熟したものを採取して蒸し曝し、春儡(そうらい:石臼でたたく)して仁を取って用いる。その葉は側柏と名付け、密州(現在の山東省)に産するものが最も佳し。他の柏と相類するものではあるが、その葉はみな側向して生えるもので、功効は他に別して殊にすぐれている」と記載されています。また、『本草綱目』にも「柏には数種あるが、薬にいれるにはただ葉が扁にして側生するもののみを取る。故に側柏という」とあります。このような植物の特徴はまさにコノテガシワと一致しています。 

 コノテガシワは前述のようにヒノキに近縁な常緑の低木または小高木です。枝が垂直方向に分枝し平面に広がることが特徴です。葉は長さ2mm程度の鱗片状で、小枝を包むように十字対生で付着しています。雌雄同株で3月頃に開花します。雌花序は小枝の先に単生し、卵円形の毬果に成長します。毬果は径約1.5 cm、粉白緑色の革質からやがて茶色い木質になります。6〜8枚の鱗片が十字対生し、下部の対には種子が各2個、中部の対には種子が各1個入っています。

 生薬の柏子仁を得るには、初冬に成熟した種子を採集し日干します。その後、種皮を圧し砕いてふるいにかけ、種仁すなわち胚乳部分のみにして陰干します。種仁は長だ円形で長さ3〜7 mm、直径1.5〜3 mmで、新鮮なものは淡黄色から黄白色です。粒が飽満で油性があり、夾雑物がないものが良品とされます。

 柏子仁は一般的な漢方処方には配合されませんが、『本草綱目』には「奇効方」という処方が掲載され、「柏子仁、二斤を末にし、酒に浸して膏にし、棗肉三斤、白蜜、白朮末、地黄末、各一斤を擣き混ぜて弾子大の丸にする。一日三回、一丸ずつを噛んで服すると百日にして百病が癒える。久しく服すれば天年を延べ、神を壮にする」と記されています。また、同じく明代の『体仁彙編』に収載される「柏子仁養心丸」は、柏子仁、枸杞子、麦門冬、酒当帰、石菖蒲、茯神、玄参、熟地黄、甘草が配合され、労欲過度、心血の損失、精神の恍惚、夜に怪夢を多く見る、ノイローゼ、ヒステリー、健忘遺泄などの治療に用いられ、常服すれば心を寧んじ、志を定め、腎を補い、陰を滋すとされています。

 コノテガシワは現在、庭木として各地に植えられています。日本産の柏子仁は利用されていませんが、資源は少なからずあるように思います。柏子仁の優れた薬効を知るとコノテガシワを見る目も変わってきます。

   《引用終了》

とあった。

「側柏葉(そくはくえふ)」サイト「東邦大学薬学部付属薬用植物園」の「コノテガシワ」に、『生薬名』は『側柏葉(ソクハクヨウ)、柏子仁(ハクシニン)』で、『利用部位』は『葉、種子』とし、『利用法』に『種子は秋、葉は必要時に採集し日干しにして使用。滋養強壮、鎮静に柏子仁1日量6~9gを煎じて服用する』とあり、『効能』として、『収れん、止血、鎮痛、滋養強壮、鎮静、消炎』とする。その『成分』は『α-ピネン、ツヨン、フェンコン、セスキテルペンアルコール、カリオフィレン、ユニペリン酸、サビニン酸、ペンタトリアコンタン、ヒノキフラボン、脂肪』とあった。

「吐」吐血。

「衂」鼻血。

「痢」下痢。

「赤」赤帯下(しゃくたいげ)。子宮から血の混じった「おりもの」(帯下(こしけ/たいげ)。膣から出た粘性の液体で、色は透明か乳白色、或いはやや黄色みを帯びている)が長期間に亙って出る症状を指す。

「白崩」「こしけ」の血を含んだ異常出血を指す。

「月建」東洋文庫の後注に、『初昏(日が暮れたのちの薄明のころ)に北斗七星のひしやくの柄の先端の指す方位に陽建の神が存在するといい、これを月建という。この方位は月によって異なる』とあった。

「月令」月々に行なわれる政事や儀式などを記録したもの。特に、「礼記」(りき)の「月令篇」を「がつりょう」と読むところから、それをさすことが多い。ここも、それ。

「補陰」「潤いを与えること」を漢方や薬膳で、かく言う。「陰液」(身体を潤わす血・水のこと)を補うという意。

「脾土」漢方で言う脾臓のこと。但し、現代医学の脾臓とは異なる。

「牡蛎」カキ目Ostreoida若しくはカキ上科 Ostreoideaに属するカキ類の総称。或いは、斧足綱翼形亜綱カキ目イタボガキ亜目カキ上科イタボガキ科Ostreidaeとイタボガキ亜目カキ上科イシガキ科ベッコウガキ科 Gryphaeidaeに属する種の総称。お馴染みのマガキはイタボガキ科マガキ亜科マガキ属マガキ Crassostrea gigas である。

「使」東洋文庫の後注に、『体内に入った主薬を疾病の場所まで運んだり、復数の調剤を和合させたり、主薬の効力をたかめるために川いる。引薬ともいう』とある。

《し》なり。菊花及び麪《むぎ》・麹《かうじ》を畏《おそ》る。但し、麹を惡《にく》めども、柏を以つて、酒に釀り《✕→「釀(かも)さば」》妨《さまた》げ無し。恐らくは、酒米《さかまい》、相和《あひわ》すと、單用と、異《ことなる》とすなり。】

「麝獸、柏を食して、體、香し」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」の私の遠大な注を参照されたい。実は、そこで「栢〔(はく)〕」について、先に紹介した内容を記載してあるのである。

「新六帖」鎌倉中期に成った類題和歌集「新撰六帖題和歌集」(全六巻)。藤原家良・藤原為家(定家の次男)・藤原知家・藤原信実・藤原光俊の五人が、仁治四・寛元(一二四三)年頃から翌年頃にかけて詠んだ和歌二千六百三十五首が収められてある。奇矯・特異な歌風を特徴とする(ここは東洋文庫版書名注に拠った)。当該和歌集は所持しないので校訂不能だが、日文研の「和歌データベース」(全ひらがな濁点なし)で同歌集を確認したところ、「第六:木」に以下で載る。

   *

 ちはやふるみむろのやまのかへのきの

     はかへぬいろはきみかためかも

   *

「耑(はし)」「端」に同じ。

「𬽈(す)ぐ」「直」の異体字。

「五倍子(ふし)」白膠木(ぬるで:ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の虫癭(ちゅうえい)。当該ウィキに、『葉にできた虫えいを五倍子(ごばいし/ふし)という。お歯黒の材料にしたり、材は細工物や護摩を焚くのに使われる』とある。グーグル画像検索「ヌルデの虫癭」をリンクしておく。

『「和名抄」に云はく、『槲一名柏【加之波】』」「卷二十草木部第三十二」の「木類第二百四十八」に、

   *

 柏(かへ) 「兼名苑」に云はく、『柏、一名は椈。』【「百」・「菊」の二音。和名「加閉」。】

   *

とある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本の当該部を視認して訓読した。朱筆で急蔵者による以下の書き込みがある。一つは標題「柏」に「栢イニ」(「イニ」は意味不詳。「異」本「に」か)。上罫の外に、

   *

谷川氏云今カヘト名クル物ナシ松柏トナラベ称スルニヨレバ今ノ世ニ則柏(コノデカシハ)扁柏(ヒノキ) 圓柏(イフキ)混柏(ビヤクシン)仙柏(イヌマキ)ノ類スベテカヘト云ナルベシ

   *

『按ずるに、恐らくは、此れ、「枹」の字なり』東洋文庫の後注に、『柏は「かえ」または「このてがしわ」であって「かしわ」ではないという意。ちなみに現在の分類でいえば「かえ、このてがしわ」はヒノキ科の裸子植物で、「かしわ」はブナ科の被子植物。槲も「かしわ」と同じでブナ科。良安は槲を「くぬぎ」と訓(よ)んでいるが、現在は「かしわ」とするのが通例で、『本草綱目』によれば槲に二種あり、一種が枹、一種が大葉櫟とある。これによれば槲は「かしわ」と訓んでもよく「くぬぎ」と訓んでもよいことになろうか』とある。

『「枹(かしは)」は「檞(くぬぎ)」の屬。「山果」の部を見よ』後の「卷第八十七」の「枹(かしは)」。国立国会図書館デジタルコレクションの「和漢三才圖會 下之卷」(中近堂版・明治期に出版された活字本。訓点附き)の当該部の画像をリンクさせておく。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以上は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここにあるものを参考に示しておく。

   *

嵩山嵩陽觀有古柏一株、五人聯手抱之、圍始合、下一石刻、曰「漢武帝封大將軍。」人但知秦皇之封松、而不知漢武之封柏也。又唐武后亦封柏五品大夫。

   *

「嵩山」洛陽の東南東、現在の中国河南省登封市にある山(グーグル・マップ・データ)。

「嵩陽觀」道教の寺院と推定される。

「秦皇の松を封することを知りて、柏を封することを知らざるなり」東洋文庫の後注に、『始皇帝が泰山に登ったとき、暴風雨に遇い、さいわいに松樹の下で雨宿りできた。そこで松を賞して五大夫に任じ、封地を与えたという故事(『史記』秦始白九本紀)』とあった。]

 

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(14)

[やぶちゃん注:初句は「つりそめてかやのかをりやふつかほど」。]

 

   つり初て蚊屋の薰や二日程 花 虫

 

 この句に極めて類似してゐるのは「つり初て蚊帳の匂や二三日 浪化」である。「薰」と「匂」、「二三日」と「二日程」では殆ど兩立するだけの相違點は認められぬ。「浪化上人發句集」にはこの句は見えず、「二三日蚊屋のにほひや五月雨」といふ句が出てゐる。「二三日」も「にほひ」もこの方にはあるが、果してどう混線したものか。「類題發句集」以外に慥な出所がわかるまでは、疑問として浪化の句を存し、花虫の句を擧げて置くより仕方があるまい。花虫の句は北陸の選集たる「猿丸宮集」に在るので、地方的に云へば浪化の作と混雜する可能性も多少ある。

 蚊帳はうるさいものであるが、釣りはじめの間はさう暑くないせゐか、何となくなつかしいやうな感じがする。花蟲の句は一日二日の間、萠黃の匂を珍しく感ずるところを詠んだのである。秋になつて蚊帳を釣らなくなる時でさへ、「蚊帳の別れ」だの「蚊帳の名殘」だのといふ情趣を感ずる俳人が、釣り初めの蚊帳に對して、普通人以上の感情を懷かぬはずは無い。前に引いた浪化の「五月雨」の句以外にも

 

   つり初て蚊帳面白き月夜かな 言 水

 

   一夜二夜蚊帳めづらしき匂かな 春 武

 

の如きものもあるが、花虫の句は最もすぐれたものと云ひ得るであらう。

[やぶちゃん注:私は小学校六年の卒業(一九六九年)まで、蚊帳を釣っていたことを思い出す。独特の蚊帳の匂いも記憶にある。もう五十五年も前か……

「猿丸宮集」「さるまるみや(の)しふ」と読む。江戸中期の俳諧集で三十六の編になる。]

 

   ほとゝぎす腹の立事言てより 草 籬

 

 何か腹の立つことがあつて、それを口にした、その後でほとゝぎすの聲を耳にした、といふのである。

 不機嫌な折からほとゝぎすを聞いたといふ事實の報告ではない。何か腹の立つことをいつてのけた、むしやくしやしたやうな、而も一面にはけ口を見出したやうな心理狀態を捉へたところが主眼である。さういふ氣持とほとゝぎすの聲とが、或調和を得てゐることは云ふまでもない。

 太祇の「思ひもの人にくれし夜時鳥」といふ句も、或心理的變化の上にほとゝぎすを持込んでいるが、その事柄が特別過ぎるため、奇は奇であつても、拵へた痕迹を免れない。「腹の立事言てより」は平凡な代りに自然である。こういふ心理的經過ならば、吾々でも十分察することが出來る。

 

   くれもせぬ鄰の餅や五月雨 野 棠

 

 鄰の家で餅を搗いてゐる。五月雨に降りこめられた徒然のまゝにそれを聞いて、あの餅をくれゝばいゝな、と思ふが、一向持つて來る樣子も無い。そのうちに杵の音も止んでしまつた、といふやうな趣であらうか。

「鄰の餅」といふだけでは、現在搗きつつある場合かどうかわからない。冬搗いたかき餅などを五月雨時分に燒いて食ふこともないではないが、それにしては云方が事々し過ぎるやうな氣もする。何か特別な事があつて餅を搗いてゐるものと見た方が、「くれもせぬ」といふ言葉にも適ふし、五月雨の徒然な樣子も現れるやうである。

 くれるときまりもせぬものに對して、「くれもせぬ」と云つたところに、多少滑稽な趣が伴つてゐる。一茶の「我門に來さうにしたり配り餅」なども、氣持の上に似たところがあるが、際どいだけに俗な點があつて面白くない。「くれもせぬ」といふ餘裕ある不平に及ばざること遠い。

[やぶちゃん注:一茶の句は、「おらが春」の一節に、

   *

        二十七日晴

坊守り朝とく起て飯を焚ける折から、東隣の園右衞門といふ者の餅搗なれば、例の通り來たるべし、冷てはあしかりなん、ほかほか湯けぶりのたつうち賞翫せよといふからに、今や今やと待にまちて、飯は氷りのごとく冷えて、餅はつひに來ずなりぬ

     我門へ來さうにしたり配餅

   *

この後、本文掉尾の、知られた

   ともかくもあなた任せのとしのくれ

の一句の載る手紙文風のものが続く。]

2024/04/26

「和漢三才圖會」の気の遠くなる恐ろしいプロジェクトに手を出した

近々、お披露目する。乞う、ご期待!

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(13)

 

   さはやかに身は藍くさし衣がへ 和 風

 

 重い綿入を脫いで袷に著更へる。それだけでも爽快なのに、新しい著物と見えて藍の香がしきりに鼻をうつ。「くさし」といふ言葉は、いづれかと云へば不愉快な匂の場合に用ゐられるやうであるが、この句は必ずしもさうではない。强い藍の香も亦「さはやか」な感じの幾分かをつとめてゐるのである。

 化學染料の幅を利かす今日では、昔のやうな、爽な藍の香に浸ることは困難であらう。

 

   娵ばかりそめ物くさしころもがへ 廣 房

 

などといふ句も、略〻同じところを覘つてゐるが、これは人事的關係を取入れたため、複雜になつたやうで却つて俗に墮てゐる。ひとり著る衣の爽なるに及ばざること遠い。

 

   物拭ふ袖に紙あり衣更 其 林

 

「物なくて輕き袂や更衣」とか、「袷著て袂に何も無かりけり」とかいふことは、明治以後の俳人もこれを詠んでゐる。更衣をすました爽な心持から云へば、袂には一物も無い方がいゝかも知れぬが、一槪にさうきめてしまふと、又一種の型に陷る虞がある。

 其林の句は物を拭ふべき紙を袖にしてゐる、といふだけではない。實際何かを拭ふ必要があつて、袂の紙を取出した場合である。これほどのものならば更衣の感じを妨げぬのみならず、たゞ袂に何もないといふよりも複雜な場合を現してゐる。元祿の句を單純だとのみ片づけることは、當つてゐないのである。

 

   卯の花やせきだ干(ホシ)置ク里の垣 左 白

 

「せきだ」は雪蹈[やぶちゃん注:「せつた」。雪駄。]のことである。「言海」には雪蹈の訛としてある。卯の花の咲いてゐる里の垣根に雪蹈が干してある、といふだけのことに過ぎぬが、これは考へて後にはじめて得る配合ではない。眼前の實景である。工夫に成る配合は所詮自然の配合に如かぬ。この句が一見平凡なやうで、しかも棄てがたいのは全くその爲であらう。

 

   卯の花に誰(タ)が櫛けづる髮の落 桃 蛘

 

 これも實景に相違無い。卯の花の咲いてゐるほとりに、誰が梳つた[やぶちゃん注:「くしけづつた」。]ものか、髮の毛が落ちてゐる、といふ趣である。

 卯の花は必ずしも妖氣を伴ふ花とも考へられぬが、白いこまかい花でもあり、陰鬱な季節の連想もあり、何となく寂しい感じがする。そこに「誰が櫛けづる髮の落」などといふ趣と一脈相通ずるものがある。この句は卯の花の凄すさまじいといふか、無氣味といふか、さういふ方の感じを發揮したものである。

 

   初せみや日和鳴出す雲の色 邦 里

 

 初蟬を聞く爽な空の感じを捉へたのである。蟬も盛になると暑苦しい感を免れぬが、初蟬の頃はまだその聲が珍しいといふばかりでなく、季節の關係と相俟つて、寧ろ明るい爽な感じを伴つてゐる。

 子規居士の晚年の句に「蟬初メテ鳴ク鮠釣る頃の水繪空」といふのがある。句の内容は同じではないが、蟬のはじめて鳴く頃の空の感じを捉へた點は、揆を一にしてゐると云つて差支無い。

 

   針つけて絲につながん柿のはな 染 女

 

 面白い句ではない。たゞ見つけどころの女らしい點を取れば取るのである。

 柿の花の固いところ、手に取つても崩れぬところ、その他いろいろな點から考へて、數珠つなぎにするにはふさはしい感じのやうに思ふ。色彩から云ふと、いさゝか寂し過ぎるけれども、地上に夥しく落ちるところから、この想を得たものであらう。何でもないやうに見えて、女性でなければ思ひつき得ぬ趣向である。

 

   わた拔や机に臂をついてみて 雨 帆

 

 袷を著て机に倚る。每日机に倚らぬ男が、ことさらに机に倚るわけではない。綿を拔いた輕い著物になつて、何となく新な氣持の下に、机に臂をもたせるといふのであらう。「机に臂をついてみて」さてどうするのかと云ふと、それは誰にもわからぬ。作者はたゞ臂をついた刹那を捉へたまでなのである。

 これも大した句ではない。「ついてみて」といふ下の一字は少し輕過ぎるが、場合が場合だから、作者はこれでよしとしたのかも知れぬ。

 

   灌佛の日に生れけり唯の人 巴 常

 

 天上天下唯我獨尊といつて生れた釋迦と同じ日に、ただの平凡な人間が生れる。佛緣あつて同じ日に生れる、といふ風にこの作者は見てゐない。釋迦と同じ日に當前の凡夫も生れる、といふ世間の事實を捉へたものであらう。

 芭蕉にも奈良で詠んだ「灌佛の日に生れあふ鹿の子かな」といふ句がある。場所は佛に因緣の多い奈良であり、日も多いのに灌佛の日に生れるといふことが、芭蕉の興味を刺激したものと思はれる。畜生の身ながら、かゝるめでたき日に生れ合ふことよ、といふほど强い意味ではない。奈良で鹿が子を產むのを見た、それが恰も灌佛の日であつた、といふ卽事を詠んだのである。この方は現に眼前に生れたところを捉へたのだから、輕い事實として扱ふことも出來るが、今生れたばかりの子供を「唯の人」と斷定するには多少の無理がある。釋迦に比べればどう轉んでも「唯の人」に過ぎぬ、といふやうな意味とすれば、益〻理窟臭くなつて來る。鹿の子ならそのまゝで通用する事柄も、「唯の人」といふ言葉を用ゐた爲に、いさゝか面倒なのである。

 芥川龍之介氏の「少年」といふ小說の中に、バスの中の少女の事が書いてあつた。フランス人の宣敎師が今日は何日かと問うと、十二月二十五日と答へる。十二月二十五日は何の日か、と重ねて問はれたのに對し、少女は落著き拂つて「けふはあたしの誕生日」と答へるのである。この答を聞いて微笑を禁じ得なかつたといふ作者の氣持には、例の皮肉が漂つてゐるやうであるが、「クリスマスの日に生れ合ふ少女」も、面白い事實でないことは無い。但かういふ事實は散文の中に於てはじめて光彩を放つべき性質のもので、俳句のやうな詩に盛るには不適當である。芭蕉の句が比較的離れ得たのは、眼前の卽事を捉へたせゐもあるが、ものが「鹿の子」で、「唯の人」といふが如き理智を絕してゐる爲に外ならぬ。

[やぶちゃん注:「灌佛の日に生れあふ鹿の子かな」これは「笈の小文」に載り、その紀行の時制は「灌仏会」から、貞享(じょうきょう)五年四月八日(一六八八年五月七日)に詠んだものとなる。翌年の「曠野」(元禄二(一六八九)年刊。貞享五年九月三十日(一六八八年十月二十三日)に元禄に改元している)にも載る。「笈の小文」では、

   *

灌佛の日は、奈良にて爰かしこ詣侍るに、鹿(しか)の子を產(うむ)を見て、此日におゐて[やぶちゃん注:ママ。]おかしけれ[やぶちゃん注:ママ。]ば、

  灌仏の日に生れあふ鹿(か)の子哉

   *

で、「曠野」では、

   *

    奈良にて

  灌仏の日に生れ逢ふ鹿の子哉

   *

とする。

『芥川龍之介氏の「少年」』芥川龍之介の「保吉物」の一篇の冒頭に配された「一 クリスマス」の一節である。初出は大正一三(一九二四)年四月発行の『中央公論』。私の正規表現・注附きのサイト版「少年 芥川龍之介」を見られたい。

 因みに。私は昭和三二(一九五七)年二月十五日生まれである。伝承ではこの日、釈迦は入寂したこととなっており、同日には涅槃会が行われる。]

2024/04/25

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(12)

 

   水うてば夕立くさき庭木かな 芝 柏

 

 一日照りつゞけた庭に水を打つ。立木と云はず、草と云はず、石や土のたぐひからも、一齊に一種の氣が立騰る。あの氣を感ずるのは第一に嗅覺であるが、それが何に似てゐるかと云へば、夕立の降りはじめに感ずる匂に外ならぬ。「夕立くさき」の一語は穉拙だけれども、ちよつと他に換ふべき言葉が見當らない、穉拙なりにその感じを道破してゐる。

 かういふ句に比べたら、太祇の「水打て露こしらへる門邊かな」の如きは巧であらう。けれども畢竟巧であるといふに止つて、吾人の感覺に訴へて來るところは何も無い。のみならず「こしらへる」の語に云ふべからざる厭味を感ずる。實感による穉拙と、厭味を伴ふ巧と――この比較の結果は、已に度々繰返した元祿、天明の對照になり易い。それは一句々々の優劣論でなしに、この兩時代の句の傾向の相異である。特にこの一句に就て多くを談ずるに及ばぬであらう。

[やぶちゃん注:この太祇の句は宵曲の言う通り、品が全くない厭な句だ。]

 

   朝草の鎌利(トキ)立る水雞かな 史 興

 

「朝草」といふのは朝刈る草の意であらう。「猿蓑」にも「涼しさや朝草門に荷ひ込」といふ凡兆の句があつた。

 この句は朝草を刈るべき鎌を硏いでゐる場合らしい。水鄕などの實景であらうか。朝まだきの靜な空氣の中に水雞の聲が聞える、といふ趣である。全體の表現は稍〻不明瞭だけれども、水雞の句としては珍しい方に屬する。

[やぶちゃん注:句のルビは原本のもの。中七は「かま ときたつる」だろう。岩波文庫版は「とぎたてる」とルビする。他にも岩波版はルビに首を傾けたくなるルビが非常に多い。編集部の知的レベル(少なくとも俳諧に対する基礎知識が致命的に欠けている)が甚だ疑われるほどの杜撰さである。

「水雞」は「くひな」で、ここは、鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus ではなく、クイナ科ヒメクイナ属ヒクイナ Porzana fusca であろうと思われる。その理由と博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」を参照されたい。

「涼しさや朝草門に荷ひ込」「猿蓑」では、

   *

 すゞしさや朝草門に荷ひ込(こむ)

   *

と載る。]

 

   藻の花に雲の白みや峯の池 濫 吹

 

 山上の池といふものは、何となく恐しい感じのするものである。山の池で泳ぐのが一番氣味が惡い、といふ話を誰かに聞いた。やはり底が深かつたり、水が冷たかつたりする關係かも知れない。その水につき纏う傳說でもあれば尙更の話である。

 この句は峯の池を舞臺としてゐるが、さういふ氣味の惡い空氣には觸れてゐない。そこに藻の花が咲き、白雲が影を落す、夏の日中の靜な樣子を現してゐるだけである。併し場所が峯の池だけに、普通の池沼とは多少趣を異にするものが無いでもない。

[やぶちゃん注:揚げ足を取る気持ちは全くないが、宵曲の「藻の花」は戴けない。句を引用しているのだから、うじゃうじゃ言いたくはないが、ここは『水草の「花」』ぐらいにして欲しい。通常、淡水の池にあって「花」をさかせる種は、まず、「藻類」ではなく、池となると、松藻(被子植物門マツモ目マツモ科マツモ属マツモ Ceratophyllum demersum 辺りであろう。個人的には白く可憐な梅花藻(双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属バイカモ亜属イチョウバイカモ変種バイカモ Ranunculus nipponicus var. submersus )をイメージしたくなるのだが、バイカモは流水でないと棲息出来ないからアウトである。]

 

   靑すだれ黑齒つけつけの咄かな 山 鳳

 

 鐵漿[やぶちゃん注:「かね」或いは「おはぐろ」。句の「黑齒」は「かね」であろうから、ここも以下で述べるように「かね」と読みたい。]といふものは今の吾々には全く親しみが無い。先日圖らずも齒を染めた老婆を往來で見たが、周圍の世界と全くかけ離れた感じであつた。

 川柳子は鐵漿に關する觀察をいろいろな點から試みて居り、デツサンとして面白いものもあるが、未だ一幅の畫圖を成すに至つてゐない。この句は靑簾を垂れたところに、鐵漿をつけながら誰かと話をしてゐる女を描いたので、大してすぐれた句といふでもなし、好畫圖といふほどでもないけれども、全體がちやんと纏つてゐる。川柳と俳句との相異は、かういふ扱ひ方の上にも認められる。

「黑齒」はやはり「カネ」と讀むのであらう。「黑齒つけつけ」といふ言葉によつて、その女の樣子、鐵漿をつけるのに相當時間を要することなども想像出來る。「つんぼかと覗けばかねをつけてゐる」「稍しばしあつてお齒黑返事する」などといふ川柳は、この句を解する上に多少參考になる。

 

   夜に入て雨を呼出す水雞かな 源 五

 

 日が暮れてから一しきり水雞の聲が聞えてゐたかと思ふと、やがて雨が降つて來た、といふやうな場合であらう。水雞が啼き、而して雨が降る、といふ自然の現象を、水雞の聲が雨を誘ふものの如く見たのである。「雨を呼出す」の一語は人爲的に過ぎる嫌があるが、季節の上から見て、かういふ事實はいくらもありさうに思ふ。

 水雞の句にはこの外にも

 

   夜嵐をおさへて廻る水雞かな 東 推

 

   狐火をたゝきけしたる水雞かな 楚 山

 

   なるかみをしづめて扣く水雞かな 露 川

 

といふやうに、何か他に働きかけるやうな意味のものがあるけれども、水雞の聲の性質から云ふと、いづれも少し强過ぎるやうである。尤も事實は水雞の聲にさういふ力があるわけではなく、夜嵐や神鳴のしづまつたあとに啼き、狐火の見えなくなつた闇に啼くのであらうが、言葉の意味はどうしても水雞にそぐはぬ憾がある。雨を呼出す水雞は一番平凡かも知れぬが、それだけ無難だとも云ひ得るであらう。

 

譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(1) / 最終巻突入!

[やぶちゃん注:遂に最終巻に到達した。本電子化オリジナル注は二〇〇九年二月九日に始動したから、既に十五年を超えている。現在のブログ・カテゴリでは開始からは最長のものとなった。

 本巻は「目錄」でも上記の巻の総評題が示されているだけで、極めて短い条が羅列されている。前の巻と同様に複数の条々を纏めて電子化する。現在、本カテゴリはこれで946件になっている。カテゴリは1000件を超えると、下部に頭の部分が出なくなってしまうので、後54回で何とか終わりにしたいと考えている。【 】は底本では二行割注。また、以降、凡ての改行は底本のママ。この注は以下、附さない。]

 

  譚 海 卷の十五

 

 

〇眼のあらひ藥、石菖根(せきしやうこん)・黃岑(わうごん)・黃連・紅花・連翹・菊花・金銀花、已上七品。

[やぶちゃん注:「石菖根」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus の根を元にした漢方生薬名。以下、最後の説明文は省略する。

「黃岑」キク亜綱シソ目シソ科タツナミソウ属コガネバナ Scutellaria baicalensis の根の周皮を取り除き、乾燥させたもの。

「黃連」キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica の髭根を殆んど除いた根茎を乾燥させたもの。

「連翹」シソ目モクセイ科Forsythieae連レンギョウ属レンギョウ Forsythia suspensa(中国原産)シナレンギョウ Forsythia viridissima の成熟果実を、一度、蒸気を通したのち、天日で乾燥したもの。

「金銀花」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の別名。漢方生薬名は「忍冬(にんどう)」「忍冬藤(にんどうとう)」。棒状の蕾を天日で乾燥したもの。]

 

○又、一方。

 明礬(みやうばん)・ウイラウ・燈心【三味各三匁。】・梅干五つ・文錢(もんせん)十文【能(よく)洗(あらふ)。】

 右、寒の水、一升、入れ、せんじ、あらふべし。

[やぶちゃん注:「ウイラウ」底本では右に編者補正注で『(茴香)』とある。セリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare 。現在は英語の「フェンネル」(Fennel)の方が通りがよい。我が家の猫額庭にも二メートルにもなるものが鎮座ましましておる。食用には、ほぼ全草が用いられるが、薬用には果実が使用される。

「燈心」灯芯。綿糸などを縒り合わせて作る。

「文錢」原料は銅に鉛・錫を合わせたもの。]

 

○又、一方。

 明礬、よく燒(やき)て、茗荷(みやうが)の根、七切れ、石菖の根、七切れ、右三味を盃(さかづき)に、水、一つ、入(いれ)、そのうへへ、紙を一枚置(おき)て、紙の上より、指へ、水を付(つけ)て、あらふ也。此藥、甚(はなはだ)、妙、如ㇾ神(しん)。

 

譚 海 卷之十四 信州より三州へ往來關所の事 日蓮宗派の事 上方穢多の名目の事 駿州猿𢌞し 芝居狂言の者御關所手形事 宇治黃檗山住持の事 禁中非蔵人の事 同御佛師の事 江戶神田犬醫者の事 京都米相場の事 京・大坂非人・穢多の事 京西陣織の價の事 禁裏公家町の草掃除の事 京壬生地藏狂言の事 下野栃木町の事 附馬九郞武田うば八の事 琉球人朱の事 御鷹雲雀の事 婦人上京のせつ御關所手形の事 江戶商家十仲ケ間の事 爲登船荷物問屋の事 江戸より諸方へ荷物附送る傅馬の事 / 譚海卷之十四~了

[やぶちゃん注:「駿州猿𢌞し」はママ。「(の)事」がないのは特異点。]

 

○「草津の湯より信州へ越(こえ)る所に、かり宿新田といふ所に關所あり。此關所は上州あがつま郡なるに、上州の女は通(とほ)す事、ゆるさず。信州の女は其所(そこ)の名主の判形(はんがた)にて往來を禁ぜず。昔より右の次第也。」

と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「かり宿新田」これは現在の群馬県吾妻郡高山村中山のここに(「中山宿新田本陣の大けやき」をポイント。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)があるが、位置的に「信州へ越る所」ではないから違う。さらに調べると、信州に通う吾妻郡内の関所或いは宿駅を探してみたところ、草津の東の境は高い山脈で、通行が当時は非常に困難と思われたため、南に下がって探してみたところ、やっと、群馬県吾妻郡長野原町(ながのはらまち)応桑(おおくわ)に残る「旧狩宿茶屋本陣」というのを発見した。「『新田』の地名もなけりゃ、関所でもないじゃないか!」という御仁のために、当該部の「ひなたGPS」の地図の方をお見せする。まず、国土地理院図の方に現在の桑応地区に相当するど真ん中に『新田』の地名がある。そうして、戦前の地図を見ると、『桑應』地区名の直ぐ左下に『關趾樅』ってのが、ある。而してこれは、旧狩宿茶屋本陣の旧区域に含まれることは間違いない。ここで決まりである。

 

○日蓮宗に「八本勝劣」と云(いふ)は、駿河國岡の宮、興長寺と云(いふ)根本[やぶちゃん注:「根本道場」。]也。「四卷法華」と云は、駿河富士郡北山村、本門寺根本にて、廿八品(ほん)の内十四品を用ゆ。初の釋文を捨(すて)、後の本文十四品を用(もちゆ)る也。「壹品勝劣」は得量品ばかりを用ゆ。富士の大石寺根本にて、衣も鼠衣也。又、阿佛といふ有(あり)。佐渡國より、はじまりたる日蓮宗なり。差別、分明ならず、身延山廿八品を、さながら用るなり。

[やぶちゃん注:「八本勝劣」日蓮宗の「勝劣派」を作る一派。「法華経二十八品」では、後半の「本門」が勝れ、前半の「迹門」(しゃくもん)が劣ると説くもの。現在の法華宗本門流・法華宗陣門流・顕本法華宗・本門法華宗・法華宗真門流・日蓮正宗などがそれに当たる。対して「一致派」があり、こちらは「法華経」の「迹門」と「本門」とに説かれる理りは、一致したものであって、勝劣はないと説くもので、現在の一般的な日蓮宗はこれに該当する。なお、私は無神論者であるが、思想家としては親鸞を最も高く評価し、巧妙なプロパガンダに長じ、エピソード形成に巧みであった実践的宗教者としての日蓮を次に面白いと感じている人種である。

「駿河國岡の宮、興長寺」静岡県沼津市岡宮(おかのみや)にある法華宗本門流の大本山長寺(こうちょうじ)の誤りだろう。

「駿河富士郡北山村、本門寺」静岡県富士宮市北山にある日蓮宗七大本山の一つで、日興の法脈を継承した富士門流の富士山法華本門寺根源。]

 

○上方には穢多(ゑた)の異名を、「けど」と云(いふ)也。隱遊女(かくしいうぢよ)などを捕(とらふ)るに、上方にては同心衆をば。やらず、穢多をして、とらへしむる故、

「『けど』が入(いり)たる。」

と云(いふ)也。

[やぶちゃん注:「隱遊女」非合法の遊女。俗に「夜鷹」「比丘尼」「ころび芸者」「惣嫁」(そうか)「ぴんしょ」「茶屋女」「隠し売女(ばいた)」などとも呼んだ。捕縛された彼女らは新吉原へ交付され、二年の年季を勤めさせられた。]

 

○駿河國に、猿𢌞(さるまはし)、二村、住所(すむところ)、有(あり)。此者、春は、猿を帶(たいし)て、人家に到(いたり)て猿を舞(まは)せて、錢をもらひ、秋は茶筅(ちやせん)を拵へて、民家に贈り、麥(むぎ)にかへて、もらふて歸る。「穢多の下にあるもの」のよし。世に「茶せん」と唱(となふ)るものあるは、此等の輩(やから)なるにや。

 

○芝居狂言をつとむる戲者、京・江戶往來の時、道中、御關所手形は、みな、穢多の頭(かしら)より貰(もらひ)て、往來する也。江戶より上京するには、淺草團左衞門、手形をいだす也。京郡より江戶へ下るには、四條智恩院橫町に住する穢多の頭(かしら)天部(あまべ)より、手形を出(いだ)す也。

[やぶちゃん注:「四條智恩院」浄土宗総本山知恩院

「穢多の頭天部」「青空文庫」の喜田貞吉「えた源流考」によれば(書誌・初出はリンク先の最後の「底本」データを見られたい)、『今の天部(あまべ)部落は、もとこの鴨河原の住民で、後に四条河原の細工とも呼ばれ、やはりここで放牧葬送の地の世話をしておったのがその起原であったかと察せられるのである。これらの島や鴨河原へ、餌取(えとり)や余戸(あまべ)の本職を失ったものが流れ込んで、所謂河原者をなし、その或る者はエタと呼ばれ、或る者は天部(あまべ)と呼ばるるに至ったものではあるまいか。しからば所謂「エタの水上」なる京都に於いては、もと鴨河原や島田河原の葬送や放牧の世話をしていたものに、餌取・余戸等の失職者が落ち合ったのを以て、所謂エタ源流中の本流とすべきものと解せられる。その中にも、「穢多の始は吉祥院の南の小島を以て本と為す」という「雍州府志」の記事は、ここがエタ最初の場所だと語り伝えられていたものと思われる』とある。その被差別民の支配頭目を同じく「天部」と呼んだもののようである。]

 

○宇治黃檗山、萬治年中開基より、今、寬政に至る迄、百三十年餘に及ぶ間、開山隱元禪師より住持の僧廿三人也。此内十八人は唐山の僧、五人は日本の僧住持す。

 此比(このごろ)に至つて、來朝唐山の僧、なければ、已來は、日本の僧のみ住持する事に成(なり)たりと聞ゆ。

「柴山よりも願(ねがひ)に因(より)て、彼(かの)國へも仰遣(おほせつかは)されぬれど、近年、來朝僧、なし。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「宇治黃檗山」京都府宇治市にある黄檗宗の大本山黄檗山萬福寺当該ウィキによれば、『万治元』(一六五八)年、明の渡来僧『隠元は江戸へおもむき、第』四『代将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し』万治三年には、『幕府によって山城国宇治にあった近衛家の所領で、後水尾天皇生母中和門院の大和田御殿があった地を与えられ、隠元の為に新しい寺が建てられることになった。ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初』、三『年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局』、『日本に骨を埋めることとなった』。『寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元』(一六六一)年に『開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝』七(一六七九)年『頃にほぼ完成した』とある。]

 

○禁裏院中等の御用、武家より辨ぜらるゝには、非藏人(ひくらうど)といふもの、取次で御用かゝりの公家衆へ、申述(しんじゆつ)す。此非藏人といふもの、無官にて、禁裏ヘ參内の路次(ろし)は、上下(かみしも)にて參り、禁中詰所にて、衣官[やぶちゃん注:底本では「官」の右に編者補正注で『(冠)』とある。]に着代(きがへ)てつとむる也。尤(とちと)も、衣官も無位の裝束なれば、木綿の樣なる直衣(なほし)を着る也。

 此非藏人の中(うち)、古老壹人、每年元日には天子を拜し奉る。

 此古老、年限ありて、「卿藏人」と云(いふ)物に成(なり)て勤め、又、年月をへて「古藏人[やぶちゃん注:底本では、この右に編者補正注で『(召次)』とある。]」と云物に被ㇾ成(なされ)、又、年月を勤(つとむ)れば、「極﨟(ごくらう)」といふ物に成(なる)也。

 極﨟、昇進するには、五位の官を賜(たまは)る。極﨟を勤むる年限ありて、三位に敍せられ、始(はじめ)て公卿と同班(どうはん)の列に成(なる)なり。

 凡俗より殿上する事、其家にあらずして昇進するは、非藏人ばかり也。

 されども、かく年月を重(かさね)ざれば、昇進成(なり)がたき事ゆゑ、至つて、かたき事にて、長壽の人ならでは、成(なし)がたき事、とぞ。

[やぶちゃん注:「非藏人」既出既注だが、再掲すると、江戸時代、賀茂・松尾・稲荷などの神職の家や、家筋のよい家から選ばれ、無位無官で宮中の雑用を勤めた者。]

 

○禁裏の御佛師は、七條左近といひて、世々、上京(かみぎやう)に住す。諒闇(りやうあん)御中陰の中、禁裏御法事の本尊、日々、かはる事なるを、此左近、其日の佛像を、かはがはる、調進する斗(ばかり)の御用勤(ごようづとめ)斗(ばかり)にて、平日、閑暇のくらしにてあれども、中古已來、家の例によりて如ㇾ此有(ある)事也。

[やぶちゃん注:「諒闇」「諒陰」「亮陰」とも書き、「らうあん(ろうあん)」とも読む。「諒」は「まこと」、「闇」は「謹慎・慎み」の意、「陰」は「もだす」で、「沈黙を守る」の意。天皇が、その父母の死にあたり、喪に服する期間。また、天皇・太皇太后・皇太后の死にあたり、喪に服する期間を指す。]

 

○江戶神田柳原土手内(うち)に、「犬醫者」といふもの、一人、拜領屋敷、給はり、住居す。

 是は寶永中、公(こう)の犬を大切に被仰付候より、出來たる醫者にて、今時(こんじ)は、一向、無用の人なれども、其節被仰付たる儘にて、ある事也。

 拜領屋敷も、殊の外、大きなる所なれども、「犬醫者」の名、惡(あしく)て、おのづから、屋敷沽劵(やしきこけん)も下直(げぢき)なる事、とぞ。

「其餘の御用と云(いふ)は、御鷹の犬の療治を役にする事のみ也。右御鷹犬、療治料として、上(かみ)より、別段に、壹ケ年に金三兩づつ賜ふ。夫(それ)を、今は、其儘、御鷹匠の方(かた)へ送りやりて、あの方にて、犬の療治、合細[やぶちゃん注:「がつさい」。一切「合切」(いっさいがっさい)の誤字であろう。]、賴み遣す事(こと)故、殊更に鷹犬の療治をする事には非ず。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「寶永中」一七〇四年から一七一一年(宝永八年)。犬公方綱吉は宝永六年一月十日に逝去している。ウィキの「生類憐みの令」によれば、『綱吉は死に臨んで世嗣の家宣に、自分の死後も生類憐みの政策を継続するよう言い残したが、同月には犬小屋の廃止の方針などが早速公布され、犬や食用、ペットなどに関する多くの規制も順次廃止されていった』。但し、『牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護など、継続した法令もある。また、将軍の御成の際に犬や猫をつなぐ必要はないという法令は綱吉の死後も続き』、これは第八『代将軍』『徳川吉宗によって廃止されている』。『鷹狩が復活したのも、吉宗の代になってからである』。家宣が「生類憐みの令」を『撤回したのを農民は喜んでいた』とある。]

 

○京都の米相場は、大坂堂島にて、肥後米の直段(ねだん)をしるして、江州大津へ送る。其直段に、大津にて、江州の米直段を引合)ひきあは)せ、高下(かうげ)して、京へ送りて、京都の米相場は極(きま)る也。

 

○京都の乞食は「非田兒(ひでんじ)」といふ。穢多をば「天部(あまべ)」と云(いふ)。「非田兒」は非田院村に住する故、かく、いへり。穢多は、天部村に住する故、かく、いふ。鴨川北岸に非田院村あり、今は此村に「溜(ため)」の牢を置(おく)るゝあひだ、「非田兒」、牢守にせらるゝ故、爰に聚落して居(を)る也。

 非田院村に、つゞきて、上天部村、有(あり)、爰(ここ)に穢多の部落あるゆゑ、都(すべ)て、穢多の總名を、よんで、「天部」といふ也。

 京都に、上下(かみしも)の「天部村」、有(あり)。下の天部村は、大佛の邊にあり、此天部にも、穢多、住居する、おほし。

 大坂の非人をば、「かいと」といふ。「垣外」と、文字には、かく。「常の人に異(こと)なる」心にて、「かいと」と書(かく)也。

 「垣外」四箇所の「長吏」の支配なり。「長吏」とは、穢多の事を、大坂にて、いふ。大坂、邊土の四方に分れて居(を)るゆゑ、「四ケ所の長吏」とは、いふなり。

[やぶちゃん注:「かいと」は「ほかひびと」(ほかいびと)の縮約であろう。通常は「乞兒」で、これは「家の戸口に立ち、祝いの言葉を唱えて物を乞い歩いた人」を指す語であったものが、乞食のみでなく、渡り歩く芸人を広く指し、広く被差別民の卑称となった。「垣外」は意訳の当て字であろう。]

 

○京西陣にて織出(おりいだ)す反物、至つて價(あたい)、廉(れん)に、渡世に引(ひき)あはぬほどなれども、かさ[やぶちゃん注:「量(かさ)」。]を織出すをもて、渡世とする也。たとへば、大機(おほはた)を織(おる)とき、上の二階に居(ゐ)て、絲をさばく事をするもの、壹人づつ、織人の外(ほか)に、あり。此一日の雇ひ錢、十六文づつ也。其節、絲をくり、絲を染(そめ)、種々(しゆじゆ)の事に價の費(つひへ)、多く懸る事(こと)故、隨分、廉に、やとひものせねば、賣物(うりもの)に引(ひき)あはず。

 たとへば、羽二重(はぶたへ)壹反、種々の事に、あたひのかゝりたるを集め、織あぐる手間(てま)迄も勘定して、壹兩壹步貳朱餘(あまり)かゝりて出來る事なれども、賣捌(うりさばく)あたひは、壹兩貳步より、高價(たかね)には售(うり)がたし。

 是(これ)にあはせて、おもへば、「織(おり)や」の辛苦、はなはだ、利分、すくなきには、引合(ひきあひ)かぬれども、高價に至るをおそれて、「あたひ」を原(もと)にして、諸事の費・やとひ人までをも、賤(いやし)くなして仕上(しあぐ)る事、とぞ。

 西陣に、「機のせわり」といふ者ありて、常に、あたひを制して、貴(たか)くせず、甚(はなはだ)吟味する事也。

「『せわり』とは京の方言にて、關東の詞(ことば)には、『世話役』と云ふ事と、おなじ。」

と、人の、かたりぬ。

 

○禁裏公家町の掃除、草を芟(かる)事は、御所の近邊の、六町より、賦(ふ)にて勤むる事也。六町にて請負(うけおひ)の者を立(たて)て、草をひかせなど、する。此請負料、はなはだ廉なる事なれども、草を、又、田地の「こやし」にうり[やぶちゃん注:「うる」(賣る)の誤記か誤判読。]なるゆゑ、廉にて、請負來(きた)る、といふ。

 

○京壬生(みぶ)地藏尊の狂言は、「桶取(をけとり)」と云(いふ)、濫觴也。其餘の狂言は、のちのち、能の狂言にならひて拵(こりらへ)たる物、といふ。

 始(はじめ)は、猿を集(あつめ)て狂言をなしける故、元來の名目は「猿狂言」と云(いふ)也。

 「桶取」の由來は、昔、地藏尊、

「堂守の信を、敎化(きやうげ)し給(たまは)ん。」

とて、三(み)つ指(ゆび)不具の女と化(け)して、每夜、地藏に、「あかの水」を桶に入(いれ)、かしらにささげ來(きたり)て供養しけるが、此女、もとより、容貌、美麗成(なり)しかば、堂守の僧、懸想(けさう)して、いひより、言葉を盡して、くどきける時、女、此三つ指を示(しめし)て、かたわなるよしを告(つげ)けるにより、僧の心、本心にかへりて、成道(じやうだう)しけるより、「桶取」の狂言を、たくみいだせる也。

「されば、今も『桶とり』の狂言には、三つ指をもて、桶をさゝへ、出(いづ)るを、故事とする事。」

と、人の語りぬ。

[やぶちゃん注:「猿を集(あつめ)て狂言をなしける故」私は、寡聞にして、こんな話は聴いたことがない。後代には「猿回し」がそうした演芸をしたことはあったが、これは、狂言の原型となった「猿楽」に引っ掛けて、津村に語った話者が、面白おかしく作り話をしたのではないか?

「京都の壬生狂言の代表曲目の一つ。老人(隠居、出家、大尽ともいう)が美女に言い寄って一緒に踊っている所へ、老妻が来て嫉妬するという筋。「京都大好き隆ちゃん」のブログ『京都壬生大念佛狂言(その4)「桶取(おけとり)」』に、より詳しい解説と写真が載るので、見られたい。]

 

○野州栃木は領分也。陣屋は新田と云(いふ)三里わきに有(あり)。栃木の町は廿町餘あり、繁昌の地にして富饒(ふぎやう)の者、多し。皆、江戶へ交易して生活をなす。

 江戶小網町河岸より、栃本迄は荷物船、積船賃、酒樽は壹樽にて壹匁、荷物は壹箇にて、貳匁程づつ也。

 栃木に關東第一の馬工郞[やぶちゃん注:底本では右に編者補正注で『(博勞)』とある。]あり。「武田うば八」と云(いふ)者にて、常に、馬、六、七千疋程づつを所持して、ひさぐ事を業(なりはひ)とす。馬あり餘りて、人にあづけて、つかはしむ。馬所望の者、來(きた)れば、其望(のぞみ)にまかせて、取出(とりいだ)し、あきなふ。預置(あづけおき)たるをも、遠近に隨(したがひ)て、取寄(とりよせ)てあきなふ也。奥羽をはじめ、關八州より、皆、「うば八」を志して、ひき來り、賣(うり)なす也。馬七疋を、「一はな」といふ。日々、「廿はな」・「三十はな」づつ引來(ひききた)るを、殘りなく、「うば八」、買取(かひとる)事と、いへり。

 

○琉球朱は、「葡萄」・「新ぶとう」・「から子」・「角印」とて、四品也。商賣、御制禁なき已前は、目かた九十匁に付(つき)、代銀廿匁より、廿五匁までに、價(あたひ)を捌(さばき)たる事、とぞ。

[やぶちゃん注:「琉球朱」琉球製の漆器。

「角印」読み・様態不詳。]

 

○公方樣御鷹の雲雀、御大名へ給はり候は、年々、夏秋、御鷹匠衆を上總・房州等へ遣(つかは)され、彼(かの)地にて執(とり)たるを、江戶へ送り、配分して給はりけるが、往來、日數(ひかず)を經て、雲雀、損じ多く出來(しゆつたい)、すたり有ㇾ之に付(つき)、當時は、彼地にて、鹽漬(しほづけ)にしておくるやうに被仰付ける故、一切、すたり、無レ之也[やぶちゃん注:「完全に廃った訳ではない」の意。]。且(かつ)、御鷹匠衆、他國逗留の定(さだめ)の如く、雲雀取候へば、罷歸事(まかりかへること)故、往來、日數かゝらず、房總等にても、右のまかなひ、ついへ、すくなく成(なり)たるよし。是は、寬政中、白河侯【松平越中守殿。】、御老中御勤の時より定置(さだめおか)れし、よし。仍(よつ)て、當時、拜領の雲雀は、皆々、鹽漬の物なり。

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。]

 

○「江戶町家の婦、上京の節、荒井・橫川御關所等、通行御手形相願候事、先年は願(ねがひ)申出(まうしいで)、御許容、相濟候て、願人(ねがひにん)、日日、御役人宅へ、御手形、持參致し、御家來へ申入(まうしいれ)、御判申請(まうしうけ)候事(こと)故、御判取揃(とりそろへ)迄は、壹ケ月餘りも、かゝりたる所、當時、上京の願書(ねがひがき)・願人、相認(あひしたため)、其所(そこ)の名主へ指出(さしいだし)候へば、名主・願人、同道致し、町年寄三人の内、月番の宅へ罷越(まかりこし)、子細申入、願書、差出候へば、月番の年寄、右、手形を受取(うけとり)、評定御寄合の席へ持參致し、御列座にて、一日に、御判、相濟候まゝ、町年寄より名主・願人へ、配符の催促、來(きたり)て、御手形、御判、相濟候を、渡さるゝ事に成(なり)たるゆゑ、先年の如く、願人、御役人の宅へ罷越候事、無ㇾ之故、甚(はなはだ)、事、速(すみやか)に相濟(あひすみ)、辛勞なき事に罷成候。是も白河侯、御勤役中(ちゆう)より、定(さだめ)られたる事也。仍(よつ)て、當時は、婦人上京願書、御判取(ごはんとり)に指出(さしいだし)候て、大抵、五日目程には御判相濟候故(ゆゑ)、御判取に指出候ては、旅行の支度(したく)拵(そろへ)相待居(あひまちをる)程ならでは、大(おほい)に手遣(てづかひ)に成(なる)事有ㇾ之故、無油斷、右の心得にてよろしき、よし。」

名主、物語りなり。

 

○江戶、諸商賣の内、「拾仲間(じふなかま)」と號するは、[やぶちゃん注:以下二段落は底本でも改行。]

吳服物商賣・木綿太物商賣・綿ほうれい類商賣・洒屋商賣・燈油屋商賣・諸藥種商賣・小間物商賣・塗物椀家具商賣・諸鍋物類商賣・疊表荒物類商賣

右十種の問屋ども、十組、「仲間」を立(たて)、交易致し候事。

年々、□□□□と申者、相企(あひくはだて)候事にて、公儀へ御願(おねがひ)の上、右の通(とほり)に被定置候事也。

 吳服物問屋は、本町・するが町・日本橋・南芝邊、木綿太物は通旅籠町(とほりはたごちやう)、綿ほうれい類は、本町・大傳馬町、酒問屋は、靈巖島・新川・萱場町邊、燈油問屋は、大傳馬町・小船町、其外、所々。菜種問屋は本町三丁目、小間物問屋は通油町(とほりあぶらちやう)・日本橋北南邊、塗物家具問屋は同斷、鐵物(かなもの)銅眞鍮類問屋は大門通、其外、諸所。荒物類問屋、日本橋南北、其外、堀留諸所、大抵、是等、殊に群居する所也。

[やぶちゃん注:「□」は底本の欠字記号。

「通旅籠町」しばしばお世話になるサイト「江戸の町巡り」の「通旅籠町」によれば、現在の『中央区日本橋小伝馬町、日本橋大伝馬町、日本橋堀留町二丁目』とある。

「通油町」同前で『中央区日本橋大伝馬町』とある。ここ。]

 

○いと荷物船問屋、靈巖島・新堀・新川邊、住居致し候。上下の者、道中駕籠、供の者等、相雇(あひやとひ)候には、日本橋木原店(きはらだな)に請負(うけおひ)の者、數多(あまた)住居致候。

 

○江戶より、品川・千往・板橋・四ツ谷、付出(つけだ)し傳馬相願(あひねがひ)候には、大傳馬町名主役所、南傳馬町名主古澤[やぶちゃん注:底本では「古」の右に編者補正注で『(吉)』とある。]主計(かづえ)、小傳馬町名主宮邊又四郞方へ相賴(あひたのみ)候へば、相辨(あひべんじ)候事。但(ただし)、大傳馬町名主馬込勘解由(かげゆ)事、當時、退住(たいぢゆう)仰付(おほせつけ)られ候故(ゆゑ)、傳馬町名主、代(かはり)、十二人にて、相勤候へば、右役所、相賴候事也。

 

2024/04/24

譚 海 卷之十四 三州瀧山淸涼寺の事 關東より禁裏へ鷹と鶴を獻上の事 火にて親燒死たる時の心得の事 寺幷宗旨をかふる時の事 中國銀札をつかふ事 奥州仙臺出入判の事 加州城下町の事 紙一帖數の事 油・酒相場の事 諸物目形の事 茶器諸道具價判金壹兩の事 醫の十四科の事 京・大坂へ仕入商物の事 染物・反物あつからふる事 狩野家の事 大判・小判・古金・新金・南鐐銀の事 頭陀袋の事 江戶橋新場肴屋の事 願人支配の事 上州草津溫泉入湯の次第の事 伊豆修善寺入湯の事 攝州有馬溫泉入湯次第の事

[やぶちゃん注:「かふる」はママ。なお、「三州瀧山淸涼寺の事」の前半は「譚海 卷之六 三州瀧山淸涼院年始鏡餅獻上の事」と同文で、津村がダブって記している。そちらで注したものは、採録しないので、必ず、読まれたい。]

 

○公方樣、每冬、御(おん)「こぶしの鶴」を、一羽づつ、年の内に、宿次(しゆくつぎ)にて、禁裏へ進獻あり。

 道中、鶴のはねを、延(のばし)たるまゝにて、箱に入(いれ)、桐油(きりゆ)を、おほひ、靑竹にて、になひ傳送する也。尤(もつとも)、桐油は、宿々にて用意置(おき)たるを、取替(とりかへ)、おほひ達(たつ)する故、桐油に、何(いづ)れも宿驛の名目印、有(あり)。

 殊の外、大成(だいなる)箱也。是も、旅人、下乘也。

 扨、京都にて、正月十九日、此鶴を調ぜられるについて、天子、紫宸殿に御(ぎよ)し、舞樂、御覽あり。此日は、諸人も、舞樂拜見を、ゆるされ、庭上に群集して、京洛の兒女、男子(なんし)、一日、拜見す。男子は、無刀に麻上下(あさがみしも)、僧は衣(え)、又は十德(じつとく)也。

 前年は、此日、「鶴の庖丁舞」御覽とて、内膳司(ないぜんのつかさ)、御前にて、鶴を調ずる鑾刀(らんたう)を、あはせて、舞を奏する事なりしが、炎上の後、大内裏の規模を移され、紫宸殿の前に、朱門・拔垣(ぬきがき)を、ほどこされ、日をも轉じて、十九日に定められ、鶴は小御所にて調ぜられて後、舞樂斗(ばか)り、紫宸殿にて行(おこなは)るゝ事に成(なり)たり。

 師走、東海道は、この鶴と、瀧山(さう)の御神供とにて、殊の外、混雜する事也。

[やぶちゃん注:「鑾刀」「鸞刀」とも書く。鸞鳥(私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鸞(らん) (幻想の神霊鳥/モデル種はギンケイ)」を参照されたい)の形の鈴をつけた刀。古代中国で、祭祀の生贄を裂くのに用いたもの。

「炎上の後、大内裏の規模を移され」これは天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京都で発生した「天明の大火」を指す。当該ウィキによれば、『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした』「応仁の乱」の『戦火による焼亡を』、『さらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた』とある。本「譚海」の終稿は寛政七(一七九五)年夏である。

「拔垣」この熟語は知らないが(読みも、あてずっぽう)、状況からみて、庶民が透き見が出来るように、隙間を開けた垣根のことかと思われる。]

 

○出火にて、親、燒死(やけじに)たる事あるときは、

「出火に付(つき)、親同道、仕立(したて)、退(のき)候處、群集にまぎれ、行方(ゆくへ)、見失ひ、唯今に罷歸(まかりかへ)り不ㇾ申候。」

と訟ふる事也。

 ありのままに、燒死たるよしあれば、其子、死刑に處せらるゝ公儀の御大法也。

 

○勝手につき、寺を替(かへ)るに、人を賴(たのみ)、旦那寺へ斷(ことわり)申遣(まうしつかは)し候時は、其人、他人たりとも、

「當人の親類にて、たのまれたる。」

由、申(まうす)事也。

 親類ならでは、寺、承知いたさぬ事、是も、諸宗の法也。

[やぶちゃん注:「勝手」「自身の思うところによって発想したこと」の意。宗旨変えは、自身の信心の問題であり、例えば、江戸時代、日蓮宗へ宗旨を変えるケースは諸記事に見られる。]

 

○中國は、大抵、銀札をつかふ也。就中(なかんづく)、因幡・伯耆・出雲・石見は、數多(あまた)、領分、入交(いれまじ)りたる上、不ㇾ殘、銀札也。半日ほど行(ゆき)て、他領に入れば、跡の領分の銀札、通用せず。聞合せて他領にいらぬ手前にて、其領分の銀札、役所にて、銀と引替(ひきかへ)、他領に入(いる)時、又、銀札を買(かひ)て遣(つか)ふべし。勝手しらぬ旅人は、ゆきかゝり、銀札、通用せず、跡へ、もどりて引(ひき)かふれば、往來の日數、無益(むえき)多く、はなはだ難儀する事哉。中國、陸路往來のもの、心得べき事也、とぞ。

 

○奧州仙臺へ行(ゆく)者は、小菅生[やぶちゃん注:底本では「小菅生」の右に編者補正注で『(越河)』とある。]といふ所にて入判(いりはん)を、もらふ。壹人に付、八錢也。仙臺を、いでて、他領へ、おもむくときも、出判(いではん)を、もらふ。壹人五錢也。仙臺より、南部へ入(いる)ところに、南部領鬼柳の關所あり。爰(ここ)にても、壹人、五十錢づつ出して、入判をもらふ。但(ただし)、南部、逆旅主人(げきりよしゆじん)に賴みて、判を取(とり)てもらふ也。

[やぶちゃん注:「小菅生」(✕)「越河」現在の宮城県白石市越河御境に「越河」(こすごう)「番所跡」が残る(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「鬼柳」現在の岩手県北上市鬼柳町(おにやなぎちょう)町分(まちぶん)にある「南部領鬼柳御仮屋跡」がそれ。なお、南西直近にポイントされてある「相去御番所跡」(岩手県北上市相去町(あいさりちょう))の方は伊達藩の番所である。]

 

○加賀城下、町屋、三里、有(あり)。馬つぎ問屋、二ケ所にあり。又、加賀國中(かがのくにうち)の關所は、誰(たれ)にても、皆、下乘して通る也。

 

○「西の内紙」は、壹帖四十枚、「保戶村紙」は廿六枚、「靑土佐紙」は三十四枚、「仙過紙(せんくわし)」は五十枚、「杉原紙(すぎはらがみ)」は四十八枚、「薄樣(うすやう)」・「中葉(ちゆうえふ)紙」は、共に百枚、三十枚は[やぶちゃん注:ママ。]十五枚、「淺草半切紙(あさくさはんきりがみ)」は、九拾六枚を「百枚」と號す。其餘、「半切紙」、國々によりて不レ同(おなじうせざる)也。「奉書」・「美濃紙」・「小菊」等は、皆、壹帖四十八枚づつ也。「大鷹團紙」[やぶちゃん注:底本では「團」の右に編者補正注で『(檀)』とある。されば、以下の「小鷹團紙」も「小鷹檀紙」であろう。]・「小鷹團紙」は、壹帖共に、二十四枚也。

[やぶちゃん注:「西の内紙」「西ノ内紙」(にしのうちし)。当該ウィキによれば、『茨城県常陸大宮市の旧・山方町域で生産される和紙である。コウゾのみを原料として漉かれ、ミツマタやガンピなどが用いられないことに特徴がある。江戸時代には水戸藩第一の特産物となり、各方面で幅広く使われた』。『強靱で保存性に優れたその性質から、江戸では商人の大福帳として用いられた』。宝暦四(一七五四)年に刊行された「日本山海名物圖繪」では(以下、国立国会図書館デジタルコレクションの寛政九(一七九四)年板の板本で独自に視認した。標題は「越前方奉書紙」で、挿絵もある。一部、読み・句読点は私が附したものである)、

   *

凡(およそ)、日本より、紙、おおく出(いづ)る中に、越前奉書、美濃なをし、関東の西内、程(ほど)村、長門岩国半紙、尤(もつとも)上品也。

   *

『と称された』とあった。

「保戶村紙」前の注の引用から「程村紙」が正しいことが判った。当該ウィキによれば、『栃木県那須烏山市で作られる楮紙』。『烏山和紙を代表する和紙で、「厚紙の至宝」』『と評されるほどに厚手で丈夫なのが特徴』で、『品質が高いことで知られる』『那須楮を原料とする』。『起源は奈良時代とされ』、『かつて烏山町境村にあった程村地区が産地であったことに由来する』。『襖や障子等の建築部材のほか、投票用紙、皇居用の懐紙』。『烏山藩藩札などの重要書類で用いられ』、『現在は卒業証書用紙が主力である』。『宮中で年頭に行われる「歌会始の儀」でも用いられた』。『烏山地方は戦前は和紙の一大産地であったが、安価な西洋紙に押されて』、昭和三九(一九六四)年には、一『軒のみになっている』。『福井県越前市の越前奉書、岐阜県美濃市の美濃の直紙、山口県岩国市の岩国半紙、茨城県常陸大宮市の西ノ内紙と共に、日本の代表的な』五『紙の一つとされている』とあった。

「靑土佐紙」高知県で生産される「土佐和紙」の一つ。近世初期から生産の始まった青色染めの紙で、色がやや薄いものを「青土佐紙」、やや濃いものを「紺土佐紙」として区別する場合もある。表具用紙・工芸紙などに用いられる。

「仙過紙」「仙貨紙・仙花紙・泉貨紙」が正しい。楮を原料にして漉いた厚手の強い和紙。包み紙や合羽などに用いた。天正年間(一五七三年~一五九二年)の伊予の人、兵頭仙貨(ひょうどうせんか)が作り始めたとされる。

「杉原紙」鎌倉時代、播磨国揖東郡杉原村(現在の兵庫県多可郡多可町加美区地区)で産したと言われる紙。奉書紙に似て、やや薄く、種類が豊富で、主に武家の公用紙として用いられた。後、一般に広く使われるようになると、各地で漉かれた。近世から明治にかけて、色を白く、ふんわりと仕上げるため、米糊(こめのり)を加えて漉かれ、「糊入れ紙」「糊入れ」と称された。他に「すぎはら」「すいばら」「すぎわらがみ」とも呼ぶ。

「薄樣」薄手の和紙のこと。「薄葉」とも書く。「厚様(厚葉)」に対する語で、平安初期に「流し漉(ず)き法」が確立されたことにより、薄紙の漉きが容易となった。平安時代の女性に好まれ、当時の文学作品の中に多くの用例がみられる。「日葡辞書」(慶長八(一六〇三)年)に「薄樣」と「薄紙」が挙げられてあるが、特に「薄樣」は「鳥の子紙の薄いもの」といった解説がなされてある。「流し漉き法」が一般化しても、ガンピ(雁皮)類を原料とした上代の斐紙(ひし)は薄手の紙に適しているため、薄様の主流は、この系統の「雁皮鳥の子紙」が占めていた。

「中葉紙」中ぐらいの厚さの「鳥の子紙」。

「淺草半切紙」「半切紙」は杉原紙を横に半分に切り、書状に用いた紙。寸法は概ね、縦五寸(約十五・二センチメートル)・横一尺五寸(約四十五・六センチメートル)。寛文(一六六一年~一六七三年)頃から、この形に漉いたり、長く接(つ)がれて「巻紙」となったりした。単に「はんきり」「はんきれ」とも呼ぶ。「淺草半切紙」は、浅草で、使用済みの和紙(反古紙)を漉き直して作った中古の和紙「漉返紙」(すきがえしがみ)を盛んに作ったことによる。

「美濃紙」美濃国(岐阜県)から産出する和紙の総称。美濃国は古く奈良時代から和紙の産地で、「直紙」(なおし)・「書院紙」・「天具帖」(てんぐじょう)など、多くの紙を産した。現在でも「本美濃紙」・「障子紙」・「提灯紙」・「型紙原紙」など、多種の紙が漉かれている。

「小菊」楮製の小判の和紙。はながみ、または茶の湯の釜敷などに用いる。美濃国(岐阜県)で古くから製している。単に「小折」「小美濃」とも言う。

「大鷹」「團」(✕)→「檀」(○)「紙」「小鷹團紙」(✕)→「小鷹檀紙」「檀紙」は和紙の一つ。厚手白色で縮緬 のような皺がある。檀(まゆみ:ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ変種マユミ Euonymus sieboldianus var. sieboldianus )の樹皮で作る。包紙や目録・免許状のような文書に用い、皺や紙形により「大高」(おおたか)・「小高」の別がある。平安時代、陸奥国の産で、「陸奥紙」(みちのくがみ)と呼ばれ、現在のような形質になったのは、室町時代からである。公家・武家に用いられ、備中・越前産が有名である。]

 

○油は十樽をもて、「何十兩」と云(いふ)。酒は廿樽をもて「何兩」と定む。又、酒二樽を「壹駄」と云(いふ)。

 

○藥種は、目形(めかた)四匁を「壹兩」とす。四拾兩を「壹斤」とす。砂糖・金米糖も、是に同じ。茶は目形二百匁を「壹斤」とす。羽州にては、蠟、目方壹貫四百目を「壹斤」とす。

 

○茶器諸道具の價(あたひ)、金「壹兩」といふは、小判七兩貳步也。大判(おほばん)の相場にては、なし。

 

○唐山(たうざん)の醫、古(いにしへ)は「十四科」、有(あり)。肺胃科、亡(ほろび)て、今は、「十三科」、あり。其「十三科」は、

風科・傷寒科・大方脈・小方脈・婦人胎前科・鍼灸科・眼科・咽喉口血科・瘡瘍(さうやう)科・正骨科・金鏃(きんぞく)科・養生科・祝由(しゆくゆう)科。

 「大方脈」は、大人の療治する醫者、「小方脈」は小兒醫者、「瘡瘍」は外科(げか)の事。「正骨科」は「骨つぎ」療治、「金鏃」は金瘡(かなきず)の療治する醫者也。「貌由科」は「まじなひ」をする醫者の事也。此事、「古今醫統」に出(いで)たり。

[やぶちゃん注:「古今醫統」明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六年)によって編纂された医書。全百巻・四十冊・一六六〇年刊行。歴代の医聖の事跡の紹介に始まり、漢方・鍼灸・易学・気学・薬物療法などを解説する。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べてあり、分類された病名のもとに病理・治療法・薬物処方という構成になっている。対象は内科・外科・小児科・産婦人科・精神科・眼科・耳鼻咽喉科口腔科・歯科など、広範囲に亙る(「東邦大学」公式サイト内の「額田記念東邦大学資料室」の「額田文庫デジタルコレクション」のこちらに拠った。原本画像が総て見られる)。]

 

○江戶より京・大坂へ、買物注文いたし遣(つかは)し、其品、賣主(うりぬし)にて、荷物に拵へ、船積(ふなづみ)いたせば、大坂川口にて、破船に及(および)ても、代物(だいもつ)は、買主(かひぬし)の損に成(なる)事也。決して、京・大坂の賣主は、拘(かかは)らず。

 又、江戶より、諸品、上州をはじめ、奧州ヘ荷物にいたし遣し、其品、途中にて水に入り、又は、盜賊などに取(とら)るゝ事、ありても、買主の損金には、ならず、皆、江戶の賣主の損に成(なる)事、定法(ぢやうはう)也。

 其上、京・大坂の賣主、其品を、江戶へ積出(つみいだ)せば、かならず六十目目には、爲替(かはせ)を取(とり)て、代物を受取(うけとり)に、こす也。

 右日限、一日にても、金子、渡方(わたしかた)、延引すれば、重(かさね)て、京・大坂より、荷物、送る事を、せず。

 されば、上方と奧筯(おうすぢ)との商内(あきなひうち)は、江戶の者、損德、有(ある)事、上方の商内は、十分の「つよみ」、有(ある)事と、いへり。

 

○黑き色に反物(たんもの)を染(そむ)るならば、先(まづ)、紺屋(こうや)へ、あつらふる時、

「下染(したぞめ)を見るべき。」

よし、申(まうす)べし。下染を花色に染めたる時、取寄(とりよせ)て、一見して後、返して、黑色に染(そめ)さすれば、年を經ても、黑き色、かはる事、なし。

「唯(ただ)、あつらへし儘にて、下染を、みざれば、多く、『紺や』にて、上染斗(ばか)りする故、早く、色、さむるもの。」

と、いへり。

 

○洞雲(どううん)は「松蔭子」と、いへり。松花堂(しようくわだう)より、得たる名と、いへり。探幽は「白蓮子」、養朴は「寒雲子」と、いへり。其外、狩野家畫(ゑかき)は、俗名は、系圖に有(あり)。

[やぶちゃん注:「洞雲」狩野洞雲(寛永二(一六二五)年~元禄七(一六九四)年)は江戸前期の画家。狩野探幽の養子となるが、探幽に探信・探雪の二子が生まれ、別家となった。寛文七(一六六七)年、幕府から屋敷を与えられ、「駿河台狩野家」を立てて、表(おもて)絵師の筆頭格となった。名は益信。通称は采女。

「松花堂」松花堂昭乗(しょうじょう(歴史的仮名遣:せうじよう) 天正一二(一五八四)年~寛永一六(一六三九)年)は江戸初期の僧で書画家。堺の人。松花堂は晩年の号。男山石清水八幡宮滝本坊の住職で、真言密教を修め、阿闍梨法印となった高僧。書は「寛永の三筆」の一人で、御家流・大師流を学び、「松花堂流」を創始した。また、枯淡な趣の水墨画を多く描いたことでも知られる。

「養朴」狩野常信(寛永一三(一六三六)年~正徳三(一七一三)年)は江戸前期の画家。尚信の長男で、「木挽町狩野家」二代目。探幽没後の狩野派を代表した。古画の模写にも力を入れたことで知られる。]

 

○大判は、初め、吹立(ふきたて)られたる時、壹萬枚を限(かぎり)とせられて、今、天下に通用するは、此數(かず)の外、なし。大判、所持しても、慥成(たしかなる)持主、書付等、指出(さしだ)さゞれば、兩替屋にて、皆、引(ひき)かへず。兩替、殊の外、六つケ敷(むつかしき)事也。但(ただし)、大判の書判(かきはん)、少しも、墨色、剝落すれば、通用せず。夫(それ)故、墨色、落消(おちけ)するときは、後藤かたへ、相願(あひねがひ)、書判を、書直(かきなほ)しもらふ也。此書直し料、大判壹枚に付、金壹步づつ也【此は下直(げぢき)にて書替(かきかへ)致したるト覺ゆ。今時は、壹兩も貳兩も書替料、收(をさむる)也。】。古金(ふるがね)は引替の事、兩替屋にて、難ぜす[やぶちゃん注:これ、「せず」の誤記か誤植であろう。]。但(ただし)、金百両に付、元文小判(げんこばん)百六十五兩に引替(ひきか)ふ。六割半の增(まし)也。元文小判壹兩に付、目形(めかた)は三匁五分あり。古金は壹兩、目形、四匁八分。當時、南鐐銀、壹片の目形は、三匁七分也。

[やぶちゃん注:【 】は底本では二行割注。

「後藤」近世日本の金座の当主=「御金改役」を世襲した名跡。後藤庄三郎。詳しくは当該ウィキを見られたい。]

 

○「頭陀袋(ずだぶくろ)」は本名「法衣悟(ほふえご)」と云(いふ)也。「一番」・「二番」・「三番」まであり、「一番」は「九條」・「七條」等の「袈裟(けさ)」、入(はい)るやうに、せし物、也。至(いたつ)て大(だい)なれば、平生、往來に懸(かく)るには、邪魔也。「二番」も、なほ、大(おほ)し。遊山(ゆさん)登臨などに懸(かく)るには、「三番」といふもの、よきほど也。製は、江戶にては「衣や」、所々に、あり。然(しか)れども、尾張國津島の尼寺にて製する物、至(いたつ)て精工也。上方(かみがた)の婦人の所作・縫(ぬひ)やう、ともに、江戶の製に比すれば、萬々、勝(すぐれ)たり。浮家(ふけ)の貫通和尙、をしへ、製(せい)しいだせる事にて、袋の色は「香衣(かうえ)」と稱し、價(あたひ)五百錢ほど也。

[やぶちゃん注:以上に出る「袈裟」の種類は、説明するのが面倒なので、「無門關 十六 鐘聲七條」の私の「七條」の注を見られたい。

「尾張國津島の尼寺」探す気にならない。悪しからず。]

 

○鎌倉より東方、三浦・三崎鴨[やぶちゃん注:ママ。独立した「鴨」でも「走水」に附しても地名として成り立たない。思うに、これは「三崎」の「嶋」、則ち、「三浦」半島の「三崎」の先端にある「城ヶ島」を指し、「島」の異体字「嶋」の誤記か御判読であろう。]・走水(はしりみづ)・浦賀迄にて、獵漁せし魚は、皆、江戶橋新場(しんば)肴店(さかなみせ)へ、運送し商ふべき由、享保中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]、新(あらた)に定置(さだめおか)るゝ事、とぞ。

 是は、有德院公方樣[やぶちゃん注:吉宗。]、紀州に被ㇾ成御座候時、「沖鱠(おきなます)」と云(いふ)ものを召上(めしあが)られて、其通(そのとほり)に、江戶にて、料理仰付(おほせつけ)られぬれども、透と[やぶちゃん注:意味不明。「とくと」の当て字としても意味が「透」らぬ。「少しも(~ない)」の意でとっておく。]紀州の味に似ざる故、數度(すど)御吟味ありしに、新場、御納屋(おんをさめや)指上(さしあげ)候魚(うを)、料理仰付られけるに、始(はじめ)て、紀州にて召上られける如く、宜(よろ)しく出來(しゆつらい)せしかば、右、御褒賞として、如ㇾ此、定置れぬる、とぞ。

 

○願人(ぐわんにん)の總頭(そうがしら)は、京、鞍馬山大藏院也。江戶にては、右の支配、手遠(てどほ)にて、事行(ことゆ)かぬる故、東叡山へ御賴みにて、願人支配、有(あり)。江戶の支配頭(しはいがしら)住居は、芝金杉(しばかなすぎ)・四つ谷鮫ケ橋・神田豐島町(かんだとしまちやう)也。

[やぶちゃん注:「願人」「願人坊主」(がんにんぼうず)のこと。頼まれた者に代わって、神仏への代参や、代垢離(だいごり)をする坊主の姿をした門付芸人。近世、主に江戸で活躍し、「藤沢派」(または「羽黒派」)と「鞍馬派」に分かれ、集団的に居住し、寺社奉行の支配を受けた。天保一三(一八四二)年の町奉行所への書上には『願人と唱(となへ)候者、橋本町、芝新網町、下谷山崎町、四谷天龍寺門前に住居いたし、判じ物の札を配り、又は群れを成(なし)、歌を唄ひ、町々を踊步行(をどりあり)き、或は裸にて町屋見世先に立(たち)、錢を乞(こふ)』とあり、乞食坊主の一種でもあった。その所行により、「すたすた坊主」「わいわい天王」「半田行人」(はんだぎょうにん)「金毘羅行人」などとも呼ばれ、その演じる芸能は「願人踊」「阿呆陀羅經」「チョボクレ」「チョンガレ」など多種で、後、ここから「かっぽれ」や「浪花節」などが派生した。]

 

○上州草津湯は、御代官所にて、入湯の者、壹人より、三錢づつ、公儀へ運上として上(あぐ)る。

 湯屋の家は、草津町千軒程づつの内、七、八十軒あるべし。

 此湯屋、本宅は二里餘(あまり)、麓西南に、小留村・沼屋村[やぶちゃん注:底本では「屋」の右に編者補正注で『(尾)』とある。]・八所村・井堀村・下間村、右五ケ村のもの所持にして、春三月八日より、草津へ引移(ひきうつ)り、湯客を請待(しやうたい)し、冬十月八日を限りにて、又、麓の宅へ歸り住(すむ)。是を「草津の冬住(ふゆずみ)」と云(いふ)。

 湯代は、大がいの座敷、諸道具付(つき)にて、湯代ともに、一廻(ひとめぐ)り二百五十文づつ、但(ただし)、大壯なる座敷、借(かり)て居(を)れば、座敷代を、いだす故、右二百五十錢は、いださず。但(ただし)、瀧湯(たきゆ)は十六ケ所あり。每夏は、一萬人も、入湯の人ある故、右の瀧、殘らず、ふさがりて、療治する事、あたはざる時は、入湯の人、「組」を、たてて、二、三十人程づつ、瀧一ケ所を借切(かしきり)にする也。其時は、

「『一𢌞り』より、『三𢌞り』までを、金二步づつ。」

と定(さだめ)て、幕を引(ひき)て、外(ほか)の人を入(いる)る事をせず。金二步にて、「一𢌞り」にても、同じ料(れう)也。

 夜具は、皆。木綿(もめん)也。下品は一𢌞り二百五十錢、中品は三百錢、上品のあたらしき夜具は、四百錢なり。但、夜具代をいだしても、湯代は、別に、いだす也。

 

○伊豆修善寺湯場は、尤(もつとも)座敷代をいだす事、あり。但、壹人・貳人、入湯の節は、一日壹人、「木賃泊(きちんどまり)」といふものにて取扱(とりあつかひ)、一日の木賃、三十一文づつ也。此外に、薪代も、何も、いらず、米は自分(おのづと)調(ととのへ)てくふ事にて、湯代は、

「寺の法施(ほふせ)也。」

とて、とらず。夜具の代は、別にいだすなり。

 

○熱海は、箱根湯治場(たうぢば)のごとく、諸品、高下(かうげ)、定(さだめ)がたし。

 

○攝州有馬の湯は、一𢌞りに付(つき)、壹人より銀壹兩づつ、祝儀として、宿の主人へ、つかはす。

 湯女(ゆな)へは、壹𢌞(ひとまはり)につき、銀貳匁三步づつ、遣(つかは)す事也。

 幕湯(まくゆ)は、幾(いく)まはりにても、人數(にんず)に構はず、銀四十五匁、いだす。但(ただし)、一日に三度に限る也。

 

譚 海 卷之十四 山城醍醐寺の事 淀舟ふなちんの事 甲州身延山他宗參詣の事 駿州富士登山の事 大坂より四國へ船ちんの事 江戶より京まで荷物一駄陸送料の事 京都より但馬へ入湯の次第の事 京都書生宿の事 京都見物駕ちんの事 京都より江戶へ荷物送り料の事 京智恩院綸旨取次の事 關東十八檀林色衣の事 堺住吉神官の事 接州天王寺一・二舍利幷給人の事 淨瑠璃太夫受領號の事

○山州、上醍醐寺は、女人登山制禁なり。下の醍醐より三十六町餘にあり。西國順禮の觀音あれば、婦人順禮の札を納(をさむ)る、受取(うけとる)所は、下の醍醐にある也。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「上醍醐寺」底本の竹内利美氏の後注に、『京都市伏見区醍醐の醍醐寺。貞観十八年』(八七六年:「准胝堂」と「如意輪堂」が建立された年。開山自体は二年前)、『聖宝の開創と伝え、これか上醍醐となり、後に下醍醐に伽藍がつくられ、三宝院その他の塔頭ができた。真言宗の大寺で、上醍醐の本堂准肌観音堂は西国観音霊場第十一番の札所である。』とある。上醍醐(かみだいご)と下醍醐(しもだいご)の醍醐寺の位置関係は、こちらのグーグル・マップ・データで確認されたい(上醍醐をポイントした。醍醐寺伽藍は西の麓にある)。]

 

○淀舟、船賃、京都より大坂まで、一人に付、七十二錢也。大坂より上京するには、此倍にして、一人に付、百五十錢也。然れども、壹人錢にては、船中、乘合ゆゑ、甚(はなはだ)窮屈也。貳人分出すときは、船中を竿にて仕切(しきり)、ゆるりと坐せらるゝやうにある也。貳人分、三人前、心にまかせて、ゆるりとゐらるゝやうに成(なる)庖也。大坂より乘合をせず、船壹艘、借切(かしきり)にすれば、三貫文程也。淀夜船中(ちゆう)、くひものを乘(のせ)來りて、賣(うり)かふ小舟あり。洒肴・飯・菜、好(このみ)にしたがつて、あたふ。呼聲、

「くらはんか。」

といふ。

「古(ふるき)時より、爰(ここ)の方言也。

といふ。

 

○甲州身延山、登山するに、門内に逆旅(げきりよ)、上町、あれども、日蓮宗の者をば、止(とむ)る事あたはず。其宗旨の者は、皆、山上に、江戶諸國の寺々の取次(とりつぎ)ありて、其寺にしたがつて、坊々に、とまる也。

 町にて、とむれば、

「坊より、糺す事。」

とて、とゞめず。

 他宗の者、登山には、町の逆旅に止むる事を憚らず。

 

○駿河、富士山登り口、「すばしり」より「御馬がへし」といふまで、山腹二里八町の間は、馬に乘(のり)て登山する事を、ゆるす。

 夫(それ)より、步行にて、中宮(なかのみや)迄、一里、叢樸(さうぼく)の中を行(ゆき)て中宮に至る。[やぶちゃん注:「叢樸」草むらと荒ら木。]

 中宮にて、「山役錢」とて、壹人につき、鳥目三百五十文を出(いだ)す。「山杖」といふを、あたふる也。「あららぎ」といふにて造(つくり)たる杖なり。[やぶちゃん注:「あららぎ」裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata の異名。漢字では「一位」「櫟」と書く。この杖は所謂「金剛杖」である。]

 中宮は、下の「すばしり」に、「淺間(せんげん)の宮」あるにたいして、いへる也。宮造(みやづくり)、壯麗也。

 爰(ここ)より、里數を、いはず、「一合」・「二合」といふ。「一升」といふは、「絕頂」といふなり。

 「合」ごとに石室(いしむろ)ありて、巖中に、雪を煎(いり)て、湯になし、賣る。行人(ゆくひと)、是(ここ)に休みて、飮食をなし、登山する也。

 絕頂、「御八龍」といふ。ぐるりと、まはれば、四十二町あり。[やぶちゃん注:四・五八二キロメートル。現在の火口は一周約二・六〇〇キロメートルとする。恐らく「お鉢めぐり」の火口部外側下部を含む見どころを廻るコースの実測であろう。]

 まはり終(をはり)て、砂に乘じて、中宮まで走り下る、半時ばかりに、くだる也。

 下向は甲州口より登りたる人々、皆、同じ所へ下る也。

 

○大坂より、四國、金比羅權現へ參詣、舟貨、風便(かぜだより)、遲速にかゝはらず、壹人に付、銀五包づつ、拂(はらふ)。大坂北濱に船宿あり。

 

○江戶より京都まで、荷物、壹駄三十六貫目[やぶちゃん注:百三十六キログラム。]にて、「飛脚や」へ、相賴(あひたのみ)登(のぼ)せる時、代銀、凡(およそ)貳百五十匁ほど也。

○京都より但馬へ、湯治駕籠賃、往來にて、銀三十五匁。人、壹人、やとひ代金三步。右賴(たのみ)候所、京寶町錦小路下ル所、出石屋(いづしや)山兵衞、但(ただし)、是は但馬宿也。丹後宿は、同所四條下ル所、無雙屋西右衞門と申(まうす)方へ參り、可聞合

○諸國より、上京、止宿・書生宿、三條上ル所、夷河通、又、竹屋町にも有(あり)。大てい、金二步より銀壹匁ほどづつの、あたひ也。

 又、借(かし)座敷は、三條より四條の間、新川原町、又其表通、木屋町にも、あり。座敷、大小によりて、直段(ねだん)、高下あり。大てい、金貳步より壹兩まで也。

 京都に知る人あらば、請判(うけはん)致しくれ、請文(うけもん)壹枚にて、早速、移往(うつりすむ)なる事也。

 長く店借(たながり)・住居、又、商買等にても、致し候にては、至(いたつ)て、むづかし。先(まづ)、口請人(くちうけにん)と云(いふ)者あり、是、店主へ店(たな)借(か)り度(たき)由、云入(いひいる)る也。此外に、證文を入(いれ)、請人に立(たつ)人、あり、其後(そののち)、店を借す事也。請人、二人、立(たつ)る事也。

 

○京都見物、駕籠賃、一日壹貫百文ほど也。但(ただし)、先より、先へ、とまり候ても、駕籠のもの、「とまりせん」[やぶちゃん注:「泊り錢」。]ともなり、晝食も此外にて不ㇾ構(かまはず)、何十度も、おり、くだり、見物所、不ㇾ殘、往來の約束也。

 

○京都より江戶へ、荷物壹貫目に付、十三匁程づつ也。

 

○京都、智恩院へ、諸國、淨土宗の僧、綸旨取(りんじとり)に上(のぼ)る事、一日に、二、三人程づつ也。壹人に付、金貳十五兩程づつ、入用といふ。但(ただし)、綸旨、一日に、壹人ならでは出(いだ)されざるゆゑ、二、三人あれば、段々、翌日へ、のべるゆゑ、人多き年は、逗留も日數(ひかず)かゝる也。

[やぶちゃん注:「綸旨取」底本の竹内利美氏の後注に、『勅旨をうけて蔵人が書いて出す文書が綸旨である。勅旨により僧位に任ずる形式の文書を、智恩院から交付していたのである』とある。]

 

○「關東十八檀林」の内、芝增上寺・小石川傳通院(でんづうゐん)二ケ寺は、紫衣(しえ)也。其餘は「黃衣(くわうえ)檀林」と號する也。

 

○堺、住吉明神の祠官を「社務」と號す。其下に、神主、六人あり。

 此六人は住吉明神の子孫にて、「底筒男(そこつつつのを)」・「中筒男(なかつつを)」・「上筒男命(うはつつのを)」の血脈(けちみやく)にして、家々、連綿と續(つづき)て有(あり)。

 ゆゑに、社務、あれども、社頭の鍵をば、此六人の神主、つかさどり行ふ也。社務は、「三位(さんみ)」にて、姓は、何れも「津守」と號す。京都、上下加茂の社務は、「三位」にて「住吉」と同事(おなじこと)、「公卿」也。

[やぶちゃん注:『「底筒男」・「中筒男」・「上筒男命」』住吉三神(すみよしさんじん)。「日本書紀」では、主に「底筒男命」(そこつつのおのみこと)・「中筒男命」(なかつつのおのみこと)・「表筒男命」(うわつつのおのみこと)、「古事記」では、主に「底筒之男神」(そこつつのおのかみ)・「中筒之男神」(なかつつのおのかみ)・「上筒之男神」(うわつつのおのかみ)と表記される三神の総称である。「住吉大神」とも言う場合があるが、この場合は住吉大社にともに祀られている「息長帶姬命」(おきながたらしひめのみこと:=神功皇后)を含めることがある(以上はウィキの「住吉三神」を参照した。]

 

○攝州、天王寺に、「一舍利法印」・「二舍利法印」といふあり。すべて、天王寺に屬したる社人・僧徒、此支配也。

 樂人は「舍利法印」の支配也。

 京都、天王寺の社人、あはせて、四十八人あり。俸綠四十石づつ也、とぞ。

 姓は、皆、和州、法隆寺知行所の地名を稱す。元來、聖德太子、法隆寺興立のとき、百濟・新羅等の舞樂をつたへ、をしへまはしめ給ふ伶人(れいじん)の子孫、後世、京都、天王寺などに移住せし故、在所の地名を稱する也。

 

○京都、天王寺、伶人、ともに、右方・左方、相(あひ)まじりて、業(なりはひ)を、つたふ。

 右方は「高麗樂(こまがく)」、左方は「唐樂(からがく)」也。

 江戶、紅葉山、伶人は右方斗(ばかり)也。故に關東に、舞樂、有(ある)ときは、京・攝の伶人、下向せざれば、舞樂は、興行、成(なり)がたき事、とぞ。

 

○淨瑠璃かたるもの、某(なにがし)少掾・大掾・某太夫などと稱する事、元來、人形、造りて、禁裏へ奉りしものに、受領號を、ゆるされけるが、はじまり也。

 其後(そののち)、「淨瑠璃」と云(いふ)者を語りて、人形にあはせて、「あやつり」もて、遊びしあひだ、おのづから、「淨瑠璃」語る者の、いきほひ、つよく、人形をつかふものは、其下にまはるやうに成(なり)たる故、いつとなく、人形遣ひの受領號を、淨瑠璃かたるものに、うばはれて、稱する事に成(なり)たる也。

 餅菓子・鏡師なども、禁裏へ奉りしちなみに、受領號、名乘(なのる)事に成(なり)たる也。

[やぶちゃん注:その通り!!!]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(11)

 

   ほろりとも降らで月澄む蚊遣かな 焦 桐

 

 大旱の夜のしゞま、とでもいふべきものを描いたのである。降れと待つ雨は一向降らず、今宵も明るい月が澄んでゐる。暑に喘ぐ人はまだ寢かねて、蚊遣を焚きながら月を見てゐる。恐らく風などの少しも無い、闃寂[やぶちゃん注:「げきせき/げきじやく」。ひっそりと静まり、さびしいさま。]たる夜であらう。

「ほろりとも降らで月澄む」の十二字を以て、大旱の夜の空氣を現した伎倆は尋常でない。蚊遣は片靡[やぶちゃん注:「かたなびき」。]もせず、作者の座右に細々と燻り[やぶちゃん注:「くゆり」。]つゝあるものと想像する。

 

   月涼し百足の落る枕もと 之 道

 

 夏嫌の人が不愉快な箇條を數へる中には、蟲が多いといふことも加つてゐる。羽のある蟲も嫌、羽の無い蟲も厭だといふ。晝だけならまだしも、夜まで灯を求めて活動する。夜の蟲は難有く[やぶちゃん注:「ありがたく」。]ないが、殊にそれが百足と來ては、蟲嫌を標榜せぬ吾々でも降參である。枕にさす月の涼しい光も、こゝに至つては頓に凄涼な感じに變化するやうに思ふ。

 古い藁葺屋根の家を買い求めて、電燈を引き、勝手許[やぶちゃん注:「かつてもと」

。]も綺麗にして住むやうになつたら、急に蟲が多くなつたので驚いた、今まで絕えなかつた燈火の油煙、炊煙の類が自ら防蟲の役をしてゐたのだとわかつた、といふ話がある。蟲嫌を弱らす蟲は、今の建築でも全然はねつけるわけに行かぬらしい。昔の多かつたことは想像の外である。

 

   朱硯の乾くもはやし雲の峯 釣 眠

 

 一種の取合[やぶちゃん注:「とりあはせ」。]の句で、雲の峯立つ盛夏の天と、忽ち乾く朱硯の水とを配合したに過ぎない。かういふ配合を一の趣として感じ得ぬ人に、言葉で說明することは或は困難であるかも知れぬ。

 普通の硯より小型でもあり、淺くもあるから、朱硯の水は乾き易いといふ點もある。大して面白い句でもないが、一讀して筆硯に對する親しさを感ずる。日夕朱硯を伴とする人でなければ、ちよつと思ひつかぬところであらう。

 

   唐黍のかぶりもふらぬ暑さかな 梅 山

 

 所謂そよりともせぬ暑さを詠んだのであるが、相手が唐黍では全體が大き過ぎて、「そより」といふやうな言葉では十分に現れぬところから、「かぶりもふらぬ」といふ中七字を拈出したのであらう。唐黍の頂もぢつとして動かぬといふことによつて、大暑の烈しさ、畑中の照り工合が思ひやられる。

「かぶりもふらぬ」といふやうな言葉は、俳句に用いるにはあまり好ましいものではない。ただ擬人的であるばかりでなしに、否定するといふ意味をも兼ねてゐるからである。「芋の葉や蓮かと問へばかぶりふる」といふ句の如きは、芋の葉と蓮の葉とが似てゐるといふ、『萬葉』以來の問題を取入れたので、蓮かと問うたら、芋の葉がかぶりを振つて否定した、といふ結果になつている。けれどもこの唐黍の句には、さういふ寓意はなささうに見える。作者は大暑にぢつと立つてゐる唐黍を見て「かぶりもふらぬ」と云つたまでであらう。俗謠子の材料になつた芋の葉などでない爲に、それほど俗に陷つてないやうである。

 

   ほめられて小歌やめけり夕涼 微 房

 

 夕涼をしながら何か小唄を口吟んで[やぶちゃん注:「くつずさんで」。]いると、うまいぞと云つて褒める者がある、それつきりうたふのをやめてしまつた、といふのである。「ほめられて」と云つただけでは、相手の樣子は何ともわからぬが、どうもこれは見知越の人らしくない。誰だか知らぬ人に聲をかけられたので、多少ばつが惡くなつて、やめてしまつたものと思はれる。

「遠野物語」の中に、山を越えながら笛を吹いてゐると、白樺の茂つた谷の底から、何者か高い聲で「面白いぞう」と呼はる者がある、薄月夜で連つれも大勢あつたが、一同悉く色を失つて逃げ歸つた、といふ話が出て來る。この話は慥に讀者をぞつとせしめるだけの氣味惡い力を持つてゐるが、微房の句の褒め手はさう物凄い者でもあるまい。大分後の話だけれども、秋葉の原が火除地であつた時分は、夏の月夜などに大和町[やぶちゃん注:「やまちしやう」。]邊の駄菓子職人の中から、咽喉自慢の連中がやつて來て、涼みながら唄をうたつたものだといふ。見知越と否とに拘らず、うまければ「うまいぞう」位の聲はかけたであらう。「ほめられてやめ」る小歌は、先づ此方の世界に近さうである。たゞ月下にうたひすさむだけでなしに、褒められてやめたといふ事件を捉へたのが、この句の働だと云へるかも知れない。

[やぶちゃん注:『「遠野物語」の中に、山を越えながら笛を吹いてゐると、……』私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 九~一六 山中の怪・尊属殺人・老話者・オクナイサマ・オシラサマ・コンセイサマ』の「九 山中の怪」である。

「大分後の話だけれども、秋葉の原が火除地であつた時分は、夏の月夜などに大和町邊の駄菓子職人の中から、……」これは三田村鳶魚の考証随筆「娯樂の江戶」の「大道藝と葭簀張興行」の「秋葉の原の火除地」の一節である。国立国会図書館デジタルコレクションの同書(恵風館大正一四(一九二九)年刊・三版)のここで視認出来る。「秋葉の原が火除地であつた時分」というのは、江戸時代の話と錯覚しがちであるが、読んでみると、これは明治三(一八七〇)年のことであり(前年に相生町で大火があった)、ここにあるエピソード(唄っていたのは、その頃流行った「淸元(きよもと)」である)は、明治七、八年の出来事であることが判る。因みに、この「秋葉の原」は現在の秋葉原駅周辺で、「大和町」は、神田大和町で、秋葉原の南東直近にある現在の東京都千代田区岩本町(グーグル・マップ・データ)である。何時もお世話になるサイト「江戸町巡り」の「神田大和町」によれば、ここは『幕末の頃には、当町から後の東竜閑町方面にかけて、駄菓子問屋が数百軒ほど軒を連ね、随分賑わっていた。また、蝋燭や鼈甲細工、箪笥等を作る職人も多く住んでいた』とあった。]

2024/04/23

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(10)

 

   蠅打に猫飛出ルや膳の下 汶 江

 

 猫はよく食事の時膳の下に入つてゐるものである。膳上の蠅を打つ音に驚いて、下にゐた猫が飛出した。「飛出ル」の一語で、猫の驚いた樣を現してゐる。同時に人間の方も、多少不意を打たれたやうな氣味がある。

 大した句ではないが、空想ではちよつとこの趣を捉へにくい。畫にすれば俳畫よりも漫畫に近いものであらう。

 

   家なみのはなれはなれやけしの畑 竹 夜

 

 家竝が盡きて家が離れ離れになる。さういふところに芥子畑があつて、花が盛に咲いてゐる、といふ趣である。離れ離れの家の間が芥子畑だといふほど、景色を限定しなくても差支無い。離れ離れに建つてゐる家と、芥子畑とが一幅の畫圖に收りさへすればいゝのである。

 形容の大まかな割に、印象の明な句である。吾々も嘗てどこかでこんな景色を見たやうな氣がする。

 

   あからみし麥や正木の垣間より 巴 流

 

 靑い正木垣の間から麥畑が見える。その麥は已に十分に熟してゐる。――垣根の直ぐ外まで、麥畑が迫つてゐる場合と思はれる。

 作者は一望黃熟した麥圃の大景をも描かず、繁忙な麥秋の人事や、それに伴ふ埃つぽい空氣をも描かず、正木の垣の間より瞥見した熟麥の色だけを捉へた。特色ある句といふべきであらう。

[やぶちゃん注:「正木」私は「柾」の方が好みだ。ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus 。]

 

   涼しさや寢てから通る町の音 使 帆

 

「町の音」といふ言葉は、今だと都會の騷音を連想せしめ易いが、これはそんなに大規模なものではない。自分はもう寢てゐるのに、戶外にはまだ涼を逐うて步く人が絕えぬらしく、足音だの、話聲だのが聞える。それなら「人の音」と云つても同じやうなものであるが、「人の音」では夜涼を背景にした町の空氣が、全然現れぬ憾がある。

「人聲の夜半を過ぐる寒さかな」といふ句は、その人聲の何であるに拘らず、一種のいかめしい響がある。深夜の門を通る人聲によつて、現在步きつゝある人々の寒さも思ひやられる。使帆の句はそれに比べると頗る輕い。同じ夏の夜であつても、「猿蓑」の附合にある「暑し暑しと門々の聲」では、猶全く炎苦から離脫出來ぬが、これは自分は已に寢てゐるほど涼しいのである。從つて外の響も涼しく聞かれるのである。

[やぶちゃん注:「人聲の夜半を過ぐる寒さかな」志太野坡の句。「炭俵」(元禄七(一六九四)年六月二十八日奥書)に以下のように前書して載る。「すへて」はママ。

   *

   さむさを下の五文字にすへて

 人聲の夜半(やはん)を過(すぐ)る寒さ哉

   *]

 

   蟲干の又めづらしや繪踏帳 悠 川

 

「長崎にしばしのいとまあり名主の家に入て」といふ前書がある。蟲干の句としては珍しい題材を捉へたものである。

 長崎の繪蹈[やぶちゃん注:「ゑぶみ」。]のことは、古い歲時記には皆說明が出てゐるから、こゝに改めて述べる必要もあるまい。切支丹の信徒を吟味する爲、聖像を踏ませるのである。明治あたりまでの句集には、繪蹈を詠んだものがいくらもあるが、その多くは未見の人事に對して空想的興味を鼓するのだから、どうしても考へて拵へたものになり易い。この場合俳人も講釋師と同じく、見て來たやうな譃をつくわけである。

 この句は繪蹈を詠んだものではないけれども、妙な方角から實在的な繪踏に觸れてゐる。名主のところにある繪蹈帳といふのはどんなものか、それは長崎硏究者に聞くより外は無いが、恐らく繪蹈を行ふ際の人名その他を記したものであらう。悠川が長崎に行つた時は、切支丹迫害當時よりは大分年數がたつてゐるので、多少好奇的な眼で之を見たものではないかと思はれる。繪蹈帳は今の切支丹硏究者に取つても、看過すべからざる材料であらう。

 この句を見て思ひ出すのは、太祇の「魂祭る料理帳あり筆のあと」である。太祇一流のそつの無い、複雜な事柄を一句に纏めた手腕は認められるけれども、この句に比べると、どこか工夫の餘に成つたらしい點がある。故人の書いた料理帳、それは魂祭の爲の設[やぶちゃん注:「まうけ」。]であるといふので、季題にもなつてゐるのであるが、かういふ表現はよほど腦漿を搾らないと出來ない。元祿の句は無造作で自然である。天明の句は細心で巧緻である。

[やぶちゃん注:「繪踏帳」(ゑぶみちやう)は宵曲の推理で正しい。当時、通常、「宗門御改帳」と称するが、隠れキリシタンの多かった島原半島等では、「宗門改絵踏帳」・「宗門改影踏(かげふみ/えいふみ)帳」という標題で残っている。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(9)

 

   竹垣や桶の尻干くりの花 可 吟

 

 竹垣に桶を引掛けて、尻の乾くやうにしてある。その邊に栗の木があつて、例の花が垂れてゐる、といふ小景である。

 栗の花は一面陰鬱な連想を伴ふやうであるが、必ずしもさうばかりではない。栗の花盛りの梢に日の當つてゐるところなどは、むしろ明るい、鮮な感じがする。「合歡未ださめず栗の花旭に映ず」といふ子規居士の句は、その明るい方の趣を捉へたのである。可吟の句はそれほどはつきりした場合ではないが、桶の尻を干す日和である以上、日の照つてゐる栗の花であることは云ふまでもない。

 

   砂に居る心もさびし袷比 洞 月

 

「砂に居る」といふ言葉は多少不十分であるが、砂の上に跼んで[やぶちゃん注:「かがんで」。]ゐるとか、腰を下してゐるとか、とにかく極めて砂に親しい感じと思はれる。春が過ぎて夏に入る頃は、身のまはりが輕くなるに從ひ、室内生活から解放されて屋外の空氣に親しむやうになる。其角に「たそがれの端居はじむるつゝじかな」といふ句があつた。「五元集」には上五字が「旦夕の」となつてゐるが、「たそがれ」にしろ「旦夕」にしろ、外氣に親しむ點に變りは無い。「砂に居る」も先づさういふ意味に解すべきであらう。

 晚春初夏の明るいながらうらさびしい心持を捉へたのが、この句の眼目である。その心持は完全に描き得てゐないかも知れぬが、袷の句の常套に墮せず、作者が捉へようとしたところには、吾々も同感出來る。

「袷比」は「アハセゴロ」と讀むのであらう。「袷時」といふ言葉もあつたかと思ふ。袷を著る時節といふ意味であるが、漠然たる季節をのみ指すのではない。作者は現に袷を著てゐるのである。

[やぶちゃん注:其角の句は「續虛栗」に、

   *

   春夜

 たそがれの端居はじむるつゝじ哉

   *

とあった。]

 

   五月雨や又一しきり猫の戀 白 雪

 

 猫の戀は春にあるばかりではない。猫の子に夏子も秋子もあるやうに、戀の方にも自ら段落がある。季題によつて季節の連想を限るのは、俳句の長所であると同時に、その短所でもあるが、俳人は時に他の配合物を拉し來つて、季節外れの猫の戀を句にしてゐる。子規居士は寒の内から已に戀ひ渡る猫の聲を聞いて、「凍え死ぬ人さへあるに猫の戀」と、稍〻あさましいといふ見方をした。季題の春を猫の戀のシユンとすれば、寒の内のはハシリであり、梅雨中のは時候おくれのわけである。

 梅雨に入つて每日のやうに雨が降る。その雨の中を戀ひ渡る猫の聲が聞える。「また一しきり」[やぶちゃん注:「また」はママ。]といふのは、春以來一時やんでゐた戀猫の聲が、五月雨時になつて再興されて、又一しきり聞えるといふ意味であらう。この「一しきり」は普通に「雨が又一しきり强く降る」などといふほど、短い時間の「一しきり」ではない。長い梅雨の間の一時期を指すものと思はれる。

 

   五月雨や朝行水のたばね髮 洛 翠

 

 行水といふものは大體夕方か、夜のものと相場がきまつてゐる。一日の汗を流す簡單な入浴なのだから、實際問題から云つても、さういふ時間になり易い事情がある。

 この句は變つた場合と見えて、特に「朝行水」といふ語を置いた。時節も五月雨だから、所謂行水のシーズンではない。「朝行水のたばね髮」といふ言葉は、束ね髮をして朝行水をする、といふ意味にも取れる。朝行水をした後を束ね髮でゐる、といふ意味にも取れる。後の解の方がよくはないかと思ふ。

「雲萍雜志」の著者は「夏日の七快」の一として「湯あみして髮を梳る[やぶちゃん注:「くしけづる」。]」を擧げた。五月雨時の粘つた膚を朝行水で洗ふのは、爽快でないことはないかも知れぬが、夏日の十快には該當しさうもない。やはり五月雨の鬱陶しさが先に立つからであらう。

[やぶちゃん注:「雲萍雜志」(うんぴょうざっし)は江戸後期の随筆で四巻。文人画家柳沢淇園(きえん)の著と伝えられるものの、未詳。天保一四(一八四三)年刊の和漢混交文の随筆。吉川弘文館『随筆大成』版を所持するが、ここは国立国会図書館デジタルコレクションの「名家漫筆集」(『帝國文庫』第二十三篇・長谷川天渓校訂・昭和四(一九二九)年博文館刊)の正字版の当該部を視認して、以下に示す。読みは一部の留め、二行目以降の字下げは無視した。

   *

○夏日(かじつ)の七快(くわい)

湯あみして髮を梳る。掃除して打水(うちみづ)したる。枕の紙を新にしたる。雨はれて月のいでたる。水をへだてゝ燈(ともしび)のうつる。淺きながれに魚(うを)のうかみたる。月のさし入(いり)たる。

   *]

 

   ほとゝぎす月夜烏の跡や先 里 東

 

 月夜に浮れて烏が啼く。さうかと思ふと今度はほとゝぎすが啼渡る。月夜烏[やぶちゃん注:「つきよがらす」。]が啼き、ほとゝぎすが啼く、といふ趣を詠んだのである。「跡や先」といふ言葉は、前後して啼くと云つたら、一番わかりいゝかも知れない。

 鵑聲と鴉聲とを[やぶちゃん注:「けんせいとあせいとを」。]配したものは、其角に「それよりして夜明烏や時鳥」といふ句がある。ほとゞぎすの聲を聞いてから、ややあつて夜明烏の聲が聞える、といふのである。尤もこの方は聲々相雜るのではない。鵑聲から鴉聲に移ることによつて、夜明に至る時間の經過を現してゐる。(「己が光」には中七字が「それよりして夜明の馬や」となつて居り、傳へ誤つたものかとも思はれるが、明方早く戶外を通る馬の音は、又別個の趣をなしてゐるやうである。一槪に誤傳とすべきではあるまい)

 

   螢籠提て聞夜や後夜の鐘 半 殘

 

 螢を追うて知らず知らず遠くまで步いて行つたやうな場合かと想像する。もう大分更けたと見えて、どこかで後夜[やぶちゃん注:「ごや」。午前四時前後。]の鐘を打つのが聞える。作者はこの鐘聲に驚いて、螢籠を提げながら踵[やぶちゃん注:「きびす」。]を囘したことであらう。

 この句では「提」の字がよほど句の意味を限定する力を持つてゐる。若しこれが假名で「さげて」とあつたならば、必ずしも螢狩の場合にはならない。軒に螢籠を吊して後夜の鐘を聞くとも解せられる。單に「螢籠」といふ時は、螢狩を連想せぬ方が寧ろ自然かも知れない。けれどもこの句は現在手に提げてゐるのだから、軒端の螢では工合が惡い。夜更に螢籠を提げてゐるとすると、螢狩の句と見るのが妥當らしく思はれる。

 但中七字に「聞夜」とあつて、下五字にまた「後夜」とあるのは、文字面ら云つて多少重複の感を免れない。「後夜」は時刻の名には相違ないが、夜であることが明な以上、「聞夜」の「夜」は蛇足のやうである。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(8)

[やぶちゃん注:初句の「潛」は「くぐり」と読む。二句目の「(ツヽヲ)」は珍しい底本のルビである。「ヲ」はママ。]

 

   裏門の潛に見ゆる靑葉かな 野 紅

 

 簡單なスケツチである。

 裏門の潛戶があいてゐて、そこから庭の靑葉が見える。塀をめぐらした大きな屋敷でもあらうか。かういふ景色には屢〻逢著しながら、これほど單純に句にすることはむづかしい。「潛に見ゆる」が一句の眼目である。

 

   卯の花や落米(ツヽヲ)を拾ふ雞の聲 里 東

 

 卯の花の咲いたあたりに米がこぼれてゐる、その米を啄む雞の聲がする、といふだけの句である。俳句に用ゐられる「雞の聲」は、牡雞の時をつくる聲が多いやうであるが、これは落米のところに集つて、コヽヽヽヽと忙しげにいふ方であらう。卯の花と落米との取合は、場合によつてその落花を落米に見立てたやうな解釋を生ぜぬとも限らぬが、雞が啄んでゐるのだから、正眞正銘の落米であるに相違無い。

「つつお」といふ言葉は「大言海」などにも、「筒落米、つゝおちまいノ略、米さしヨリ落チコボレタル米の稱。ツヽオチゴメ。ツヽオゴメ。略シテつゝお」と出てゐる。何時頃からある言葉か知らぬが、西鶴は「永代藏」の中に「西國米水揚の折ふし。こぼれすたれたる筒落米をはき集て。其日を暮せる老母」が、落米を拾ひ溜めては賣り、拾ひ溜めては賣りして、二十餘年間に十二貫五百目の金を得た、といふ話を書いた。「懷硯」にも「早や敦賀に賣られ、筒落米拾ひし事を忘れたか」とあるから、最初は船著[やぶちゃん注:「ふなつき」。]の落米を云つたものらしい。「ツヽオチゴメ」といふ言葉は調子が惡いが、どうしてチを略してツヽオとなるのか。「花咲かせ爺」とあるべきが「ハナサカヂヂイ」で通用する例と同じものかどうか、さういふ問題になると吾々の手には合はない。但里東のこの句は西鶴の書いたやうな、船著の光景ではなささうである。農家の庭などにこぼれた米を雞が啄んでゐる、しづかな趣であらう。

[やぶちゃん注:「何時頃からある言葉か知らぬ」所持する小学館「日本国語大辞典」を始めとした国語辞典、複数の古語辞典を総て見たが(酷似した項目も参照した)、引用例で最も古いのは、ここで宵曲の挙げた井原西鶴の「日本永代藏」貞享五(一六八八)年刊であった。まず、ここで使用している以上、遅くとも江戸前期末には、既に使われていたものと考えてよかろう。

『西鶴は「永代藏」の中に「西國米水揚の折ふし。……」国立国会図書館デジタルコレクションの「日本永代藏」(和田万吉校訂・昭和三(一九二八)年岩波文庫刊)の「二 京にかくれなき始末男」「二 浪風(なみかぜ)靜(しづか)に神通丸(じんづうまる)」の一節にあった。ここの左ページの二行目以下である。

「懷硯」同じく西鶴の浮世草子。貞享四(一六八七)序国立国会図書館デジタルコレクションの「西鶴文集」三版 (『文芸叢書』三・幸田露伴校訂・大正三(一九一四)年博文館刊)の同作「卷二」のここ(左ページ三行目)。

「チを略してツヽオとなるのか」小学館「日本国語大辞典」にも語源説はなかった。]

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譚 海 卷之十四 香の名十種の事 梅樹の名の事 櫻の名目の事 牡丹名目の事 菊花名目の事 榛名目の事 日本鍛冶受領の事 禁院御賄料の事 禁裏御門名目の事 甲州海道行程の事 加茂祭禮の事 本阿彌刀目利の事 京都大坂御奉行所の事 和州吉野山の事 伏見泉湧佛舍利の事 北野天滿宮別當の事 京堀川空也堂の事 京都寺社役人方内の事 京八条長講堂の事 紀州玉津島明神の事 同所若山旅宿掟の事 高野山女人參詣の事 同山由來の事

 

○香の名は十種有(あり)。「けいは」・「やかす」・「小草」・「花月」・「源氏」・「名所」・「宇治山」・「小鳥」。

 

○梅は、「六代」・「照水梅」薄紅・「寒梅」・「菔(えびら)」・「とび梅」薄紅・「大白摩耶」濃紅・「寒紅梅」・「末開紅」[やぶちゃん注:底本では編者に拠る補正傍注が「末」の字の右に『(未)』とある。]・「豐後(ぶんご)」うす紅

[やぶちゃん注:「照水梅」枝垂れ梅の一種。

「菔」梅の一品種。花は淡紅色で大きく、桃の花に似ている。

「未開紅」梅の園芸品種。後に出る「豊後梅」の系統で中国渡来の品種とされる。花は紅色・大輪で、莟は多数つくが、開花するものは少ない。

「豐後」「豊後梅」は梅の変種。アンズとの雑種に由来するとみられ、葉・花・果実が大きい。花は半八重のものが多く、淡紅色で遅咲き。果実は径約五センチメートルの球形で黄赤色に熟し、赤褐色の斑点がある。果肉は厚く甘酸っぱく、梅干や煮梅にされる。「鶴頂梅」「肥後梅」「越中梅」の別名がある。]

 

○櫻は、「彼岸櫻」・「江戶櫻」・「鹽竃」・「山櫻」・「うば櫻」・「すいしひ[やぶちゃん注:底本では編者に拠る補正傍注が「しひ」の右にあり、『(ふう)』とある。」は、「り」・「あさぎ」・「霧ケ谷」・「とらのを」・「ふげんぞう」。

 

○牡丹は、「高雄」・「むれ咲」・「泰花仙[やぶちゃん注:底本では編者に拠る補正傍注が「花」の右にあり、『(白)』とある。」」・「壽の字」本紅小りん・「神代卷」紅中りん・「しかまやけ」大白ひらまあり・「姬小松」薄紅中りん・「北時雨」大りん紅・「風の薗」濃紫・「朝霧」・「洞雀亭」白大りん・「雲の林」薄紫

[やぶちゃん注:以上の条の花の解説部は二行割注型になっている箇所があるが、総て上附とした。以下も同じ。]

 

○菊は、「大白」・「黃ぶちひねり」・「ゑんをう」・「ぬれ鷺」・「大般若」・「沙金」かば色・「金目貫」小菊・「猩々菊」

 

○椿は、「三井寺」・「うんの」しぼり・「廣島」薄紅・「白ひげ」・「紀國大須賀ちゞみ」しぼり・「大坂もつかう」・「のゝせもの狂」・「元和」中紅・「德水」・「こしみの」薄色二階咲・「かけひ」・「ろくしやうとび入」・「風車」

[やぶちゃん注:「二階咲」思うに「二回咲」(二度咲き)のことではあるまいか?]

 

○京都に、日本中の鍛冶の受領をいだす鍛冶(かぢ)の家、有(あり)。敕許の者にて、世々、西洞院通竹屋町下ル所に住居す。鍛冶の受領の禮金、二百疋づつ出(いだ)す事也。日々、受領を取(とり)に來るもの、おびたゞしき事也。

 此者の家にて打(うち)たる太刀・小刀の類、「雷除(かみなりよけ)」とて、賞し、傳ふる也。其銘、十六葉の菊を打(うち)、

「雷除日本鍛冶宗匠伊賀守金這道 如ㇾ此打也」

 丹波守も兼帶也。

[やぶちゃん注:「鍛冶の受領」底本の竹内利美氏の後注に、『鍛冶師が国守名を免許されること。中世の座の伝統をうけつぎ、京都の座元の家から「××守」の官名を認許されるのである』とある。]

 

○禁裏御賄料は、三萬石。仙洞御所は、壹萬石。本院御所は五干石。其餘、臨時御入用は、皆、關東より調進也。禁裏御取締り役と云(いふ)者、壹人づつ、關東より定居(ぢやうをり)に被仰付相勤(あひつとむ)也。諸寺院・宇治・瀨田橋等の造替(つくりかへ)、御修覆等も、取締り役の掛り也。

 

○禁裏外御門は、南方に壹ケ所、北方に壹ケ所、東方に三ケ所、西方に四ケ所、都合九門。是を以て「九重」に比せらるゝと云(いふ)。所ㇾ謂(いふおころ)、下立賣(しもだちうり)・境町(さかひまち)・今出川、是を「三門」と稱して、取しまり役、掛り也。又、武家門【「寺町御門」ともいふ。】・新在家御門【「蛤御門」共云(ともいふ)。】・乾(いぬゐ)御門・中立賣・石藥師・淸和院口【「小廣池」とも云。】、是を「六門」と稱して、非藏人(ひくらうど)、かゝり也。

[やぶちゃん注:「非藏人」江戸時代、賀茂・松尾・稲荷などの神職の家や、家筋のよい家から選ばれ、無位無官で宮中の雑用を勤めた者。]

 

○甲州街道は、京より東海道筋富士川の西通り、西河内より岩淵へ下り、十島村【此間、御關所、有(あり)。】、波木井郡、【身延山迄、かけこし。】鰍澤(かじかざは)村、富士川を渡り、東郡(ひがしごほり)筋、靑沼迄、夫より甲府・伊澤・鶴背・郡内領・江戶街道へ出(いで)、小佛峠【是、相模・武藏の堺、御關所、有。】、木曾海道[やぶちゃん注:ママ。「街道」。]なれば、下の諏訪より甲州敎來石(けうらいいし)【甲・信、境。】。是より、身延へ參詣すべし。

[やぶちゃん注:ルートの地名は以下を除き、検証しない。

「敎來石」山梨県北西端、現在の北杜市にある地名。釜無川に沿い、江戸時代は甲州街道の台原(だいがはら)・蔦木(つたき)の間にあった旧宿駅。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。]

 

○加茂祭禮は、中比より斷絕せしを、常憲院公方樣、御再興被ㇾ成、舊例に復せり。每年祭禮料として、關東より、七百石づつ、米を加茂の社司へ賜ふ。是にて「御蔭神事」上下(かみしも)、「あふひ祭」、五月五日「競馬」等まで、勤(つとめ)おこなふ事也。

[やぶちゃん注:「常憲院」徳川綱吉の諡号。]

 

○刀目利(かたなめきき)「本阿彌」の者、江戶に七軒、有(あり)。右七人の内、五年目に、壹人づつ、上京して、禁裏御寶劔の類を拭(ぬぐひ)、御用、相勤(あひつとめ)、壹ケ年づつ、在留也。

[やぶちゃん注:『刀目利「本阿彌」』底本の竹内利美氏の後注に、『本阿弥(ほんあみ)家は刀剣鑑定の名家で、始祖妙本は南北朝末期の人。その末孫は足利・豊臣・徳川の代々に仕えて、刀剣の鑑定にあたった。十一の分家が生じ、本家をあわせ、本阿弥十二家と称された』とある。]

 

○京都大坂町奉行衆は、寺社支配兼帶也。京都の役所は、二條御城西と南方橫町に有(あり)。

 大坂は、御城近所、内町に有(あり)、「御西御東」と稱す。大坂獄屋も同所にあり、牢の前とて、銀物商人、多く居(を)る所也。

 

○吉野山に實城寺櫻本坊とて、山伏の先達の寺二ケ所あり。實城寺は聖護院宮の先達、櫻本坊は醍醐三法院宮の先達也。何れも宮の峯入の時は、宿し給ふ坊にて、美麗なる座敷、有(あり)。實城寺は、南帝の皇居を其儘に殘し傳へたる座敷也。

「同所に喜藏院とて有(ある)は、日本國中の山伏の、印可、出(いだ)す寺なり。」

と、いへり。

 又、此山中に、後醍醐帝の遺臣の家筋の者、二十人、有(あり)。鄕侍(がうし)のやうにて居住し、公儀御巡見使など、登山有(ある)時は、案内を勤(つとむ)る事を役とす。

 今も、後醍醐帝の御陵、有。如意輪寺の寶庫の鍵を、二十人にて、つかさ取(どり)、右の寺の什物拜見の事、望む時は、一人、鍵を持來(もちきた)りて、藏を開(あけ)、御物(ぎよぶつ)を取出(とりいだし)て拜見さする也。御物拜見の料、鳥目百文づつ、鍵をつかさどる人に遣(つかは)す事也。

 

○京伏見、泉涌寺の舍利拜見も、燈明料とて、鳥目百文、奉納する事也。佛舍利、黃金の寶塔ありて、敕封、有(あり)。

 御卽位の後は、かならず、舍利參内と云(いふ)事ありて、住持、持參し、天覽に備(そなへ)奉れば、先帝の御封を開かれ、當今の御封を改封せらるゝ事、とぞ。

 泉涌寺、天子御代々の御陵、有(あり)。此外に、京都に般舟三昧院(はんじうざんまいゐん)といふは、禁裏の内道場とて、御法事は爰(ここ)にても行(おこなは)るゝ也。般舟院は京都今出川通、「定家(ていか)の厨司(ちゆうず)」といふ所にあり。則(すなはち)、式子内親王の住所にて、親王の御墓幷後鳥羽院御陵など、此寺に有(あり)。御法事のとき、禁裏女房、參詣の座敷も、有ㇾ之。

[やぶちゃん注:「般舟三昧院」京都市上京区般舟院前町にあった天台宗指月山般舟院の別称。現在は西圓寺(グーグル・マップ・データ)という単立寺院となっている。]

 

○北野天滿宮は、神主は、なし。別當斗(ばかり)也。別當、大勢、有(あり)、中松梅院と云(いふ)、其(それ)、勾當(こうたう)なり。

「北野別當、實子なくては、職を嗣(つぐ)事、あたはず。實子なければ、其家督、斷絕せらるゝ故、昔より、よほど、斷絕に及(および)たる別當、多し。」

と、いへり。

 

○空也堂は、京堀河たゝき町に有(あり)。正徳庵・東之坊・壽松庵・利淸庵・金光庵・德正庵・南之坊・西岸庵とて、寺中八ケ寺有。

 此中(このうち)、正德庵は住持の和尙、居往也。殘りは、皆、妻帶にて、茶筌(ちやせん)をあきなふ事を業(なりはひ)とす。八ケ寺、まはりまはりして、住持す。

 住持になるときは、妻帶をせず、一代、淸僧也。

 又、朝暮勤行(てうぼごんぎやう)の文(ぶん)は、空也上人、作り給ふ由(よし)。古雅なる文詞(ぶんし)也。寒中、「鉢たゝき」の、洛中をうたひありく詞(ことば)は、又、外の文詞也。

 勤行の體(てい)、住持壹人、伴僧貳人、此三人は僧也。此外に、うはつのぞく、四人、法衣(ほふえ)を着て、むねに鉦鼓(しやうこ)を、かけ、左右に、たち向(むかひ)て、同音に文句をくわし[やぶちゃん注:ママ。底本では、「くわ」の右に編者に拠る補正右傍注があり、『(和)』とある。]、せうこ[やぶちゃん注:ママ。]を、ならす。往持は、文句をとなふる計(ばかり)なり。伴僧貳人、手にて瓢簞をたゝき、文句を和し、終(つひ)には、互ひに、おどりいでて、ぜん後、入(いれ)ちがひ、いきほひこみて、勤行をなす。これを「歡喜踊躍念佛(かんぎゆやくねんぶつ)」と號せり。

 

○大德寺・妙心寺をはじめ、五山に、みな、行者(あんじや[やぶちゃん注:底本のルビ。])あり。僧形(そうぎやう)にて、妻帶也。寺務を司り、はなはだ、いきほひあり。法事の時は、素絹(そけん)を着する也。

 

○京都寺社役人に、「方内(はうない)」といふ者、四人ありて、東西南北を、わかち、おのおの一方の支配を司る。至つて、いきほひ有(ある)もの也。寺社見物に、方内の書翰を、もらひて、いたれば、殊に珍重して、いたる所の寺社、ねんごろに、あい[やぶちゃん注:ママ。]しらふ事也。

 

○八條の長講堂は、後白河院御陵、有(あり)。御法事の度ごとに、勅使を、つかはさるゝ也。

 

○紀州和歌浦、玉津しま明神の社、右に寶庫あり。禁裏御奉納の和歌を納置(をさめおく)所、とぞ。

[やぶちゃん注: 現在の和歌山県和歌山市和歌浦にある玉津島神社(グーグル・マップ・データ)。現在もその宝庫があるかどうかは判らないが、同神社公式サイトの『和歌三神を祀る「和歌のふるさと」』を見られたい。]

 

○同所、和歌山城下、逆旅(げきりよ)は、武家を宿さする事を、甚(はなはだ)むづかしく取扱(とりあつかふ)事也。帶刀せざる旅人をも、一宿きりにて、二宿におよぶ時は、鄰家、逆旅、轉宿する事也。米は八合を壹升とし、木賃(きちん)とまりなどの約(やく)を定(さだむ)る事也。

[やぶちゃん注:「木賃とまり」宿駅で、客の持参した食料を煮炊きする薪代(木銭・木賃)だけを受け取って宿泊させた、最も古い形式の旅宿形態。食事付きの「旅籠」(はたご)に対して言う。]

 

○高野山、女人堂(によにんだう)までは、婦人、參詣す。婦人は、こゝにて、止(とどま)り、男子斗(ばか)り、登山すれば、登山、宿坊より女人堂まで、酒食を遣はして、婦人をねぎらふ事也。高野山にて調ふる經帷子(きやうかたびら)、一領の料、三百文也。九重の、寺に、皆、あたひ、定(さだま)りて、もらひうくる事也。

[やぶちゃん注:「女人堂」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

○高野山、大師の廟所[やぶちゃん注:底本には「所」の右に編者に拠る補正傍注があり。『(前)』とある。]に、萬燈堂ありて、參詣の者、亡靈のために、燈油料十二錢を納(をさむ)るときは、堂僧、油を、つぎたす。堂中の燈光、螢火の如し。堂の左に骨堂(こつだう)あり、爪・髮・遺骨を納(をさむ)る所なり。右に經堂あり、石田治部少輔三成、母の菩提の爲に造立せし、よし、額に、しるしあり。

 

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(7)

[やぶちゃん注:初句は「いへづとやしきみにつきしささちまき」と読む。]

 

   家土產や樒に附し笹粽 鶴 聲

 

 粽といふものは、國により土地によつて隨分種類があるらしい。歲時記などにもいろいろ書いてあるが、名稱だけでは猶心往かぬ感じがする。粽の種類を列擧するのは、風俗誌の領分に屬するにしても、各地に固有の粽が存在する以上、俳人の觀察がそこに及ぶのも徒爾[やぶちゃん注:「とじ」。無意味・無益なこと。]ではあるまい。例へば「猿蓑」

にある「隈篠の廣葉うるはし餠粽 岩翁」といふ句にしても、單に粽とのみあるものよりは、遙に讀者に與へる印象がはつきりしてゐるからである。

 鶴聲の句の粽は笹に卷いたもので、樒の枝にいくつもつけてあるらしい。特に「家土產」と斷つてあるのは、御土產用にさういふものを賣つてゐるのか、持つて歸る便宜の爲にさうしてくれたのか、その邊はわからない。

[やぶちゃん注:「粽といふものは、國により土地によつて隨分種類があるらしい」まず、グーグル画像検索「粽 地方 違い」をリンクさせておく。なんとなく、バラエティがあるのが判る。そこにもあるサイト「grape」の植木みさと氏の記事『「知らなかった」「全然違う!」 何気なく食べている『ちまき』、実は…』を見られたい。具体に凡そ同一物とは思われない三種が掲げられてある。そもそもが、私は「粽」というと、そこに出る鹿児島の「あくまき」を想起する人種なのである。何故かって? 小さな頃、「端午の節句」になると、大隅半島の山家の母の実家から「あくまき」が送られてきたからである。私の両親は従兄妹同士であるため、この非力文弱の私の四分の三は、実は鹿児島人の血なのである。

「樒」仏事で仏前や墓に供えられる 事が多い(特に関西地方)アウストロバイレヤ目マツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum であるが、不審があるシキミは全草が有毒(特に果実が劇毒)であり、葉は強い香りを持つからである。櫁の葉や枝を粽に用いる地方があるのかと、半信半疑で探してみたが、見当たらなかった。そこで、考えたのは、現在、盛んに神事に用いられる、葉がよく似たツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica があるが、こちらは無毒である。しかし、やはり粽に榊(さかき)を用いる例を、現行では確認出来なかった。なお、いい加減な葬儀社では、匂いを嫌ったものだろうが、仏式の葬場にサカキを代用で用いているケースがある(名古屋での親族の葬儀で、親戚の者がサカキであることを指摘し、換えさせたのを見た)。ともかくも「粽」の傍に「櫁」という組み合わせは、おかしいのである。]

 

   靑梅や葉かげをのぞく眉の皺 伽 香

 

 活字本には「眉の雛」となつてゐるが、恐らく「皺」の誤であらう。假に原本に「雛」とあつたにしても、雛では意味をなさぬ。木版本にもこの程度の誤は屢〻あるから、皺として解すべきものと思はれる。

 嘗て蕪村句集輪講の時、「靑梅に眉あつめたる美人かな」の「眉あつめたる」について議論があつたのを、これは何でもない、靑梅を見て、おゝ酸ぱいと云つて眉を寄せたのだ、と斷じたのは子規居士であつた。伽香の捉へどころも全く同じで、「眉の皺」は子規居士說の通りと思はれるが、蕪村は眉あつめたる美人を主として描き、伽香は靑梅を見る樣子に重きを置いたので、句の表は大分異つたものになつてゐる。葉陰の靑梅を覗いて眉根に皺を寄せる者は、やはり女であらう。元祿と天明との相異はここにもある。句としては蕪村の方が成功してゐるかも知れぬが、時代的に先じた點で、伽香の句を一顧する必要がある。

[やぶちゃん注:「靑梅に眉あつめたる美人かな」所持する岩波文庫尾形仂校注「蕪村俳句集」(一九八九年刊)では、明和五(一七六八)年五月二十五日の作とし、

    *

 靑梅に眉(まゆ)あつめたる美人哉

とある。尾形氏の脚注があり、『越の美女西施が胸を病み眉をひそめていたのを、美人はかくするものと、醜女どもがその貌をまねた故事(『蒙求』西施捧心)』とある。子規の読み込みの浅さが歴然とする。]

 

   しら壁や若葉のひまの薄曇 葉 圃

 

 新綠に蔽はれた初夏の天地は、すがすがしい明るさを持つてゐる一面、何となくどんよりした感じを免れない。この句はどんよりした方の趣である。

 茂り合ふ若葉のひまから白壁の家が見える。綠と白との對照が、どんよりした薄曇の中に眼に入るのである。景色としては格別珍しいこともないが、慥に初夏の或趣を捉へ得ている。

 

   白壁は若葉に曇る朝けかな 未 出

 

といふ句も、同じくどんよりした若葉の趣である。「朝け」といふ時間を持出したことが、どんよりした若葉の感じを助けてはゐるが、眼に訴へる印象からいふと、前の句の方がすぐれてゐる。殊に看過すべからざるものは「ひまの」の三字であらう。後の句の「白壁は」といふ上五字は、「白壁の」と大差ない意味であらうが、決して巧な用語といふわけには行かない。

[やぶちゃん注:「葉圃」越後新潟の俳人苅部葉圃。寛保元(一七四一)年序の俳諧選集「とし祝」(京都版元)を編している。早稲田大学図書館「古典総合データベース」で原本を視認出来る。]

2024/04/22

私はユダヤ人に対する「ホロコースト」を死ぬまで語らないことに決した

私は高校二年生の時、図書委員長として、図書部の文化祭参加をし、私の父や私の所持する「第二次世界大戦」以後の非人道的行為の複数の写真集を展示した。そこには、無論、ナチスによるユダヤ人虐殺を告白する希少な写真集を見られるように置いた。

しかし、今、人間獣シオニストらの非人間の行為を目の当たりにして、私は向後、死ぬまで、一切、それを訴えることを「拒否する!!!!!!!!」――

本『宇野浩二「芥川龍之介」』のリンクに就いて

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譚 海 卷之十四 參覲の大名江戶着日の事 朝鮮人登城日御役人通用の事 百姓町人婚禮脇差の事 大和國春日御神領の事 唐土より渡りし織物品々の事(三十七条)

[やぶちゃん注:「甲州海道」はママ。「唐土」(もろこし)「より渡りし織物品々の事」は「○」附き条だけで示した通り「三十七条」もある、本書の特異点である。但し、それらには、異国のものではない、本邦独自の織物も、多く含まれている。正直、今日、五時間近く、かかった。ちょっと、疲れたわ……。

 

○參覲(さんきん)諸大名、幷(ならびに)、遠國御役人等、江戶參着の義、公儀御精進日にても不ㇾ苦、勝手次第たるべきよし。寶永七亥の年四月被仰出候事、とぞ。

[やぶちゃん注:「寶永七亥」一七一〇年。第六代徳川家宣の治世。]

 

○朝鮮人登城日、表向(おもてむき)御役人、登城・退出とも、坂下御門、出入のよし、御定(ごぢやう)也。

[やぶちゃん注:「坂下御門」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

○百姓・町人の婚禮に、脇指(わきざし)など遣(つかは)し候義、無用のよし。賓永亥のとし、五月仰渡(おほせわた)されし、よし。

 

○大和國、春日の御神領は、貳萬三千石也、此外に鹿領(しかりやう)とて五百石あり。貳萬三千石の内にて、二[やぶちゃん注:底本には編者による補正右傍注があり、『(五)』とある。]千五百石は社司十四人の領する所也。此社司の内、極﨟(きやくらふ)は、三位に敍せらるゝもの、二、三輩あり。其下に、八百八、禰宜、有(あり)、雜役を相勤(あひつとむ)るもの也。

 常陸國、鹿しま大明神にも大宮司あり。春日の社司と同姓也。現在、塙(はなわ)大和守と云(いふ)者也。

 春日社司、富田三位(さんみ)の子にて、塙へ養子に遣(つかは)したり。此大宮司の親、いさゝかの科(とが)ありて、久しく同所揖取の社内に蟄居せしが、今漸(いましばら)く、訴訟、叶(かなひ)て、鹿島へ歸住せり、と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「富田三位」春日大社の旧社家は確かに富田家であるが、詳細は不詳。]

 

○「吳郡の綾」・「蜀江の錦」とて、二品は織物の最上第一とす。すき者の「時代きれ」とて、用(もちゆ)るも、此二品にすぐるは、なし。秦の始皇の比(ころ)は、いまだ、織物もさだかならざるゆゑ、金箔を以て、紋を、おし、つくりたるを、今、「印金」といふ也。

[やぶちゃん注:以下、冒頭注で述べた通り、ここから「唐土より渡りし織物品々の事」は「○」附き条だけで、三十七条が続く。私は生地や織物には全く興味がなく、全く冥いので、総てが理解出来ている訳ではなく、疑問の名称も多々あるが、それらを「不詳」と注すると、このソリッドな部分の注が、不詳の堆積になるだけであるので、底本の注以外は、ごく一部のみを注した。悪しからず。

「吳郡の綾」「蜀江の錦」底本の竹内利美氏の後注に、『中国古代に蜀の国から産出した錦織が蜀江の錦であり、呉国から産出したのが呉郡の綾織である。ともに精巧な織物で、後世これに模した織物もつくられた』とある。]

 

○緞子(どんす)、わたりは、紋がら、麁(そ)にして、いやしく、うら・おもてに、つや、有(あり)。幅は、かね[やぶちゃん注:「曲尺(かねじやく)」。]二尺四寸迄也。京織は、もんがら、うつくしく、少し、のりけあるやう也。中(ちゆう)ものより已下は、「裏引(うらびき)」とて、のりを引(ひき)、もよう、さまざまありといへども、古來より、ありきたる「ぼたん」・「からくさ」・「菊」・「らん」也。

[やぶちゃん注:「緞子」織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして、紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた以下に出る「繻子」(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出したものを指す。「どんす」という読みは唐音で、本邦には室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。]

 

○「顯紋紗(けんもんしや)」には、ほそきを「せんしや」といふ。「けんもん」は總(さう)の地に、もん、有(あり)、「とびもん」も有(あり)、「花の丸」・「扁寺」の字等(など)あり。「總もん」は「ひしたすき」、或は、「小あふひ」・「竹のふし」・「むぎわらすぢ」・「金もんしや」・「銀もんしや」、ともに、「とびもん」也。片面、有(あり)、幅壹尺二寸より、三尺に至る。

[やぶちゃん注:「紋紗」(もんしゃ:古くは「もんじや(もんじゃ)」とも呼んだ。文様を織り出した紗)の一種。紗の地に、平織で文様を織り出したもの。「けんもんさ」「けもんさ」「けんもさ」「けんもん」とも呼ぶ。]

 

○「鹿の子纈(かのこしぼり)」は「をくゝり」、「縊(くくり)」は「めくゝり」といふ。

 

○「紗水(しやすい)かん」・「ちや羽織」等、夏の服に用ゆ。

 

○「繻珍(しちん/しゆちん)」は、もやう、こまかにして、「わり紋」とて總地、「もん物」也。「おりいれびし」・「卍字(まんじ)」・「三重たすき」・「花わちがひ」・「きつこう」・「長春唐草」・「わりびし」等を、五色の絲にて織(おり)つくる。地色(ぢいろ)、きはまりなし。いづれも、「どんす」のもようとは、ちがひ、「うけもん」也。「どんす」は、「かたもん」也。

[やぶちゃん注:「繻珍」底本の竹内利美氏の後注に、『シチン、またはシュチン。ポルトガル語のSetim、あるいは唐音七糸緞(しちんたん)の略という。瞎子地に色糸などで浮模様を織出したもの。帯地等に主に用いる』とある。]

 

○「莫臥龠(もうる)」、「もうる」は國の名也。「どんす」と「しゆちん」との二品に似たるもの也。「大もやう」・「小もやう」、有(あり)。但(ただし)、「うけもん」の間へ、「かたもん」をまぜたるもの也。五色の絲をもちて織(おり)、地(ぢ)は「しゆす」に似たり。「とびきん」を、あしらひたるを、「きんもうる」といふ。いかにも上品也。もよう、さまざま也。

[やぶちゃん注:「莫臥龠」底本の竹内利美氏の後注に、「もうる」とルビされ、『モール。莫臥児(モゴル)はインドの地名。もとモゴル産の織物から出た名という。緞子に似た厚地の浮織の織物。金糸や銀糸を緯糸に用いたものか、金モールあるいは銀モールで、後にはそれが金銀糸だけを織合せたものになった』とある。]

 

○「金欄(きんらん)」は、「やき金」・「あを金」・「こいろきん」・「かなら」・「しんちう」・「金銀らん」等也。模樣は「菊」・「ぼたん」・「梅」・「八ツ藤」・「十二の小ぼたん」・「孔雀」・「桐」・「から草」・「おほちきり」・「雲龍」・「たからづくし」・「浪の丸」・「石だゝみ」・「ほうとう」・「きんくわてう」・「水ながし」・「小桐」、その外、つくしがたし。「銀らん」も、おなじ。

 

○「雪の下」、「らんけん」に似て、地(ぢ)あひ、うすし。「とびもん」は「かたもん」也。地(ぢ)もんは、「うけもん」也。模樣は、さだかならず。凡(およそ)、「梅の折枝」・「ごとう桐」・「つくりつち」・「『せいがい』に水鳥」・「小鳥に『なり物』」・「菊から草」・「たからづくし」・「稻妻」、其外、盡(つく)しがたし。

 

○「龍紋」織色は、なし。何(いづれ)も染色也。「繻子」(しゆす)のうらを見るがごとし、きよく、つまりたり。裏・表、なし。模樣、なし。「平(ひら)けん」なり。「へいけん」とは、無地を、いふ。「りうもん」は其所(そのところ)の名也。絹の名に用(もちい)來り、京にても、よく織(おる)也。

 

○「卯花[やぶちゃん注:底本では右に編者に拠る補正傍注があり、『(印華)』とある。]布(いんくわふ)さらさ」は、「とうゐん[やぶちゃん注:底本では右に編者に拠る漢字表記『(唐音)』とある。されば、歴史的仮名遣は「たういん」が正しい。]」也。紋を印(いん)にして、布に、おす。織もののごとく、南京より渡る。「えびす國」よりも來(きた)る。日本にて洗へども、少しも、はげず、「ぶた」の油をもちて染(そむ)ると云(いふ)。「唐(から)あかね」とて、あかきは、乙切草(おとぎりさう)の汁を取(とり)て製すると、いへり。いまだ、しらず。和にては、肥前の國より來るを、よし、とす。今、なし。

[やぶちゃん注:「卯花」(✕)「印華」底本の竹内利美氏の後注に、『印花布つまり更紗(サラサ)。種々の模様を捺染した金巾』(かなきん/かねきん:細めの単糸を固く撚った糸を緻密に平織した綿織物で、金巾の中には加工や織り方によって派生したキャラコ/キャリコ、キャンブリック、シーチングという三種類の生地もある)『または絹物。インド西岸のスラタあるいはシャムなどから、渡来した織物。日本でも作られた』とある。]

 

○「堺とゝやおり」、せんしう堺に、「とゝや」といふ唐人、來(きた)り、おりものを、をしへて、おらしめし也。渡り絹よりも、すぐれたり。「とゝや」は國の名也。多(おほく)は「どんす」也。其外、「もうる」の如くなるものも、あり。「とゝや」の「いどちやわん」などいへる「めいぶつ」も、此ときより、のこりて、あり。

 

○「えぞ切地(きれぢ)」、ふとく、つまり、錦・金欄、ともに、よろし。金は「わうごん」には、あらず、日本にて「唐(から)しんちう」といふもの也。金の色、すぐれて、よろし。絞(しぼり)がら、「上ほん」にして、餘國に、およばざるところ、有(あり)。模樣は、さまざま、あれば、書(かき)つくるに、いとまあらず。

 

○紗綸(しやりん)は「どんす」に似て、地(ぢ)あひ、うすく、「つや」は、「りんず」よりも、つよし。もんがら、尤(もつと)も、よろし。いづれの曰より渡ると云(いふ)事、いまだ、しらず。白きも、あり、おほくは織色也。模樣、さまざま有(あり)。幅、かね[やぶちゃん注:「曲尺。]壹尺四五寸より、二尺四、五寸まで也。

[やぶちゃん注:「紗綸」底本の竹内利美氏の後注に、『サリン。綸子』(りんず:絹の紋織物。経緯(たてよこ)とも生糸を用い、普通、繻子(しゅす)組織(くみおり)の地織(じおり)に裏繻子(うらしゅす)で紋様を織り出す。縮緬(ちりめん)に繻子組織で紋様を出した綸子縮緬、駒撚(こまより)糸による駒綸子などもある。光沢に富む格調高い織物で、白無地は式服(白無垢)とし、色、無地染。友禅染などでは振袖・訪問着・紋付などにする)『に似た地合の薄い織物。』とある。]

 

○繻子(しゆす)は五色ともに織色也。つやあるを第一とす。南京より渡るを、ほうひして[やぶちゃん注:底本では編者に拠る補正傍注が、「ほ」の字の右に『(お)』とある。しかし、「おうひする」という意味が判らない。識者の御教授を乞うものである。]、「あぶうしゆす[やぶちゃん注:底本では編者に拠る補正傍注は「う」の字の右に『(ら)』とある。「油繻子」で油のような光沢を指すか。]」といふ、少し、次なるを「むりやう」と云(いふ)。然れ共、一品に非ず。「むりやう」といふは、繻子に似て、別物也。能々(よくよく)、見わくべし。

 

○「光綾(ひかりあや)ぬめ」は、「りんず」の一品たるもの也。無紋にして、つや、繻子に似て、白き有(あり)、織色(をりいろ)も有(あり)、くゝり、かの、「ことう」にして、最上下、「ほん」あり、裏に、のりを引(ひき)たるは、つや、なし。

[やぶちゃん注:「りんず」底本の竹内利美氏の後注に、『綸子。紋織物の一。絹織した後、精練し厚くなめらかにし、光沢を出す。木綿糸を緯糸としたものを綿綸子という』とある。]

 

○縮緬(ちりめん)は南京を上とす。次に「おらんだ」をよしとす。朝鮮も、よし、とす。最上なる物を「やかた縮緬」と云(いひ)、ちゞみ、こまかなり。是を上品とする。「京ちりめん」も、よろし。ちゞみ、細かに織出(おりいだ)す。幅、かね壹尺二寸也。渡りは、大(おほきい)とこ、といへば、壹尺四寸も有(あり)。「たんごちりめん」は、ちゞみ、あらく、すぐれず、色、うるみあり。

 

○「ふうつ」も國の名也。地は「しゆちん」に似て、うすきものなり。地色、さまざま、ありて、多くは、「もん」は白絲也。模樣は、「しよつかう」・「わちがひ」・「きつかう」・「つるたすき」・「『せいがい』に『をし鳥』」・「龍の丸(たま)」・「雨龍」・「稻妻」・「もみぢ流し」・「れんげ」・「から草」・「ひしかう」・「はなまき」・「水に『なりもの』」・折枝(をりえだ)」也。金入(きんいり)の「ふうつ」も有(あり)。

[やぶちゃん注:「ふうつ」不詳。但し、これは「風通織」(ふうつうおり)のことではあるまいか? 二重織りの一種で、表裏に異色の糸を用い、文様の所で、糸を交換し、色の異なる同じ文様が表裏に織り出されたものを言う。]

 

○天鵞絨(びろうど)は黑を常とす。其外は、皆、「色替(いろがはり)」と云(いふ)。「紋びろうど」・「花びろうど」・「わな紋びろうど」・「皇都びろうど」、地、こまかにして、最上也。今一品、「毛びろうど」といふ有(あり)。此毛に、ながきも、短きも、有(あり)、一、二分、或は、壹寸迄も、あり。敷物にして、よし。

 

○「紋縞(もんじま)」は、「もんけん」に似て、模樣、繁(しげ)し。奧州より折出(をりだ)す和物なり。「花」・「から草」・「わり絞」、有(あり)て、縞には非ず。地あい[やぶちゃん注:ママ。]、あつく、地紋、うけ絲なる故に、絞所(しぼるところ)を、ぬひにせんがために、多くは、「こくもち」に、殘したり。武家より、「御(ぎよ)ふく」を賜るには、多く、此物也。

[やぶちゃん注:「こくもち」「石持」。紋付の生地を染める際、紋を入れる個所を、白く円形に染め抜いたもの。また、その紋付の衣服を指す。既製染めの留袖や、喪服などは、石持になっていて、客の注文に応じて定紋を描き入れる。これを「紋章上絵描き」と称する。「輪なし」の紋の場合は誂え染めにする。]

 

○「どんす」は、「ふしゆ」・「かんれいし」・「ほうわう」・「立わき」・「雲龍」・「大ひし」・「桐」・「からくさ」・「金くはてう紋」也。

[やぶちゃん注:「金くはてう紋」歴史的仮名遣が合わないが「金」の「花蝶紋」か?]

 

○「綸子(りんず)」は京渡り、共に、白し。織色は、なし。染色也。「もんがら」は、「つづきまんぢ」、或は、「折いれ稻妻」・「三重たすき」、右は地もん、「菊」・「梅」・「からはな」・「らん」等の「とびもん」有(あり)。地色、うす綠に、すきとほるを、よし、とす。南京・朝鮮より來る、尤(もつとも)、よし。

○鹿子(かのこ)は、「ひつた」・「そうかの子」・「けしかのこ」・「江戶かのこ」等、也。色は、「紅い[やぶちゃん注:ママ。]」・「紫」・「かちん染」・「あい地」、其外、色々、染(そむ)れ共(ども)、宜(よろ)しからず。「かうけつ」とて、二品、有(あり)、「かう」は、鹿子也。「けつ」は、「くゝし」也。「かの子」を「めくゝり」といふ。「くゝし」を。「ゝり」といふ。地は「りんず」・「どんす」・「ちりめん」・「しよろん」也。

[やぶちゃん注:「しよろん」漢字、想起出来ず。]

 

○「沙綾」は、「もんさや」・「むぢさや」・「とびさや」、有(あり)、「とうもん」は三尺計(ばかり)、「とふしげもん」は、壹尺計、とびたるも、有(あり)。模祿は、「ぼたん」・「からはな」・「てつせん」・「枝ぎく」、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、「浪の丸(たま)」・「をなが鳥」・「『ぶどう』に『りす』」等、也。色は、何れも、染色(そめいろ)也。白くおる、紋沙綾は「きつかうびし」等、也。

[やぶちゃん注:「沙綾」底本の竹内利美氏の後注に、『サヤ。絖(ぬめ)』(生糸を用いて繻子織りにして精練した絹織物。生地が薄く、滑らかで光沢があり、日本画用の絵絹や造花などに用いられる。天正年間(一五七三年~一五九二年)に中国から京都西陣に伝来し、本邦でも織られた)『のある絹織物。稲妻・菱垣などの模様が織出してある』とある。]

 

○「八丈」は、多く島[やぶちゃん注:「縞」。]に織(おり)、無地も有(あり)。八丈島より渡る。草の葉のしるをもちて、染(そむ)る。

 此草、水引(みづひき)の如くなる草也。草の名、說、多し。何れを夫(それ)と定めがたし。夏の比(ころ)、しろく、ちひさき「はな」、さく。

「『しつ』[やぶちゃん注:湿気。]を、はらひ、『きり』[やぶちゃん注:錐。]を、とほさぬ。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:所謂、「黄八丈」は、当該ウィキによれば、単子葉植物綱イネ目イネ科コブナグサ(子鮒草)属コブナグサ Arthraxon hispidus で染めるとある。ウィキの「コブナグサ」によれば、『全草を煎じて染めたものは黄八丈と呼ばれる。当地ではこの草のことをカリヤス(苅安)と呼んでいる(ただし、本来のカリヤス(Miscanthus tinctorius)はススキ属の植物であり別のものである)。そのための栽培も行われていると言う』とあった。カリヤスはイネ科ススキ属である。]

 

○咬𠺕吧(しやがたら[やぶちゃん注:底本のルビ。])は「大がひ島[やぶちゃん注:縞。]」に織(おる)。木綿に絹絲を織(おり)まじへ、ねらざるもの也。尤(もつとも)、織色・珀色・島[やぶちゃん注:縞。]の模樣は、さまざまなる故、圖に、あらはさず。尤(もつとも)、京にて織(おる)も、「渡り」に、よく似たり。「こゞめ島」といふが如し。

[やぶちゃん注:「咬𠺕吧(しやがたら)」底本の竹内利美氏の後注に、『ジャガタラ。ジャカルタの古い呼名。ここはジャガタラ縞のことで、ジャガタラ渡来の綿織物。だいたい縞(島)物であった』とある。]

 

○「紅夷縞(おらんだじま)」は、あつく、たて・橫、共(とも)にあり。茶と、こん[やぶちゃん注:「紺」色。]、「かき」・「白絲」・「もえぎ」、多く紫色のうちを、いでず。すべて、「廣東(かんとん)」と、いへるは、皆、此類也。「廣東嶋」に赤き絲にて織(おり)たる模樣、多し。是にも京織(きやうおり)、有(あり)。

 

○「かびたん[やぶちゃん注:底本では編者に拠る補正傍注が「び」の字の右に『(ぴ)』とある。」は、「りうもん」の地あひに似て、うすし。底に、つや、有(あり)。織色(おりいろ)、有(あり)、染色も有(あり)、つよく、はねる事、なかれ。

[やぶちゃん注:「かびたん」(✕)「かぴたん」底本の竹内利美氏の後注に、『甲比丹。江戸期に長崎に駐留したオランダ商館長のことであるが、カピタンの持参した縞織物のことをもさした。今口は経に染糸、緯に白糸を用いたオボロ珀の織物をいう。なお、オランダ縞は広東(カントン)と同類と次項にあるが、カントンは広東縞・広東絹といい、広東地方から産出した縞織の絹織物の称である』とある。]

 

○「さんとめ」は、「じやがたらじま」に似たり。白地に、あかきいとにて、たて橫を織(おり)、こゝにていふ「あづきじま」とよぶ物、このすがたより、いづる。

[やぶちゃん注:「さんとめ」底本の竹内利美氏の後注に、『桟留。ポルトガル語のSao Thome、インドの=ロマンデル地方の別称。ここは桟留縞のことで、竪縞の綿織物。サントメから渡来したもの』とある。]

 

○「べんからじま」、さまざま、あり。ぢくろに、茶のしま、あかき地に、くろき嶋、茶地に、白嶋、有(あり)、地あひは、「かびたん」に似たり。

[やぶちゃん注:「べんからじま」底本の竹内利美氏の後注に、『弁柄縞。経は絹糸、緯は木綿糸の織物。オランダ人がインドから持参したもの。ベンガラはインドBengal地方の産出による名という』とある。]

 

○「小倉島」は、隨分、厚(あつく)、「もろより」の木綿絲にて、島を、おる。おほく、地いろ、「すゝ竹じま」、「かき」・「こん」・「白」、わたりものに、似たり。

[やぶちゃん注:「小倉島」底本の竹内利美氏の後注に、『小倉織。木綿の縞織物で、袴地や帯地に用いた』とある。]

 

○「縫箔(ぬひはく)」は、「地、なし。」とも云(いふ)。雲鳥(くもとり)の模樣に、さまざまのもようを、箔にて、すり、其地を、花鳥を、ぬひ、其あひだに、「くゝし染(ぞめ)」をして、「もえぎ」・「べに」・「あい」・「かちん」の「くゝしいろ」の間、ぢを、箔にて、すり、「くるり」にして、少しも、ぢに、あかぬほどに、模樣を付(つく)る。

 

○「かねきん」は、所の名也。「かねきん山」といへる山の邊(あたり)にて、織(おり)、渡る、木綿也。爰(ここ)にて、「河内山の『ねぎもめん』」と云(いふ)如し。ほそき事、絹の如し。

[やぶちゃん注:「かねきん」底本の竹内利美氏の後注に、『カナキン。木綿の堅目の薄い織物。ポルトガル語のCanequimによる』とある。]

 

○「越後ちゞみ」は麻織(あさおり)也。「絹ちゞみ」に、おとらず、ほそし。「ゆきさらし」とて、冬、野山に、ひろげ、其上に、雪、降(ふり)つみたるを、とくる迄、置(おく)也。

 

○「京羽二重(きやうはぶたへ)」は、日本絹の第一の織物。迚(とて)も、是には、まさらず。「絲め」、極めて、さいみつにして、「こぶし」もなく、模樣を染(そむ)る。外(ほか)の絹の及(およば)ぬ事也。

 

○「奧縞」は、すべて紺縞也。「地こん」に、茶絲ある「いと」にて、立島(たてじま)をおり、「らふ」[やぶちゃん注:「蠟」。]を、ひきかため、うちつめたるもの也。

 

譚 海 卷之十四 諸國大名武器海運相州浦賀御番所手形の事 御代官納米の事 駕籠願の事 大刑の者の妻子の事 訴狀裏書等の事 公儀御役所御休日の事 國々御構者の地名事 萬石以下領所罪人の事 猿樂配當米の事 歲暮御禮申上候町人獻上品の事 道中御傳馬役の事 二挺立三挺立・船幷町駕事 出居衆の事 本馬輕尻等江戶出立駄賃の事 大赦行る事

○西國・四國・奥州大名等、在所、或は、大坂表へ、武器の類、船つみにいたし登(のぼ)せ候時は、相州浦賀御番所にて、改(あらため)を請(うけ)、登せ候事也。其大名より、兼て、御老中へ申達、有ㇾ之、

「拙者家來、何がし印形にて、此末(このすゑ)、浦賀御番所通用致させ申度(まうしたき)。」

段、御願、有(あり)。印鑑、差出有ㇾ之候へば、右印鑑、御老中より、浦賀奉行所ヘ、御渡しなされ、御老中より、印鑑・御書付、御添(おんそへ)、被仰渡有ㇾ之。

 其(その)已後、右印鑑を以て、通用致(いたす)事也。

 其船積(ふなづみ)、書面の覺(おぼえ)は、

大坂何町誰船爲積登申、武器の事、

一、鑓壹本

  頭書壹口 數壹本 頭書とは一と言事也。

  一つと書(かく)所二つあれば、頭書貳口

  と書(かく)事也。

右は誰(たれ)家中、武器荷物、自江戶大坂迄、積爲ㇾ登申候。浦賀御番所無相違御通被ㇾ成可ㇾ被ㇾ下候。右武器に付、自今已後、出入も御座候はば、私可申譯候。爲後日價仍(よつ)て如ㇾ件。

  年號支干[やぶちゃん注:「干支」の誤記。]月日

                 誰内 留主居名判

相模國浦賀

 御番所

  御番衆中

 

○御代官所、納米口米(をさめまいくちまい)は、上方、御物成(おものなり)、伊勢・美濃までは、壹石に付、三升づつ、三河より關東迄は、三斗五升入(いり)壹俵に付、壹升づつ、口永錢(くちえいせん)は、壹貫文に付、三文づつの、よし。奥州は、御物成、壹石に付、口米三升づつの、よし。

[やぶちゃん注:「納米口米」通行税の一種。近世、諸国の年貢米が神領などを通過する際、運送船から取った金。

「御物成」江戸時代の年貢。「本途物成」(ほんとものなり:田畑に課せられた本年貢)と「小物成」(こものなり:正税である「本途物成」以外に山野・湖沼の用益などに課した雑税)とがあったが、特に「本途物成」を指す。

「口永錢」「口永」とも言う。江戸時代、金納の貢租に附加された銭、又は、銀のこと。本租永一貫文に対して三十文を定率とした。銀納の場合を「口銀」(くちぎん)、銭納の場合を「口銭」(くちせん)と称した。]

 

○勤仕(ごんし)の者、病身に付(つき)、駕籠勤(かごづとめ)相願(あひねがひ)候者、月限(つきかぎり)に御免あるものの、よし。

 

○大刑に處せられ候ものの子供は、死罪のよし。

 但(ただし)、十五歲已前にて、父の惡事にたづさはり申さねば、親類へ、十五歲に成(なる)迄は御預け有ㇾ之、其後、遠島、仰付らるる由也。

 其内、出家願(しゆつけねがひ)に致(いたし)候へば、遠島に處せられざるものの由(よし)也。

 又、他家へ養子に遣(つかは)したる子どもは、事の子細によりて、御構(おかまひ)なき事も、有ㇾ之。

 大刑の者の妻・娘などは、御構無ㇾ之事も有(あり)。子細によりて、奴(やつこ)に仰付らるゝ事もあり、とぞ。

[やぶちゃん注:「奴」これは、前の「妻・娘」を受けた附記と見て、江戸時代の身分刑の一つで、重罪人の妻子や関所破りをした女などを捕らえて籍を削って牢に入れるものの、希望者には、その女を与えて「婢」(ひ:はしため)とした者のことを言っていると読む。

 なお、以下の二条は、底本では全体が一字下げで、それぞれ二行目以降はさらに、二字下げになっているが、これは二条ともに「訴狀裏書等の事」に相当するものであり、字下げの意味は不明である。国立国会図書館本では、一行目は行頭から始まり、二行目以降は一字下げで、これは訴状をそのまま転写したことを示す組版であって、違和感がない。なお、ブラウザでは不具合が生じるので、字下げはカットした。二条目は「○」をカットして、前に並べてもいいが、今までにこのようなものはなかったので、独立した形で、示した。但し、条の間の一行空けは、なし、とした。

 

○一、訴訟裏判取揃相手へ渡候はば、請取候といふ判形、取(とり)て、相手、差(さす)月に不參候はば、公事は、先(まづ)さし置、不參の科(とが)、手錠也。

○一、裏判付候處、和談にて濟(すみ)候へば、相手は出るに不ㇾ及。付(つき)候者計(ばかり)、初判へ訴へ、評定所へ出(いづ)る。評定所より「濟口證文(すみくちしようもん)」出(いづ)る。段々、判(わ)けしに、𢌞濟(まはしすま)し、初判へ上り、雙方、於評定所勝劣裁許(さいきよ)相濟(あひすみ)、返答書、遣合(やりあひ)候て、出(いで)候處、劣(おとり)候もの、順に、印闕に𢌞る事也。

[やぶちゃん注:「印闕」「缺印」か。江戸時代の訴訟用語で、幕府の評定公事の「目安」(訴状)の裏書に必要である評定所一座(寺社・町・公事方勘定奉行)全員の加印があるものと、不服あって、ある奉行の印が押されていないもののことか。]

 

○「正月七日・十六日、『御休日』とて、出仕せぬは、御家人に『はしたなき事』と覺え候間(あひだ)、やはり、登城可ㇾ仕(つかまつるべき)や。」

と御伺(おうかがひ)有(あり)しに、

「古來より致し來り申(まうす)事なれば、其通り、休日に致(いたす)べき。」

よし、仰出(おほせいだ)されし、となり。

 三月朔日・五日朔日、節句近きにより、登城、なし。

 

○公儀より御構(おかまひ)の道中、東海道・中仙道・甲州海道・奧州海道・日光海道也。

[やぶちゃん注:「御構」江戸時代の刑罰の一つ。特定場所(御構之地・御構場等)への立ち入りを禁ずる刑で、ここは、その通行禁止とされた街道であろう。]

 

○萬石已下の領所にて罪あるものは、自分として其所(そこ)にて仕置申付(まうしつく)る事はならず、公儀の御仕置の由。

 

○猿樂配當米は、壹ケ年、高、三萬六千石也。壹萬石にて、三石づつ、割合也。御法事施行米は三百俵也。

 

○歲暮御禮申上候御用聞(ごようきき)の分、後藤庄三郞、紗綾三卷、猷上。庄三郞世悴(せがれ)は、麻上下二具。

 銀座年寄は紅糸壹斤。銀座總中は銀子拾貳枚。銀役五人は銀子五枚。

 大黑屋長左衞門は紅糸二斤。

 御爲替方(おんかはせかた)の者四人は綿十把。

 箔座の者は扇子壹本。

 年頭には、御爲替の者、金ちりめん五反。朱座の者、朱百兩。此外、獻上は、歲暮におなじ事、とぞ。

[やぶちゃん注:「後藤庄三郞」初代(?~寛永二(一六二五)年)は江戸初期の江戸幕府の金座主宰者。基は橋本姓で遠江出身。天正大判を鋳造した後藤四郎兵衛徳乗の門人。文禄二(一五九三)年に徳川家康の要請で金銀御用のため、後藤家名代として関東に下ることとなっていた徳乗の弟七良兵衛が病気であったため、代わって庄三郎が名代を勤めることになり、後藤家の養子として一族に加えられ、その時から庄三郎光次(みつつぐ)と名乗った。光次は同四年(一説では翌年)、本邦最初の鋳造小判である「武蔵墨書小判」を、関八州の領国向け通用のため、江戸で初めて鋳した。次いで、小額金貨である短冊型の一分金試作にとりかかり、小判についても、広く頻繁に通用出来る「極印打(ごくいんう)ち」に改め、慶長五(一六〇〇)年に、量目・品位とも、一定な、所謂、「慶長小判」・「一分判」を大量に鋳造・発行させた。翌年には、末吉勘兵衛とともに「銀座」を設立、徳川氏の金銀貨を全国貨幣として流通させるため、指導性を発揮した。また、光次は、家康の厚い信任を得て、その側近の一人として、幕府財政にも深く関わり、「朱印状」の発給や、外交交渉にも、他の重臣とともに関与するなどした。「大坂夏の陣」(慶長二〇(一六一五)年)の後は、眼病を得て、隠居し、庄右衛門と称した。 金座主宰者としての職は、その後も庄三郎家が代々継承したが、金貨への極印は幕末まで初代の「光次」名で打たれた。但し、第十一代光包(みつかね)の時、金包方に不正が発覚し、文化七(一八一〇)年、伊豆三宅島に流罪となって、二百年余続いた同家は絶家となった(主文は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大黑屋長左衞門」ウィキの「大黒常是」(だいこくじょうぜ)によれば、「大黒常是」は、近世の「銀座」の「吹所」(ふきしょ)で「極印(ごくいん)打ち」を『担当していた常是役所の長として』、『代々世襲の家職に与えられた名称である』とあり、慶長六(一六〇一)年、『徳川家康が和泉堺の銀吹き職人である南鐐座の湯浅作兵衛に大黒常是を名乗らせたのが始まりであった。常是という名称は豊臣秀吉により堺の南鐐座の銀細工師に与えられたものであった』。細かくはそちらを見られたいが、『京都銀座は湯浅作兵衛の長男である大黒作右衛門、江戸京橋銀座は次男である大黒長左衛門が銀改役となり以後世襲制とされた。寛政』一二(一八〇〇)『年には』、『江戸の八代目長左衛門常房が家職放免となり、銀座機能の江戸蛎殻町への集約移転に伴い、京都の十代目作右衛門常明が罷下りを命ぜられ』、『蛎殻町銀座の御用を務めることとなった』とあり、そこにある「大黒作兵衛常是家」の系図を見ると、「長左衛門」の代々が判る。

「箔座」本邦で金箔の歴史において実際に存在した金銀箔類の統制機関。]

 

○道中、御傳馬役、上(かみ)十五日、南侍馬町にて相勤(あひつとめ)、下十五日は、大傳馬町にて相勤(あひつとむ)る也。

 

○貳丁立、三丁立等の船、御停止は、正德三年なり。屋形船の數は百艘に限(かぎり)候御定(ごぢやう)の由、町駕籠の数は三百丁に限候御定の、よし。

[やぶちゃん注:「貳丁立」「二挺立」。二挺の櫓(ろ)をつけて漕ぐ和船の総称。 江戸時代、吉原通いに使用された「猪牙船」(ちょきぶね)や日除船は、その代表的なもの。

「三丁立」「三挺立」。江戸市中の茶船の一種。櫓三挺を立てて、「猪牙舟」より、やや大型の茶船の俗称。ここにある通り、正徳三(一七一三)年に「二挺立」とともに禁止された。]

 

○無商賣の物のかたに「出店衆(でみせしゆ)」と申(まうす)者、差置(さしおき)候事は御制禁なり。何にても商賣致し候者のかたに、「出店衆」は御構(おかまひ)なきよし也。「人宿組合(ひとやどくみあひ)」と申者も出來候。此方(このはう)、取逃(とりにげ)・訣落(かけおち)等の、益(えき)にも相(あひ)ならざる故、人宿、御停止(ごちやうじ)にて、古來の通(とほり)、何者にかぎらず、慥成(たしかなる)請人(うけにん)、有ㇾ之(これある)奉公人、召抱(めしかかへ)候やう、正德三年、御觸(おふれ)のよし也。

[やぶちゃん注:「出店衆」標題に出る「出居」と同じで「出居衆(でゐしゆ)」のこと。近世、日傭取(ひようとり)を営んだり、武家奉公や商用などの出稼ぎをするため、町方で部屋借りをして暮らした者たちを指す。

「人宿組合」使用人の周旋をする商売屋の組合。「口入れ宿」「人置き」などとも言った。]

 

○江戶より品川・内藤宿・板橋・千住、右四ケ所へ、日本橋より本馬壹疋に付(つき)、駄賃九十四文づつ、輕尻(からじり)は、本荷駄賃の三分一也。人足は、本荷半駄賃也。

[やぶちゃん注:「輕尻」「からしりうま」「からしり」とも呼んだ、江戸時代に宿駅で旅人を乗せるのに使われた駄馬を指す。人を乗せる場合は手荷物を五貫目(十八・八キログラム)まで、人を乗せない場合は、本馬(ほんま)の半分に当たる二十貫目まで荷物を積むことが出来た。]

 

○將軍宣下の御祝儀には、大赦取行(とりおこなひ)候に付(つき)、諸大名領分・百姓等に至るまで、公儀へ御伺(おうかがひ)、有ㇾ之、罪人は勿論、自分に罪科(つみとが)申付(まうしつく)るに至(いたる)者も、差免(さしゆるし)候て、仕置に相滯(あひとどこほる)筋(すぢ)無ㇾ之分は、其品(そのしな)により、相應に赦免、又は、歸參等の義も、主人、心次第に宥免(いうめん)可ㇾ致よし、被仰渡有ㇾ之事也。

 

譚 海 卷之十四 囚獄罪人月代そり髮ゆふ日の事 醬油の事 公事訴訟人死去の時の事 公事出入に付人を預る次第の事 御裏書拜見文言書法の事 夫妻離緣狀延引の時御定めの事 公儀より大名へ御預け者の時の事 武士途中慮外者にあひたりし時の事 綿打弓價の事 沙糖價の事 ほふれい綿價の事 犬鑓の事 戰場にて首討取時の事 穢多團左衞門支配の事 金座の事

○江戶牢獄の罪人、七月十三日・十二月十三日、一年兩度、月代(さかやき)を剃(そら)せらるゝ。

 江戶中、髮結商賣のもの、役にて牢屋へ行(ゆき)てする事也。髮結、六十人づつ罷出(まかりいで)、一人にて、二人づつ、月代、そる事也。

 

○醬油一樽は八升入(いり)也。樽代を引(ひき)て、正味、七升五合あり。みそ一樽は目形(めかた)、十九貫目也。是も、樽代を、壹貫目、引(ひき)て、正味、十八貫目ある事也。

[やぶちゃん注:「十九貫目」七十一・二五〇キログラム。

「十九貫目」六十七・五〇〇キログラム。]

 

 ○公事訴訟等にて、町所へ預置(あづかりおか)れたる者、又は、借金の出入等、不相濟内に死去せし人は、公儀へ死去のだん、御屆申上(おとどけまうしあげ)、御檢使を請(うけ)て後、葬送する事也。御屆け不申上御檢使不ㇾ濟亡者は、寺にて葬禮を行(おこなは)ざる法也。

 

○請出人(うけだしにん)、事有(あり)て、其人を家主へ預(あづけ)る時、「預る」とは、いはぬ事也。「預る」とは、公儀の御詞(おことば)にて、私(わたくし)には成(なし)がたき事也。

「其元(そこもと)樣、御店内、誰(たれの)事、何々の出入(でいり)に付(つき)、御屈け申候。爲ㇾ念書付可ㇾ被ㇾ下(ねんを、なし、かきつけ、くださるべし)。」

と可ㇾ申事也。

 家主、答(こたへ)に、

「まづ、當人を召(めし)よせ、得(とく)と承合(うけあひ)候上(うへ)、書付、出(いだ)し可ㇾ申。明日(みやうにち)御越可ㇾ有ㇾ之。」

と申さば、明日、又、參るべし。

 其内(そのうち)、家主、取扱、内濟(ないさい)にせば、よし。さもなくば、書付を とり、名主方へ參(まゐり)、

「御支配の家主、誰(たれの)店(たな)、何がし、出入御座候に付、家主より、書付を申請(まふしうけ)候間、御屆申候。」

と、いふべし。名主、

「庭帳(にはちやう)に、しるし、御念入候義(おんねんいりにさふらふぎ)。」

と答ふ。

 其後、公儀へ御願申べし。

 家主、書付、文言(ぶんげん)。

「拙者店誰事 其元何々の事 御座候に付 御屆なされ、致承知候」

と書(かくベし。

 此外、吟味・詮議・仕置などいう[やぶちゃん注:ママ。]詞も、公儀御詞にて、下(しも)の人の、私にいふべき事ならずと、知るべし。

[やぶちゃん注:「庭帳」ここは「人別帳」の意。]

 

 ○御裏書(おんうらがき)拜見、家主、文言。

「私店(わたくしだな)何某(なにがし) 何(なんの)出入(でいり)に付(つき) 來(きた)る何日の御裏書、慥(たしかに)奉拜見候 仍而如ㇾ件(よつてくだんのごとし)

               家主 何某在判

  年號月日

   誰 殿

 扨、御裏書をみせて持歸(もちかへ)り、當日、御奉行所へ差上(さしあぐ)るなり。貸金、出入(でいり)ならば、御裏書を、濟切(すみきる)まで、大切に所持する事也。

 

○「夫婦離別の上、早速、離緣狀を指越(さしこさ)ば、よし。萬一、延引に及(およんで)で、其間に、夫(をつと)、既に後妻を入(いれ)たらば、夫、「まけ」也。下々(しもじもは、兩人の妻なき故(ゆゑ)也。又、離緣狀延引の内は、妻方(つまがた)の扶持・小遣を贈るべし。おくらざれば、又、夫の「まけ」也。又、持參金あらば、離緣狀、取(とる)の後(のち)、さいそくの上、返さずば、公訴に及ぶべし。かへさずば、不ㇾ叶(かなはざる)事。)

と、人の語りぬ。

 

○公儀より大名へ御預け者ある時、請取(うけとり)に出(いづ)る役人、申上(まうしあぐ)べきは、

「途中にて、狼籍、御座候はば、如何(いかに)取(とり)はからひ可ㇾ申哉(や)。」

と伺ふべし。

 其時は、公儀より、

「其方共(そのはうども)、勝手次第。」

と仰渡(おほせわた)され、有(ある)べし。

「是は、若(もし)、狼藉者、召人(めしうど)、奪取(うばひとら)んなどする事ある時は、打捨(うちすて)たり共(とも)、くるしからざるよし、古禮也。」

と、人のかたりぬ。

 

○武家、途中にて、慮外者に、あひ、止事(やむこと)を得ず切殺(きりころ)しぬるときは、とゞめをさゝぬ、古禮也。

 又、「かたきうち」は、とゞめをさす事、古禮也。死人の「かしら」のかたに居(をり)て、とゞめを、さすべし。是、古禮也、とぞ。

 

○綿打弓(わたうちゆみ)料(れう)、銀十三匁五分。槌(つち)は、貳匁六分。弦は、五匁五、六分より、壹匁七八分まで也。

[やぶちゃん注:「綿打弓」繰(く)り綿(わた)を柔らかくするために打ち叩く道具。形状が、中国の弾弓(はじきゆみ)に似ていることによる名称。「わたゆみ」「わたうち」とも呼ぶ。個人ブログ「着物のよろず 針箱」の「草綿一覧―木綿の生地ができるまで 2」の二枚の画像(東京国立博物館資料画像)の下方の図を参照されたい。]

 

○雪大白砂糖(ゆきだいしろさとう)、銀百廿五六匁。出島は百七匁。黑砂糖は、十五樽ほど、目形(めかた)二百六十貫目にて廿五匁程、是は寬政三年春の相場也。

[やぶちゃん注:「二百六十貫目」九百七十五キログラム。

「寬政三年」一七九一年。]

 

○「ほうれい綿」は、壹駄、貳十七貫、九百匁也。十駄、貳百七十九貫目也。寬政三年より、關東、豐作に付(つき)、九十七兩の相場に、三年己前迄は、拾駄にて貳百五十兩ぐらひ、せし事也。

[やぶちゃん注:「ほうれい綿」「豐麗綿」か。上質の美しい綿。

「十七貫」六十三・七五〇キログラム。

「貳百七十九貫目」約一・〇四六トン。]

 

○「犬鑓(いぬやり)」とは、馬上の鑓・「塀こし」・「垣越」・「溝越」などの鑓を、誠の「手がら」の如く高言するを、似せもの、おほきゆゑ、「犬鑓」といふ也。敵と對して、あはせたる鑓の外は、手柄にならぬ事、とぞ。

[やぶちゃん注:「犬鑓」「犬」は卑しめて言う語で、 敵が不意に出て、槍で突くこと。また、柵・垣根、又は、溝を越えようとする相手を突くこと、槍を投げつけることなどを言うこともあり、いずれも不名誉な行為とされた。

「似せもの」「贋物」(にせもの)。]

 

○戰場にて、首、あまた打取(うちとる)時は、邪魔に成(なる)故、耳・はな斗(ばかり)を切(きり)て證據(しようこ)に、とゞむる事也。尤(もつとも)證人なくては、あしし。耳は、鬢(びん)の毛を付(つけ)て、そぎ、鼻は、髭を付て、そぐ也。何れも鎧の引合(ひきあひ)に入(はい)る事也。

[やぶちゃん注:「鎧の引合」鎧の胴の右側の合わせ目を言う。]

 

○穢多(ゑた)、團左衞門支配は、四十餘、有(あり)。其内に藍屋壺立といふ物あり。是は無地の紺染(こんぞめ)ばかりを業(なりあひ)とする染物やの事也。

 又、世間に、非人にもあらずして、絹布類を着し、袖乞(そでこひ)をなして、渡世する一種、有(あり)。此もの、「こうむれ」と號す。文字には「乞胸」と書(かく)事也。此類も穢多の支配なり。

「國初よりの『御定書(おさだめがき)』には、穢多の支配のもの、種々の家業をなすもの有(あり)、占なひを業とするものも、穢多の支配也。右の御書付の内に乘せられたり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「團左衞門」その他は、先行する「譚海 卷之二 江戶非人・穢多公事に及たる事」の私の注を参照されたい。

 

○金座小判・小粒等、製するもの、ごくいん打候もの、共に後藤庄三郞長屋に住居し、或は、他所にも住居する有(あり)。是は「座人」と稱して、小判を製するかたに、國初より仰付られあるものにて、庄三郞支配にて、庄三郞家來には、あらず。庄三郞家來は、家老初め、別にあり。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(6)

[やぶちゃん注:初句の「白雨」は「ゆふだち」と読む。「洞」は「ほら」。]

 

   白雨や洞ほらの中なる人の聲 畏 計

 

 洞穴の中に夕立を避けたのである。その人の姿を描かずに、その聲のみを描いたのが面白い。雨やみをしてゐる人の聲が、洞穴の中にくゞもつて聞えるなどは、都會人の思ひもよらぬ趣である。

 子規居士も奧羽旅行の時、飯坂溫泉で「夕立や人聲こもる溫泉[やぶちゃん注:二字で「ゆ」。]の煙」といふ句を作つてゐる。趣はこの句と違ふけれども、心持には似通つたところがある。

[やぶちゃん注:子規の句は明治二六(一八九三)年の作。「奥の細道」を辿った俳文「はて知らずの記」に載る。国立国会図書館デジタルコレクションの『代表的名作選集』第二十二編「子規選集 花枕」(大正五(一九一六)年新潮社刊)の当該部を視認して以下に示す。

   *

   夕立や人聲こもる溫泉の煙

二十六日朝小雨そぼふる。旅宿を出でゝ町中を下ること二三町にして數十丈の下を流るゝ河あり。摺上(するがみ)川といふ、飯坂湯野兩村の境なり。こゝにかけたる橋を十綱(とつな)の橋と名づけて昔は綱を繰りて人を渡すこと籠の渡しの如くなりけん。古歌にも

   みちのくのとつなの橋にくる綱のたえずも人にいひわたるかな

など詠みたりしを今は鐵の釣橋を渡して往來の便りとす。大御代の開化旅人の喜びなるを好古家は古の樣見たしなどいふめり。

   *]

 

   夕顏のにぶきそよぎや簾越し 包 之

 

 あまり風の無い夕方らしい。簾越に咲いてゐる夕顏の白い花が僅にそよぐのが見える、といふのである。「にぶきそよぎ」の一語が、簾越の花の僅にそよぐ趣をよく現してゐる。元祿らしい寫生句である。

 

   瓢簞の蔓に見越すや雲の嶺 范 孚

 

 俳畫に描くとすれば、窓に垂れた瓢簞の蔓を比較的大きく畫いて、その向うに雲の峯の白く聳えてゐるところを現すのであらうか。この句を讀むと、靑い瓢簞の葉越に晴れた夏の空と、雄大な雲の峯のたゝずまいが眼に浮んで來る。

 大小の配合と云つたやうな點からこの句を見ることは、必ずしも當つてゐない。たゞ雲の峯といふやうな題目は、とかく大景の連想に捉はれ易いのに、この句は植物の中でも細い、軟な瓢簞の蔓を配したところに興味がある。それも一茶の「蟻の道雲の峯よりつゞきけり」のやうな、意識的な配合でなしに、自然の景色として成立つてゐるから面白いのである。

[やぶちゃん注:『一茶の「蟻の道雲の峯よりつゞきけり」』は「八番日記」のもの。「おらが春」では、

   蟻の道雲の峯よりつゞきけん

写本の「句帖」では、

   蟻の道雲の峯よりつゞく哉

と載る。私の好きなワイドな句である。]

 

   馬のりに乘や淸水の丸木橋  釣眠

 

 湧き出る淸水が自ら細流をなして、そこに一本の丸木橋が架つてゐる、淸水をむすびに來た人が、ふとした興味でその丸木橋に跨つて見た、といふだけのことであらう。淸水の句としては少しく變つた趣を具へてゐる。

 これが夕涼の場合ででもあつたならば、橋に跨る趣向も多少平凡に陷らざるを得ない。運座席上の調和論などは、往々にしてかういふ平凡を支持し易いものである。淸水に對して丸木橋を持出し、それに馬乘になるといふやうなつれづれのすさびは、單に平凡でないのみならず、經驗無しには念頭に浮べにくい。おどけたやうでしかも棄て難い閑中の趣である。

 

   えり垢の春をたゝむや更衣 洞 池

 

 輕い著物に脫ぎ替る初夏の快適な心持は、今も昔も變りはあるまい。「蝶々も輕みおぼえよ」と云ひ、「籠ぬけのかろみ覺えつ」と云ひ、多くは輕快な感じが主になつてゐる。この句の如く脫ぎ捨てた舊衣に眼を注いだものはあまり見當らぬ。

 新衣に更ふるに當つて脫ぎ捨てた著物は、已に多少襟垢がついてゐる。作者はこの襟垢を以て、すがすがしい新衣に對照せしむると同時に、舊衣に對する愛著の情を寓するものとした。

「えり垢の春をたゝむ」といふのは、かなり巧な言葉遣ひで、その衣に裹まれた三春行樂の迹も、自ら連想に上つて來る。昔の更衣は四月一日ときまつてゐたから、過去つた春を顧る情は、今よりもはつきりしてゐたことと思はれる。

 西鶴の「長持に春かくれ行く更衣」といふ句も、多少この句と趣を同じうするやうであるが、西鶴の更衣は單に季節を現してゐるまでで、洞池のやうな實感を伴つてゐない。「長持に春かくれ行く」は、華かな花見小袖の類が、長持にしまはれることを指すのであらうが、巧を求めて機智を弄し過ぎた嫌がある。舊衣の襟垢にとゞめた春の名殘の自然なるに如かぬのである。

[やぶちゃん注:西鶴の句は俳人としては初期の作であるが、相応に評価されている句である。但し、私は彼の一句たりとも、評価しない。]

 

   綿拔やひそかに宵の袖だたみ 兆 邦

 

 綿拔といふのは袷[やぶちゃん注:「あはせ」。]のこと、布子の綿を拔いて袷とするの意であらう。「南無阿彌陀どてらの綿よひまやるぞ」といふ一茶の句は、最も簡單に這間[やぶちゃん注:「このかん」。]の消息を傳へてゐる。

 この句は隱れた意味は無い。綿を拔いて著られるやうになつた袷を、そつと袖疊にして置いた、といふつゝましやかな趣である。それが宵の燈下であることも、何となくこの句に或情味を添えてゐる。

[やぶちゃん注:「南無阿彌陀どてらの綿よひまやるぞ」一茶のこの句は「句稿消息」他に出る句。表記は、

   なむあみだどてらの綿よ𨻶やるぞ

が正しいか。

「袖疊」(そでだたみ)は着物の略式のたたみ方。背を内側へ二つに折り返し、両袖を合わせて揃え、それを更に袖付(そでつけ)の辺りで折り返してたたむことを言う。]

2024/04/21

譚 海 卷之十四 出雲國造幷かづら姬の事 正月十一日御連歌の事 幸若太夫の事 芝增上寺行者の事 東叡山坊官諸大夫執頭の事 諸社神主祭禮の節乘物の事 神田聖堂學生の事 江戶天文生の事

[やぶちゃん注:「かづら姬」はママ。]

 

○出雲國造(いづものくにのみやつこ)、京都の「かつら姬」、每年正月、關東へ下向、御守札獻上、御目見得仕る也。「かつら姬」は、藝者をも業(なりはひ)とす。

[やぶちゃん注:「出雲國造」出雲大社の神官千家を指す。

「かつら姬」底本の竹内利美氏の後注に、『京都の桂女。桂の里に住む巫女の一種で、年賀参上の例があったのである』とある。「ブリタニカ国際大百科事典」の「桂女(かつらめ)」によれば、『山城国葛野郡桂の里(現在の京都市西京区桂一帯)に住んだ女性のこと。その多くは桂の里特産の飴や桂川でとれたアユなどを京の町に売りに出たが』、『そのとき』、『頭に白布を巻きつけるのを常とし』、『それを』「桂包み」『と称したため』、『この呼称が生れた。狭義には婚礼』・『出産』・『祈祷などの際』、『巫女のような仕事をした桂の里の女性をさす。もとは御香宮(ごこうのみや)に属して石清水八幡宮にも仕えた巫女に由来する。ここの名主は明治まで女系相続を守った。なお現在では』、『時代祭の行列にその扮装が見られるだけとなっている』とあった。]

 

○正月十一日、御連歌會衆、國初より、十一人、極(きま)りて、出勤する也。當日、御目見得終(をはり)て、御料理下され、時服、拜領、定例也。

 御坊主衆、寺町三知(てらまちかずとも)といふ者、和歌の事に好(すき)、御連歌の出席相願候て、御咎(おんとが)蒙り、御城太鼓御役、相勤(あひつとむ)る事に黜(しりぞけ)られたり。

[やぶちゃん注:「寺町三知」(?~宝暦一二(一七六二)年)は幕府表坊主で歌人。号は新柳亭・言満。通称は百庵・蜑子。]

 

○越前國、幸若太夫、關東御目見得の序(ついで)、其家の傳來の曲、一番、御前にて申上(まうしあぐ)る、定例也。逗留中、「幸若」の曲、聽聞所望すれば、聞(きか)るゝ也。請人(うけにん)、麻上下ならでは、うたひて聞せぬ也。

[やぶちゃん注:「越前國、幸若太夫」底本の竹内利美氏の後注に、『室町期に挑井幸若丸直詮がはじめた舞曲。越前にその家元が近世残り、将軍家へ年頭参向する例であった』とある。]

 

○芝、增上寺に行者(あんじや[やぶちゃん注:底本には珍しい原本のルビである。])と云(いふ)者、有(あり)。僧形にて、妻帶にして、御靈屋御用(おたまやごよう)等相勤(あひつとむ)る也。服は素けん・袴(はかま)也。公儀御法事有ㇾ之節、諸大名御靈屋拜禮の節は、此行者、御香爐の火等、取扱ふ故、諸侯よりも附屆(つけとどけ)の目錄、給はり、富有(ふいう)に暮すなり。

 

○東叡山に坊官・諸太夫等ありて、一寺の事を管領す。前(さきの)大僧正は、法務の事ばかり領する故、論議等の題を命ずる故、山にては「探題僧正」と號す。只、壹人なり。權僧正は、二、三人、四、五人におよべり。其(それ)、「行執頭」と申(まうす)二人、有(あり)て、公儀の事をはじめ、天台諸末寺に至る迄、日本の寺令(じれい)を掌る事也。

[やぶちゃん注:「行執頭」標題から推すに、読みは「ぎやうしつとう」であろう。]

 

○赤坂山王・神田明神神主、祭禮の節、手輿(てごし)に乘成(のるなり)。本所龜井戶天神の社僧ばかりは、祭禮の節、車に乘(のる)なり。

 是は、

「往昔、神主の先祖、筑紫宰府の宮[やぶちゃん注:太宰府天満宮。]に居(をり)たる者にて、其什物を奪取(うばひとり)て江戶へ逃來(にげきた)り、今の社を建立せし故、宰府の舊物(きうもつ)は、多く、龜井戶に有(あり)、車も、其比(そのころ)、取來(とりきた)りて乘たりし故、例に成(なり)て、かくある事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:何だか、理由が納得出来んのだが?]

 

○神田聖堂學生(がくしやう)は、公儀より定(さだめ)られたる所、十人也。一人扶持づつ給はり、林家へ屬せられし故、學生の扶持も林家へ給はる也。林家にて十人學生の内、四、五人を存して、春秋、祭禮の役につかふこと也。學生の外に、學頭(がくとう)といふもの有(あり)。是は、人數(にんず)、定らず。學生は、聖堂住居(すまひ)、他(ほか)、學頭は、住居、便宜にまかす。

[やぶちゃん注:「神田聖堂」寛政二(一七九〇)年、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設である「昌平坂学問所」。「昌平黌」(しょうへいこう)とも呼ぶ。]

 

○江戶天文生(てんもんしやう)は、京、土御門殿に屬する也。曆面(こよみおもて)は關東にて、とゝのへ、下段の文を、土御門殿にて記(しるせ)らるゝ也。

譚 海 卷之十四 京都五山長老對馬御用相勤る事 奥州諸侯往來跡おさへの諸侯の事 兩本願寺の事 諸侯關東へ御機嫌書狀御返翰の事

○國初より、京都五山の長老、一人づつ、對馬へ相詰(あひつめ)、三年づつ逗留して、朝鮮人御用相勤る事也。

 三年の期に及べば、交代の長老一人、先(まづ)、關東へ下向し、獨禮(どくれい)御目見得仕(つかまつり)、右御用、仰付られ、時服、拜領ありて、翌年夏、京都より對馬へ發足する也。尤(もつとも)、勤役中、公儀より、御あてがひ、年々、百石づつ給(たまは)り、御用、相濟(あひすみ)、歸京の後も、長老、生涯は、百石づつ被ㇾ下事なり。

 對馬勤役中は、宗(そう)氏よりも「寒暑見舞」として、朝鮮人參一斤づつ、送ることなり。

 扨、勤方は、朝鮮より宗對馬守殿へ、書翰、來れば、そのまゝ、長老、受取、開封して、其次第を和語に譯し、江戶表へ注進申上、宗家の家司へも、用の趣、長老より申渡す事なり。

 是は、室町家の時、五山長老、書翰の役を仰付られしより、例になりて、今は對州の目附を兼て相勤る事なり。されば、五山長老は譯學なくては、ならぬ事に成(なり)てあり。

 五山長老、關東へ罷下(まかりくだ)る時、先(まづ)、其寺の和尙、形(かた)に成(なり)て下る事也。四條建仁寺にて和尙位(ゐ)に成(なる)時は、開山千光國師、宗朝より傳來の袈裟を懸(かけ)て、一日の事を執行(とりおこな)ふことなり。

 然るに、いつの比の事にや、ある長老、和尙位に成(なり)て、此「けさ」を、かけて、事を取行ひ、方丈へ歸りて、其儘、此袈裟を切賣にして、諸所へ分散せり。元より、名物の切(きれ)の事なれば、茶入の袋等に、京・大坂豪富の者、殘らず、買取(かひとり)たり。後、此事、露顯して公裁(こうさい)をへ、嚴敷(きびしく)御穿鑿ありければ、切分(きりわけ)散(ちる)の品、一色(いつしき)も紛失せず、返り集りたり。

 今時(こんじ)は、其きれぎれを、つゞり合(あは)せて、元のごとく袈裟となし、着する事と、いへり。

[やぶちゃん注:「京都五山」底本の竹内利美氏の後注に、『南禅寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の六カ寺。南禅寺は五山の上首で別格である』とある。]

 

○奧羽御譜代大名衆、諸侯の「おさへ」、有(あり)。

 仙臺侯押へは會津殿也。

 佐竹侯、押(おさへ)は丹羽侯也。

 仙臺參觀の發足ありて後、倉津侯、いつも國元を出府なり。

 丹羽侯も又、是に同じ。

 依(よつ)て、兩家、發足の日限(にちげん)有(ある)は、會津・丹羽兩家へ、其届、有(ある)事、とぞ。

[やぶちゃん注:「おさへ」底本の竹内利美氏の後注に、『仙台侯は伊達家、会津段は会津若松松平家、佐竹侯は秋田藩主佐竹家、丹羽侯は二本松藩主丹羽家である。外様大名を譜代系大名が看視したのである』とある。]

 

○京都兩本願寺僧正、關東下向の時は、定りて御味方申上る誓詞を奉る事なり。尤(もつとも)、道中往來、十萬石大名の格成(なる)よし。兩本願寺より、時々、公儀へ、時の獻上物、たえず。其寺より、飛脚の者、十人づつ、常に道中に往來するに、かまへあれば、江戶のやうす、一時に、早く京都へ知るゝは、兩本願寺ほど便成(たよりなる)は、なき事、とぞ。

 

○兩本願寺末寺、大抵、關東は、奧羽の末に至るまで、東本願寺派の寺、多し。西は其三ケ一(さんがいち)也。京都より西は、さつまのはてに至る迄、西本願寺派のみ、多し。東派は十に一也。

 

○在國の大名より、使者を以て、年始・寒・暑に、御機嫌伺の書翰を、關東御老中迄、差上(さしあぐ)る。其返言、又、老中より遣さるゝ。其時々、兩本願寺使僧も、諸侯、同前に書翰奉り。相勤(あひつとむ)る也。

 抑、返翰御右筆衆、調(しらべ)終りて、一々、一同に、諸侯の使者、御催促あり。城中「そてつの間」にて、其使者へ相渡さるゝ事なり。

 當日、諸藩の使者、相詰(あひつめ)たる時、先(まづ)、御右筆衆、出席、上座より、列席の順をしらべ、御返翰も席順の如く違(たがひ)なきやうに重ね置(おき)て、其後、當番の御老中、御一人、出席有(あり)。使者を、一人づつ、呼(よび)給へば、其名に隨(したがひ)て、使者、膝行して罷出(まかりいづ)る。

 其時、右筆衆、御老中の御後(おんうしろ)に居(をり)て、一通づつ、返翰を指出(さしいだ)す。

 御老中、後手(うしろで)にて、受取(うけとり)、取直し、其使者へ相渡さるゝ。

 順々、相終(あひをはり)て後、兩本願寺使者、呼出(よびいだ)さるゝ時、兩使僧、左右より、一同に罷出、膝行、出席、兩僧ともに、遲速なく、一同樣(いつどうやう)に坐する事にて、少しも、席のすゝみ、しりぞきあれば、やかましき事也。

 上より、御取扱も、甲乙なく、せらるゝ事にて、本願寺の時は、老中、左右の手を、後(うしろ)へ、まはさるる。右筆、兩寺の返翰を、左右の手に渡し申す。

 則、老中、臂(ひぢ)を、めぐらし、左右の手に返書を持(もち)て、兩僧ヘ、一時に渡さるゝ事也。

 かやうの事(こと)故、東西、返翰相渡さるゝに、間違(まちがひ)なきやうに、兼て、右筆衆、用意有(ある)事、とぞ。

 

譚 海 卷之十四 車造幷大八車の事 鍋釜鑄物家業の事 毒藥賣買の事 書物屋賣買の事 玉子問屋の事

○車造りと云(いふ)者は、古來より、家數(いへかず)、定(さだま)りありて、私(わたくし)に其業をはじむる事、成(なり)がたき物也。

 又、大八車と號するは、車の輪木を、八つ合せて造るゆゑ、大八車といふ也。御所車の輪の造方(つくりかた)とは、少し替りたる物の由を、いへり。

[やぶちゃん注:前段の「車」と、「大八車」の違いが判らない。「ベカ車」があるが、これは大坂で用いられた人力台車であり、同時期にそれより大きな「大八車」が併存していた。]

 

○鍋釜を鑄る家業の者、江戶にては、本所「をなぎ澤」斗(ばかり)也。其外は、武州足立郡川口村に數軒あり。

 しかしながら、鍋釜の免狀を所持せし者は、「をなぎ澤」に壹人、川口に三人ならで、なし。

 天明七年、京都より御改(おあらため)有(あり)て、川口の鑄物師三人の外は、暫く、家業をやめ、免狀を取(とり)に上京する事に成(なり)たり。

「公訴に及(および)しかども、右の裁許に仰付られたり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「本所」「をなぎ澤」小名木川の貫流するこの附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)かと思われる。

「武州足立郡川口村」現在の埼玉県川口市の市街部か。

「鍋釜の免狀」底本の竹内利美氏の後注に、『中世の座の伝統をひいて、鋳物師仲間には、京都から特免の書状を下附される要があった。偽綸旨などを原拠とする特免状ではあったが、これを所持することが正統の鋳物師の証明になっていた』とある。

「天明七年」一七八七年。]

 

○毒藥に類したる物、數品(すひん)有(あり)。皆、等閑(なほざり)に商賣せず。病(やまひ)により用(もちゆ)る事有(ある)時は、

「何の病に用る」

よし、一札を出(いだ)し、藥種屋にて、聞濟(ききすみ)、賣渡す也。

 

○書物、何にても、草稿出來る時は、

「右の書物 開板商買仕度(したき)」

由、公儀へ書上(かきあげ)、免許有(あり)て、賣出す事也。

 

○天明八年五月、從町奉行所仰出候書面。

 玉子問屋の儀は、御用玉子相納候玉子屋共廿七人に限り、直荷物引受問屋商賣可ㇾ致、其外の者は右廿七人の問屋どもより、買請可ㇾ致商買趨趣に、先年より相定り有ㇾ之。就ㇾ中去未七月中右玉子や廿七人の外、直荷物引受候者有ㇾ之候はば、及ㇾ見及ㇾ聞次第、早速可訴出旨、廿七人の玉子や共へ申渡置候得ども、町人一統には其旨不相心得候や、素人にて玉子直荷物引受隱賣致し、或は途中へ出迎ひ、山方より玉子荷物持出し候持[やぶちゃん注:この「持」は衍字っぽい。]人足の者へ致相對荷物直段せり上買請、又は田舍へ直買に出し、商賣致候類有ㇾ之趣相聞え候。左候へば定にも不相叶御用の御差支に相成、其上直段もせり上買請候故自然とせり上、玉子直段も近年は殊の外高直に相成、旁不ㇾ可ㇾ然義に有ㇾ之候間、先年定有ㇾ之通、以來右廿七人玉子問屋共の外、決て玉子直荷物引受申義は勿論、田舍へ直買に出し、或は途中出迎ひ、山方より持出候直荷物せり買致候類一切致間敷候。若直荷物引受度候はば、御用玉子問屋廿七人の者と對談いたし、仲ケ間[やぶちゃん注:「なかま」「仲間」であろう。]へ入、引請候荷物玉子撰立所へ其儘差出し、御用玉子撰出相殘り候分、可ㇾ致商頁候。其外町中玉子商賣致候者共は、御用相納候玉子問屋廿七人より、買請可ㇾ致商賣候。若相背候者於ㇾ有ㇾ之者急度可申付候。此旨可申渡候。

[やぶちゃん注:下知状であるので、手を加えずにそのままとした。

「天明八年」一七八八年。

「去未七月」前年天明七年丁未(ひのとひつじ)。]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現一括版・オリジナル注附き・PDF縦書ルビ版・5.68MB)を公開

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現一括版・オリジナル注附き・PDF縦書ルビ版・5.68MB)を父の逝去から一月の今日、公開した。

江の島は結婚前の私の父と母のデートの場所でもあったのだった(父の弟が写したもの)――

 

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江の島大橋の欄干は木製だったのだなぁ……

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(5)

 

   蟲ぼしや掛物そよぐ笹の風 里 揚

 

 蟲干でいろいろな掛物がかけてある。その掛物に庭から風が吹いて來る。「曝書風强し赤本飛んで金平怒る」などといふやうな、えらい風ではない。日中の笹もそれによつてそよぎ、掛物もまたそよぐといふ靜な風である。趣は平凡だけれども、自然なところが棄て難い。

[やぶちゃん注:「曝書」(ばくしよ)「風强し赤本飛んで金平」(こんぴら)「怒る」高濱虛子の明治四一(一九〇八)年八月の句。]

 

   蟲干や葛籠拂へば包熨斗 鶴 聲

 

 これとちよつと調子の似た句に「蟲干や幕を振へば櫻花 卜枝」といふのがある。花見の時用ゐた幕の中に、櫻が散り込んでゐたと見えて、幕を振つたらその花びらが出て來たといふのは、一種の浮世繪趣味で、綺麗な代りに巧に失する嫌がある。葛籠[やぶちゃん注:「つづら」。]を拂つた中から包熨斗[やぶちゃん注:「つつみのし」。]が出て來たのでは、畫にはならぬかも知れないが、それだけ眞實性が强い。吾々はこの眞實性を尊重したいのである。

 

   買や否ものゝ書たき扇かな 秋 冬

 

 說明するまでのこともない、つまらぬ句である。たゞ正面から率直に云つたところが、取得と云へば取得であらう。句を作る者の通弊は、どうしても巧に流れる點に在る。かういふ稚拙な句を故意に作らうとすると、大人が子供の字を眞似したやうになつて面白くない。この句にしても「買や否」の上五字は、單なる初心者には置き得ぬところがある。

 

   蚊屋釣ていれゝば吼る小猫かな 宇 白

 

 水鳥がさへづるといふことは無いといつたら、いや『源氏物語』にあると云つて例を擧げた話が、『花月草紙』に書いてあつた。猫が吼る[やぶちゃん注:「ほえる」。]といふのもざらには無い。例證を擧げる必要があれば、この句なども早速持出すべきものであらう。猫が不斷と違つたやうな聲を出すのを、「吼る」といつたものではないかと思ふ。

 吉村冬彥氏がはじめて猫を飼つた經驗を書いた文章の中に、蚊帳のことが出て來る。この句を解する參考になりさうだから、左に引用する。

[やぶちゃん注:以下は底本では、全体が二字下げである。前後を一行空けた。]

 

我家に來て以來一番猫の好奇心を誘發したものは恐らく蚊帳であつたらしい。どういふものか蚊帳を見ると奇態に興奮するのであつた。殊に内に人が居て自分が外に居る場合にそれが著しかつた。背を高く聳やかし耳を伏せて恐ろしい相恰[やぶちゃん注:「さうがう」。]をする。そして命掛けのやうな勢で飛びかゝつて來る。猫にとつては恐らく不可思議に柔かくて强靭な蚊帳の抵抗に全身を投げかける。蚊帳の裾は引きずられながらに袋になつて猫のからだを包んでしまふのである。此れが猫には不思議でなければならない。兎も角も普通のじやれ方とはどうもちがふ。餘りに眞劍なので少し悽いやうな氣のする事もあつた。從順な特性は消えてしまつて、野獸の本性が餘りに明白に表はれるのである。

蚊帳自身か或は蚊帳越しに見える人影が、猫には何か恐ろしいものに見えるのかも知れない。或は蚊帳の中の蒼ずんだ光が、森の月光に獲物を索めて步いた遠い祖先の本能を呼び覺すのではあるまいか。若し色の違つた色々の蚊帳があつたら試驗して見たいやうな氣もした。

 

 吾々も猫を飼つた經驗は屢〻あるが、不幸にしてかういふ觀察を下す機會が無かつた。猫と蚊帳に就てこれだけ精細な觀察を試みたものは、或は他に類がないかも知れない。宇白の句は僅に「吼る」の一語によつて、猫の蚊帳に對する奇態な興奮を現したに過ぎぬが、とにかく觀察のこゝに觸れてゐる點を異とすべきであらう。

[やぶちゃん注:「水鳥がさへづるといふことは無いといつたら、いや『源氏物語』にあると云つて例を擧げた話が、『花月草紙』に書いてあつた」「花月草紙」は松平定信の作で、寛政八(一七九六)年から享和三(一八〇三)年の間に成立した随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫(西尾実・松平定光校/昭和一四(一九三九)年刊)のここの「八 ことばとがめ」である。それによれば、「源氏物語」の四十五帖「橋姬」の始めの方にある。亡き源氏の異母弟宇治八宮(親王)は世に埋(うず)もれて失意の日々を送っていたが、京の邸宅が焼けたため、宇治に移り住み、大君(おおいきみ)と中君(なかのきみ)を育てているというワン・シークエンス。当該箇所は、

   *

 春のうららかなる日影に、 池の水鳥どもの、羽うち交はしつつ、おのがじしさへづる聲などを、常は、 はかなきことに見たまひしかども、つがひ離れぬをうらやましく眺めたまひて、 君たちに、御琴ども敎へきこえたまふ。いとをかしげに、小さき御ほどに、とりどり、搔き鳴らしたまふ物の音ども、 あはれにをかしく聞こゆれば、淚を浮けたまひて、

「うち捨ててつがひ去りにし水鳥の

    仮のこの世にたちおくれけむ

心盡くしなりや。」

 と、目おし拭ひたまふ。容貌いときよげにおはします宮なり。年ごろの御行ひにやせ細りたまひにたれど、さてしも、あてになまめきて、君たちをかしづきたまふ御心ばへに、直衣(なほし)の萎(な)えばめるを着たまひて、しどけなき御さま、いと恥づかしげなり。

   *

である。

「吉村冬彥」かの寺田寅彦の俳号。国立国会図書館デジタルコレクションの「吉村冬彦鈔」(『青年讀物』第一篇/昭和一一(一九三六)年)上伊那郡教育委員会編刊)が正字正仮名で、活字が大きく読み易い。「鼠と猫」の「四」章の冒頭部分で、ここから。]

 

   しる人の見込て通る蚊やりかな 和 丈

 

 門口を通る人が家の中を覗のぞいて通る。それは知つた人で、家の中を覗いては行つたが、別に立寄もせずに通つてしまつた。夏の晚で家の中には蚊遣が焚いてある、といふ趣である。

 知人の店の前を通る時など、通りすがりに家の中を見込んで、在否を窺ふやうなことは現在の吾々にもある。この句の場合は作者が家の中にゐて、外を通る者の知人たることを認めてゐるのだから、立場は反對になるわけであるが、中を見込んで通る知人の方は、やはり吾々と同じく在否を窺ふやうな心持なのではなかろうか。この句は町家の光景と解したい。

 

   膳棚に鼠早渡る蚊やりかな 河 菱

 

「早渡る」は「さわたる」と讀むのであらう。燈火の暗い家の中には蚊遣の煙が漲つてゐる、膳棚には鼠が傳ひ步く、といふ侘しい感じの句である。「さわたる」といふ言葉は、鼠には少し上品な感じがせぬでもないが、ちよろちよろと傳ふ樣子をよく現してゐる。

 ちよつと見ると夜寒とか、夜長とかの方がふさはしいやうにも思はれる。併し再按するにそれは机上句案の頭で、蚊遣の煙の籠つた家の中に鼠の荒れてゐる樣子は、竟に如何ともし難い實感である。活字で讀む場合の感じだけで是非するわけには行かない。

 

   雨もりも天井ちかき紙帳かな 十 丈

 

 紙帳といふものは釣つて寢た經驗が無いから、何とも云ふことは出來ないが、この句から想像する紙帳の趣は、蚊帳より遙に侘しさうである。天井近い雨もりの跡なども、はつきり眼につくに相違無い。その雨もりの跡を仰ぎながら、紙帳の中に寢てゐる樣子を考へると、甚だ憂鬱になつて來る。實際紙帳に包まれて見たら、はじめて蚊帳にぶつかつた猫のやうに、奇態な興奮を感ずるかも知れぬが、目下のところでは俄に經驗して見たいとも思はない。

 

   供舟はまだ日のあたる涼かな 花 明

 

 まだ日の暮れぬうちに涼み舟に乘つた場合である。自分の舟は比較的岸に近く居り、供舟は稍〻向うに漕出してゐるのであらうか、半ば昃つた[やぶちゃん注:「かげつた」。]水の上に、供舟の人たちが夕日を浴びてゐるのが見える。「供舟はまだ日のあたる」といふ言葉によつて、その間に多少の距離のあることもわかり、水面も此方は稍〻暗く、向うの方が明るい情景も眼に浮んで來る。納涼の本舞臺はまだはじまらぬのであるが、晚涼の氣は已に四邊に動きつゝあることと思はれる。

「供舟」の「供」は深く文字に拘泥せず、「友舟」と同程度に解して然るべきであらう。

 

   涼風や障子にのこる指の穴 鶴 聲

 

「おさなき人の早世に申遣す」といふ前書がついてゐる。この句に就て思ひ出すのは、小泉八雲が「小さな詩」の中に譯した「ミニシミルカゼヤシヤウジニユビノアト」といふ句である。この句の作者は誰か、八雲の俳句英譯に關する最も重要な助手であつた大谷繞石氏が、この句の下に(?)をつけてゐるのを見ると(全集第六卷)或は出所不明なのかも知れない。ケーベル博士が日本の詩歌について語つた中に

  おお、「障子」の孔を通つて來る風の寒いこと、

  私は硬くなる――これもお前の小さい指の仕業だ!

とあるのは、何に據つたものかわからぬが、やはりこの句を指したものであらう。

 身に入むといふことは、俳句では秋の季になつている。「ミニシミル」の句は前書が無いと意味が十分に受取りにくいけれども、八雲の云ふ通り、「死んだ子を悼んで居る母の悲みを意味して居る」ことは想像出來る。障子の「軟かい紙へ指を突込んで破るのを子供は面白がる。すれば風がその穴から吹き込む。この場合、風は實に寒く――その母の心の底へ――吹き込むのである。死んだその子の指が造つた小さな穴から吹き込むからである」といふ說明も、西洋人に對しては無論必要であらう。たゞこの說明に從へば、この句は冬らしくなる。近頃のやうに障子を冬の季と限定してかゝれば差支無いが、昔の句としては、やはり「身に入む」によつて秋と解すべきではあるまいか。

 作者不明の「ミニシミル」の句は、この「涼風」の句から生れたものかどうか、今俄に斷定しがたいけれども、一句として見る場合には殆ど比較にならぬものである。實際のところ「身に入みる風」と云ひ、「指のあと」と云ただけで、子供の破つた障子の穴から寒い風が吹き込むと解釋するのは、いさゝか骨が折れる。それが亡くなつた子供の指の痕で、その爲に一層身に入みて感ぜられるのだ、と云ふに至つては、前書無しには不可能な話である。八雲が易々としてさう解し去つたのは、何かその意味を補ふだけの前提があつたものと見なければならない。

 そこへ行くと「涼風」の句は第一にちやんと前書がついてゐる。これによつて作者は自分の亡兒を思ひ出してゐるのでなしに、他人が子を失つたのに同情してゐるのだといふことがわかる。

 第二にこの場合の障子は夏の障子で、しめ切つて中に籠つてゐる場合ではない。涼風はその穴から吹入るものと解せられぬこともないが、夏のことだから明放してあつたとしてもいゝ。卽ちこの「指の穴」は眼に訴へるので、その穴から吹込む風が身に入む、といふほど深刻ではないのである。第三に「のこる」といふ一語が前書と相俟つて、世に亡い子供の殘した形見であることをよく現してゐる。子供は世の中に殘す痕跡の少いものだけに、僅なものが親の心を捉へずには置かぬのである。一茶が亡兒を詠じた「秋風やむしり殘りの赤い花」でも、子供がむしり殘した花といふところに、綿々たる親の情が籠つてゐる。この句の生命は繫つて「のこる」に在るといつても、過言ではあるまいと思ふ。第四に――もう一つ附加へれば、「指のあと」といふ言葉は「指の穴」の適切なるに如かぬであらう。畢竟「のこる」といふ言葉を缺いたから「あと」と云つてその意を現そうとしたものであらうが、その點は不十分な嫌がある。

 障子の穴から吹込む風が身に入みることによつて、今更の如く嘗てその穴をあけた亡兒を思ひ出すといふのは、一見悲痛な感情を描いたやうで、眞に凄涼なものを缺いてゐるのを如何ともすることが出來ない。鶴聲が他人の上を思ひ遣るに當つて、障子の穴を點出したのは、この意味において遙に自然である。俳句が强い人情を詠ずるに適せぬことは、先覺の夙に說いてゐる通りだから、繰返す必要もあるまいと思ふ。

[やぶちゃん注:『小泉八雲が「小さな詩」の中に譯した「ミニシミルカゼヤシヤウジニユビノアト」といふ句である』私の「小泉八雲 小さな詩 (大谷正信訳)」を見られたい。因みに、私はブログ・カテゴリ「小泉八雲」で、彼の来日後の総ての作品の訳注を終わっている。

「大谷繞石」英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年:パブリック・ドメイン)の俳号。松江市生まれ。松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされる)。また、京都三高在学中に虚子や碧梧桐の影響から句作を始めて子規庵句会に参加、繞石(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。

「ケーベル博士」(Raphael von Koeber ラファエル=フォン・ケーベル 一八四八年~大正一二(一九二三)年)はドイツの哲学者・音楽家。ロシア生まれ。明治二六(一八九三)年、帝国大学文科大学講師として来日。以後二十一年間、東京帝大で哲学・美学を講義し、また、東京音楽学校でピアノを教えた。超越的汎神論の立場をとり、日本哲学界に大きな影響を与えた。横浜で没した。著書に「E==ハルトマンの哲学体系」などがある。

『おお、「障子」の孔を通つて來る風の寒いこと、私は硬くなる――これもお前の小さい指の仕業だ!』ケーベルの随筆「私の觀た日本」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫「ケーベル博士隨筆集 改訂版」(久保勉譯編・昭和二一(一九四六)年)で正字正仮名で視認出来る。右ページの冒頭の一章。

「秋風やむしり殘りの赤い花」一茶五十六の時、初婚の菊との間に生まれた娘さとを疱瘡で亡くした(文政二年六月二十一日)。その三十五日に当たる墓参りで詠じたものが、「おらが春」には、

 秋風やむしりたがりし赤い花

の形で載る。宵曲の引用元は文政版「一茶發句集」所収の句形であるが、「むしりたがりし」の方が遙かにいい。「涼風や障子にのこる指の穴」との字面上の通性を考えて、この句を採ったのだろうが、「むしり殘りの」は、病臥と死後の有意な時間経過から事実毟り残した赤い花の名残ではない換喩となってあざといと私は思う。ここの宵曲の句選びには、賛同出来ない。]

2024/04/20

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (8) / 「江ノ島記行」~完遂

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。なお、最後に配された「江島採集購收品」のリストは底本では全体が一字下げであるが、無視した。また、項目によっては、一行に別項目が続いているが、ブラウザの不具合を考え、総て独立条として改行した。字間も縮めた箇所が多い。頭の丸括弧数字は半角であるが、全角にした。部分が多くある学名を「〃」で示した箇所は判り難いので、文字化した。【 】は底本では二行割注。学名は斜体になっていない。既に既注の生物は注さない。]

 

  ○十九日快晴【但し朝の間島内に霧有り】

 朝六時起き頗る爽快、朝餐後島上に至り介類二十種ばかりを購收す。九時頃宿を出でゝ沙濱を徐步[やぶちゃん注:「じよほ」。静かにゆっくりと歩くこと。]し、片瀨村に至る。富嶽天に聳て密雲圍擁し、箱根足柄、翠のごとく黛の如く風景絕佳なり。藤澤驛中道を誤つて東すべきを西し、行く事一里許、之を人に問て初て其小田原街道たるを知り、步を却して後、藤澤に出で、こゝに腕車に乘り、戶塚に至る。道の左右松樹を列栽す。人家の屋上多く「イチハツ」を生せるを見る【此事曾て某書にて見たりき】。戶塚を過ぎて腕車を下り保土ケ谷に至る。それより神奈川に着しは四時三十分にして、四時五十一分急行列車に乘り歸京す。

[やぶちゃん注:「イチハツ」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum で、この情景は、所謂、「屋根菖蒲」である。明治期に本邦に来た外国人は、これに感動した。例えば、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 4 初めての一時間の汽車の旅」や、かの「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一)」(まさに鎌倉・江ノ島である)を是非、読まれたい。私は二十一の時、鎌倉十二所の光触寺への参道沿いの左手にあった藁葺屋根の古民家の棟に開花しているのを、嘗ての恋人と一緒に見上げたのが、最後であった。

江島採集購收品  採集品へは△を附す[やぶちゃん注:これは、当該品の最初の一字に「△」が附されているものであるが、ここではその種名の全体を太字とした。

植   物 胡桃科 實核一個 江島海濱にて拾ふ

[やぶちゃん注:「胡桃科」ブナ目クルミ科 クルミ属 Juglans 。本邦に自生しているクルミの大半はクルミ属マンシュウグルミ変種オニグルミ Juglans mandshurica var. sachalinensis である。他に、近縁種のヒメグルミJuglans mandshurica var. cordiformisも見かける。]

動   物

  無脊髓動物 Invertebrata

   海綿類 Spongida

(一)海綿 Spongida sp.

(二)ホッスガイ Hyalonema Sieboldii

  射形動物Actinozoa

[やぶちゃん注:「射形動物Actinozoa」現行では花虫綱(かちゅうこう:Anthozoa)と和名する。刺胞動物門の分類群の一つで、イソギンチャクやサンゴを含む。]

(三)やぎ一種 Gorgonia sp.

(四) きんやぎ Gorgonia sp.

[やぶちゃん注:同定が正しいなら、花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目石灰軸亜目キンヤギ科キンヤギ属 Chrysogorgia の一種である。]

(五)石芝ひらたけいし Fungia sp.

[やぶちゃん注:担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱Agaricomycetesタマチョレイタケ目マンネンタケ科 Ganodermataceaeのキノコか。]

(六)うみぼうき

[やぶちゃん注:不詳。この和名や異名は知らない。刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目石灰軸亜目キンヤギ科 Chrysogorgiidae の一種か。]

(七)とくさいし Isis sp.

[やぶちゃん注:同前。イシスはIsididae科の深海性のタケサンゴ(竹珊瑚)の属名。]

  棘皮動物 Echinodermata

   (1) 海百合類 Crinoidea

(八)海百合【一種大なる者】

[やぶちゃん注: 棘皮動物門ウミユリ綱関節亜綱 Articulataのウミユリ類。孰れの種も深海性。]

(九)仝一種小なる者 江島海濱にて採る。

    (2) 海膽類 Echinoidea

(十)たこのまくらの類【案するに本草啓蒙に所謂きんつばならんか。】

[やぶちゃん注:棘皮動物門ウニ綱タコノマクラ目タコノマクラ科タコノマクラ属 Clypeaster の一種。タイプ種はタコノマクラ Clypeaster japonicus 。これは購入物であるが、生体でない殼なら、七里ガ浜でもよく拾える。

「本草啓蒙に所謂きんつばならんか」国立国会図書館デジタルコレクションの板本の小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」の「卷四十二」の「海燕」(タコノマクラの類)の項の、ここ(右丁七行目)に『豫州ニテ キンツバ云』とある。]

    (3) 海星類 Asteroidea

(十一)ヒトデ一種 Asterias sp.

(十二)ヒトデ一種 Asterias sp.

[やぶちゃん注:棘皮動物門ヒトデ(海星)綱Asteroideaのヒトデ類。]

    (4) くもひとで類 Ophiuroidea

(十三)くもひとで Ophiura sp.

[やぶちゃん注::棘皮動物門星形動物亜門クモヒトデ(蛇尾)綱Ophiuroidea。ヒトデのように移動に管足を使わないことが特徴で、一般にクモヒトデ類は、五本の細長い鞭状の腕を有する。これは購入物であるが、いてもおかしくないが、江ノ島では、私は見たことがない(岩礁帯を精査すれば見つかるだろうとは思う)。修学旅行の引率で行った沖縄では、ワンサカ、いた。観察に夢中になり、バス・ガイドに「早く、戻って下さい。」と注意された。]

 被殼動物 Crustacea

[やぶちゃん注:現在の甲殻類。]

    (1) 異足類 Amphipoda

[やぶちゃん注:現在の端脚類。]

(十四)トビムシ一種 七里濱にてとる

    (2) 十足類 Decapoda

(十五)イセエビ Panulirus japonicus

[やぶちゃん注: 節足動物門軟甲綱十脚目イセエビ科イセエビ属イセエビ Panulirus japonicus 。鎌倉・江ノ島附近では古くは「鎌倉海老」とも呼ばれた。]

(十六)ヒゲガニ【この種の小なる者先年紀州加太浦にて獲たり全體やゝ蜘蛛に似たり】

[やぶちゃん注:十脚目短尾下目Corystoidea上科ヒゲガニ(鬚蟹)科ヒゲガニ属ヒゲガニ Jonas distinctus 。和名は第二触覚や脚などに細かい鬚があることに拠る。、甲幅二・五センチメートルほどの楕円形を成す。私は七里ガ浜で死蟹を採取したことがある。]

(十七)大まんぢうがに

[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣では「まんぢゆうがに」が正しい。甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目オウギガニ上科オウギガニ科ウモレオウギガニ亜科マンジュウガニ属 Atergatis の一種か。「オオマンジュウガニ」という種はいないから、大型のそれである。有毒蟹として知られるマンジュウガニ属スベスベマンジュウガニ Atergatis floridus の大型個体の可能性がある。]

(十八)マンジュウガニ

(十九)同一種

(二十)同一種

(廿一)[やぶちゃん注:底本では、ヘッド番号だけで、底本には記載がない。属レベル或いはその上位タクソンで判らなかったために空欄としたものだろう。以下、空欄は同じ。]

(廿二)ちからがに Phylira sp.

[やぶちゃん注:「ちからがに」の和名は不詳。しかし、学名から、軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目コブシガニ上科コブシガニ科コブシガニ亜科マメコブシガニ属Philyra であることが判るが、私は生体の小さなヒラコブシ Philyra syndactylaを七里ガ浜で採取したことがある。形状から、この種群の孰れかであるというのは「ちからがに」の名では腑に落ちる。]

(廿三)ツトガニ

[やぶちゃん注:不詳。「苞蟹」か。それでも判らないが。]

(廿四)

(廿五)ショウジンガニ

(廿六)

(二七)[やぶちゃん注:ここは空欄だが、熊楠が採取した個体であることを示す『△』のみが附されてある。]

(廿八)

(廿九)イバラガニ PisaParamaijaspinigera

[やぶちゃん注:軟甲綱真軟綱亜綱エビ上目十脚目異尾下目タラバガニ科イバラガニ属イバラガニ Lithodes turritus 。]

(三十)セミガニ Lyreidus tridentatus, n. sp.

[やぶちゃん注:これは学名から、短尾下目アサヒガニ上科アサヒガニ科ビワガニ属ビワガニ Lyreidus tridentatus である。「n.」は「新種」を意味する略号である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクさせておく。]

(卅一)えびの一種

 六肢蟲類 lnsecta

[やぶちゃん注: 節足動物門六脚亜門昆虫綱 Insectaのこと。]

(卅二)瓢蟲(ななほしてんとうむし)Coccinella 7-punctata

[やぶちゃん注: 昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目テントウムシ科テントウムシ亜科テントウムシ族ナナホシテントウ Coccinella septempunctata 。]

(卅三)こがねの一種小なるもの

[やぶちゃん注: 鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ(多食)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科 Scarabaeidaeのコガネムシ類。狭義にはコガネムシ属コガネムシMimela splendens 。]

(卅四)地膽 Meloe sp.  この三蟲は藤澤近傍にて獲

[やぶちゃん注: 鞘翅(コウチュウ)目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae のツチハンミョウ類。]

 蘚狀蟲類 Polyzoa

[やぶちゃん注: 現在の外肛動物門 Bryozoa の内の群体を成すコケムシ類。]

(卅五)

(卅六)

 臂足類 Brachiopoda

[やぶちゃん注:真正後生動物亜界冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda。底生無脊椎動物である、所謂、舌殻亜門舌殻綱舌殻目シャミセンガイ科シャミセンガイ(リンギュラ)属ドングリシャミセンガイ Lingula jaspidea(シノニム:Lingula rostrum )に代表される原始的な生物である。「御雇い外国人」で江ノ島に初めて海洋研究所を建てたE.S.モースの専門はシャミセンガイの研究であった。もう、江ノ島にはシャミセンガイはいない。私のブログ・カテゴリ『「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】』をどうぞ!]

(卅七)ほゝづきがひ Terebratula

[やぶちゃん注:テレブラチュラ属。前記腕足動物門中の代表的な化石属名。殻の外形は円形に近く、蝶番(ちょうつがい)の線は、極めて短く、湾曲している。殻は有斑で、表面は平滑。強い肉茎によって他物に付着して生活ししていたが、茎孔は丸く、殻頂に位置する。腕骨は環状。三畳紀から現世まで分布するが,ジュラ紀以降に繁栄した。]

(卅八)同一種T.sp.

 平鰓類 Lamellibranchiata

[やぶちゃん注:和名は「弁鰓類」「弁鰓綱」で、所謂「斧足類」、則ち、二枚貝類Bivalviaを指す。]

(卅九)にしきがひ

[やぶちゃん注:軟体動物門二枚貝綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科カミオニシキ亜科カミオニシキ属ニシキガイ Chlamys squamata 。]

(四十)つきひがひ Pecten japonicus Gmel.

[やぶちゃん注:軟体動物門二枚貝綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科ツキヒガイ亜科ツキヒガイ属ツキヒガイ Ylistrum japonicum 。]

 角貝類 Scaphopoda

[やぶちゃん注: 軟体動物門掘足綱ツノガイ目 Dentaliida・クチキレツノガイ目Gadilidaのツノガイ類。]

(四一)ツノガイ Dentalium octogonum, Lam.

[やぶちゃん注:ツノガイ目ゾウゲツノガイ科ゾウゲツノガイ属ヤカドツノガイ Dentalium octangulatum 。]

 腹足類 Gasteropoda

(四二)ぢいがぜ Chiton sp.

[やぶちゃん注: 熊楠は腹足類(巻貝類)に入れてしまっているが、これは軟体動物門多板綱 Polyplacophoraのヒザラガイ(膝皿貝)類して知られているそれで、誤りである。岩礁に扁平な体で貼りついていて、背面に一列に並んだ八枚の殻を持っている、あれである。ここは狭義の知られたウスヒザラガイ亜目クサズリガイ科 Chitonidaeヒザラガイ属ヒザラガイAcanthopleura japonica を挙げておく。]

(四三)鰒魚(とこぶし) Haliotis Tokobushi

[やぶちゃん注:腹足綱前鰓亜綱古腹足目ミミガイ科ミミガイ属トコブシ Haliotis diversicolor 。]

(四四)Troghus sp. こしだかがんがら

[やぶちゃん注:所謂。「シタダミ」の流通通称で知られる、腹足綱前鰓亜綱古腹足亜綱ニシキウズガイ目ニシキウズガイ上科リュウテン科クボガイ亜科クボガイ属コシダカガンガラ Tegula rustica 。]

(四五)くまさかゞひ Xenophora pallidulla

[やぶちゃん注:腹足綱前鰓亜綱盤足目クマサカガイ超科クマサカガイ科クマサカガイ属クマサカガイ Xenophora pallidula 。和名は義経伝説に登場する平安末期の大盗賊熊坂長範(くまさかちょうはん)に由来する。深海で見つかることが多く、ビーチ・コーミングでも、まず出逢うことはない。和名は、自分の殻表に死んだ他の貝殻や礫等を附着させて擬態する習性を盗人に擬えたものである。]

(四六)Conus sp.

[やぶちゃん注:腹足綱新腹足目イモガイ科イモガイ亜科イモガイ属 Conus のイモガイ類。軟体部を殻の奥に縮めると、開口部から軟体部が見えなくなる種が多いことから、「ミナシガイ」の異名を持つ。捕食性で、歯舌が特化した神経毒の毒腺が附いている小さな銛で他の動物を刺し、麻痺させて摂餌する。毒は種によって異なるが、ヒトが刺されて死亡するケースもある。]

(四七)

(四八)

(四九)けりがい[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]

[やぶちゃん注:これは腹足綱前鰓亜綱笠形腹足上目ユキノカサガイ科シロガイ属カモガイ(鴨貝) Collisella dorsuosa である。笠形の貝で、別名「キクガモ」「ケリガイ」。北海道南部から日本全国、さらに台湾にかけて分布し、殻長径二センチメートル、殻幅一・七センチメートル、殻高一・七センチメートル。殻頂は前方に寄っており、幾らか鷲鼻状に曲がり、そこから、多少、顆粒状の放射肋が、二、三本ほど走る。殻の周縁は中央側縁で、やや凹む。殻内は白く、中央は褐色に彩られる。岩礁の波飛沫(なみしぶき)のかかる辺りにコロニーをつくり、冬は群れを解いて避寒し、春になると、元の着生場所に戻る習性がある(小学館「日本大百科全書」に拠った)。サイト「微小貝データベース内」の同種のページで貝殻が確認出来る。]

(五〇)きせるがい

[やぶちゃん注:「煙管貝」で軟体動物門腹足綱有肺目キセルガイ科 Clausliidaeの陸生巻貝である。]

(五一)えうらく Typhis sp.

[やぶちゃん注:「瓔珞」で腹足綱新生腹足亜綱新腹足目アクキガイ科クダヨウラク属の一種のようである。サイト「微小貝データベース内」の同種のページで貝殻が確認出来る。]

(五二)同一種 Typhis

(五三)ほしだから Cypraea sp.

[やぶちゃん注:実は学名は「Cypraeu」となっているが、誤植と断じ、特定的に訂した。後の(五四)から(五七)までの学名部は「〃」であるが、総てプリントした。これは、多くの土産物屋でお馴染みの、腹足綱吸腔目タカラガイ科Cypraeinae亜科Cypraeini族タカラガイ属ホシダカラCypraea tigris である。]

(五四)同一種 Cypraea sp.

(五五)たからがひ一種Cypraea sp

(五六)同一種Cypraea sp

(五七)同一種 Cypraea sp.

(五八)うづらがひ一種

[やぶちゃん注:「鶉貝」で、腹足綱ヤツシロガイ上科ヤツシロガイ科ヤツシロガイ属ヤツシロガイ Tonna luteostoma の異名である。私の好きな貝殻で、殻高さ十センチメートル超の大振りのそれを持っていたが、高校二年の時、秘かに憧れていた若い女性事務員(二歳年上であった)に赤いリボンを巻いてあげてしまった。]

(五九)[やぶちゃん注:ここは空欄だが、熊楠が採取した個体であることを示す『△』のみが附されてある。]

(六十)がんがら

[やぶちゃん注:腹足綱前鰓亜綱古腹足亜綱ニシキウズガイ目ニシキウズガイ上科リュウテン科クボガイ亜科クボガイ属コシダカガンガラ Tegula rustica 。とても美味い。]

(六一)捘尾螺 小なるもの Triton sp.

[やぶちゃん注:「捘尾螺」はママ。これは熊楠の誤記か誤植で「梭尾螺」が正しい。「ほらがひ」で、腹足綱前鰓亜綱中腹足(盤足)目ヤツシロガイ超科フジツガイ科ホラガイ亜科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis のことである。「Triton」は属名ではなく、同種の英名「Triton's trumpet」を部分引用したものである。]

(六二)あみがさがひ

[やぶちゃん注:腹足綱前鰓亜綱(始祖腹足類)カサガイ目ヨメガカサガイ科ヨメガカサガイ属アミガサガイ Cellana grata stearnsi 。]

(六三)くるまがひ

[やぶちゃん注:腹足綱低位異鰓目クルマガイ上科クルマガイ科クルマガイ属クルマガイArchitectonica trochlearis 。]

(六四)つとがい Ovulum volva

[やぶちゃん注: 腹足綱直腹足亜綱後生腹足下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ上科ウミウサギガイ科ヒガイ属ヒガイ Volva volva habei 。フォルムが私のお気に入りの貝である。]

 魚類 Pisces

(六五)ねこざめCestracion philippi Lasepの齒【江島にて名荷貝と呼】及び緬[やぶちゃん注:「はらご」。]【方言なみまくら】

[やぶちゃん注:前者は「サザエワリ」(栄螺割)の異名を持つ、軟骨魚綱板鰓亜綱ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus 。同種の歯は前歯が棘状を成すが、後歯が臼歯状に広がる。グーグル画像検索「ネコザメの歯」をリンクさせておく。

「名荷貝」(みやうががひ)はネコザメの下顎の歯である。「南方熊楠記念館」の「熊楠のお宝これは何でしょう①」を見られたい。なお、全く同じ和名の節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下綱完胸上目有柄目Scalpellomorpha亜目ミョウガガイ科ミョウガガイ属ミョウガガイ Scalpellum stearnsii がいるので注意されたい。

「緬」「方言なみまくら」これはネコザメのスクリュー型の卵嚢を指す。グーグル画像検索「ネコザメ 卵嚢」をリンクさせておく。]

(六六)うみすゞめ

[やぶちゃん注:顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目スズキ系フグ目フグ亜目ハコフグ科コンゴウフグ属ウミスズメ Lactoria diaphana 。眼上に棘が、腹側にも隆起棘が、また、隆起中央の後方にも棘があるので、一見して同種と見分けられる。]

(六七)たいむこのげんぱち Monocentris japonicus Hout【方言えびすだい[やぶちゃん注:ママ。]】介肆の主此魚の胸鰭或は開き或はたゝむとも毫も折損せずとて示したり。

[やぶちゃん注: 条鰭綱棘鰭上目キンメダイ目マツカサウオ科マツカサウオ属マツカサウオ Monocentris japonica 。「松毬魚」は硬い鱗に覆われて鎧のように見えること(「ヨロイウオ」の異名もある)、

また、下顎の前方に一対の米粒のような発光腺があり、この中に発光バクテリアが共生していて、本邦の海産魚類では珍しい発光する魚としても知られる。さらに、鰭を動かすときにパタパタと音を立てることから「パタパタウオ」と呼ぶ地方もある。]

(六八)海馬【りう[やぶちゃん注:ママ。]のこまと呼ぶ】

[やぶちゃん注:条鰭綱トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus のタツノオトシゴ類。多くの種がいる。]

 其他やぎにて作れる箸、指輪、車渠をもって作れる球、靑螺盃及球、石決明の珠、榮螺の盃、等をも購收せり。

[やぶちゃん注:「車渠」: 斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ亜科 Tridacnidae のシャコガイ類の殻。

「石決明の珠」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis のアワビ類が殻の内側の真珠層に混入した異物を核に天然真珠が出来る。

 一字下げの「江島採集購收品」リストはここで終わっている。なお、このリスト内には、手書き挿絵(手書きキャプション附き)がある。そこには、右端に、

   *

四月十六日

 七里濱所𫉬

   *

とあって、二つの図があり、右側のそれには、右手に「截面」、その下方に「裏」とあり、上部図外に判読不能の「■」(二字?)、同じく下部図外に判読不能の「■」(二字?)と、左手には「表」とあって、その図の左に表から描いたものらしい図がある。その右上図外には「コブ」と読めそうな文字があり、左上図外にも判読不能の「■」(二字?)がある。これは、採集地から、この後に書かれている「化石二つ及鐵砂を得たり。江島にて介細工中往々この沙もて黑色をなせり。七里濱邊に有り、取り來て水に晒し用ゆとぞ」とある化石の一つの絵と推定される。何の化石かは、私には判らない。識者の御教授を乞うものである。]

 化石二つ及鐵砂を得たり。江島にて介細工中往々この沙もて黑色をなせり。七里濱邊に有り、取り來て水に晒し用ゆとぞ。

[やぶちゃん注:七里ガ浜の稲村ヶ崎寄りでは、古くから砂鉄が採れる。]

 「ホツスガヒ」、同大にして價大に異なるものあり。之を問ふに、鹽氣を去れると去らざるとなり、鹽氣を去らざれば其綿脫落すといふ。その之を去るの法之を淨水に浸すこと數分時にして日光に晒し、幾回もかくするなりと。

 (附)餘が購し介種の中「ヒゲダイモク」郞君子(こまのつめ)等二十品ばかり、倉卒の際旅舍へおき忘れて出たり。今に至り悵憾詮方なし。[やぶちゃん注:この最後の附記はポイント落ち。]

右明治十八年五月二日記畢。           

[やぶちゃん注:「ヒゲダイモク」日蓮宗の「南無妙法蓮華經」の髭文字を貝細工で作ったものらしいが、私は見たことがないので、何を用いて造るのか、不詳。識者の御教授を乞う。髭は鯨ひげを使ったか? 因みに、御題目の内の「法」には、唯一、髭はない。「法」=「カルマ」は棘があってはいけないからである。

「郞君子(こまのつめ)」腹足綱前鰓亜綱古腹足目サザエ(リュウテンサザエ)科リュウテン亜科 Lunella 属スガイ(酢貝)Lunella correensis の硬質の厚い蓋のこと。「相思子」とも言う。これは、酢を入れた皿の中に入れると、くるくると回り出し、古く子どもの遊びとされた。御存知ない方は、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 相思螺・郎君子・酢貝(スガイ)・ガンガラ / スガイ及びその蓋』の私の注を参照されたい。]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (7)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。なお、以下の「兒(ちご)か淵の由來」(「か」はママ)の部分は、底本では、全体が二字下げである。

 

兒(ちご)か淵の由來 往昔、建長寺廣德庵に自休藏主[やぶちゃん注:「じきうざうす」。]と云る沙門有り、陸奧國信夫の人にて、或時宿願有て江島に詣する山中にて美艶紅顏少年にあふ。藏主迷ひの心を生し戀慕止まず。伴ふ僕に問へば是なん雪の下相承院の白菊といふ兒なりと答ふ。爾後人づてに文もて云よれど更に隨ふ氣色なければ、月日を累ね切なる思ひを通じければ、白菊も其の情にや忍かねけむ扇に二首の和歌を記し、涉船人[やぶちゃん注:「わたしぶねびと」。]にわたし、吾を尋る人あらば之を與へよと言別れて入水せし名殘の歌に、「白菊としのぶの里の人とはゞおもひ入江の島とこたへよ」「うきことをおもひ入江のしまかげにすつるいのちは波のしたくさ」かく辭世して此淵に沈み終りしを藏主慕ひ來て此歌を見つゝ淚にむせびつゝ詩を賦す。曰く、懸崖嶮所捨生涯、十有餘霜在刹那、花質紅顏碎岩石、蛾眉翠黛接塵砂、衣襟只濕千行淚、[やぶちゃん注:読点がないが、誤植と断じ、打った。]扇子空澗(とゞむ)二首歌、相對無言愁思切、暮鐘爲孰促歸家、白菊の花の情のふかき海にともに入江の島ぞうれしき、と詠じて自休も共に此淵に身を投、死したり。【此事南畝莠言等に出づ】

[やぶちゃん注:ここで一字下げは終っている。最後の【 】は底本では、二行割注。

「懸崖嶮所捨生涯、……」訓読を示すが、一部の漢字に問題がある。私のブログ版の「『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 12 兒が淵」で私が私のサイト版「新編鎌倉志卷之六」のそれとの異同を載せてあるが、その孰れとも異なる。而して、大田南畝の「南畝莠言」を、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十五巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)の当該部で見たところ、 熊楠は、そこに載る漢詩を概ね引いたものと判った。但し、取り敢えず、明らかな誤字或いは誤植としか読めない「扇子空澗(とゞむ)二首歌」の「澗」を「南畝莠言」の「留」に代えて「南畝莠言」での読みを参考に(一部に不審があり、そこは従っていない)訓読しておいた。

   *

懸崖 嶮(けは)しき所に生涯を捨つ

十有餘(いうよ) 霜(さう) 刹那に在り

花質(くわしつ)の紅顏(こうがん) 岩石に碎け

蛾眉翠黛(がびすいたい) 塵砂に接す

衣襟(いきん) 只だ濕ほす 千行(かう)の淚(なみだ)

扇子(せんす) 空しく留(とど)む 二首の歌

相ひ對して 言(こと)無し 愁思(しうし) 切(せつ)なり

暮鐘(ぼしよう) 孰(たれ)が爲めに 家に歸ることを促(うなが)す

   *]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (6)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

 奧津宮以下を窟道と云ふ。店頭拳螺[やぶちゃん注:「さざえ」。]を燒き茶をすゝむるもの數軒、余一店に入り望遠鏡を以て南方を覘ふに、一岩傑然波上に兀出す[やぶちゃん注:「ごつしゆつす」。]。是れ烏帽子岩と名く。その距離三里なりといふ。此邊形勝頗る佳なり。其島の東南に斗出[やぶちゃん注:「としゆつ」。]せるの地、これを三崎となす。伊豆大島亦見るべし。稍下りて常夜燈の碑有り。又下りて海崖に至る。大磐平卧して擴布甚廣きものあり、まないた岩と呼ぶ。是よりさき、岩石突兀、行步注意を要す。遂に岩屋に入る、入る事一町許り人あり、神符を賣り又燈を具して人に貸す。こゝにて手を洗ひ燈を點して進行す。洞の大さ進むに從て漸く減じ、遂に頭を注意するを要するに至る。左右小祠多し。一々名を聞たれども悉く記せず。窟の衝く所に辨天祠有り、卽ち役小角乃祭る所にして此島の本神なり。入り口より此に至る二町二間[やぶちゃん注:二百二十一・八二メートル。]という。他の一道を經て出で手を洗し所に至り遂に洞口に出で歸る。漁夫五六人海に入て蝦を取るを觀よと勸む、余聽かず、蓋し彼ら豫め蝦を捕え[やぶちゃん注:ママ。]て筐籠[やぶちゃん注:「きやうろう」。箱や籠。]に盛り崖下におき、岩下を探るを似して[やぶちゃん注:「まねして」。]これを取出すなり。故に其蝦多くは活動跳躍せず。奧津宮前に來り、案内者に別れ、介肆數軒に入り、魚蝦蟹貝の屬數十品を買ふ。時既に正午に近きを以て、ひと先[やぶちゃん注:「まづ」。]足を回してかえる[やぶちゃん注:ママ。]。]

 午餐後、復出で[やぶちゃん注:「また、いで」。]、島の西岸に至る。漁戶あり、人皆網を乾し藻介を取る。此時天漸く晴れ海潮退き盡きて岩上靑苔滑らかに和風吹來て、松聲朗たり。步して崖岸を探れば蟹螺立ろに[やぶちゃん注:「たちどころに」。]拾ふべし。思はじ步する事數町、遂に辨天窟の前に至る。此邊處々に「シヤウジンガニ」を見る。「アカムシ」より少く[やぶちゃん注:「すこしく」。]大にして、沙中に群生し、捲曲動搖して其餌を資る[やぶちゃん注:「とる」。]あり。海菟葵[やぶちゃん注:「いそぎんちやく」。]多し、其一種腕形恰かも羽毛の如く褐色にして甚美なるものあり、又雨虎(あめらし[やぶちゃん注:ルビはママ。「あめふらし」の誤植。])多し。「カツタイガニ」多くみな脊上に靑苔を生じて、靑苔[やぶちゃん注:「あをのり」。]を生して[やぶちゃん注:「しやうじて」。]の靑苔中に棲む、これを識る事甚難し、而して多くは其足一二本缺けり、こゝに於て百方探索其足の全きものを取れり。其形を支離する者の益[やぶちゃん注:「ますます」。]其大なるかな。又步して兒(ちご)が淵に至る、岩屋此に至りて竭きたり。碧水潭々として怒浪奮擊し、苔藻の靡き動く有樣、恰かも喬木の大風に動くを上より見る心地せり。

[やぶちゃん注:「窟道」「いはやみち」。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「烏帽子岩」一般名称であるが、その方で専ら知られる。正しくは「姥島」(うばしま)で、「乳母島」とも書き、古くは「筆嶋」と呼んだ。ここ

「その距離三里なりといふ」誇張表現もトンデモで、実際には五キロメートル強しかない。

「其島の東南に斗出せるの地、これを三崎となす」これは烏帽子岩(=姥島)の烏帽子上に突出している箇所を、かく言っている。ストリートビューのここで、ここの一角、同岩礁帯の南部(東南ではない)だけが、特異的に屹立していることが判る。

「伊豆大島亦見るべし」はっきりとはしないが、大島の島影が江ノ島から見える。私は、昭和六一(一九八六)年十一月二十一日夕刻に始まった「三原山大噴火」のその日の夜、友人の車で江ノ島にドライヴに行ったが、吹き上がる火柱が三本ほど、確かに見えた。

「稍」(やや)「下りて常夜燈の碑有り」江ノ島の「稚児ヶ淵」の崖のここに「芭蕉句碑」と「石碑群」があり、「稚児ヶ淵」の岩礁上に常夜灯(同前のサイド・パネルの画像)がある。江戸時代の奉納のものである。

「擴布」面積の広さ。

「まないた岩」「『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 江島」の本文に『俎岩』と出る。因みに、芥川龍之介の「大導寺信輔の半生 ――或精神的風景畫――」(私のサイト版)のエンディング・ロケーションは、この「魚板岩」(まないたいわ)である。

「シヤウジンガニ」甲殻綱十脚(エビ)目エビ亜目カニ下目 Brachyura Grapsoidea上科イワガニ科ショウジンガニ(精進蟹)亜科ショウジンガニ属ショウジンガニ Plagusia dentipes 。大きさは六センチメートル。江ノ島に棲息する。グーグル画像検索「ショウジンガニ」をリンクさせておく。

「アカムシ」異名らしき「赤」からは、イワガニ上科ベンケイガニ科アカテガニ属アカテガニ Chiromantes haematocheir である。大きさは三~五センチメートル前後だが、♂が♀より大きい。陸生に適応しているが、江ノ島にも棲息する(ショウジンガニとともに小学校六年生の時にヨット・ハーバーの防波堤の外の岩礁で視認している)。グーグル画像検索「アカテガニ」をリンクさせておく。

「海菟葵」刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目 Actiniaria 。「其一種腕形恰かも羽毛の如く褐色にして甚美なるものあり」とあるのは、イソギンチャク目尋常イソギンチャク亜目ウメボシイソギンチャク上科ウメボシイソギンチャク科ウメボシイソギンチャク属ウメボシイソギンチャク Actinia equina 、或いは、ウメボシイソギンチャク科 Epiactisコモチイソギンチャク Epiactis japonica であろう。リンクは学名のグーグル画像検索。後者も大きな個体或いは個体群では強い褐色を示すものがあるが、「羽毛の如く褐色にして甚美なるもの」という表現はウメボシイソギンチャクに遙かに分がある。二種とも先と同じ場所で現認している。

「雨虎」「あめふらし」腹足綱異鰓上目真後鰓目アメフラシ亜目アメフラシ上科アメフラシ科アメフラシ属アメフラシAplysia kurodai 。私のサイト版「栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻八より)」「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」の「雨虎(海鹿)」を見られたい。

「カツタイガニ」「癩蟹」(「かったい」は「ハンセン病」の古語の差別名)であり、現在は使用してはならない。軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目クモガニ上科モガニ科ツノガニ亜科ヒラツノガニ属ヒラツノガニ Scyra compressipes のことである(リンクは同前の検索)。「平爪蟹」で、食用になる。肉量は多くないが、多量に漁獲されることがあり、出荷される。甲の輪郭が丸みを帯びていることから、漁業関係者の間では「マル」とか「キンチャクガニ」の名で呼ばれることが多い。甲面は前後左右に湾曲し、甲面中央部にH字状の深い溝がある他は甲域が不明瞭である。額に四本の突起が並んでいるように見える。甲の前側縁には三角形の突起が五つあり、それらの外縁は孰れも丸みを帯びている。鋏脚は強大で、掌部の下縁には二十本内外の短い稜が斜めに並んでおり、この部分を付根にある角質の稜で擦って音を発することが知られている。遊泳脚の先端部が平たいので「平爪」の名がある。生時は、黄褐色地に紫色の小点が密にある。本州・四国・九州の浅海の砂底に棲息し、中国南部まで分布する。ゴカイなどの小動物を食べる。夏に産卵する。嘗つては、世界的に分布すると考えられたが、現在は多くの種に分けられている。タコ釣りの餌としてよく使われる(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。江ノ島で現行でも多量に漁獲された記事を確認出来た。

「靑苔」素直に読むなら、「あをのり」で、緑藻植物門アオサ藻綱アオサ目アオサ科Ulvaceae の種群、或いは、同科アオサ属スジアオノリ Ulva prolifera 、同科アオノリ属ウスバアオノリ Enteromorpha linza かも知れない。「大和本草卷之八 草之四 海藻類 海苔(アヲノリ)」の私の注を参照されたい。]

2024/04/19

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (5)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

 濱と江の島の間、潮水之を遮る其間半町[やぶちゃん注:五十四・五五メートル。]に足ず、涉人、往來を辨す、島の北端は平沙濱をなせり。海鷗群飛して悲鳴す。海蝦の漁甚多し。鳥居を過て一丁ばかり人家對列す、旅舍多し、之を西の町と云ふ。輙ち惠比須屋茂八方に宿し出で島上に遊ぶ。介貝を賣る肆[やぶちゃん注:「みせ」。]多し。每肆皆なホツスガイを列示す、この島專有の名產なり。坊の衝く所石壇有り、上れは[やぶちゃん注:ママ。]正面に石碑あり。東都吉原妓家の建る所、書して曰く、最勝銘最勝無最勝匹至鈔匪名、起滅來去香味色聲事物蕭寂眞空崢嶸顯處漠々暗裡明々 明治甲申 原坦山撰とあり。此邊に案内者あり、乃一人を雇ひ伴ひ行く。邊津社は舊下の宮と稱し、建永元年僧良眞が源實朝の命を請て開く所なり。沖津社[やぶちゃん注:ママ。「中津社」が正しい。]は舊上の宮と號し、文德帝の時慈覺大師の創造する所なり。中津社より奧津宮に至る其間の道を山二つといふ。進て行けば介肆[やぶちゃん注:貝殻を売る店。]多し。奧津社舊岩屋本宮の御殿と云ふ。養和二年文覺が賴朝の祈願により龍窟の神を此に勸請せるなり。社前に酒井雅樂頭の眞向きの龜と號する畫額あり。但し余の見を以てすれば、寧ろ眞拔けの龜と稱するが佳ならん。

[やぶちゃん注:「濱と江の島の間、潮水之を遮る其間半町に足ず、涉人、往來を辨す」当時の江ノ島の様子は、私の『サイト「鬼火」開設8周年記念 日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳 始動 / 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 1』以下の、同章を通読される(第五章は、カテゴリ『「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】』で全二十二回)と、私がグダグダ解説するより、目から鱗である。例えば、当時はしっかり砂州があって(満潮や荒天時は切れる)、平時は陸繋島であった。例えば、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 5 附江の島臨海実験所の同定」の私の注で引用した地図を見られたい。また、実は現在、江の島に初めて砂州の途中から桟橋が架けられたのは明治二四(一八九一)年とされているのだが、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 25 幻の桟橋」のモースの記載に明治一〇(一八七七)年夏の時点で、極めて脆弱ではあるが、「島から本土へかけた、一時的の歩橋」が、まさに砂州の途中から既に島に架かっていた事実が記されてあるのである!

「西の町」この呼称は現在知られていないので、貴重な当地での呼称として非常に貴重である。

「惠比須屋茂八」「恵比寿屋」として現存する(グーグル・マップ・データ)。「『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 15 惠比壽樓」を参照されたい。

ホツスガイ」海綿動物門六放海綿(ガラス海綿)綱両盤亜綱両盤目ホッスガイ科ホッスガイHyalonema sieboldi 。私の毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 拂子貝(ホツスガイ)  / 海綿動物のホッスガイの致命的な海綿体本体部の欠損個体』を見られたい。私が小さな頃は、江ノ島のどこの土産物屋にも、不思議に美しい骨格J標本が売られていたものだが、最近はめっきり少なくなった。ちょっと寂しい。

「最勝銘無最勝匹、……」訓読を試みる。

   *

「最勝の銘」。「最勝、匹(たぐ)ひ無く、至妙、名に匪(あら)ず。起滅、來去(らいきよ)、香味、色聲(しきしやう)、事物は蕭寂(しせうじやく)、眞空(しんくう)は崢嶸(さうくわう)たり。顯處(けんしよ)は漠々、暗裡は明々たり。明治甲申 原擔山撰

   *

この「最勝」とは、仏教の教典の一つである「金光明最勝王經」のこと。「法華經」・「仁王經」(にんのうきょう)とともに、「国家鎮護」の「三部経」とされる経典である。「色聲」は字面上は同経典の有難い経文の美称であろうが、確信犯で吉原の妓女を通わせているに違いない。「眞空」は仏語で、一切は因縁によって生じ、我とか実体とか言ったものがなく、完全に空しいことを言う語である。「小乗」では、これを悟りの境地とするが、このように空と観ずることによって智慧が発現する際、その真空は、そのまま「妙有」(みょうう:真実の有。 相対的な有・無の対立を超えて初めて、その空の上にこそ存在の真実の姿が現れるとするもの)であり、それを「真空妙有」と呼ぶ。則ち、この「空」は、ただの「空」ではなく、「真如の理性の諸相を離れた姿」なのである。妓女を苦海から浄土へと導く引導としたものであろう。「明治甲申」は明治十七年(以下を参照のこと)。なお、この碑は江島神社の瑞心門の左手の無熱池の背後の崖の上に現存する。サイト「古今東西舎」のkokontouzai氏の『江の島(最勝銘碑)南方熊楠の「江島紀行」にも登場』に写真と解説があり、『新吉原の関係者が寄進した石碑』とあり、発起人として、『長崎屋、吉村屋、山口巴屋、尾張屋』の名が彫られてあり、『この石碑「最勝銘碑」は』、熊楠が訪れた前年の明治一七(一八八四)年に『建てられたもので、東京大学でインド哲学を教えた曹洞宗の僧の原担山の撰による文言が刻まれてい』るとあるから、実に、南方熊楠が訪れた前の年に建立された、出来たてホヤホヤのものであったことが判る。原担山(はらたんざん 文政二(一八一九)年~明治二五(一八九二)年)は磐城出身。初め、江戸の「昌平黌」で儒学を学び、また、医学を修めた。後に曹洞宗の僧となり,明治一二(一八七九)年に東京大学和漢文学科で仏典の講義を行い、これが同大学の印度哲学科の端緒となった。 明治二四(一八九一)年に曹洞宗大学林(現在の駒澤大学)総監に就任している。著作は「心識論」・「心性實驗錄」など、多数ある。吉原遊廓とインド哲学者の取り合わせがグーだね! 今度行ったら、じっくりと見たいものだ。

「邊津社」現在の江島神社辺津宮(へつのみや;グーグル・マップ・データ。以下同じ)のこと。

「建永元年」一二〇六年。

「良眞」江の島の岩窟に籠もって修行した鶴岡八幡宮の供僧。サイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「聖天島~天女出現伝説:江の島~」を見られたい。

「沖津社」(✕)「中津社」(○)江島神社中津宮

「文德」(もんとく)「帝の時」在位は嘉祥三(八五〇)年~天安二(八五八)年。

「慈覺大師」円仁のこと。

「奧津宮」ここ

「山二つ」ここ

「介肆多し」ストリートビューで見たが、昔、嘗ての恋人にベニガイ(斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ニッコウガイ科ベニガイ属ベニガイ Pharaonella sieboldii )を買った店に併設されていた「世界の貝の博物館」(旧主人が貝類学者とも親しかった方で貝類研究家でもあった。何度か親しくお話を聴いたのを思い出す)も既に閉じていた……

「養和二年」一一八二年。

「酒井雅樂頭の眞向きの龜と號する畫額あり。但し余の見を以てすれば、寧ろ眞拔けの龜と稱するが佳ならん」。「酒井雅樂頭」江戸後期の絵師俳人酒井抱一(ほういつ 宝暦一一(一七六一)年~文政一一(一八二九)年:本名酒井忠因(ただなお))のことだが、彼は権大僧都ではあったが、「雅樂頭」(うたのかみ)ではない。彼の父親(抱一は次男)が、老中や大老にも任じられた酒井雅楽頭家の姫路藩世嗣酒井雅楽頭忠仰であったのを、誤認したものである。さて。「龜」の絵だが、「眞向きの龜」ではなく、「八方睨みの亀」(どこから見てもこっちを睨んでいるように見える)である。奥津宮拝殿天井に描かれてあった。私が先の恋人と見た時は、原画であったが、現在のものは、彩色された復原画になってしまっている。私は原画が大好きだ。熊楠には物言いを叫ぶ!

 それよりまた步をかえす[やぶちゃん注:ママ。]に、潮水なほ未だ滿ち來らず、天氣朗晴にして相豆[やぶちゃん注:「さうづ」。相模・伊豆。]の形色悉く備はる。男は巖崕の上に踞して釣竿を斜にし、女は汀際に俯して藻介を覓む。兒童が蟹甲を剝て舟となし、𧶺蟲[やぶちゃん注:「ていちゆう」。ヤドカリの古名。]を客として水に浮べてなぐさむも亦目新らし。かくて旅舍へ歸りしに時なほ四時に早きを以てまた出でて山上に至り介肆に就て諸種の介蠏[やぶちゃん注:「かひ・かに」。後者はカニのこと。]數十個を購收せり。介又やぎを以て簪箸[やぶちゃん注:「かんざし・はし」。]など種々の細工をなす。美にして雅なり、頗[やぶちゃん注:「すこぶる」。]愛すべし。又店頭に印度、薩隅及北海道の所產をも列する事少なからず、之を問ふにこれみな此島所產を以て彼と交易するなりといへり。此夜一天片雲なく、星茫煌々として、金波爛揚[やぶちゃん注:「らんやう」。]、價値千兩とも謂つ可し。夜九時に臥す。

[やぶちゃん注:「やぎ」花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱亜綱ヤギ(海楊)目Gorgonaceaに属する多数の種群の総称。俗に「ソフトコーラル」と呼ばれる。黄色や赤など、様々な色彩に富み、美しい水中景観を作る。その群体の中心には、角質或いはそれに石灰質を膠着した骨軸を持っており、これが、加工されて土産物となっている。]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (4)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

  ○十八日

 黎明天を望むに、漸く南方の白きを見る。午前八時宿を出で、西方に向かふ、長谷觀音の境内を過ぐ。この觀音は行基菩薩の開眼する所にして隨分大軀なりと聞しが、堂宇の小なるは實に驚くべし。此を過ぎて御靈神社有り、後三年の役に奮鬪せる平景政を祭る。建久五年正月、八田知家此社へ奉幣使をつとめたる事有といふ。それより切通坂を經て七里ヶ濱に出づ。道傍に蛞蝓[やぶちゃん注:「なめくじ」。]の交尾するを見る。雌雄圓狀をなして草葉の上にあり、白涎[やぶちゃん注:「はくぜん」。白い涎(よだれ)。]の如きものを出せり。七里濱は關東一里を以て計(かぞ)ふるものにして、南に大洋を眺め、西に江島を見る、風景稍喜ぶべし。サンドホッパーの屬多し。一箇の木塊の化石せるを得たり、長さ四寸幅三寸許り、杭頭の化せるものならん、木理[やぶちゃん注:「もくり」。]鮮明にして體重多し。濱の中途に小流あり、行合川と名づく。僧日蓮の刑に遭ふや、奇怪の事多きを以て、其狀を具するの使と時賴が赦免狀を持てる使者と此邊に行き合ひたるを以て此名を傳ふといふ。此邊「海綿」、「ウミヒバ」等多く打上られたり。又、雨虎(あめふらし)の多く死せる有り。七里濱の終る處腰越村なり、卽ち源廷尉が兄の爲に追反[やぶちゃん注:「おひかへ」。]されたる處にして、村内万福寺今なほ腰越狀の草案を藏すといふ。海邊に小嶴[やぶちゃん注:「しやうあう」(しょうおう)で「山の中の平地」。]あり、岩上の松常に搖く[やぶちゃん注:「ゆらぐ」と読んでおく。]を以て、これを小動[やぶちゃん注:「こゆるぎ」。]と名けたり。北條氏康の歌に、「きのふ立ちけふ小ゆるぎのいその波いそゐでゆかん夕ぐれのみち」と有る、是れなり。村を出て亦沙濱有り、爰に寄居蟲[やぶちゃん注:「やどかり」。]の大さ三四寸なる者數個を見る。思ふに、此邊かゝる種に富めるならん。

[やぶちゃん注:「御靈神社」ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。この神社は私の好きな場所で、いろいろな記事でこれに言及しているが、とりあえず、「『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社」をリンクさせておく。「平」(鎌倉權五郞)「景政」や「八田知家」も注してある。

「切通坂」「極樂寺坂切通」

「サンドホッパーの屬」英名sand hopperである、甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ハマトビムシ科 Talitridaeのハマトビムシ類の仲間と考えてよい。体は左右に扁平で、頭部のほか、それぞれほぼ同大の七胸節、六腹節からなる。二対の触角のうち、第一触角は短い。満潮線付近の砂中に棲息する種が多く、海岸に打ち上げられた海藻などに附着するバクテリアを摂餌する。全国各地の海岸で普通に見られる体長十五ミリメートルの一般種である、ハマトビムシ科ヒメハマトビムシ属ヒメハマトビムシ Platorchestia platensis や、体長二十ミリメートルの大型種の、同科ヒメハマトビムシ属ホソハマトビムシ Paciforchestia pyatakovi を取り敢えず、挙げておく。

「行合川」(ゆきあひがは)は、この「行合橋」の架かる川。

「僧日蓮の刑に遭ふや、奇怪の事多きを以て、……」所謂、「龍ノ口の法難」である。文永八(一二七一)年、忍性や念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴え、さらに、平頼綱により、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕縛され、「腰越龍ノ口刑場」(現在の神奈川県藤沢市片瀬に日蓮宗龍口寺(りゅうこうじ)がある)で処刑されかけたが、奇瑞があって処刑を免れ、翌十月に佐渡へ流罪と変更された。但し、奇瑞なんぞは実際にはなく、執権北条時宗が死一等を減じたのは、この時に正妻(後の覚山尼)が懐妊していた(十二月に嫡男貞時を出産)ことが主たる理由(「比丘殺し」は部教信者には祟りが怖いのである)と私は踏んでいる。他に、幕閣内に日蓮に帰依している者が有意な数、いたことも大きい。「北條九代記 卷第九 日蓮上人宗門を開く」の私の注を参照されたい。

「海綿」海綿動物門普通海綿綱 Demospongiaeのカイメン類。

「ウミヒバ」「(2)」で既出既注

「雨虎(あめふらし)」腹足綱異鰓上目後鰓目無楯亜目アメフラシ上科アメフラシ科アメフラシ属アメフラシ Aplysia kurodai 。詳しくは、私の記事では、『畔田翠山「水族志」 (二四八) ウミシカ (アメフラシ)』が最も詳しい。なお、アメフラシが食べられることを御存知ない方が多いので、私の「隠岐日記4付録 ♪知夫里島のアメフラシの食べ方♪」もリンクさせておく。

「腰越村」神奈川県鎌倉市腰越

「源廷尉」源九郎義経のこと。「廷尉(ていゐ)」とは「検非違使の佐尉(さゐ:訓では「すけのじよう」)」を指す。彼は寿永三(一一八三)年八月に、平家追討の功により「左衛門少尉」に任じられ、「検非違使」に補せられたので、かく呼んだ。

「兄」異母兄源頼朝。

「万福寺」「滿福寺」の誤り。ここ

「腰越狀」「新編鎌倉志卷之六」の「滿福寺」の私渾身の「腰越狀」及び現代語訳、現在、満福寺に伝わる「腰越狀下書」と伝えられるもののテクスト化をご覧あれ。なお、これは私が三十四年前に満福寺を訪れた際に購入した縮刷された影印版を読み解いたものである。

「海邊に小嶴あり、岩上の松常に搖くを以て、これを小動と名けたり」現在の小動(こゆるぎ)神社(ここが平地となっている)のある「小動の鼻」(現行では「小動岬」と言う)のこと。

『北條氏康の歌に、「きのふ立ちけふ小ゆるぎのいその波いそゐでゆかん夕ぐれのみち」と有る』下句の表記に不審があったので、国立国会図書館デジタルコレクションの「相模國 こゆるぎ考」(呉文炳(くれふみあき:著名な経済学者であったが、「江の島」に関する浮世絵の収集家及び江の島・鎌倉の研究者としてもとみに知られる)・土屋憲二共著/昭和一七(一九四二)年邦光堂刊)の「第三章 散文・紀行にあらはれたこゆるぎ」のここを見ると、

   *

 きのふたちけふ小ゆるぎの磯の波いそぎて行かん夕暮のみち

   *

とあって、南方熊楠の引用の誤りであることが判った。因みに、この歌、私は、名将氏康は、この「小動の鼻」の磯辺に立って、ここを通って稲村ヶ崎の引き潮を受けて鎌倉攻めをし、幕府を滅ぼすことに成功した仁田義貞の面影を懐古したものと読む。

「村を出て亦沙濱有り」小動の鼻を東に超えた現在の腰越漁港、及び、その西に現在の「江の島大橋」まで続く藤沢市の片瀬海岸を指す。

「寄居蟲」「がうな」「かみな」或いは「やどかり」と読む。甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea に含まれる種群。サイト版「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 寺島良安」の「寄居蟲(かうな かみな) [ヤドカリ類]」があるが、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 寄居蟲(カミナ/ヤドカリ)」も、多少、参考になるか。]

2024/04/18

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (3)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

  ○十七日

 朝六時起て戶を開けば則一天曇陰、一𨻶[やぶちゃん注:「いちげき」。]の陽光り漏らすなし。十時草鞋を穿ちて[やぶちゃん注:「うがちて」。穿(は)いて。]出づ。道路膏[やぶちゃん注:「あぶら」。]の如く一步悉く意を注す。道傍に空地有り、石碑に刻して日蓮上人牢屋敷の跡という。北に向かひ行く事數町、佛頭の高く門上に聳へたるを見る。則知[やぶちゃん注:「すなはち、しる」。]其果して鎌倉大佛なるを。門に額を揭て大異山と書せり。門を入りて大佛の前に至り、仰瞻良久[やぶちゃん注:「あふぎみる。やや、ひさし」。]、右側の家に鎌倉地圖大佛寫眞等を賣るあり、乃就て地圖と寫眞とを購ふ。僧予を延て[やぶちゃん注:「ひきて」。]佛の體内に入り階[やぶちゃん注:「きざはし」。]を上りて三尊及觀音を見せしむ。此觀音像は德川家康の納進する所と云ふ、それより鶴岡八幡宮に詣す。宮は南に向て立てり。社殿美なりと雖も、頗る聞く所より小なり。百聞一見不如の言、洵に[やぶちゃん注:「まことに」。]欺かざるなり。石壇を上りて之を見下て若宮を見る。若宮は本社の下右方に在り、又下の宮といふ。仁德天皇を奉祀す。靜女が袖を飜して「しづやしづ」の吟詠ありしは、この神前に於てせりといふ。此近傍に双枝の竹を栽[やぶちゃん注:「うゑ」。]たり。鶴岡の東方に賴朝の邸址あり。其地、方六町許瓦片[やぶちゃん注:「かはらけ」。]田圃の中に磊砢[やぶちゃん注:「らいら」。多く積み重なっているさま。]として、徒らに古色の日々古へを增すを致せり。北方の丘上に賴朝の墓有り。苔むし蘿[やぶちゃん注:「つた」。]纏ひ字々讀むべからず。其東に大江廣元・島津忠久の墓有り。二階堂村に至り鎌倉宮を見る。凡そ鎌倉の名所と稱する者、其數多しと雖も、其實一坪の墟禾麥箕子を泣かしめ、一个[やぶちゃん注:「いつこ」。]の穴、狐を棲しめ狸を息はしむるものに過ぎず。之を尋ね之を辨ずること、まことに難く、人をして識別に苦ましむ。名所か迷所か我れその何れか當れるを知らず。たとひ終日[やぶちゃん注:「ひねもす」。]杖を牽き足を痛ましむるも、其益を得る事實に少々ならん。且つ降雨益々盆を傾け、鞋損じ、衣霑ふを以て久しく止まる能はず、步を却して[やぶちゃん注:「かへして」。]宿に歸る。時已に二時なり。五六時の交に至り雨寖く[やぶちゃん注:「やうやく」。「漸」に同じ。]止む。しかれども、一天の陰闇少しも決𨻶[やぶちゃん注:隙間。ちょっとした一瞬の変化。]なし。夜九時に至り寢す。

[やぶちゃん注:「日蓮上人牢屋敷の跡」これは、移動の地理状況から、長谷寺の北西直近にある「光則寺」にある「日朗上人の土牢」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)の誤りである。

「若宮」これは鶴岡八幡宮本宮を下った、下に向かって左(東)にある「若宮」。但し、本来の「鶴岡八幡宮」が勧請された時の「若宮」は、ずっと海側の現在の材木座のここにある。ここの北西直近に藪野家の本家があった(昨年、父の兄は逝去)。因みに、その全く反対側の南東直近には、芥川龍之介が新婚時代に住んだ家があった。「辻の薬師」の横須賀線を挟んだ反対側である。私の偏愛する芥川龍之介との地理上の奇しき近き縁を知ったのは、遅蒔きながら、大学生の時であった。

「双枝の竹」如何なる竹なのか不詳。識者の御教授を乞う。

「賴朝の邸址」現在の「大倉幕府跡」

「賴朝の墓」「法華堂跡(源頼朝墓)」。但し、実際の法華堂(現行の頼朝の墳墓は島津氏が勝手にデッチアゲたものであり、頼朝は墓石ではなく、法華堂として存在した)は、「頼朝の墓」の登る手前の左にある「よりとも児童公園」がその跡地である。因みに、私が生まれる前後、私の父母は、この東にある荏柄天神の境内におり、母は老婆のやっていた「頼朝の墓」の右手にあった「よりとも茶屋」の女中をしていた。

「大江廣元・島津忠久の墓有り」Yahoo地図のここ。源頼朝墓の東側の山の中腹に三つの「やぐら」が並ぶが、その中央が大江広元の、左が、その子で毛利氏の祖となった毛利季光の、右が源頼朝の子ともいわれる島津忠久の墓であるが、大江広元のそれは、毛利の後代のデッチアゲである。実際の「伝広元の墓」は、もっと東方の十二所に近い浄妙寺の山の尾根にあるが、まず、訪ねる人は少ない。

「鎌倉宮」大塔宮護良親王が軟禁されて殺された屋敷跡(土牢はウソっぱち)にあり、同親王を祀る。ここ。明治天皇が作った新しいものである。

「一坪の墟」(きよ)「禾麥」(くわばく)「箕子」(きし)「を泣かしめ」所謂、「麦秀の嘆」である。「史記」の「宋微子世家」に基づく「亡国の嘆き」を言う。殷の箕子(きし)が、滅びた殷の都の跡を通り過ぎ、麦畑となっているのを見て、悲しみのあまり「麥秀の歌」を作った故事に依るもの。]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (2)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

 道の左傍に旅宿あり、三橋與八と云ふ村の比較に取ては頗る壯美の家なり。一室に入りて茶を喫み婢に何時と問へば、則答へて五時過なりと云へり。每年今頃は京濱の士女續々と此邊へ出掛るなるに今年は陰雨の永へ[やぶちゃん注:「とこしへ」。]に續きて止さる[やぶちゃん注:ママ。]が爲めに、右幕府の故趾を訪ふの士も甚少しとみへ[やぶちゃん注:ママ。]、此宿舍の如きも寥々として各室槪ね人なし。未だ晚には早けれは[やぶちゃん注:ママ。]暫時其邊へ遊びに行んと宿を出で東に趣き由井濱に至る。此濱あまり長からず、又あまり廣からさる[やぶちゃん注:ママ。]やうに見受たり。渚沙の邊を緩步して何がな奇物をと探れども別に奇き[やぶちゃん注:「くしき」。]ものなし。たゞ一魚齒[やぶちゃん注:平凡社版には『(第二図)』とここにあるが、底本には、これも図も、ない。]及一二の介殼を拾へるのみ、「ウミヒバ」多く浪に打ち上られたり。又海星(シースタール)[やぶちゃん注:言わずもがな「sea star」で「ヒトデ」]。の屬を見る。濱の上邊にはハマヒルガオ、ハマビシ等生せり。六時頃宿に歸り晚餐を執る。其後、燈前に兀坐[やぶちゃん注:「こつざ」。凝っと座っていること。]し無聊爲す所なし。隣室に人多く集まり酒を飮て快談す。其音鴃舌[やぶちゃん注:「げきぜつ」。]とまでにはあらねども、なにやら一向解するに苦しみしが、靜かに之を詳悉[やぶちゃん注:「しやうしつ」。詳細に述べること。]するに、彼等の内五人は婦人にて一人は男なり。陸中の人なるが、今回東京を見おわり[やぶちゃん注:ママ。]ついでに此邊を見に來れるにて、五人の婦女一向東京語を曉らず[やぶちゃん注:「さとらず」。]、故に此男を雇ひ來りて通辯をなさしめ以て買物などを調へるなり。此男又國許に在し時、鎌倉節を習ひ、頗る熟せり。今鎌倉に來りて鎌倉節を謳ふは聲の所に應ずるなりなどいひて揚々と謳ひしに、衆婦皆笑ひのゝしれり。余是に於て亦婢を喚て酒三合を命し[やぶちゃん注:ママ。]、立ろ[やぶちゃん注:「たちどころ」。]に盡くす。乃ち傴臥[やぶちゃん注:「くが」。背を曲げて横になること。]して獨り浩々、夜半眼さめ、正に雨滴の石を打つを聞く。心之が爲めに呆然たり。

[やぶちゃん注:「道の左傍に旅宿あり、三橋與八と云ふ村の比較に取ては頗る壯美の家なり」旧「三橋旅館」。「『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 江島/旅舘」に、

   *

 三橋與八      長谷觀音前にあり。

   *

と出る。現存しないが、同旅館の蔵がここ(グーグル・マップ・データ)に残る。

「由井濱」この場合は、「坂ノ下海岸」にまずは出たものであろう。

「ウミヒバ」「海檜葉」で、刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目石灰軸亜目オオキンヤギ科ウミヒバ属ウミヒバ Callogorgia flabellum 。インド洋から西太平洋及び中央アメリカ大西洋岸の数百メートルの深海底に産し、日本では相模湾に多い。群体は交互羽状分岐をし、一平面状に広がり、樹木のヒノキの小枝に似ている。骨軸は細く淡褐色で、骨片を含まず、節部を持たない。また、骨軸は石灰化して強い。ポリプは鱗片状の骨片に包まれ、共肉内に退縮することはない。ポリプは枝上に四個ずつ輪生し、軸方向に強く弧状に屈曲し、背側に約十個、腹側に一、二個の鱗片を備える。上端には八個の蓋鱗(がいりん)を備える。群体は高さ、幅ともに一メートルを越え、細枝は十~二十センチメートル、各ポリプは一・五~二ミリメートルの長さである。近似種オオキンヤギPrimnoa resedaeformis pacificaやマクカブトヤギArthrogorgia ijimaiは二叉状に分岐をし、ホソウミヒバThouarella hilgendorfiやトゲハネウチワPlumarella spinosaは交互羽状分岐をするが、ポリプは弱く屈曲するのみで、腹側に三、四個の鱗片を備える。これらの種は、ともに日本の太平洋沿岸の数百メートルに及ぶ深所から採集される(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った。この場合、最後に載った近似種を含むと考えてよかろう。

「ハマヒルガオ」私の好きな「濱晝顏」。ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科ヒルガオ科ヒルガオ属ハマヒルガオ Calystegia soldanella 

「ハマビシ」「濱菱」。中文名「蒺黎」(いつれい)。ハマビシ目ハマビシ科ハマビシ属ハマビシ Tribulus terrestris。本邦では温暖な地方の砂浜に生える海浜植物であるが、乾燥地帯では内陸にも植生する。現在のハーブとして健康食品などに入れられており、果実を乾燥したものは「疾黎子(しつりし)」という生薬名で利尿・消炎作用を効能としている。

「鴃舌」「モズの囀り」の意から、「意味の判らない言葉・外国人などの話す意味の不明の言葉を卑しめて言う語。

「鎌倉節」幕末から明治にかけての流行唄の一つ。「鎌倉の御所のお庭」という歌詞からの名。「木遣(きやり)音頭」から出たので「木遣くずし」とも称した。江戸の飴屋が歌い始めて流行した。]

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (1)

[やぶちゃん注:書かれたのは、最後のクレジットから明治一八(一八八五)年五月二日である。「記行」はママである。当時の南方熊楠は満十八歳で、この前年に大学予備門に入学しているが、当該ウィキによれば、『学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れ』ていた。まさに、その一齣でもある。江の島へ行ったのは、同年四月のことであった。私が手掛ける南方熊楠のテクスト中、彼が最も若き日の記事である。

 底本は『南方熊楠全集』第五巻 「文集Ⅰ」(澁澤敬三編・一九五二年乾元社刊)の「江島記行」(目次のママ)に載るものを用いた。戦後のものだが、正字正仮名である。底本冒頭の「解說」(ここは正字(但し、新字体が多く混入)新仮名(但し、促音は小振りでない)によれば、この「江島記行」に続く「日光山記行」・「日高郡記行」の『紀行文三篇は一冊に纏められている和綴稿本「紀行卷一」に收められていて、細画が添えられている。「江島記行」は他の草稿と覺しき同様の書あつたが、「紀行卷一」の方に翁自身整理淨書されたものと考えて、この方に從つた。三篇中前二篇(江島記行と日光紀行[やぶちゃん注:ママ。本文では「日光記行」。])は明治十八年、大學豫備門時代の紀行であり、「日高紀行」は翌十九年、渡米前に帰省中の旅行記である』とある。なお、加工データとして「私設万葉文庫」の一九七三年平凡社刊『南方熊楠全集』第十巻『初期文集他』を用いた新字新仮名の電子化されたものを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本篇は紀行の性質から、文章がベタで続く箇所が殆んどであるが、注を施すのに、割注ばかりでは読者が不便極まりなくなるので、「私設万葉文庫」の平凡社版の改行を生かしておいた。また、長い文章ではないものの、語注や行動ルートの検証(熊楠の錯誤を含む)に、どうしても注が増えるため、分割してしめすこととした。

 本篇を電子化しようと思ったのは、ずっとオリジナル電子化注に携わっている南方熊楠の作品であること以外に、私自身がサイトとブログで鎌倉史を研究している関係上、「江の島」もその守備範囲内に完全に入っており、また、「江の島」は個人的に、青春の日の忘れ難い思い出の地でもあるからでもある。

 なお、本文に配された標題の「ノ」は、底本では右寄せ小振りである。本文中では「江島」である。本文の小振り右寄せは、総て下附きとした。]

 

     江  島 記 行

 

 予東京に來てより越二年、塵に吸ひ埃に喁し[やぶちゃん注:「ぎようし」。口をぱくぱくさせ。]足未だ一たび市外に出ざるなり。今年四月、大學、例により十數日の休業有り。予乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]此間を以て江島に一過せんと欲し、俄然行李を治す。不幸にして曇天雨天續て止まざるもの十數日、十六日に至り天漸く晴る。乃[やぶちゃん注:「すなはち」。]宿を出て新橋に至り、十一時發列車に搭して神奈川に至る途上、男女の海邊に徒步して蛤藻[やぶちゃん注:「がふさう」。]の屬を採るを觀る。神奈川より程ヶ谷へ行かんと思ひしに先日來の雨にて道路頗る泥濘なりと聞き、乃ち足を轉して橫濱に趣き、道を東南に取て進むこと二里餘日野に至る。此地橫濱鎌倉の中央に位すと云ふ。此邊道路狹窄泥濘甚だし。又迂廻にして步を浪費する事多し。既にして切通坂に至る道路の惡しきこと極れり。聞く往年橫濱の惡漢、是に於て車客に向て種〻の暴行を加えたりと。但それ寥落の地なるを以て方今と雖とも夫れ或は之有らん[やぶちゃん注:「方今」「はうこん」。現在只今。]。坂の下り口の左傍に土の崩れたるあり。近ついて之を案して一化石を得たり。第一圖に示すが如く靑白の土上に褐色の印痕あるものなり。

[やぶちゃん注:この化石の手書き図が底本に載るが、この画像は国立国会図書館デジタルコレクションの許諾を得ないと使用出来ないので、各人でアクセスして見て貰いたい。右端に手書きで、

   明治十八年四月十六日鎌倉所𫉬、

とあり、化石図の左上方に

  Fig.

とある。サンゴ虫類或いは海藻類の化石痕か。図が粗いので、特定不能である。なお、この採集地は「日野」と、次の「公田村」から、この中央附近の坂(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)であることが推定出来る。私は初任校が柏陽であったので、この辺りは何度も歩き(一番楽しかった横浜緑ケ丘時代には、大船の自宅から未明に出て、この坂を抜けて、長途を歩くこと、六回ほどやった)、聊か、土地勘があるのである。]

 坂を下りて往くこと數百步、公田村に至る。村内の老若、手に苞[やぶちゃん注:「つと」。]を持し、腕に數珠を掛けて囁喃步[やぶちゃん注:「せうなんぽ」。念仏或いは経文を呟きながら歩くこと。]し來る。之を問ふに、乃曰く圓覺寺、本日法會を修せるに詣せるなりと。山内村を通り行くに圓覺寺道路の衝[やぶちゃん注:「しよう」。突き当り。]に當れり。寺内を通りながら一見するに靑松蓊鬱[やぶちゃん注:「をううつ」。]として許由の瓢を鳴らして、堂宇甍を列べて徒らに蜂房[やぶちゃん注:「はうばう」。蜂の巢。アシナガバチのそれであろう。]を懸下せり。やがて寺門を通りぬけ進み行くに、當日法會の某所に在りし故にや僧徒數十人頭に笠を戴き、手に杖を鳴らしつゝ數十人列を成して步み來たれり。道を右傍に屈して坂路あり、走り下るに道傍延胡索の屬小なる者甚だ多きを見る。行く事數町、道の左傍に小祠を見る。佐助稻荷と書せり。西南の山側小村落を見る。卽ち長谷なり。余是に於て旅舍の近きに在るを知り、步を早くして行く。道の岐分する所に碑石あり、芭蕉翁が詠、「夏艸やつはものどもが夢の跡」といふを刻せり。長谷村に入りて街道の右に小祠あり、甘繩神社といふ此村の鎭守にして天照大神を奉祀せり。往時文治の頃賴朝この祠に詣して幣を奉け[やぶちゃん注:ママ。]たりといふ。當時それ或は莊美の祠殿なりしや知らされとも[やぶちゃん注:総て清音はママ。]、現今は矮陋[やぶちゃん注:「わいらう」。]何の見所もなき小祠也。

[やぶちゃん注:「許由の瓢を鳴らして」「蒙求」(もうぎゅう)に載る、孔子が最も愛した弟子顔回の「顏囘簞瓢」と、三皇五帝時代の伝説の隠者許由の「許由一瓢」に出る話である。顔回は、一瓢を携え、陋巷で貧窮の中にあっても、その清貧を楽しんでいた。許由は、樹の枝に掛けておいた瓢簞が風に吹かれて鳴るのを「五月蠅い」と言って、それさえも捨て去ったという故事。禅の公案として知られるもの。

「道を右傍」(みぎかたはら)「に屈して坂路あり」一見すると、旧「巨福呂坂(こぶくろざか)切通」、現在の国道二十一号の「巨福呂坂切通」の北西の建長寺の前の、この中央附近から圓應寺の山側を南南西に尾根を登り、南東に進み、青梅聖天社へ下って、鶴岡八幡宮の北西の向かいの国道二十一号に出るルートでのように一見、見える(私が「鎌倉七切通」の内、唯一、完全踏破していないものである。私は鎌倉側から青梅聖天社を経て登り詰めが、人家を抜けないと行けないため、通行不能であった。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」附録 鎌倉實測圖」の内、こちらの図(画像)の中央附近に点線で記されてあるのがそれである)が、しかし、熊楠は建長寺を記述しておらず、しかも「道を右傍に屈して坂路あり、走り下るに」とあることから、建長寺にさえ行っていないことが判り、熊楠は旧「巨福呂坂切通」を踏破したのではなく、その手前の「長壽寺」を右に折れて急坂の「龜ケ谷坂(かめがやつざか)」を下って「扇ケ谷」に出、さらに「海藏寺」手前から「化粧坂」(けわいざか)を登って、尾根伝いに「佐助稻荷」に至ったことが判明するのである。

「延胡索」「えんごさく」これは、キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ亜科キケマン属 Corydalis を指す。本邦には二十種近くが分布するので、花の色や形状が記されていないので、これだけでは種同定は出来ない。

『道の岐分する所に碑石あり、芭蕉翁が詠、「夏艸やつはものどもが夢の跡」といふを刻せり』これは、ずっと南南西に行った鎌倉市街地のここにある「六地蔵」(旧地名を「飢渇畠(けかちばたけ)」と言う。鎌倉時代、この先にあった問注所で、死罪を宣告された罪人が、近くの裁許橋を渡りここにあった処刑場で処されたことによる。刑場ゆえに耕作をしない更地であったことによる地名である)の背後にある。狭い中に建立されているため、調べたが、同句の碑の写真が見当たらない。私も何度も行ったが、異様に狭苦しい状態で、見難い。そもそも、場違いな句碑で、私は感心しない。これは、鎌倉雪ノ下住で芭蕉の弟子であった松尾百遊が芭蕉の没後九十二年に建てたものであった。嘗ては、ここを「芭蕉の辻」とも称したらしい。この周辺については、私の「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 巽荒神/人丸墓/興禅寺/無景寺谷/法性寺屋敷/千葉屋敷/諏訪屋敷/左介谷/裁許橋/天狗堂/七観音谷/飢渇畠/笹目谷/塔辻/盛久首座/甘繩明神」を見られたい。なお、叙述では、この六地蔵が「長谷村」の中にあるように書かれているが、ここは「大町」である。但し、この六地蔵を南西に行く「由比ガ浜通り」は長谷往還の道ではある。

「甘繩神社」ここ。正しくは「甘繩神明宮」。私は、この神域の裏山を幼少期から密かに愛している。]

2024/04/17

譚 海 卷之十四 江戶町方往來道幅幷商物店出し寸尺の事

[やぶちゃん注:読みは、地下文書の「書付」であり、五月蠅いだけなので、特異的に全く入れていないし、句読点も底本のママで追加していない。「哉」はお伺いを示す「や」である。それにしても、ここまでやるか? って感じだね。]

 

○天明八年三月、町奉行所より御尋件々、年番名主、御答書付、寫し。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が最後まで一字下げ。]

一、所々町方往來にて、商物指置候儀、道幅の限り等も有ㇾ之候哉。此義、道具・古木・荒物、幷生舟取扱候類、都てかさ高成商賣仕候者、雨落下水の外へ三尺通積出し奉ㇾ願差置申候。

 但魚棚靑物棚の義は、壹間の場所も御座候。

一、町屋にて薪賣買の者、軒下幷河岸へ積候義、高さ何尺と申義、或は町屋軒下へ積候義、往來道幅何尺と申限りも有ㇾ之候哉。

此儀河岸通幷町家軒下に指置候ともに、高さ四尺、家前出候義は、雨落下水外へ三尺通り指置申候。

但高さ四尺と申御定杭有ㇾ之候場所も御座候。

一、大八車へ積候て引候義、何尺程積候哉。

此義何尺と申儀は、不ㇾ奉ㇾ存候へ共、大八車に物積引候義、多積崩不レ申候樣に可ㇾ仕義に御座候。

一、大八車町家前・河岸等にも並べ置候義。

右はかさ高成品故、地面内に指置候場所無御座候に付、家業隙幷夜分抔は、家前或は町内木戶際、又は河岸等其所により指置候義にて、右置場と申相願候義は、無御座候哉に奉ㇾ存候。尤往還の障に相成不ㇾ申樣に、右始末仕候義に御座候。

右御尋に付申上候。

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(4)

 

   すてゝある石臼薄し桐の華 鶴 聲

 

 農家の庭などの有樣かと思ふ。桐の花の咲いてゐるほとりに、使はない石臼が捨てゝある。單に石臼が捨てゝあるだけで滿足せず、その石臼の薄いことを見遁さなかつたのは、この句の稍〻平凡を免れ得る所以であらう。

 元祿時代に「すてゝんぶし」と稱する唄がはやつたことは、人の知るところであり、其角の『焦尾琴』には「棄字ノ吟」の題下に「すてゝある」の語を詠み込んだ句十七を列記してある。この鶴聲の句は、それを引合に出すにも及ぶまいかと思ふが、時代が同じだから、いささか念を入れて置くことにする。

[やぶちゃん注:「焦尾琴」「しやうびきん」は元禄一四(一七〇一)年刊の榎本其角編になる俳諧選集。国立国会図書館デジタルコレクションの『俳人其角全集』第二巻(勝峯晋風編・彰考館昭一〇(一九三五)年刊)のここで十七句総てが、視認出来る。なお、この所収から、この「鶴聲」は蕉門と判る。]

 

   若竹や衣蹈洗ふいさゝ水 兀 峯

 

 たゞ洗濯すると云はず、「衣踏洗ふ[やぶちゃん注:「きぬふみあらふ」。]」と云つたところに特色がある。場所ははつきりしないけれども、「いさゝ水」といふ言葉から考へると、井戶端や何かでなしに、ささやかな流の類であらう。その水に衣を浸して、足で蹈んで洗ひつゝある。若竹の綠にさす日影も明るい上天氣に違ひない。鄙びた趣ではあるが、爽な感じのする句である。

[やぶちゃん注:「兀峯」桜井兀峰(さくらいこっぽう 寛文二(一六六二)年~享保七(一七二二)年)は近江出身で、備前岡山藩士。元禄五(一六九二)年、江戸勤番となり、俳諧を松尾芭蕉に学び、榎本其角・服部嵐雪らと交わる。同六年、編著「桃の實」を出版した。通称は藤左衛門・武右衛門。]

 

   芥子の花咲や傘ほす日の移り 烏 水

 

 芥子の句は由來散るといふことに捉はれ易い。越人の「散る時の心やすさよ芥子の花」などといふのは、その代表的なものである。「芥子畑や友呼て來る蜂の荒 潘川」の如きは、さう著しく表面に現れてゐないが、それでも「蜂の荒」といふことが、散りやすい芥子に對して或危惧を懷かしめる。他の花なら何でもないことでも、芥子の場合は散り易さに結びつけられる點があるのであらう。

 然るに烏水のこの句にはそれが全くない。雨の後であらう、庭に傘が干してある、芥子もその邊に咲いていゐる、といふ純客觀の句である。「日の移り」といふ言葉は、文字通りに解すると、此方から彼方へ移動するもののやうに思はれるが、映ずるといふ意味の「うつる」場合にも、昔はこの字を使つてゐる例がある。今まで干傘にさしてゐた日が芥子に移つたと見るよりも、干傘に照る日が芥子にうつろふと見た方がよささうな氣がする。

[やぶちゃん注:最後の解説は見事!

『越人の「散る時の心やすさよ芥子の花」』は「去來抄」の「同門評」に載る。

   *]

 

  ちる時の心やすさよけしのはな 越 人

 

其角・許六、共(とも)曰(いはく)、「此句は謂(いひ)不應(おうぜず)故(ゆゑ)に「別僧」[やぶちゃん注:「僧に別(わか)る」。]と前書あり。」。去來曰、「けし一體の句として謂應(いひおう)せたり。餞別となして、猶、見(けん)あり。」。

   *]

 

   撫て見る石の暑さや星の影 除 風

 

 暑さの句といふものは赫々たる趣を捉へたのが多いが、これは又一風變つたところに目をつけた。一日中照りつけられた石が、夜になつてもほてりがさめきらずにゐる。恐らく風も何もない晚で、空に見える星の影も、いづれかと云へば茫としたやうな場合であらう。作者の描いたものは、僅に手に觸れる石のほてりに過ぎぬやうだけれども、夜に入つても猶ほてりのさめぬ石から、その夜全體の暑さが自然と思ひやられるのである。

 鬼貫に「何と今日の暑さはと石の塵を吹く」といふ句があり、暑さを正面から描かず、塵を吹く人をして語らしめたのが一の趣向であるが、少しく趣向らしさに墮した憾がある。除風の句の石は何であるかわからぬけれども、「撫て見る」といふ以上、小さな石でないことは云ふまでもない。

[やぶちゃん注:「鬼貫」「何と今日の暑さはと石の塵を吹く」所持する岩波文庫復本一郎校注「鬼貫句選・独ごと」に、

   *

   夕涼

 なんとけふの署さはと石の塵を吹

   *

とある。「署」はママ。]

 

   供先に兀山みゆるあつさかな 虎 角

 

 支那、朝鮮あたりを旅行してゐた人が、内地に歸つて第一に感ずるのは、山の綠のうるはしいことだといふ。兀山[やぶちゃん注:「はげやま」。]の眺[やぶちゃん注:「ながめ」。]は何時にしても有難いものではないが、炎天下の兀山に至つては、慥に人を熱殺するに足るものがある。この句は大名などの行列を作つて行く場合であらう。その供先に兀山が見える。その赭い[やぶちゃん注:「あかい」。]山肌には烈々たる驕陽[やぶちゃん注:「けうやう」。灼熱の日光。]が照りつけてゐるに相違無い。これから進んでその兀山の下を通るのか、或はそれを越えなければならぬのか、そこまでは穿鑿するに及ばぬ。たゞそこに見えてゐるだけで、暑さの感じは十分だからである。

 蕪村の「日歸りの兀山越る暑さかな」といふ句は、時間的に長い點で知られてゐるだけに、この句よりは大分複雜なものを持つてゐる。一言にして云へば、この句より平面的でないといふことになるかも知れぬ。日歸りに兀山を越えなければならぬ暑さは、固より格別であらうが、炎天下の行列の暑さも同情に値する。大勢の人が蹴立てゝ行く砂埃を想像しただけでも、何だかむせつぽい感じがして來る。

[やぶちゃん注:明和六年六月十五日(グレゴリオ暦一七六九年七月七日)の作。]

南方熊楠 蟹と蛇 (正規表現版・オリジナル注附き(指示された古文の電子化注を可能な限り行った結果、注が超長大になった))

[やぶちゃん注:これは大正一三(一九二四)年五月十五日発行の月刊『日本及日本人』の四十八号初出である。国立国会図書館デジタルコレクションで、初出が視認出来る(狭いところに注のように入っているのは、南方熊楠にはちょっと可哀そうな気がしたわい)。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』「第七卷文集Ⅲ」(渋沢敬三編・一九五二年乾元社刊・正字正仮名)の当該部を視認した。]

 

 嵯峨帝の世に出來た日本靈異記中に、蟹が報恩の爲めに蛇を殺して人を助けた話が二つ出て居る。一つは行基大德の信徒置染の臣鯛女が、山中で大蛇が大蝦蟆を食ふ處を見て、汝の妻となるから免せと云ふと蛇が蝦蟆を放つ。後ち蟹を持た老人に逢ひ衣裳を脫で贖ひ放つた。扨(さて)蛇が此女を妻らんと來た處を其蟹が切り殺したと云ふので 今一つは山城紀伊郡の女に同樣の事有つたといふ。[やぶちゃん注:句点はないが、補った。]日本法華驗記、今昔物語、元亨釋書、古今著聞集には、久世郡の女とし、是等諸書には蛇の死と蟹の苦を救ひ弔はんとて蟹滿寺を建てたとある。山州名蹟志には、此寺、相樂郡に在りと見ゆ。入江曉風氏の臺灣人生蕃物語に、卑南山腹に住む蕃人が蟹を買ふて放ちやり、又娘を蛇の妻にやるとて蛙を助命させると、蛇が五位姿の男と化けて姬を求め來るを一旦辭し返すと、二三日立て蛇の姿のまゝ來り、娘が隱れた押入の戶を尾で敲く所を多くの蟹が現はれて切殺したとある。一九〇九年板ボムパス著サンタル・パルガナス俚談に較や似た話を出す。コラと名くる男、怠惰で兄弟に追出され土を掘て蟹を親友として持あるく。樹の下に宿ると、夜叉來り襲ふを、蟹が其喉を挾み切て殺す。王之を賞して其女婿とするに、新妻の鼻孔から蛇二疋出で、睡つたコラを殺さんとするを蟹が挾み殺した。其報恩にコラ、其蟹を池に放ち每日其水に浴し相會ふたと有る。

(大正一三、五、十五、日本及日本人、四八號) 

[やぶちゃん注:「日本靈異記中に、蟹が報恩の爲めに蛇を殺して人を助けた話が二つ出て居る」正式には「日本國現報善惡靈異記」で平安初期に書かれた(序と本文の記述から弘仁一三(八二二)年とする説がある)現存する最古の說話集である。著者は奈良右京の薬師寺の僧景戒。原文はかなりクセのある日本漢文である。一般には「日本靈異記」(にほんりょういき)という略称で呼ぶことが多い。熊楠の指すそれは、「中卷」の「蟹(かに)蝦(かへる)の命を贖(あが)ひて放生し、現報を得る緣第八」と、同「中卷」の「蟹と蝦との命を贖ひて放生(はうじやう)し、現報を得て、蟹に助けらるる緣第十二」である。所持する角川文庫昭和五二(一九七七)年五版の板橋倫行(ともゆき)校註「日本霊異記」を元としつつ、疑問部分は別の抄録本を参考に補正して電子化する。但し、読み易さを考え、句読点を追加し、一部の読みは推定で歴史的仮名遣で附し、段落を成形した。

   *

   蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報を得る緣第八

 置染(おきそめ)の臣(おみ)鯛女(たひめ)は、奈良の京の富(とみ)の尼寺の上座の尼(あま)、法邇(ほふに)が女(むすめ)なりき。道心純熟(もはら)にして、初婬、犯さず[やぶちゃん注:世間の男との交渉を一切持たなかった。]。

 常に、懇(ねもころ)に菜を採りて、一目も闕(か)かず、行基大德に供侍(つか)へ奉る。

 山に入りて、菜を採りき。

 見れば、大蛇(おほへび)の、大蝦(おほがへる)を飮めり。

 大きなる蛇に誂(あと)へて[やぶちゃん注:頼み。]曰はく、

「是の蝦を、我に免(ゆる)せ。」

といふ。

 免さずして、なほ、飮む。

 亦、誂へて曰はく、

「我、汝が妻とならむ。故に、幸(さひはひ)に、吾に免せ。」

といふ。

 大きなる蛇、聞き、高く頭を捧(あ)げて、女(をみなの面(おも)を瞻(まは)り[やぶちゃん注:じっと見つめて。]、蝦を吐きて、放ちぬ。

 女、蛇に期(ちぎ)りて曰はく、

「今日より、七日を經て、來よ。」

といふ。

 然して、期りし日に到り、屋(や)を閉ぢ、穴を塞ぎ、身を堅めて、内に居(を)り。

 誠に期りしが如く來(きた)り、尾もて、壁を拍(う)つ。

 女、恐(おそ)りて、明くる日に大德に白(まう)す。大德、生馬(いこま)の山寺にあり。告げて言はく、

「汝、免(まぬか)るること、得じ。唯、堅く、戒(いむこと)を受けよ。」

といふ。

 乃(すなは)ち、三歸五戒を受持し、然して、還り來(きた)る。

 道に、知らざる老人(おきな)、大蟹(おほがに)をもちて逢ふ。

 問ふ。

「誰(た)が老(らう)ぞ。乞(ねが)はくは、蟹を吾に免(ゆる)せ。」

といふ。

 老、答ふらく、

「我は攝津(つ[やぶちゃん注:二字への読み。])國兎原(うなひ)郡の人、畫問(ゑどひ)の邇麻呂(にまろ)なり。年、七十八にして、子息(うまご)無く、活命(わたら)ふに、便(たより)無し。難波(あには)に往きて、たまたま、この蟹を得たり。ただ、期(ちぎ)りし人、有るが故に、汝に免さじ。」

といふ。

 女、衣を脫ぎて贖(あが)ふに、なほ、免可(ゆる)さず。

 また裳(も)を脫ぎて贖ふに、老、乃(すなは)ち、免しつ。

 然して、蟹を持ち、更に返りて、大德を勸請(くわんじやう)し、咒願(じゆぐわん)して放(はな)つ。

 大德、歎じて言はく、

「貴(とふと)きかな、善きかな。」

といふ。

 その八日の夜、又、蛇、來り、屋の頂(むね)に登り、草を拔きて入(い)る。

 女、悚(おそ)り慄(お)づ。

 ただ、床(とこ)の前に、跳(をど)り爆(はため)く音のみ、有り。

 明くる日に見れば、大きなる蟹、一つ、有り。

 而も、彼の大きなる蛇、條然(つたつた)に段切(き[やぶちゃん注:二字への読み。])れたり。

 乃(すなは)ち、知る、贖ひ放てる蟹の、恩を報いしなり。幷(ならば)せて、戒を受くる力なることを。

 虛實(まこといつはり)を知らむと欲(こ)ひ、耆老(おきな)の姓名を問へども、遂に無し。定めて委(し)る、耆(おきな)は、これ、聖(ひじり)の化(け)ならむことを。これ、奇異の事なり。

   *

「奈良の京の富(とみ)の尼寺」板橋氏の脚注に、『行基が天平三』(七三一)『年に大和國添下郡』(そへじものこほり)『登美村(今、奈良県生駒郡富雄村』(とみおむら:現在は奈良市富雄地区)『に立てた隆福尼院であらう。奈良の京とあるのは正確ではない』とある。確かにこの附近(グーグル・マップ・データ)で、平城京の西方の地で、「奈良の京」とは言えない。但し、現行では、この寺の旧地は明らかではない。「三歸五戒」は三宝に帰依することと、殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒(おんじゅ)の五つを禁ずる誡しめ。

   *

 

     蟹蝦の命を購ひて放生し、現報を得て蟹に助けらるる緣第十二

 

 山背國紀伊郡の部内に、一(ひとり)の女人(をみな)あり。姓名、いまだ、詳(つまびらか)ならず。天年(ひととなり)慈の心ありて、ふかく因果を信(うべな)ひ、五戒と、十善とを、受持(うけも)ちて生物(いきもの)を殺さず。

 聖武天皇の代に、彼(そ)の里の牧牛(うしかひ)の村童(むらわらべ)、山川(やまかは)に、蟹を、八つ、取りて、燒き食はむとす。

 この女、見て、牧牛に勸めて曰はく、

「幸(さひはひ)に願はくは、此の蟹を我れに免(ゆる)せ。」

といふ。

 童男(わらべ)、辭(いな)みて、聽(ゆる)さずして曰はく、

「なほ、燒き瞰(く)はむ。」

といふ。

 慇(ねむごろ)に誂(あと)へ乞ひ、衣(ころも)を脫ぎて買ふ。

 童男等(わらべら)、すなはち、免(ゆる)しつ。

 義禪師(ぎぜんじ)[やぶちゃん注:臨時の頼んだ禅師の意か。]を勸請(くわんじやう)し、咒願(じゆぐわん)せしめて、放生す。

 然して後(のち)に、山に入りて見れば、大蛇(おほへび)の大蝦(おほかへる)を飮む。

 大蛇に眺へて言はく、

「この蝦を我れに免せ。多(あまた)の帛(みてぐら)を賂(まひ)し奉らむ[やぶちゃん注:御贈与を奉りましょう。]。」

といふ。

 蛇、聽(ゆる)さずして吞む。

 女、幣帛を募りて、禱(の)りて曰はく、

「汝を神として祀らむ。幸に乞(ねが)はくは、我れに免せ。」

といふ。

 聽さずして、なほ、飮む。

 また、蛇に語りて言はく、

「此の蝦に替ふるに、吾をもちて汝が妻とせよ。故に乞はくは、我に免せ。」

といふ。

 蛇、すなはち聽して、高く頭頸(くび)を棒(あ)げ、もちて、女の面を瞻(まはり)[やぶちゃん注:じっと見守り。]、蝦を吐きて放つ。

 女、蛇に期(ちぎ)りて言はく、

「今日より、七日を經て、來たれ。」

といふ。

 然して、父母に白(まう)して、具(つぶさ)に蛇の狀を陳(の)ぶ。

 父母(ぶも)、愁へて言はく、

「汝(いまし)や、たゞ了(つひ)の一子(ひとりご)、何に誑託(くる)へる[やぶちゃん注:如何なる霊(れい)がとり憑いた。]が故に、能(よ)くせざる語(こと)をなせる。」

といふ。

 時に行基大德(だいとこ)、紀伊の郡(こほり)の深長寺(ぢんちやうじ)にあり。往きて、事の狀を白す。

 大德、聞きて曰はく、

「ああ、量(はか)り難き語(こと)なり。ただ、能く三寶を信(う)けむのみ。」

といふ。

 敎(をしへ)を奉りて、家に歸り、期(ちぎ)りし日の夜に當り、屋(や)を閉ぢ、身を堅め、種々(しゆじゆ)、發願(ほつぎわん)して、三寶を信(う)く。

 蛇、屋を繞(めぐ)りて、婉轉(ゑんてん)腹行(ふくかう)し[やぶちゃん注:腹這いになって、しなやかに動き来たって。]、尾、もちて、壁を打ち、屋の頂(むね)に登り、草を咋(く)ひて、拔き開きて、女の前に落つ。

 然りといへども、蛇、女の身に就(つ)かず。

 ただ、爆(はため)く音あり。

 跳(をど)り䶩齧(か[やぶちゃん注:二字への読み。])むが如し。

 明くる日、見れば、大蟹、八つ、集(あつま)り、その蛇、條然𢶨段(つたつた)に切らる。

 すなはち、知る、贖(あが)ひ放ちし蟹の、恩に報いしことを。

 悟無(さとりな)き蟲だに、なほ恩を受くれば、返りて、恩に報ゆ。あに、人にして恩を忘るべしや。

 これより已後(のち[やぶちゃん注:二字への読み。])、山背の國にして、山川の大蟹を貴(たふと)み、善を爲して放生するたり。

   *

この「紀伊の郡の深長寺」は不詳。板橋氏の脚注に、『大秦廣隆寺の末寺に紀伊郡の法長寺が見え、深草寺ともいつたと見える。その寺か』とある。

「日本法華驗記」正しくは「大日本國法華驗記」(通称・異名は複数あり)。平安中期に書かれた仏教説話集。著者は比叡山の僧鎮源(伝不詳)。本文は変体日本漢文で拙い。これは同書の「下卷」の「第百廿三 山城國久世郡(くせのこほり)の女人」である。私は岩波書店の『日本思想体系新装版』の『続・日本仏教の思想――1』の「往生伝 法華験記」(注解・井上光貞/大曾根章介・一九九五年刊)を所持するが、漢字が新字であるので、恣意的に正字化して以下に示す。読点・記号・会話記号(改行)・読みの一部を推定して歴史的仮名遣で追加し、段落を成形した(底本も四段から成る)。

   *

    第百廿三 山城國久世郡の女人

 山城國久世郡に一の女人あり。年七歲より、「法華經觀音品」を誦して、每月(つきごと)の十八日に持齋して、觀音を念じ奉れり。十二歲に至りて、「法華經」一部を讀めり。深く善心ありて、一切を慈悲す。

 人ありて、蟹を捕へて、持ち行く。この女(むすめ)、問ひて云はく、

「何の料(れう)に充てむがために、この蟹は特ち行くぞ。」

といふ。答へて曰く、

「食(じき)に宛てむがためなり。」

といふ。女の言はく、

「この蟹、我に與へよ。我が家に、死にたる魚、多し。この蟹の代(しろ)に、汝に與へむ。」

と、いへり。

 卽ち、この蟹を得て、憐愍(れんみん)の心をもて、河の中に放ち入れり。

 その女人の父の翁(おきな)、田畠を耕作せり。

 一(いつ)の毒蛇あり、蝦蟇(かへる)を追ひ來りて、卽ち、これを吞まむ、と、せり。

 翁、不意(おもはず)して[やぶちゃん注:うっかりと。]曰く、

「汝、蛇、當(まさ)に蝦蟇を免(ゆる)すべし。もし、免し捨つれば、汝をもて聟(もこ)とせむ。」

と、いへり。

 蛇、このことを聞きて、頭(かしら)を擧げて、翁の面(おもて)を見、蝦蟇を吐き捨てて、還り走り、去りぬ。

 翁、後の時に、思念(おも[やぶちゃん注:二字へのルビ。])へらく、

『我、無益(むやく)の語(こと)を作(な)せり。この蛇、我を見て、蝦蟇を捨てて去りぬ。』

と、おもへり。

 心に歎き憂ふることを生じて、家に還りて食(じき)せずして、愁ひ歎げる形にて居(ゐ)たり。

 妻、及び、女(むすめ)の云はく、

「何等(なんら)のことに依りて、食せずして歎き居るぞや。」

といふ。

 翁、本緣(ほんえん)[やぶちゃん注:この嘆きの原因。]を說(と)けり。

 女の言はく、

「ただ早く食せられよ。歎息の念なかれ。」

と、いへり。

 翁、女の語に依りて、卽ち、食を用ゐ、了(を)へり。

 初夜[やぶちゃん注:現在の午後八時から九時頃。]の時に臨みて、門を叩く人、あり。

 翁、

『この蛇の、來れり。』

と知りて、女(むすめ)に語るに、女の言はく、

「三日を過ぎて、來(きた)れ。約束を作(な)すべし。」

と、いへり。

 翁、門を開きて見れば、五位の形[やぶちゃん注:頭注に『緋衣を着ている』とある。]なる人の云はく、

「今朝(けさ)の語(こと)に依りて、參り來れるところなり。」

といふ。

 翁の云はく、

「三日を過ぎて來り坐(ましま)すべし。」

と、いへり。

 蛇、卽ち、還り了(を)へぬ。

 この女(むすめ)、厚き板をもて、藏代(くらしろ)[やぶちゃん注:臨時に即製した蔵様(よう)のもの。]を造らしめて、極めて堅固ならしむ。

 その日の夕(ゆふべ)に臨みて、藏代に入り居(ゐ)て、門を閉ぢて籠り畢(を)へぬ。

 初夜の時に至りて、前(さき)の五位、來れり。門を開きて、入り來り、女の藏代に籠りたるを見て、忿(いか)り恨める心を生(おこ)し、本(もと)の蛇の形を現じて、藏代を圍み卷き、尾をもて、これを叩く。

 父母(ぶも)、大きに驚怖せり。

 夜半(よなか)の時に至りて、蛇の尾の、叩く音、聞えず。

 ただ、蛇の鳴く音(こゑ)のみ、聞ゆ。

 その後、また、聞えず。

 明朝に及びて、これを見れば、大きなる蟹を上首として、千萬の蟹、集りて、この蛇を螫(さ)し殺せり。諸(もろもろ)の蟹、皆、還り去りぬ。

 女、顏の色、鮮白にして[やぶちゃん注:まことに白く美しくして。]、門を開きて出(いで)て來り、父母に語りて云はく、

「我、通夜、「觀音經」を誦するに、一尺計(ばかり)の觀音、告げて言はく、『汝、怖畏することなかれ。當(まさ)に『蚖蛇及蝮蝎(ぐわんじやふくかつ)、氣毒煙火燃(けどくえんくわねん)』等の文(もん)を誦すべし。』と、のたまふ。我、妙法・觀音の威力(ゐりき)に依りて、この害を免(まぬか)るることを得たり。」

と、いへり。

 この蛇の死骸(しにかばね)を、この地に穿(うが)ち埋(うづ)みて、蛇の苦、及び、多くの蟹の罪苦を救はむがために、その地に寺を建(たて)て、佛を造り、經を寫して、供養恭敬(くぎやう)せり。

 その寺を「蟹滿多寺(かにまたでら)」と名づけて、今にありて、失(う)せず。時の人、ただ、「紙幡寺(かみはたでら)」と云ひて、本の名を稱(い)はず。

   *

「蚖蛇及蝮蝎、氣毒煙火燃」「觀世音菩薩普門品」の「偈」。次に「念彼觀音力(ねんぴかんおんりき) 尋聲自剋去(じんしやうじえこ)」とあり、これで、『蚖(毒蛇の一種)や蛇、及び蝮(マムシ)と蝎(サソリ)の気の毒気が、煙火の如く燃えようとも、かの観音力を念じれば、声に続いて、自(おのずか)ら帰り去る。』の意。「蟹滿多寺」底本の頭注に『京都府相楽郡山城町にある。その地域は』「和名抄」『の山城国相楽郡蟹幡(加無波太)郷にあたる』「山城名勝志」『に「今有小堂一宇、号光明山懺悔堂本尊觀音立像、又有釋迦之像」と記す。釈迦像は白鳳時代のもの』とある。ある、とするのは、京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗智山派普門山蟹満寺(かにまんじ)のこと。本尊は釈迦如来。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「今昔物語」「今昔物語集」の「卷第十六」の「山城國女人依觀音助遁蛇難語第十六」を指す。所持する小学館『日本古典文学全集』第二十二巻「今昔物語集 二」を参考に、前と同じ仕儀で示す。カタカナはひらがなにし、また、特に読みを減ずるために、読みの一部を多く送り仮名に出した。

   *

 山城の國の女人(によにん)觀音の助けに依りて蛇(へみ)の難を遁(のが)るる語(こと)第十六

今は昔、山城の國、久世(くぜ)の郡(こほり)に住みける人の娘、年七歲より、「觀音品」を受け習ひて讀誦しけり。

 月每(つきごと)の十八日には、精進にして、觀音を念じ奉りけり。

 十二歲に成るに、遂に「法花經」一部を習ひ畢(をは)んぬ。幼き心なりと云へども、慈悲深くして、人を哀(あは)れび、惡しき心、無し。

 而る間、此の女(をんな)、家を出でて遊び行く程に、人、蟹を捕へて、結びて持ち行く。

 此の女、此れを見て、問ひて云はく、

「其の蟹をば、何の料(れう)に持ち行くぞ。」

と。

 蟹持ち、答へて云はく、

「持(も)て行きて食(くら)はむずる也。」

と。

 女の云はく、

「其の蟹、我に得しめよ。食の料ならば、我が家(いへ)に死(しに)たる魚、多かり。其れを此の蟹の代(しろ)に與へむ。」

と。

 男(をのこ)、女の云ふに隨ひて蟹を得しめつ。

 女、蟹を得て、河に持(も)て行きて、放ち入れつ。

 其の後(のち)、女の父の翁(おきな)、田を作る間に、毒蛇(どくへみ)有りて、蝦(かへる)を吞まむが爲に追ひて來たる。

 翁、此れを見て、蝦を哀れびて、蛇に向ひて云はく、

「汝(なむ)ぢ、其の蝦を免(ゆる)せ。我が云はむに隨ひて免したらば、我れ、汝を聟(むこ)と爲(せ)む。」

と、意(おも)はず、騷ぎ云ひつ。

 蛇(へみ)、此れを聞きて、翁の顏を打ち見て、蝦を棄て、藪の中に這ひ入りぬ。

 翁、

『由無き事をも云ひてけるかな。』

と思ひて、家に返りて、此の事を歎きて、物を食はず。

 妻、幷びに、此の娘、父に問ひて云はく、

「何に依りて、物を食はずして歎きたる氣色(けしき)なるぞ。」

と。

 父の云はく、

「然々(しかじか)の事の有りつれば、我れ、不意(おもはぬ)に騷ぎて、然(し)か云ひつれば、其れを歎く也。」

と。

 娘の云はく、

「速かに、物、食ふべし。歎き給ふ事、無かれ。」

と。

 然(しか)れば、父、娘の云ふに隨ひて、物を食ひて、歎かず。

 而る間、其の夜の亥の時に臨むて、門を叩く人、有り。

 父、

『此(こ)の蛇の、來たるならむ。』

と心得て、娘に告ぐるに、娘の云はく、

「『今、三日を過ぎて來たれ。』と約し給へ。」

と。

 父、門(かど)を開(ひら)けて見れば、五位の姿なる人也。其の人の云はく、

「今朝の約に依りて、參り來れる也。」

と。

 父の云はく、

「今(いま)を、三日を過ぎて來給ふべし。」

と。

 五位、此の言を聞きて返りぬ。

 其の後(のち)、此の娘、厚き板を以つて、倉代(くらしろ)を造らしめて、𢌞(めぐり)を强く固め拈(したた)めて、三日と云ふ夕(ゆふべ)に、其の倉代に入居(いりゐ)て、戶を强く閉ぢて、父に云はく、

「今夜(こよひ)、彼(か)の蛇(へみ)、來りて、門(かど)を叩かば、速かに開くべし。我れ、偏へに觀音の加護を憑(たの)む也。」

と云ひ置きて、倉代に籠り居(ゐ)ぬ。

 初夜の時に至るに、前の五位、來たりて、門を叩くに、卽ち、門を開きつ。

 五位、入り來たりて、女の籠り居たる倉代を見て、大に怨(あた)の心を發して、本の蛇の形に現じて、倉代を圍み卷きて、尾を以つて、戶を叩く。父母(ぶも)、此れを聞きて、大きに驚き、恐るる事、限り無し。

 夜半許に成りて、此の叩きつる音、止みぬ。

 其の時に、蛇(へみ)の鳴く音(こゑ)、聞ゆ。

 亦、其の音も止みぬ。

 夜明けて見れば、大なる蟹を首(かしら)として、千萬の蟹、集まり來たりて、此の蛇を、螫(さ)し殺してけり。

 蟹共、皆、這ひ去りぬ。

 女、倉代を開きて、父ざまに[やぶちゃん注:父に向かって。]語りて云はく、

「今夜(こよひ)、我れ、終夜(よもすがら)、「觀音品(かんおむぼむ)」を誦し奉つるに、端正美麗の僧、來たりて、我に告げて云はく、

『汝ぢ、恐るべからず。只、「蚖蛇及蝮蝎氣毒烟火」等(とう)の文(もん)を憑(たの)むべし。』

と敎へ給ひつ。此れ、偏へに、觀音の加護に依りて、此の難を免(まぬ)かれぬる也。」

と。

 父母(ぶも)、此れを聞きて、喜ぶ事、限り無し。

 其の後、蛇の苦を救ひ、多の蟹の罪報を助けむが爲に、其の地を握(つか)ねて、此の蛇の屍骸を埋(うづ)みて、其の上に寺を立てて、佛像を造り、經卷を寫(うつ)して供養しつ。

 其の寺の名を「蟹滿多寺(かにまたでら)」と云ふ。其の寺、今に有り。世の人、和(やはら)かに「紙幡寺(かみはたでら)」と云ふ也けり。本緣(ことのもと)を知らざる故(ゆゑ)也。

 此れを思ふに、彼の家の娘、絲(いと)、只者には非ずとぞ思ゆる。

「觀音の靈驗、不可思議也。」

とぞ、世の人、貴(たふと)びける、となむ語り傳へたるとや。

   *

「元亨釋書」(げんこうしゃくしょ)は史書。鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史で、著者は知られた臨済宗の名僧虎関師錬(弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)で、全三十巻。無論、全文漢文。私は同書を所持しないが、ネットを始めた初期に電子化テクストを毎日のように集めた中に、どこが提供していたか忘れたが、同書の全ベタ・データを入手している。而して、私のテクスト同様、Unicode以前のものであるため、正字不全があるが、そこは国立国会図書館デジタルコレクションの『國史大系』「第十四卷」の「百鍊抄 愚管抄 元亨釋書」経済雑誌社編明治三四(一九〇一)年刊)の当該部(左ページ後ろから六行目以降)で補正して、そこにある通りの訓点を附して原文を示す。当該話は「卷二十八」の掉尾にある。段落を成形した。漢文であるが、既に電子化した同話から、簡単に訓読出来るはずである。

   *

 蟹滿寺者。在山州久世郡。有郡民。合家慈善奉ㇾ佛。有女[やぶちゃん注:「むすめ」。]、七歲誦法華普門品。數月而終全部。一日出遊。村人捕ㇾ蟹持去。女問。捕ㇾ此何爲。答曰。充ㇾ飡[やぶちゃん注:「くらふにあつる」。]。女曰、以ㇾ蟹惠ㇾ我。我家有ㇾ魚。相報酬。村人與ㇾ之[やぶちゃん注:「これにくみして」。]。女得放河中。歸ㇾ家貺多乾魚。[やぶちゃん注:「貺」「給(たまふ)」に同じ。]

 其父耕田中。一蛇追蝦蟆而含ㇾ之。父憐而不意曰。汝捨蝦蟆。以汝爲ㇾ壻。蛇聞ㇾ言。擧ㇾ頭見ㇾ翁、吐ㇾ蝦而去。父歸ㇾ舍思念。誤發ㇾ言。恐失愛子。懊惱不ㇾ食。婦及女問曰、翁何有憂色而不ㇾ食。父告ㇾ實。女曰、莫ㇾ慮也。早飡焉[やぶちゃん注:「慮(おもんぱか)る莫(な)かれ。早や、飡(くら)ひ焉(をは)られよ。」。]。父悅受膳。

 初夜、有叩ㇾ門人。女曰。是虵[やぶちゃん注:「蛇」に同じ。]也。只言三日後來。父開ㇾ門。有衣冠人曰。依ㇾ約來。父隨女語曰、且待三日。冠人去。女語ㇾ父。擇良材固造小室。室成。女入ㇾ内閉居。三日後。冠人果來。見女屛室。生忿恨心。乃復本形。長[やぶちゃん注:「たけ」。]數丈。以ㇾ身纏ㇾ室。擧ㇾ尾敲ㇾ戶。父母大恐。不ㇾ得爭奈[やぶちゃん注:対抗して争う事は出来なかった。]。半夜後。叩聲息聞悲鳴聲。頃刻[やぶちゃん注:暫くして。]悲聲又止。

 明旦、父見ㇾ之。大螃蟹[やぶちゃん注:「ばうかい」。中国語で「カニ」の意。]百千、手足亂離。蛇又被瘡百餘所。并皆死。女開室出。顏色不變曰、我聞戸外、大小蟹千百、夾-殺此虵。大蟹多歸。小蟹死。今存者皆小蟹耳。然大於尋常。我通夜誦普門品。有一菩薩。長尺餘。語ㇾ我曰、無ㇾ怖也。我擁-護汝。父母大悅。便穿ㇾ土埋衆蟹及蛇。就其地營ㇾ寺。薦冥福。故號蟹滿寺。又曰紙幡寺

   *

「古今著聞集」当該部は「卷第二十 魚蟲禽獸」の現行のよく知られた通し番号「六八二」の通用される仮標題「山城國久世郡(くぜんこほり)の娘、觀音經の功德と蟹の報恩とにより、蛇の難をのがれ得たる事」である。所持する『新潮日本古典集成』(第七十六回)「古今著聞集 下」(西尾光一・小林安治校注)を参考に先と同じ仕儀で示す。

   *

 山城國久世郡に、人のむすめ、ありけり。をさなくより、觀音に仕へけり。慈悲深くして、ものをあはれぶに、人、かにを捕りて殺さんとしけるを見て、あはれみて、買ひ取りて放ちてけり。

 その父、田をすかす[やぶちゃん注:「掘り起こす」。]とて、田づらにいでたりける時、「くちなは」、「かへる」を飮みてありけるを、うちはなたんとすれども、はなたざりければ、こころみに、なほざりがてら、

「そのかへる、はなて。さらば、わがむこにとらん。」

と、いひかけたりける時、くちなは、このぬしが顏を、うち見て、のみかけたる「かへる」を、はき出だして、藪の中へはひ入りぬ。

『げには、よしなきことをもいひつるものかな。「くちなは」はさるものにてあるに。』

とくやしく思へど、かひなし。さて、家に歸りぬ。

 夜にも入りぬれば、

「いかが。」

と案じゐたるに、五位のすがたしたる男(をのこ)、いりきたれり。

「今朝の御(おん)やくそくによりて參りたる。」

よしを、いふ。

 さればこそ、いよいよ、あさましく悔しき事、限りなし。何と言ふべきかたなくて、

「今、兩三日を經て來たるべき。」

よしを、いひければ、則ち、歸りぬ。

 むすめ、このことを聞きて、おぢわななきて、寢どころなど、深く、かためて、隱れゐたり。

 兩三日をへて、きたり。

 このたびは、もとの「くちなは」のかたちなり。

 むすめの隱れゐたる所を知りて、そのあたりをはひめぐりて、尾をもちて、その戶を叩きけり。

 これを聞くに、いよいよおそろしきこと、せんかたなし。

 心をいたして、「觀音經」を讀み奉りて、ゐたり。

 かかるほどに、夜半ばかりにいたりて、百千のかに、あつまりきて、この蛇(くちなは)を、さんざんに、はさみきりて、かには見えず。

 この事、信力(しんりき)にこたへて、觀音、加護し給ふゆゑに、かに、また、恩を報じけるなり。

 その夜、「觀音經」をよみたてまつりて、他念なく念じ入りたりけるに、御たけ一尺ばかりなる觀音、現ぜさせ給ひて、

「汝、恐るる事、なかれ。」

と仰せられける、とぞ。

 このむすめ、七歲より「觀音經」をよみたてまつり、十八日ごとに持齋(ぢさい)をなん、しける。十二歲よりは、さらに「法華經」一部を讀み奉りてけり。

 法力(ほふりき)、誠に、空(むな)しからず。現當の望み[やぶちゃん注:現世と来世ゐでの無事安楽の願い。]、たれかうあたがひを、なさんや。

   *

「十八日ごとに持齋をなん、しける」底本の頭注によれば、『毎年正月十八日に仁寿殿または真言院で観音供(かんのんぐ)が行われたことにちなみ、一般にも十八日を観音供養の日とするならはしとなっていた』とあり、「持齋」については、『節食の持戒。具体的には、日中、正午前に一度だけ食事をするという戒律を守ること』とある。そもそも、仏教に於いては、僧は一日に午前中の一回の食事だけが許されていたのである。

   

 さて、実は、この同系説話は、以上だけではない。近世の焼き直し怪奇談集等まで含めると、実際には、かなりの改変物がある。取り敢えず、そこまで広げず、比較的知られる中古と中世から一本づつ、示しておくと、まずは、「三寶繪(詞)」である。永観二(九八四)年に成立した、二品尊子内親王ために学者源為憲が撰進したの仏教説話集である。その「中卷」に「置染郡臣鯛女(おきそめのこほりのおみたひめ)」を主人公としたものが、それである。所持する『新日本古典文学大系』の第三十一巻「三宝絵 注好選」(馬淵和夫・小泉弘校注/一九九七年刊)を同じき仕儀で以下に示す。底本は漢字・カタカナ混じりであるが、カタカナはひらがなに直した。

   *

 置染郡臣鯛女は、ならの尼寺の上座の尼の娘也。道心ふかくして、はじめより男(をとこ)、せず。つねに、花を、つみて、行基菩薩にたてまつる事、一日も不怠(おこたらず)。

 山に、いりて、花を擿(つ)むに、大なる蛇(くちなは)の、大蝦(おほかへる)を、のむを、みる。

 女(をんな)、かなしびて云はく、

「此蝦、我に、ゆるせ。」

といふに、猶(なほ)、のむ。深くかなしぶに、たへずして、「蛇は如此(かくのごとく)云ふになむ、ゆるすなる。」と云ひて[やぶちゃん注:一般に言われた俚諺を言ったもの。]、

「我、汝(なむじ)が妻と、ならむ。猶、ゆるせ。」

と云ふ時に、蛇、たかく、かしらを、もたげて、女を、まもりて、蝦を、はきいだして、ゆるしつ。女、

『あやし。』[やぶちゃん注:「怪しい」。]

と思ひて、日を、とをくなして[やぶちゃん注:再び逢う日(=婚姻の日)をわざと遠く隔てて。]、

「今(いま)、七日(なぬか)ありて、きたれ。」

と、たはぶれにいひて、さりぬ[やぶちゃん注:冗談に言って立ち去った。]。

 其夕(そのゆふべ)になりて、思ひいで、おそろしかりければ、「ねや」を、とぢ、「あな」を、ふたぎて、身をかためて、うちに、こもれり。

 蛇(くちなは)、來たりて、尾を、もちて、壁をたゝけども、いること、あたはずして、さりぬ。

 あくる朝に、いよいよ、をぢて、行基菩薩の山寺に居(ゐ)給へる所にゆきて、

「このことを、たすけよ。」

といふに、答へて云はく、

「汝、まぬかるゝことを、えじ。たゞ、かたく、戒を、うけよ。」

と云ひて、すなはち、三帰五戒を、うけて、女、歸るみちに、しらぬ「をきな」、あひて、大なる蟹を、もたり。

 女の云はく、

「汝、何人(なにびと)ぞ。この蟹、我に、ゆるせ。」

といふに、翁の云はく、

「我ハ攝津國宇原郡(うはらのこほり)に、すめり。姓名は某甲(しかいしか)と云ふ也。年、七十八に成りぬるに、一人(ひとり)の子、なし。よをふるに、たよりなければ、難波(なんば)のわたりにゆきて、たまたま、この蟹を、えたる也。人にとらせむと、ちぎれる[やぶちゃん注:約束した。]事あれば、こと人には、とらせがたし。」

と云ふ。

 女、きぬをぬぎて、かふに、ゆるさず。又、裳(も)をぬぎて、かふに、うりつ。

 女、蟹をもちて、寺に歸りて、行基菩薩して、呪願(しゆぐわん)せしめて、谷河に、はなつ。

 行基菩薩、ほめて云はく、

「善哉(よきかな)、貴哉(たふときかな)。」

と。

 女、家に歸りて、其夜、たのみ思ひて、ゐたるに、蛇(くちなは)、屋(や)上より、おりくだる。

 大(おほき)に、をそれて[やぶちゃん注:ママ。]、「とこ」をさりて、のがれ、かくれぬ。

 とこのまへを、きくに、踊り騒ぐ「こゑ」あり。

 あくる朝に、みれば、一つの大(おほき)なる蟹、ありて、蛇を、

「つだつだ」

と、きりをけり。

 即(すなはち)、しぬ。

「蟹の、我が恩を、むくひ、我が佛(ほとけ)の戒を、うけたる力(ちかr)なり。」

と。

「まこと、いつはりをしらむ。」

とて、人を攝津の國にやりて、翁(おきな)の家、尋ねとはするに、

「この郡里(こほりさと)に、さらに、なき人也。」

と云ふ。

 又、しりぬ。

「翁、變化(へんぐゑ[やぶちゃん注:ママ。])人也。」

と。

 「靈異記」に、みへ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

   *

 これは、珍しく、ちゃんと律儀にも最後に出典を明らかにしている。

 次に鎌倉後期に無住道暁(宇都宮頼綱の妻の甥。八宗兼学の学僧)の編した仮名交り文で書かれた仏教説話集「沙石集」(全十巻。弘安二(一二七九)年起筆、同六(一二八三)年成立。大きく分けても三系統の異なる伝本があり、話しの順列・標題も異なる)に載るものを示す。れは複数のカップリングの中の一つであるが、私は、この「沙石集」が好きで何度も読んでいる関係上、当該話を総て掲げることとする。底本は複数所持するもののうち、私が好んでいる正字正仮名の岩波文庫の筑土鈴寬(つくどれいかん)校訂本(一九四三年刊)を使用した。そこでは読みが殆んどないので、所持する岩波書店『日本古典文學大系』版をも参考に歴史的仮名遣で読みを振り、句読点・記号を変更・追加し、段落を成形した。

   *

      四 畜生の靈の事

 寬元年中のことにや、洛陽に騷ぐことありて、坂東の武士、馳せ上(のぼ)ること侍りき。相(あひ)知りたる武士、ひかせたる馬の中に、ことに憑(たの)みたる馬にむかひて、

「畜生も心あるものなれば、きけ。今度、自然(じねん)のこと[やぶちゃん注:変事。]もあらば、汝(なんぢ)を憑みて、君の御大事(おんだいじ)にあふべし。されば、餘の馬よりも、物を別にまして飼ふべし。返々(かへすがへす)不覺、すな。たのむぞよ。」

と言ひて、舍人(とねり)に云付(いひつ)けて、別に用途を下(くだ)したびけるを[やぶちゃん注:入用の費用を賜ったにも関わらず。]、此舍人、馬には、かはずして、私(わたくし)に用ひけり。

 さて、京へ上り着きぬ。

 此舍人、俄(にはか)に物に狂ひて、口ばしりていふやう、

「殿の仰せに、『汝をたのむなり。自然の大事もあらば、不覺、すな。』とて、別に物をそへて下したべば、『いかにも御勢[やぶちゃん注:元は「御前」か。]にあひ參らせん。』と思ふに、己(お)れが物を取り食(くら)ひて、我には、くれねば、力もあらばこそ、御大事にもあはめ、憎きやつなり。」

と云ひて、やうやうに狂ひけり。

 とかく、すかしこしらへて、治(なほ)りてけり。

 彼(か)の子息の物語なり。

 畜生なれども、かやうに心あるにこそ。みだりに狂惑(きやうわく)[やぶちゃん注:だましまどわすこと。]すべからず。

[やぶちゃん注:「寬元年中」一二四三年から一二四七年。鎌倉幕府執権は北条経時・北条時頼。

 以下が、本篇の同系話。

 むかし物語にも、或人の女(むすめ)、なさけ深く、慈悲ありて、よろづの者のあはれみけるに、遣水(やりみづ)の中に小き蟹のありけるを、常にやしなひけり。年ひさしく食物をあたへけるほどに、此むすめ、みめ・かたち、よろしかりけるを、蛇(じや)、思ひかけて、男に變じてきたりて、親にこひて、

「妻にすべき。」

よしを云ひつつ、隱す事なく、

「蛇なる。」

よしを云ふ。

 父、此事をなげきかなしみて、女に此やうを語る。

 女、心あるものにて、

「力及ばぬ、わが身の業報にてこそ候(さふらふ)らめ。『叶はじ。』と仰せらるるならば、それの御身も、我身も、徒(いたづ)らになりなんず。ただ、ゆるさせ給へ。この身をこそ、いたづらに、なさめ。かつは、孝養にこそ。」

と、打ちくどき、なくなく申しければ、父、かなしく思ひながら、理(ことわ)りにをれて、約束して、日どりしてけり。

 女、日比(ひごろ)養ひける蟹に、例の物食はせて、云ひけるは、

「年比、おのれを、哀れみ、やしなひつるに、今は、其日數(ひかず)、いくほどあるまじきこそ、あはれなれ。かかる不祥(ふしやう)にあひて、蛇(じや)に思ひかけられて、其日、われは何(いづ)くへか、とられて、ゆかんずらん。又もやしなはずして、やみなん事こそ、いとほしけれ。」

とて、さめざめと泣く。人と物語らん樣(やう)に、いひけるを聞きて、物も、くはで、はひさりぬ。

 その後(のち)、かの約束の日、蛇共(じやども)、大小、あまた、家の庭に、はひ來たる。

 恐しなんど、いふばかりなし。

 爰(ここ)に、山の方(かた)より、蟹、大小、いくらといふ數もしらず、はひ來たりて、此蛇(じや)を、皆、はさみ殺して、都(すべ)て、別のこと、なかりけり。

 恩を報ひけること、哀れにこそ、人は情(なさけ)あるべきにぞ。

 山陰の中納言の、河尻にて、海龜をかひて、はなたれける故に、其子の、海に、あやまちて落入(おちい)りてけるを、龜の、甲に乘せて、助けたる事、申し傳へたり。

 されば、八幡の御託宣にも、

「乞食・癩(らい)・蟻・螻(けら)までも、哀れむべし。慈悲、廣ければ、命、長し。」

と、のたまへり。蟹なんどの、恩を知るべしとも覺えねども、蟲類も、皆、佛性(ぶつしやう)あり、靈知あり。などか、心もなからむ。

[やぶちゃん注:当該話柄としては、ここまで。]

 ある澤の邊(ほとり)に、大・中・小の三つの蟹、ありけり。

 蛇(じや)をはさみけるに、蛇、木に登る。

 やがて、つづきて、大なると、中なる蟹、木に這ひ登りて、はさまんとするに、蛇、口より、白き水を、はきかく。

 蟹、是に、しじけて、はひおりて、力もなきてい[やぶちゃん注:「體」。]なり。

 小さき蟹、蕗(ふき)の葉をはさみきりて、うちかづき、木にのぼる。

 蛇、又、白き水を、はきかくれども、葉にかかりて、「かに」には、かからず。

 其時、葉をうちすてて、はひよりて、

「ひしひし」

とはさむ。

 蛇、たへずして、木よりおつ。

 二つの蟹、力、いできて、さしあはせて、はさみ殺しつ。

 さて、大なる「かに」、蛇を、三つにはさみきりて、頭(かしら)の方(かた)をば、我分(わがぶん)にし、中(なか)をば、中(ちゆう)の「かに」のまへに置き、尾の方をば、小蟹のまへにおくに、「小かに」、あわ[やぶちゃん注:ママ。「泡(あは)」。]をかみて、

「ふしふし」

として、うちしさりて、食はず。

『われこそ、奉公したれ。』

と言ふ心にや、と見えけり。

 其時、「大がに」、我分の頭の方を、「小かに」の前におき、尾の方を、我分にする時、「小がに」、食してけり。

 さも、ありぬべし。畜生も、心は、只人(ただびと)にかはらぬにや。

 遠州にも、「つばくらめ」[やぶちゃん注:「燕」。]の雌(めんどり)、死せり。

 雄(おんどり)、妻を尋ねて來たる。先(さき)の子、巢にありけるを、今の雌、「うばら」[やぶちゃん注:野茨(バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ Rosa multiflora )。同種の果実(偽果)にはマルチフロリン・クエルセチン・ラムノグルコシドなどのフラボノイド(フラボン配糖体)と、リコピンが含まれており、マルチフロチンは少量摂取しても緩下作用があり、ヒトでも腹痛や激しい下痢を引き起こすこともある。]の實を食はせて、皆、殺しつ。

 雄、これを見て、雌を食ひ殺してけり。

 嫉妬の心ありける人に、たがはず。是、たしかに見たる人の物語なり。

   *

因みに、最後の話は雌雄の誤りがあるが、事実である。ツバメは、子を出産後、別な雄が、前に産んだ子を巣から意図的に押し落して殺害して、その雌を略奪する行動が確認されている。嘘だと思うなら、サイト「ツバメ観察全国ネットワーク 子殺し」の動画を見られるがよい。実は、この話と以上の事実を、どうしても載せたかったので、私は全文を示したのである。

 さて。最後に、岩波書店の『日本思想体系新装版』の『続・日本仏教の思想――1』の「往生伝 法華験記」(注解・井上光貞/大曾根章介・一九九五年刊)の当該話の頭注の冒頭を引用して、本篇の同系話の纏めとしておく。『日本霊異記巻中八及び一二に類話があり、三宝絵巻中一二は前者による。この霊異記中八及び三宝絵の話は女を置染臣鯛女とし、本書とは別系統。霊異記巻中一二は本書と構成上類似しているが、女を山城国久世郡ではなく紀伊郡の一女人とし、観音信仰者でなく持戒者とし、観音信仰者でなく持戒者とし、

本人の父でなく、本人みずから蛇の妻となることを約すなどの違いがあり、本書の終りの蟹満多寺の一段もない。また本書は霊異記をみていないと認められるので』、『霊異記中一二に類似の話が変形して、たとえば蟹満多寺の縁起として伝えられ、本書にとりいれられたのであろう。今昔物語巻十六ノ一六・元亨釈書巻二十八、寺像志』(「元亨釈書」内のパート名)『の蟹満寺の話は、本書に類似する。本書によるか。古今著聞集巻二十・観音利益集『三十九(前後を欠く)』(説話集。成立年未詳で作者・編者も未詳。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「中世神佛說話」(『古典文庫』第三十八冊)近藤喜博校/一九五〇年刊(戦後のものだが、正字正仮名)のここから当該部が視認出来る。電子化しようとも思ったが、前後が欠損している断片なので、やめた)『は本書と同系統』とある。

「山州名蹟志には、此寺、相樂郡に在りと見ゆ」「山州名跡志」は全二十二巻二十五冊。釈白慧(坂内直頼)撰。成立は正徳元(一七一一)年で元禄一五(一七〇二)年の序がある。先に「山城四季物語」(六巻・延宝元(一六七三)年)を出した著者が、山城一国八郡三百八十六村を実地に踏査し、現状を片仮名混じりの和文で克明に描写している。旧本・古典籍のみに頼った大島武好の「山城名勝志」(同年)とは好対照をなしており、ともに山城研究の基本書とされる(平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十六巻「山州名跡志」(第一・二/蘆田伊人編・昭四(一九二九)年~同六年・雄山閣)のこちらの「相樂郡」(そうらくぐん)の「○普門山蟹滿寺(フモンザンカニマンジ)」で視認出来る。その「緣起」(全漢文・返り点附き)に本篇の内容と同じ話が載る。以上の私の注引用を読まれた方は、すらすらと読めること、請け合う。

「入江曉風氏の臺灣人生蕃物語に、卑南山腹に住む蕃人が蟹を買ふて放ちやり、又娘を蛇の妻にやるとて蛙を助命させると、蛇が五位姿の男と化けて姬を求め來るを一旦辭し返すと、二三日立て蛇の姿のまゝ來り、娘が隱れた押入の戶を尾で敲く所を多くの蟹が現はれて切殺したとある」「入江曉風」は「いりえぎょうふう」であるが、生没年未詳。本名は文太郎。「臺灣人生蕃物語」は大正九(一九二〇)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで大正十三年再版本を見つけた。当該部は、ここの『(二九)五位の蛇』だが、これ、どう考えても、本邦の原話が、台湾に日本人が意図的に輸入してデッチアゲたものとしか思われない。台湾で「五位」はないでショウ!

「一九〇九年板ボムパス著サンタル・パルガナス俚談に較や似た話を出す。コラと名くる男、怠惰で兄弟に追出され土を掘て蟹を親友として持あるく。樹の下に宿ると、夜叉來り襲ふを、蟹が其喉を挾み切て殺す。王之を賞して其女婿とするに、新妻の鼻孔から蛇二疋出で、睡つたコラを殺さんとするを蟹が挾み殺した。其報恩にコラ、其蟹を池に放ち每日其水に浴し相會ふたと有る」イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になるFolklore of the Santal Parganas(「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名。ここ(グーグル・マップ・データ))。「Internet archive」のこちらで(そこでは書誌にボディングが共著者として記してある)同原本(一九〇九年版)が視認出来る。この際、探してみた。あった! この“XCL ANOTHER LAZY MAN.”がそれだ! 私の注の大団円じゃ!!

2024/04/16

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(4)

 

   味噌の香に藏の戶前や五月雨 海 人

 

 陰鬱な五月雨の空氣の中に漂ふ侘しい香を見つけた――嗅ぎつけたのである。味噌は藏の中にあるのであらう。じめじめした暗い五月雨と、プンと鼻に感ずる味噌の香とを腦裏に浮べ得る人ならば、この句の趣は說かずともこれを了するに相違無い。

 子規居士に「秋雨や糠味噌臭ふ佛の間」といふ句があつたと記憶する。季節も違ひ、場所も違ひ、匂ふものも違ふけれども、嗅覺が捉へた句中の趣には、自ら相通ずるものがある。

[やぶちゃん注:「秋雨や糠味噌臭ふ佛の間」明治三〇(一八九七)年九月三十日の『病牀日記』に記されてある句。国立国会図書館デジタルコレクションの改造社刊『正岡子規全集』第四巻(昭和八(一九三三)年刊)のここ(右ページ最上段)で確認した。]

 

   中わろき鄰合せやかんこどり 一 夫

 

「さびしさに堪へたる人の又もあれな」といふやうな山里ででもあるか、閑古鳥が啼くと云へば、自ら幽寂な境地を想像せしめる。而もそこに住んでゐる人は、鄰合つていながら仲が惡い、といふ人間世界の已むを得ざる事實を描いたものらしい。

 併し吾々がこの句を讀んで感ずるところは、それだけの興味に盡きるわけではない。嘗て『ホトトギス』の俳談會が

 

   腹あしき鄰同志の蚊遣かな 蕪 村

 

   仲惡しく鄰り住む家や秋の暮 虛 子

 

といふ兩句の比較を問題にしたことがあつた。人事的葛藤を描く上から見ると、蕪村の句が最も力があり、活動してもゐるやうであるが、句の價値は姑く第二として、自然の趣はかえつてこの句に遜る[やぶちゃん注:「ゆづる」。]かと思ふ。かういふ趣向の源もまた元祿に存することは、句を談ずる者の看過すべからざるところであらう。

[やぶちゃん注:「さびしさに堪へたる人の又もあれな」「新古今和歌集」の「卷之六 冬歌」に載る西行の一首(六二七番)、

   題しらず

 さびしさにたへたる人のまたもあれな

   庵(いほり)ならべん冬の山里(やまざと)

で、これは「小倉百人一首」の二十八番で知られるところの、「古今和歌集」の「第六 冬歌」の源宗于(むねゆき)の、

   冬の歌とてよめる

 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬとおもへば

の本歌取りである。「山家集」に収載してあり、「西行法師法師家集」では「山家の冬の心を」と前書する。

「腹あしき鄰同志の蚊遣かな」「腹あしき」は「怒りっぽい」の意。「蕪 村遺稿」にある句で、明和八(一七七一)年四月十八日の句。

「仲惡しく鄰り住む家や秋の暮」という高濱虛子の句については、国立国会図書館デジタルコレクションの大正七(一九一八)年十二月発行の『ホトトギス』誌上の「俳壇會」のここで(左ページ後ろから四行目以降)、山崎楽堂(やまざきがくどう 明治一八(一八八五)年~昭和一九(一九四四)年:能楽研究家・建築家にして俳人)が、この句を掲げて、詳細な批評を行っているので、是非、読まれたい。因みに、久女を俳壇から葬った糞虚子は、私は彼女と同様に「虛子嫌ひ」であるからして、この句も駄句以外の何物でもないと思っている。]

 

   飛ひかりよわげに蚊屋の螢かな 鶴 聲

 

 螢を蚊帳に放つといふ趣向は、早く西鶴が『一代男』の中で「夢見よかと入りて汗を悲む所へ、秋まで殘る螢を數包[やぶちゃん注:「かずつつ」。]みて禿[やぶちゃん注:「かぶろ」。]に遣し[やぶちゃん注:「つかはし」。]、蚊屋の内に飛ばして、水草の花桶入れて心の涼しき樣なして、都の人の野とや見るらむといひ樣に、寢懸姿[やぶちゃん注:「ねかけすがた」。]の美しく」云々と書いてゐる。

 

   蚊屋の内にほたる放してアヽ樂や 蕪 村

 

といふ句は、その放膽な句法によつて人に知られてゐるが、蕪村は果して西鶴の文中から得來つたものかどうか。蚊帳に螢を放つの一事が、それほど特別な事柄でないだけに、偶合と見る方が妥當であらう。「アヽ樂や」の句は一應人を驚かすに足るけれども、再三讀むに及んでは、蚊帳の中を光弱げに飛ぶ元祿の螢の方に心が惹かれて來る。這間[やぶちゃん注:「このかん」。]の消息は「自然」の一語を用いる外、適當な說明の方法も無ささうである。

 子規居士が「試問」として『ホトトギス』の讀者に課した中に、「子は寢入り螢は草に放ちけり」の句を批評せよ、といふ問題があつた。この句は誰の作かわからぬけれども、その答と共に居士が揭げた文章によると、享保頃に

 

   子を寢せて隙やる蚊帳の螢かな 喜 舌

 

といふ句があるらしい。居士は「子は寢入り」の趣向の古きものとして之を擧げたのであるが、更に遡れば元祿に

 

   ねいらせて姥がいなする螢かな たゝ女

 

といふ句がある。「試問」における居士の批評は、第一に句尾の「けり」を難じ、第二に「子は」「螢は」と二つ重ねた句法を難じ、第三に「子は寢入り」と云放したことを難じ、「若し句調を捨てゝ極めて簡單にせば『子寢ねて螢を放つ』とでもすべきか」と云つてゐる。「草に」の一語がこの場合、あまり働かぬ贅辭となつてゐることも自ら明である。

 享保の喜舌の句は、放つべき草を云はずに、今ゐる蚊帳を現した點が多少異つてゐるけれども、「隙やる」の一語は何としても俗臭を免れない。元祿のたゝ女に至ると、寢入つた子を主とせず、寢入らせた姥[やぶちゃん注:「うば」。]を主役にして、その姥が螢を放つことになつてゐる。これには草も無ければ蚊帳も無い。「ねいらせて」及「いなする」といふ言葉に厭味はあるが、「子寢ねて螢を放つ」といふことから見れば、この句が一番近いやうである。かういふ種類の句は、何時誰が作つたにしても、所詮俗を脫却し得ぬものであらう。たゞこの趣向に於いても亦、元祿の句が最も自然に近いとすれば、他の方面の事は推察に難くない。

[やぶちゃん注:『西鶴が『一代男』の中で「夢見よかと入りて汗を悲む所へ、……』国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第三巻「井原西鶴集」(昭二(一九二七)年国民図書刊)の「好色一代男」の「卷五」の「慾(よく)の世の中に是れは又」のここ(左ページ後ろから三行目以降)で、当該部を視認出来る。

「蚊屋の内にほたる放してアヽ樂や」この蕪村の句は明和六(一七六九)年五月十日の作。

『子規居士が「試問」として『ホトトギス』の讀者に課した中に、「子は寢入り螢は草に放ちけり」の句を批評せよ、といふ問題があつた』これは明治三二(一八九九)年の「俳句問答」の一節で、『○第四問 左の句を批評せよ、』『子は寢入り螢は草に放ちけり』である。国立国会図書館デジタルコレクションの「俳諧大要・俳人蕪村・俳句問答・俳句の四年間」(高濱淸(虛子)編・大正二(一九一三)年籾山書店刊)のここの『第四問の答』以下で視認出来る。この子規の批評は鋭い。]

2024/04/15

財産相続等に取り掛かる

本日、これより、財産相続に向かって司法書士を訪ねて、取り掛かる。恐ろしくエンドレスっぽいのに途方に暮れている。それとは別に、その他の神経症に細かな名義変更が異様に面倒くさいのである。「地球にやさしい」からと父が始めた(この軽薄な語は昔から私は最も嫌悪するエセ・エコである。エコロジーを標榜するもので真に生物学的に意義と効果があるものは、実は極めて少ない。地味で目立たない微小貝類などは日々続々と着実に滅亡しているのだ)太陽光発電名義人変更や、敷地内に立っている東京電力からの電信柱の使用料振り込み変更等々……気がつくと、隠れた南京虫のようにワラワラと出てきて、私の神経をバチッツ! と突き刺してくるのである――

譚 海 卷之十四 加茂社人鞠の露はらひの事 公人朝夕人の事 護持院・金地院の事 三島曆の事 はかり座の事 絲割符の事 藍甕運上の事 江戶曆問屋の事 淨瑠璃太夫受領號の事 江戶髮ゆひ株の事 連歌歌住宅の事 婦人旅行御關所手形の事 十夜念佛の事 酒造米の事 東西渡海舟御掟の事

 

 譚 海 卷の十四

 

 

〇主上御鞠(おんまり)の御遊(おあそび)ある時は、加茂社人、最初に「露拂ひ」といふ「まり」を仕(つかまつ)る事也。此作法、加茂の社人の家にのみ傳へて、外にしらざる所作也。

 

○「武鑑(ぶかん)」に「公人朝夕人(くにんてうじやくにん)」と有(ある)は、公方樣御上洛の時に便器を掌(つかさど)る役也。則(すなはち)。「おかは」の役人也、とぞ。

[やぶちゃん注:「武鑑」江戸時代に出版された大名や江戸幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋・役職・用人などを記した年鑑形式の紳士録。

「公人朝夕人」(くにんじゃくにん)は、当該ウィキによれば、『江戸時代にあった役職の一つ。世襲制』とあり、『高貴な身分の者が衣冠束帯姿である際、排尿が困難となる。衣類の着脱が必要となるが、その猶予が無い際、袴の脇から尿筒(しとづつ。尿瓶(しびん)にあたる銅製の筒。ポータブル』・『トイレの類)を差し込み、排尿中に支えるのが仕事である』。『江戸幕府将軍の上洛・参内、日光東照宮参拝(日光社参)などの際、将軍に近侍した』。『名前の由来は、“朝夕に公務を果たす人”ということから』。『将軍の道中は行列の二番に従う下部の左右にあって、警を唱える。同朋頭支配で定員は』一名で、『扶持高』十『人扶持』であったが、『土田家が』代々『世襲していた。土田家は鎌倉幕府』四『代将軍の藤原頼経の頃から』、『時の将軍に仕え、以降、室町幕府の将軍家(足利家)、織田信長、豊臣秀吉にも仕えていた。近世に入り江戸幕府を創始した徳川家康に仕えたことが幕臣としての始まりで』、『以後』、『土田家は「土田孫左衛門」という名前も世襲したため、公人朝夕人=土田孫左衛門となる』。但し、『身分は武士ではなく』、『武家奉公人いわゆる中間だったといわれている』。『職務は将軍が対象とはいえ、いわゆる「下の世話」なのであるが、鎌倉時代から家が続き代々世襲している事、雲の上の存在である将軍や時の権力者らに近侍すること、公人朝夕人といえば土田家であったこと、などを鑑みるに』、『いわゆる名家として扱われる』。『土田家の由緒書によれば、世襲の由来は』承久元(一二一九)年に『将軍藤原頼経が鎌倉に東下向の際、京都から扈従してまかり下るのに始まるという』。『江戸幕府において世襲となった起因は』、慶長八(一六〇三)年三月二十五日、『家康が将軍拝賀の礼の為に参内した折、尿筒の役「公人朝夕人」を家職としていた土田氏の先祖を召したこととされている』とあった。]

 

○國初より賓永の比(ころ)迄は、寺社御奉行と云(いふ)者は置(おか)れざる、よし。

「すべて、寺社の事は、護持院・金地院(こんちゐん)の兩寺にて、預り、沙汰せしゆゑ、此兩寺には舊記、おほく、あり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「國初より賓永の比」江戸幕府開府の慶長八年二月十二日(一六〇三年三月二十四日)から宝永八年四月二十五日(一七一一年六月十一日)まで。

「護持院」江戸神田橋外(現在の東京都千代田区神田錦町)にあった真言宗の寺院。奈良県桜井市の長谷寺一派。当該ウィキによれば、『筑波山の知足院中禅寺(筑波山神社の別当)が起源である。知足院は徳川家康以来、将軍家と幕府の祈祷を行っていた。知足院の江戸別院が湯島にあったのを、元禄元』(一六八八)年、『江戸幕府の』第五『代将軍徳川綱吉が神田橋・一ツ橋の間に移した。護摩堂、祖師堂、観音堂などの大伽藍を整備し、隆光を開山として、護持院と改称した』。享保二(一七一七)年、『火災により』、『一堂も残さずに焼失』したが、『徳川吉宗は同地での再建を許さず、跡地は火除地(護持院ヶ原)となった。護持院は音羽護国寺の境内に移され、護持院住職が護国寺住職を兼任することになった』。同寺は『明治維新後の廃仏毀釈で廃寺となった』とある。「護持院が原跡碑」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。護国寺はここ

「金地院」現在の東京都港区芝公園三丁目に現存する臨済宗南禅寺派の寺院。当該ウィキによれば、元和二(一六一九)年に『開山された。以心崇伝は南禅寺の僧侶で徳川家康の政治顧問を務めていた。そのため、江戸における拠点として与えられたのが当院の由来である。以心崇伝は京都では南禅寺塔頭の金地院を居所としており、江戸での居所も「金地院」と称した。そのため、以心崇伝は別名「金地院崇伝」ともいう』。『これまで当院は江戸城内に置かれていたが、以心崇伝の死後の』寛永一五(一六三八)年、『現在地に移転した。江戸時代の当院は独立性が高く、現在でいうところの「臨済宗系単立寺院」であったが、明治になり、関係の深かった南禅寺に属することになった』。昭和二〇(一九四五)年の「東京大空襲」によって、『本堂が焼失し』、昭和三一(一九五六)年に『再建された』とあった。ここ。]

 

○「三島こよみ」は、伊豆・相模の二ケ國に、商ふ事、免許なり。曆師河合龍節といふ者、每年、歲暮に江戶へ罷出(まかりいで)、公儀と御三家へ「こよみ」を奉り、目錄を拜領して歸國する事、定(さだま)りたる事也。

[やぶちゃん注:「三島曆」(みしまごよみ)は、室町時代の応安年間、伊豆国の三島神社の川合氏で発行した、極めて細かな仮名で記した暦。江戸時代には幕府の許可を得て、伊豆・相模の二国に行なわれた。なお、その書式から、「こまごました文字でくどくどと書いたものの喩え」にも用いる。「三島摺曆」とも呼ぶ。]

 

○「はかり座」は、西國・東國と兩人に分(わけ)て仰付(おほせつけ)られて有(あり)。東三十三國は守隨(しゆずい)彥太郞、西三十三ケ國は神谷善四郞、商ふ事也。

 

○京・大坂・境[やぶちゃん注:底本には編者に拠る補正右傍注があり、『堺』とする。]。長崎等に、「絲割符(いとわつぷ)」と云(いふ)者有(ある)は、皆、往古、異國渡船を仕立(したて)て渡海し、異國へ交易せし者の子孫也。國初、異國渡海の事、禁ぜられし砌(みぎり)、右の者、渡世成(なり)かたきに付(つき)て、「渡り絲の割符」を賜りて、家業とせさせ給ふゆゑ、「絲割符」と云(いふ)也。

[やぶちゃん注:「絲割符」(いとわっぷ)。「白糸割符」(しらいとわりふ)とも。慶長九(一六〇四)年以来、行われた中国産生糸(白糸:上質の絹糸)の一括輸入方式。初めは京都・堺・長崎、後には江戸・大坂を加えた五ヶ所の特定商人が作る「糸割符仲間」に生糸を一括購入させ、それを個々の商人に分配させた。彼らを通じて、それまでポルトガル船が独占していた外国貿易の利益を確保するのが、江戸幕府のねらいであった。十八世紀以降の国産生糸(和糸)の増産により、この糸割符制度は衰退した(主文は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]

 

○紺屋藍瓶の運上は、每度、瓶壹つに付(つき)、錢四百文づつ出(いだ)す事也。

 

○「江戸曆問屋」は十一人有(あり)、每年、町奉行より、曆の本紙を賜(たまは)り、再版して商ふ也。町年寄、預り掌る事也。

 

○淨瑠璃太夫の受領號を稱するは、元來、人形師に付(つけ)たる事也。其始(そのはじめ)、人形をあやどりながら、淨瑠璃をかたりたる故、受領號を免許ありし事也。

[やぶちゃん注:「受領號」底本の竹内利美氏の後注に、『受領は諸国の長官あるいは任国で政務をとる国司の最上席者をいう職名で、通例「守」または「権守」「介」などを称した。また、従五位下に叙せられることにもいわれ、この位は「大夫」、つまり五位の通称に相当する。芸人の大夫名はつまりこうした意味の受領号で、芸人の上位の者をさすことにもなった。そして浄瑠璃かたりの大夫名は、人形つかいからはじまったというのである。播磨掾、豊後掾、山城少掾といったたぐいである』とある。]

 

○江戶中、髮結の株は、承應(じようおう)年中より定められたる事也。上(かみ)より定(さだめ)られたる札に、皆、「承應」の文字、有(ある)、とぞ。

[やぶちゃん注:「承應年中」一六五二年から一六五五年まで。徳川家綱の治世。]

 

○連歌師の住宅、江戶は旅宿の御定(おさだめ)也。京都在住の積(つもり)に成(なり)てある事也。

 

○江戶町家女房、上京するには、御關所御判を頂戴して、登る時、箱根にては御改め一通(ひととほり)也。荒井御關所より、御判物(ごはんもつ)に引(きひ)かへ、日限定(にちげんさだま)りの書付、賜(たまは)る也。其書付の目限より、一日、延引しても、むづかしき事也。尤(もつとも)、書付、懷中して上京致し、歸りに、又、荒井御關所へ納(をさむ)ること也。夫故(それゆゑ)、女中、往還は、はなはだ氣づまりにて、迷惑成(なる)事、とぞ。右、日限に拘らず、上京いたし、

『ゆるりと見物せん。』と思ひ、又は、

『歸路に木曾路を通らん。』

など思はば、一旦、上方、親類、有(あり)て、其者の所へ引越(ふつこし)のつもりに、江戶にて申立(まうしたて)、御判を頂戴すれば、右、御判物を、荒井御關所へ、をさむる斗(ばか)りにて、書替の手形、賜る事なく、京都、こゝろよく、一見、をはりて、向方(さきかた)にて、あらたに木曾道中の御判物を頂戴するが、よろし。木曾路は女御改(をんなおあらため)、臼井[やぶちゃん注:底本には「臼」に編者に拠る補正右傍注があり、『(碓)』とする。]御關所斗(ばかり)也。其外は、番所、相斷(あひことわり)て通る斗也。

[やぶちゃん注:「荒井御關所」「新居御關所」の誤り。東海道の関所の一つで、現在の静岡県湖西市新居町(あらいちょう)新居のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった。但し、正式名称は「今切関所」(いまぎれせきしょ)であった。

「碓」「井御關所」「碓氷御關所」の誤り。中山道でここにあった関所。江戸時代には、東海道の箱根関所、中山道の福島関所とともに重要な関所とされた。当該ウィキによれば、『碓井関所は、中山道の福島関所、東海道の箱根関所、奥州街道・日光街道の房川渡中田関所、甲州街道の小仏関所、北国街道の関川関所』『と同様に、「入鉄砲に出女」を取り締まっていた』。『碓井関所では、徳川幕府による留守居証文により一元的に江戸からの不法な出女を監視していたが、関所近隣在住の女性の通関に対しては特別な配慮もあった』とある。]

 

○淨宗[やぶちゃん注:浄土宗。]に「十夜念佛」と云(いふ)事有(あり)。又、「七夜(ひちや)」・「四十八夜」など云(いふ)事も、あり。皆、別所に念佛を行(ぎやう)ずる事也。

 「十夜」の事は、大經(だいきやう)に出(いで)たり。

 「七夜」は、「彌陀經」によりて行ずる事也。

 「十夜念佛」は、京都眞如堂にて、行じたるを、はじめとす。關東にては、鎌倉光明寺を、はじめとす。

 「四十八夜」は、鎭西上人、行じはじめたる事也。

[やぶちゃん注:「大經」これは、その宗派で依るところの大部の経典を指す。浄土宗では「淨土三部經」の総称で知られる「無量壽經」・「觀無量壽經」・「阿彌陀經が根本経典であるが、その他に法然の著した「一枚起請文」と「一紙小消息」が含まれる。

「鎭西上人」弁長(応保二(一一六二)年~嘉禎四(一二三八)年)は平安末から鎌倉初期の浄土宗鎮西派の祖。号は聖光房、「鎭西上人」は敬称。「二祖上人」や勅諡の「大紹正宗國師」とも呼ばれる。寿永二(一一八三)年、比叡山に上り、宝地房証真から天台宗の奥義を受けた。弟の死に当たって無常を感じ、建久八(一一九七)年、法然に師事した。浄土宗の宗要を極めて、大いに念仏を広めた人物として知られる。主著に「浄土宗要集。「徹撰択集」・「末代念仏授手印」がある。現在の浄土宗は、この派の発展したものである(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

○加州米・羽州秋田米等は、至(いたつ)て下品也。然れども、洒を造(つくる)には、此米ならでは、成(なし)がたし。大坂に來(きた)るといへども、皆、酒米(さかまい)にいたす事也。飯米に成(なり)がたし。

 

○渡海の船は、「北𢌞り」・「東𢌞り」の定(さだめ)ありて、其制を超(こゆ)る事、あたはず。

 「北𢌞り」は、武州浦賀より大坂をへ、出雲の北をめぐりて、羽州秋田土崎湊に至るを限りとす。

 「東𢌞り」は、浦賀より常陸をへて、仙臺南部の浦を過(すぎ)、津輕を𢌞り、羽州秋田に至るを限(かぎり)とす。

 「北廻り」は、「北𢌞り」の船を用ひ、「東𢌞り」は「東𢌞り」の船を用ゆ。他船をもちて往來する事、嚴禁也。

 各船、皆、定額(しやうがく)ある事ゆゑ、「北𢌞り」の船をもちて、津輕に出(いで)、浦賀へ來(きた)る時、其船頭、刑罪に處せらるゝ事也。「東まはり」の舟にて、「北𢌞り」するも、同じ刑に處せらるゝ事也。

 

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(3)

 

   美しき人の帶せぬ牡丹かな 四 睡

 

 ちよつと見ると、牡丹の咲いてゐる側に、美人が帶をしめずに立つてゐるかの如く解せられるが、實際はさうでなしに、牡丹そのものを帶せざる美人に見立てたものと思はれる。牡丹の妖艷嬌冶の態は單に「美しき人」だけでは十分に現れない。「帶せぬ」の一語あつて、はじめてこれを心裏に髣髴し得るのである。

 かういふ句法は今の人達には多少耳遠い感じがするかも知れないが、この場合强ひて目前の景色にしようとして、帶せぬ美人をそこに立たせたりしたら、牡丹の趣は減殺[やぶちゃん注:「げんさい」。]されるにきまつてゐる。句を解するにはどうしてもその時代の心持を顧慮しなければならぬ。

[やぶちゃん注:「嬌冶」「けうや」(きょうや)は「艶めかしい」の意。]

 

   捲あぐる簾のさきやかきつばた 如 行

 

『句兄弟』に「簾まけ雨に提來くる杜若」といふ其角の句がある。これは「雨の日や門提て行かきつばた」といふ信德の句に對したので、單に燕子花[やぶちゃん注:「かきつばた」。]を提げて通るといふだけの景色に、「簾まけ」の一語によつて山を作つたのが、其角一流の手段なのであらう。

 如行のこの句には、其角のやうな山は見えない。緣先の簾を捲上げると、すぐそこに燕子花の咲いてゐるのが見える、といふ眼前の趣を捉へたのである。簾を捲くと同時に、燕子花の色がぱつと鮮あざやかに浮んで來るやうに感ずるのは、この句が自然な爲に相違ない。自然に得來つたものは、一見平凡のやうでも棄て難いところがある。

[やぶちゃん注:「句兄弟」其角編で元禄七(一六九四)年刊。以上は、

      *

 五番

    兄 信德

   雨の日や門(かど)提(げ)て行(ゆく)かきつばた

    弟 [やぶちゃん注:ここは其角。]

   簾(すだれ)まけ雨に提來(さげくる)杜若

      *

この「信德」は伊藤信徳(寛永一〇(一六三三)年~元禄一一(一六三八)年)は京都の富商。高瀬梅盛の門人で、談林調から蕉風への一翼を担った人物として知られる。編著「江戶三吟」・「七百五十韻」などがある。]

 

   ほとゝぎす栗の花ちるてらてら日 李 千

 

 紛れもない晝のほとゝぎすである。ほとゝぎすの句といふものは、習慣的に夜を主とするやうになつてしまつたが、古句を點檢して見ると、必ずしもさうではない。この句は「てらえら日」といふのだから、相當日の照りつけている、明るい晝の世界である。

 

   ほとゝぎすあみだが峯の眞晝中 路 通

 

   郭公日高にとくや筒脚半 探 志

 

などといふのは、明に[やぶちゃん注:「あきらかに」。]晝の時間を現してゐるし、

 

   幟出す雨の晴間や時鳥 許 六

 

   ほとゝぎす傘さして行森の雨 洒 堂

 

の如きも、やはり晝と解した方がよささうに思はれる。元祿人は傳統に拘泥せず、句境を自然に求めて隨所にこの種の句を成したのであらう。

「ほとゝぎす」といふ言葉がその鳥を現すのみならず、直にその啼なく聲までを意味するのは、活用の範圍が廣きに失しはせぬかといふことを、鳴雪翁は云つて居られた。併しほとゝぎすは聲を主とする鳥で、啼く場合殆ど姿を見せぬといふことも考へなければならず、その名詞が五音であるため、他の語を添える便宜に乏しいといふ消息も認めなければなるまい。ここに擧げたのはいづれも晝のほとゝぎすであるに拘らず、一向句の表に姿を現してゐない。「栗の花ちるてらてら日」といふ明るい世界にあつても、ほとゝぎすは依然聲を主として扱はれてゐるのである。

 

   雞の餌袋おもし五月雨 胡 布

 

 雞の餌袋[やぶちゃん注:「ゑぶくろ」。]は胸のところにある。かつて少しばかり雞を飼つた頃の經驗によると、夕方雞舍をしめる時などに、よくその餌袋に手を觸れて、腹が十分であるかどうかをしらべたものであつた。貪食な雞の餌袋が一杯砂でも詰めたやうに固くなつてゐるのは常の事であるが、これは五月雨時なので、いさゝか運動が乏しく、特に餌袋の重きを感じたものかも知れない。

 この句の眼目は「おもし」の一語に盡きる。これによつて客觀的に雞の餌袋を重しと見るのみならず、何となく自分の事ででもあるかのやうな感じを與へる。雞に親しい生活の人でなければ、かういふことは捉へにくいだらうと思ふ。

 

2024/04/14

譚 海 卷之十三 風のしるしの事 時の候うらなふ事 霜にて風をうらなふ事 雪降んとする候の事 土用中雨候の事 雨降らざる候の事 二十四節晴雨占候の事 入梅心得の事 灸治の事 養生の心得の事 / 卷之十三~了

○正に開かんとする花、結(むすび)て開きかぬる日は、風を催すしるし也。蜘蛛、みづから網を破るも、「暴風雨、有(あり)。」と知(しる)べし。

 

○鐘の聲、姶めの一ツ、二ツ打樣(やう)に聞ゆるは、晴の候也。

 

○霜の深くふりたる朝は、晝、かならず、風を起す。冬月、霜・冰(こほり)、とくるは、雪の候也。霜やけのかゆきも、雪の候也。

 

○土用入(いり)て十三日目は、必(かならず)、雨、降(ふる)と、いふ。

 

○夕暮、「いはし雲」とて、雲のかたち、まばらに敷(しき)たるは、久敷(ひさしく)晴のつづくベきしるし也。詩にも「魚鱗天不ㇾ雨」とあり、とぞ。

[やぶちゃん注:津村は「詩」とするが、これは中国の諺で、「魚鱗天、不雨也風顚。」(魚鱗(ぎよりん)の天(てん)は、雨(あめふ)らずして、風(かぜ)、顚(はじ)む。)。]

 

○節(せつ)十五日の中(うち)に、五日め、殊に、時候、かはる也。又、節、換りて、五日の間、晴天なれば、その後(あと)の五日は雨天也。又、節より五日過ぎても、天氣つづきて晴(はる)る時は、十一日めより、雨、降(ふる)也。晴雨、如ㇾ是(かくのごとき)を以て、うらなふに、大樣(おほやう)、たがふ事、なし。旅行の人、殊に思ふべき事也。

[やぶちゃん注:「節十五日」太陰太陽暦に老いて各節分を基準に一年を二十四等分して約十五日ごとに分けた季節のことで、細かに言うと、二十四節気は、一ヶ月の前半を「節」と呼、後半を「中」と呼ぶ。その区分点となる日に季節を表すのに相応しい春・夏・秋・冬などの名称を附したのである。]

 

○入梅廿日目、土藏を掃除して、書籍・衣裳の類(るゐ)を出(いだ)し、土藏の外の室(へや)に置(おく)べし。出梅の後(のち)、「かび」を生ずといへども、土藏の外に有(ある)物は、「かび」を、おほく生ずる事、なし。

 

○灸治、冬月・春初までは、なすべからず。すうるといへども、功、薄し。春・秋は、體(からだ)ゆるみ、脈、ひらくる故、すべて、功、有(あり)。

 

○甘きものは、小兒に、害、有(あり)。愛におぼるゝとも、しばらく、あたふべからず。酒は、終(つひ)に、命を、そこなふ。

 長夜(ちやうや)の飮(いん)を、なすべからず。一獻三杯に限れば、一日、百飮すとも、さまたげず。

 飢(うゑ)て、大食するは、害を、なさず。美味ありといへども、滿腹にやみて[やぶちゃん注:「已みて」で「満腹することない異常な状態になって」の意であろう。]、かさね、くらふべからず。

 すみやかに、はしるべからず。元氣を損じ、且つ、まづまづ、あやまち有(あり)。

 形を勞(らう)して、心を勞すべからず。晝、緊要(きんえう)の事に處(しよ)するとも、寢るに就(つい)て、わするゝが如く、すべし。

 飯に石あるをば、愼(つつしみ)て、かむべからず。老に臨(のぞみ)て、齒さき、おとろへ安し。

 夜をつらねて、房宿すべからず。精を減じ、明(めい)を失(なく)し安(やす)し。

 思慮は、眠(ねむり)を、さまたげ、憂患(いうかん)は、死を、まねく。

 冨貴(ふうき)は願ふ所といへども、分(ぶん)を知りて、不義の行(おこなひ)をなすべからず。常に、我(われ)、つたなきをしり、人におくるることをせば、困窮の中(うち)に居(を)るといへども、安んずる事あるべし。天下の人、冥加をしり、幸(さひはひ)を得て、恐るる心あらば、こひねかはくは、一生を保(たもつ)べし。

[やぶちゃん注:「夜をつらねて、房宿すべからず」連夜、性交渉をもってはいけない。]

 

「ひとみ座」亡父弔問来訪

晩年の父のプロデュースになる人形劇「ぼくらのジョーモン旅行」を制作・公演して下さった「ひとみ座」(「ひょっこりひょうたん島」で著名)のトップ三人の方が父の弔問(「ひとみ座」の初代座長宇野小四郎氏は、父の中学時代からの親友で、ともに縄文・弥生の遺跡発掘をした)に来られた。最初の父の弔問者であった。心より御礼申し上げるものである。こちらと、こちらを見られたい。

譚 海 卷之十三 眼病療治所の事 小便不通の事 かくの病ひ妙藥の事 てんかん藥の事 痔疾藥の事 痢病藥の事 りん病治する事 中風にならざる藥の事 ひへむしかぶる藥の事 婦人陰所の事 そこ豆を治する方のまむしにさゝれたる藥の事 病犬にかまれたる藥の事 らい病療治の事 耳だれ出る藥の事 風邪あせをとる事 百草黑燒の事

○眼病療治は、上總國「ふた村」、藥王寺という[やぶちゃん注:ママ。]所に名方あり。右、江戶より海上十六里半を一日に乘る也。此舟賃、壹人貳百十六錢程、小網町壹丁目より乘船して、上總の「ほど村」に着(つき)、「ほど村」より「ふた村」まで、「から尻馬(じりうま)」、二百十六錢ほど也。扨(さて)、かしこにて、目藥代・扶持共に、一日に百十六賤ほど、一日に六度づつ、さし藥するなり。

[やぶちゃん注:『上總國「ふた村」、藥王寺』千葉県東金市上布田(かみふだ)にある法華系単立寺院不老山布田薬王寺ふだやくおうじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『布田の目薬』の項があり、『三世日正によって製造された霊薬で法華経の「是好良薬(ぜこうろうやく)・今留在日此(こんるざいし)・病即消滅(びょうそくしょうめつ)・不老不死(ふろうふし)」の妙文を感得して調剤したと伝えられ、代々の住職に口伝された家伝の漢方薬である』。『戦時中は統制会社に薬の権利を移され』、『その配下にあったものを』、『戦後』、『統制解除され、当山の第三十世「富田日覚上人」が権利を譲り受け』、『社長に就任』、昭和三〇(一九五五)年に『「千葉製薬株式会社布田薬王寺工場」として厚生省(現:厚生労働省)の許可を得て当山境内に工場が建設された。現在は薬事法の関係もあり』、『佐賀製薬株式会社が製法を受け継ぎ』、『製造、当山にて販売されている』とある。

「小網町」現在の東京都中央区日本橋小網町

「ほど村」不詳。富津の古名は「ほと」であるが、上記の「ふた村」(布田村)へ行くには、南下し過ぎるからおかしいと思う。識者の御教授を乞う。]

 

○小便不通の時、臍の下へ張(はり)て通ずる藥、東海道小田原に有(あり)。

[やぶちゃん注:調べたが、不詳。]

 

○「かく」の妙藥、根津總門の外右側、御書物方同心井田政右衞門殿といふ人に乞へば、得らるゝ。價二百錢ほどか。

[やぶちゃん注:「かく」「膈噎」(かくいつ)か。「膈」は「食物が胸に閊えて吐く病気」。「噎」は「食物が喉に閊えて吐く病気」。重病では、胃癌・食道癌の類とされる。今一つ、「霍亂」(かくらん)があり、これは、急性日射病で昏倒する症状や、真夏に激しく吐き下しする病気の古称である。後者は急性胃腸炎・コレラ・疫痢などの総称に該当するものとされるが、「霍亂」は古くから二字熟語で用いられることの方が多い。値段が安いので、後者か。]

 

○癲癇(てんかん)の藥、下總葛飾郡駒木(こまぎ)村百姓平右衞門と云(いふ)者の方(かた)に妙方、有(あり)。一服二百錢づつ也。二服を求(もとむ)べし。はじめ、一服を用(もちゆ)れば、「てんかん」、盛(さかん)に起(おこ)る。その期(き)にて、一服、用れば、根を切(きり)て、再び起る事、なし。

[やぶちゃん注:「駒木村」現在の千葉県流山市駒木(こまぎ)・美田(みた)・十太夫(じゅうだだゆう)。この附近(グーグル・マップ・データ。地図上で三地区が確認出来る)。]

 

○痔疾には、芝增上寺地中、淡島明神の社より出す、靑き油藥、奇功、有(あり)。痛所(つうしよ)に、指にて、ぬりて、吉。

[やぶちゃん注:現在は神仏分離により、増上寺の東方にある芝大神宮(グーグル・マップ・データ)に合祀されている。]

 

○又、「なめくじり」を胡麻油にひたし置(おく)時は、とろけて、白き油に成(なる)なり。それを付(つく)れば、痛(いたみ)を去る。冬月、「なめくじり」を得んとせば、山林の落葉の下を搜すべし。

[やぶちゃん注:ナメクジは声を良くするなどと言い、近代まで民間療法として知られていたが、危険。当該ウィキによれば、『種類によっては、生きたまま丸呑みにすると、心臓病や喉などに効くとする民間療法があるが、今日では世界から侵入した広東住血線虫(脱皮動物上門線形動物門双線綱円虫目擬円形線虫上科 Metastrongyloidea に属するジュウケツセンチュウ(住血線虫)属カントンジュウケツセンチュウ(広東住血線虫)Angiostrongylussyn. Parastrongyluscantonensis  )による寄生虫感染の危険があることが分かっているため避ける。オーストラリアでは、ふざけてナメクジを食べ、寄生虫が大脳に感染し、脳髄膜炎で』四百二十『日間昏睡状態に陥り、意識が回復後も脳障害で体が麻痺』し、八『年後に死亡した例がある』とある。]

 

○痢病には、「かたつむり」を、みそにて、煮て、其汁をすゝる、よし。

[やぶちゃん注:同前でお薦め出来ない。煮ているので、まあ、問題はないかも知れないが、煮方が不完全だと、やはり危険。当該ウィキによれば、『日本でもカタツムリを食べる文化は古くからある。例えば飛騨地方ではクチベニマイマイが子供のおやつとして焼いて食べられていた』『他、喉や喘息の薬になると信じられ、殻を割って生食することが昭和時代まで一部で行われていた(後述にもあるがカタツムリは寄生虫の宿主であることが多く、衛生的に養殖されたものを除き生食する行為は危険である)。また殻ごと黒焼きにしたものは民間薬として使用され』、二十一『世紀初頭でも黒焼き専門店などで焼いたままのものや粉末にしたものなどが販売されている』が、『種類にもよるが、カタツムリやナメクジ、ヤマタニシやキセルガイなどの陸生貝及びタニシ類などの淡水生の巻貝は、広東住血線虫を持っていることがある。接触後は手や接触部分をしっかり石鹸や洗剤で洗い、乾燥させ、直接及び間接的に口・眼・鼻・陰部など、各粘膜及び傷口からの感染を予防しなければならない。体内に上記の寄生虫が迷入・感染すると広東住血線虫症となり、脳や視神経など中枢神経系で生育しようとするため、眼球や脳などの主要器官が迷入先である場合が多い。よって、好酸球性髄膜脳炎に罹患し死亡または脳に重い障害が残る可能性が大きい』とある。近年、保育園・幼稚園から中・高等学校まで、自然観察に於いて、直(じか)に触れることは、厳禁とされているほどであり、感染例も複数、確認されている。

 

○痲病[やぶちゃん注:底本には、編者に拠る右補正傍注があり、『(淋)』とある。性病の一首である「りんびやう(りんびょう)」のこと。]には、木瓜(ぼけ)の「つる」を煎じたる上、白砂糖を入(いれ)て飮(のむ)べし。よく小便を通ずる也。

[やぶちゃん注:『木瓜(ぼけ)の「つる」』ボケには蔓(つる)はない。当該ウィキによれば、『株立ちになり』、『茎は叢生してよく枝分かれし』、『若枝は褐色の毛があり、古くなると灰黒色。樹皮は灰色や灰褐色で皮目があり、縦に浅く裂け、小枝は刺となっている』とあるので、それらの分枝した枝を指していよう。]

 

○又、痛みて堪(たへ)がたきを治するには、靑竹を、「ふし」をかけて、二尺餘に切(きり)て、火吹竹の如く拵へ、底のふし、一つを殘し、殘りのふしをば、ぬき、「いさ石」を、いくらも、ひろひ置(おき)て、小便度每(たびごと)に石三づつを、火にて燒(やき)て、赤く成(なり)たる時、その石を、竹の底へ入れ、そのまゝ小便を仕懸(しかけ)る也。燒石、小便に鳴(なり)て、氣味わるき樣なれども、小便の度ごとに、いたみ、うすらぎ、通じよく成(なる)也。竹も、三日程は、用(もちい)らるゝ也。

[やぶちゃん注:「いさ石」不詳。しかし、「沙石(いさごいし)」で小石のことかと思われる。]

 

○中氣にならぬ灸、每年六月朔日、芝口新橋ふたば町大黑屋惣兵衞と云(いふ)者の方にて、山田喜右衞門と云(いふ)人、すうる也。夢想の灸の、よし。料物(れうもつ)三拾二錢を、いだす。

 

○「ひえ蟲」かぶるには、小日向本法寺の「大丸藥」、よし。壹丸三錢づつ也。かなつちにて、くだきて、少しづつ、用ゆべし。

[やぶちゃん注:「ひえ蟲」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

○婦人、陰所の疵(きず)治するには、古き雪踏(せつた)の皮を黑燒にして、胡麻の油にて付(つく)べし。

 

○足の「そこまめ」、針も、小刀も、通りがたく打捨置(うちすておけ)ば、「ちんば」にも成る也。「わらしべ」の、ほそきを、もちて、「そこ豆」の上の皮を、そろそろ、もむ時は、錐(きり)のやうに通り入(い)る。穴を明(あけ)、膿(うみ)、出(いづ)るを、能々(よくよく)押せば、治して、後(のち)の愁(うれひ)なし。但(ただし)、「わらしべ」をもみ入るに、眞直に入(いる)べからず、橫に入やうに、皮を破るべし。「わらしべ」、肉へ、さはれば、痛み、とがむる也。

[やぶちゃん注:「とがむる」気になる。]

 

○「まむし」に、さゝれたるには、「なめくじり」を付(つく)れば、立所(たちどころ)に治する也。和州は、「まむし」多き所(ところ)故、夜行にも、竹の筒へ、「たばこ」の「やに」をつめ、「なめくじり」を漬(つけ)て、けづりたる「竹べら」を、そへ、持(もち)あるく也。しつくりと、さゝれたると覺(おぼえ)れば、そのまゝ、「へら」にて、それへ、ぬりつくる故、「まむし」の害を、うれふる事、なし。

[やぶちゃん注:前掲通りで、甚だ、危険効果がないばかりではなく、ナメクジの寄生虫感染の危険性が高いからである。

 

○病犬(やみいぬ)にかまれたる藥、日本橋平松町井上藤藏といふ儒者の所に奇方、有(あり)。鼠に、くはれたるにも、よし。

[やぶちゃん注:狂犬病では、当時は効能のある薬は存在しない。狂犬病ではない単なる狂犬であれば、鼠咬症と同断に効果のある薬はあったかも知れない。]

 

○癩病の療治は、下野佐野に、その家あり、といふ。

[やぶちゃん注:「癩病」ハンセン病。限りなく嘘である。]

 

○「耳だれ」には、ぬかみそに漬(つけ)て、有(いう)二、三年へたる古き茄子を、引(ひき)さき、その汁を、耳中(みみなか)へ、しぼり入(いる)べし。

 

○風邪などにて、汗を取(とる)には、汗、出(いで)て、三里のあたりに、及(および)て、止(とむ)べし。

[やぶちゃん注:「三里」灸穴(きゅうけつ)の名称。膝頭の下で、外側の少し窪んだ所。どこから灸を打ち始めるのかが、書いてないのが、不審。]

 

○百草、黑燒にするには、五月五日、取(とり)て、その夜露を受(うけ)て、翌日より、每日、炎日(えんじつ)に、ほしかためて、後(のち)、燒(やく)べし。

[やぶちゃん注:「百草」は特定のものではない(「百草」(ひゃくそう)という、ミカン科の落葉高木キハダの内皮「黄檗」(おうばく)から抽出されるオウバクエキスを主成分とした胃腸薬が、現在もあるが)、漢方や民間で薬用となると考えられた植物を指していると採る。]

譚 海 卷之十三 日蓮上人まんだらの事 相州遊行寺蟲ぼしの事 本所辨才天堂平家琵琶の事 兩大師御番所御門主に當りたる月の事 慈眼大師御廟參詣の事 王子權現田樂おどりの事 六月晦日芝明神みそぎの事 九月十四日神田明神神輿御出の事 除夜淺草寺護摩札の事 橋場當摩寺ねり供養の事

[やぶちゃん注:標題中の「おどり」はママ。]

 

○日蓮上人眞蹟の「まんだら」は、すかして見る物の、よし。多くは臨模(りんも)せしうへを、墨にて、ぬりたるものゆゑ、二重文字を、よくよく穿鑿すべき事、とぞ。又、其宗門に、「十界勸請(じつかいくわんじやう)の曼荼羅」と稱するものは、佛神の名を書(かき)たるものをいふ、よし。

 

○六月廿五日、藤澤遊行寺の蟲干也。旅行の序(ついで)あらば、立寄(たちより)て見るベし。

 

○二月十六日・六月十九日は、本所一ツ目辨天堂にて、「平家びは」の興行、有(あり)。座頭・檢校(けんぎやう)の會(ゑ)也。朝、早く行(ゆき)て聽聞(ちやうもん)すべし。

[やぶちゃん注:「本所一ツ目辨天堂」東京都墨田区千歳にある江島杉山神社(グーグル・マップ・データ)。神奈川県藤沢市の江ノ島にある江島神社の弁財天の分霊を祀る。由緒は公式サイトのこちらを見られたい。]

 

○兩大師御番所、御門主にあたりたる月、本坊に故障あれば、中堂前、釋迦堂に、せん座あり。黃昏(たそがれ)に參りて、聲名(しやうみやう)を聽聞すべし。外(そと)にては、夜陰に行(おこなは)るゝ事ゆゑ、聞(きき)がたし。

[やぶちゃん注:「兩大師御番所」真言宗上野寛永寺の開山堂のこと。東叡山の開山である慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正を祀っている堂であるが、天海が尊崇していた慈惠大師良源大僧正を合わせて祀っているところから、一般に「両大師」と呼ばれ、庶民に信仰されてきた。初建は正保(一六四四)元年。

「聲名」「聲明」(しょうみょう)が正しい。仏教の儀式などに用いる古典の声楽を指し、経文に高低・抑揚や節をつけたもので,歌詞を梵語のままで歌う「梵讃」、漢語に翻訳した「漢讃」、日本語の「和讃」や講式・論義などがある。平安初期から天台声明と真言声明とがあり、後に浄土声明も発達し、また、平家琵琶や謡曲の源流となった。]

 

○七月十五日は、慈眼大師御廟參詣の日也。夜は三十六房の提燈(てうちん)を供(ぐ)し、殊勝なる事なり。必(かならず)、まゐりて拜すべし。

 

○七月十三日、王子權現の社頭にて、田樂躍(でんがくをどり)、有(あり)。古風成(なる)物也。晝八ツ時より始りて、一時(いつとき)斗(ばか)りにて終る也。

[やぶちゃん注:東京都北区王子本町(ほんちょう)にある王子神社(グーグル・マップ・データ)の旧称。]

 

○六月晦日は、芝神明社頭、御祓[やぶちゃん注:底本は「祓」の(へん)は「禾」であるが、国立国会図書館本は『祓』となっているので、誤植と断じて特異的に訂した。]の儀式あり。其外、此月、江戶諸社の御祓あり。日限、不同也。くはしくは「江戶砂子」にあり。

[やぶちゃん注:「芝神明社」現在の東京都港区芝大門一丁目にある芝大神宮(グーグル・マップ・データ)のこと。現行では六月三十日に大祓式(夏越(なごし))が行われている。

「江戶砂子」菊岡沾涼著。江戸の地誌・社寺・名所の由来などを記したもの。享保一七(一七三二)年作。六巻六冊。明和九(一七七二)年増補され、六巻八冊となった。在来の諸地誌に比して最も整った地誌として知られる。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(一九七六年東京堂出版刊・新字正仮名)で同神宮の記載はここである。]

 

○九月十四日は、神田明神祭禮の前夜なり。神輿、社頭へ出(いだ)し奉る時、神事、あり。晝七ツ時より、はじむるなり。

[やぶちゃん注:「晝七ツ時」午後四時頃。]

 

○三月廿一日は、眞言宗會式(ゑしき)にて、庭、見物諸人、拜觀す。目白音羽町、護持院・深川、永代寺・本所、彌勒寺などへ、參詣す。護持院の庭、殊に佳景也。海を望(のぞむ)所あり。

[やぶちゃん注:「目白音羽町、護持院」現在の東京都文京区大塚五丁目(現在の音羽町はその参道部)にある真言宗豊山派神齢山悉地院大聖護国寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「深川、永代寺」東京都江東区富岡にある高野山真言宗大榮山永代寺(えいたいじ)。ここ

「本所、彌勒寺」東京都墨田区立川にある真言宗豊山派万徳山聖宝院弥勒寺。ここ。]

 

○除夜には、黃昏(たそがれ)、法會(ほふゑ)あり。佛前に鬼形(きぎやう)の面を供する事あり。其外、三月、「やぶさめ」、時々の法會あり。日限、よく聞置(ききおき)て行(ゆき)てみるべし。

 

○橋場當摩寺「ねり供養」、芝增上寺「黑本尊開帳」、淺草西福寺「東照宮御影拜見」、湯島靈雲寺權現、根津權現「神樂」、諸道場の山門、ひらく日、已待辨天參詣、甲子大黑參詣等の日限、よく尋置(たづねおき)て參詣すべし。

[やぶちゃん注:知られた寺名・地区のものが多く、地図を指示するのはやめた。悪しからず。]考えられた植物を指していると採る。]

2024/04/13

譚 海 卷之十三 わらんじ豆の出來ざる方の事 おなじく豆の藥の事 旅立こゝろ得の事 他行の時用意の事 病身の者息才になる方の事 每朝齒をたゝくべき事 同髮をかきなづるべき事 うたゝね風をひかざるこゝろえの事 冬養生の事 紙襦袢の事 朝鮮國頭巾の事 敷物のみを去る事 かはうその皮財布の事 股引脚絆の製の事 爪の屑をすてざる事 人のあぶらの事 澀にて張たるもの臭をぬく事 薪を竈の上に釣置くべき事 夏月硯墨の事 鼻毛拔の事 暴風の時他行頭巾の事 辻うらの事

○「わらじまめ」出來ざる方、草烏頭(くさうづ)・細辛・防風、右、三味、等分に細末にして、わらじの上へ、ぬり、はくべし。まめ、出來る事、なし。

 又、まめ、出來たるには、其夜、まきわりを、火にあたゝめ、鐵(かね)の、うるほひたる所へ、足のまめを、押付(おしつく)べし。數度(すど)にて、直(なほ)る也。

[やぶちゃん注:「草烏頭」トリカブト(モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum )のトリカブト類。の若い根。猛毒で、殺虫・鎮痛・麻酔などの薬用に用いられる。「そううず」「いぶす」とも言う。

「細辛」薄葉細辛(コショウ目ウマノスズクサ科カンアオイ属ウスバサイシン Asarum sieboldii の別名。また、その根や根茎を乾燥させたもの。辛みと特有の香りがあり、漢方で鎮咳・鎮痛薬に使う。

「防風」セリ目セリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata 。但し、本種は中国原産で本邦には自生はしない。されば、ここはセリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis を指していよう。]

 

○奧道中、栗橋より古河の際に、沖田といふ宿あり。此所にまめの藥あり、求(もとめ)て、たくはふべし。功驗、奇妙なり。

[やぶちゃん注:「沖田といふ宿」日光街道の「栗橋」宿と「古賀」宿の間にある「中田」宿のこと。現在の茨城県古河市中田地先の利根川河川敷(グーグル・マップ・データ)に旧「中田宿」があった。]

 

○放行、思ひ立(たつ)時には、兼て入用の品を、おもひ出すまま、段々に書付(かきつけ)て置(おく)べし。期(き)に望(のぞん)では忘却する事、おほく、旅中にて大(おほい)に難儀するもの也。

 

○平日、一寸、出(いづ)る時にも、懷中持參の具、脇指・「あふぎ」に至るまで、いくつと、かぞへ覺へ[やぶちゃん注:ママ。]て出べし。先(さき)より賜(たまは)る時、又、心にて、しらべ持歸(もちかへ)れば、物を、わすれ落す事、なし。

「よそに在(あり)て歸らんとする時は、立歸り、跡を見るべし。」

と、人、常に云(いふ)事、理(ことわり)成(なる)事也。心に油斷出來(いでく)るは、物を忘る始(はじめ)也。

 

○病身成(なる)人、息才を欲(ほつ)せば、每朝、おきて、手桶に、冷水を一杯づつ、あぶべし。寒暑・風雨を、かくべからず。如ㇾ此すれば、數年(すねん)の後(のち)、達者に成(なる)事、疑(うたがひ)なし。但(ただし)、かしらより、あびざれば、功、なし。あびて後、髮をば、紙にて、ふき去るべし。

 

○又、每朝、起(おきて)て坐(ざ)し、齒を、上下、三度、たゝくべし。

 あくびと共に、淚、出(いで)て、精神を、さはやかにす。

 夜分寢るにも、如ㇾ此すべし。

 

○每朝、櫛を取(とり)て、髮を、かきなづるも、血氣を、めぐらし、養生也。

 

○うたゝねは、橫に、ふすべからず。物によりそひて、ねぶるべし。ねぶる時、「えり」のあたりを、手拭などにて包(つつみ)て、ねぶるべし、風を引(ひく)事、なし。胸のあたりも明(あか)ざるやうにすべし。

 

○冬は朝日の出(いづ)るを、まちて、おくべし。淸晨(せいしん)、寒氣にあたるは、あし。

 

○紙にて、襦袢を拵へ、肌に着(ちゃく)すべし。風を避(さく)る事、小袖、多く、重ねたるより勝れり。袖を、狹く、こしらふべし。

 

○朝鮮國の頭巾、うらを獸(けもの)の皮にて造り、表を黑繻子など、つけて、いたゞきに風穴(かざあな)を明(あけ)て、氣の、こもらぬやうにしたるもの也。殊に、寒氣を避(さく)るに、よし。

 往々、對馬の人、持來(もちきた)りて、かぶるを見たり。便(びん)を求(もとめ)て、その製にならふべし。

 

○熊・猪のしゝの皮、敷物にして、「のみ」を、さるに、よし。

「毛氈も、『のみ』をさる。」

と、いへり。但(ただし)、此邦にて製すること、なし。

 

○「『かはうそ』の皮にて、錢財布を拵(こしらへ)れば、火に、やくる事、なし。」

と、いへり。

 水獸なる故、然るにや、いまだ、試みず。

 

○股引・脚絆の類、藍にて染(そむ)べし。

「藍は『まむし』を避(さく)る。」

と、いへり。

 

○自身の爪をとりたるを、集めて、目形(めかた)壹匁、たくはふべし。自身、不快の時、せんじ用(もちゆ)るに、卽時に功ありと、いへり。

 

○「人の膏(あぶら)は、痔疾にぬりて、功、有(あり)。」

と、いへり。

「竹の筒か、瓢簞に貯へざれば、もりて、たまらず。本所囘向院裏、非人の小屋に就(つき)て求(もとむ)べし。其外、人油、功驗、多き事。」

と云(いへ)り。

[やぶちゃん注:「非人」これは、死罪人や住所不定の行路死病人等を処理する業務を請け負った被差別民である。]

 

○「澁にて張(はり)たる物、一夜、屋根に置(おき)て露氣(ろき)を受(うく)れば、澁の匂ひなく成(なる)。」

と、いへり。

 「おはぐろ」の匂ひも、同じく去るべし。

 

○薪(たきぎ)をば、竃(へつつい)の上に釣置(つりおく)樣(やう)構ふべし。早く、かはき安きがためなり。

 

○夏は、硯の墨を、すりためて置(おく)べからず。夜をこゆる時は、溫氣にて、くされやすし。筆のうちつけたる所、おほくは、にじみて、見ぐるし。

 

○鼻毛をぬくには、「しんちう」の毛ぬきを用べし、鐵は、さびやすし。

 

○小兒の「つふり」をそる剃刀とて、近來(ちかごろ)、上方より造りて下す。刄(は)のなかば、くりたるやうに、へこみて有(あり)。小兒、ねむりたる時、「つぶり」を剃(そる)に、痛まず、驚(おどろく)事、なし。

 

○せんぢか切れにて、「つぶり」より、耳の隱るゝまで、頭串(かしらぐし)を製し、暴風の日、出行(いでゆく)に、かぶりて、塵(ちり)を、さくべし。

[やぶちゃん注:「せんぢか」不詳。「せんぢが」で、「せんぢ」はブリキの異名として江戸時代に知られていたが、それか。ブリキのヘッド・キャップなら、暴風の中を行くのに、安全ではある。]

 

○鏡一面、懷中して、夜陰、辻に立(たち)、往來の人の言葉を聞(きき)て、吉凶をうらなひ定(さだむ)事、有(あり)。櫛を引(ひき)て問(とふ)に、同じ。

[やぶちゃん注:前者は明らかに「辻占」(つじうら)の古形として知られたものである。辻は運命共同体である「村」の異界に通じる「端」(はし)に当たり、四方から、異なった異界へ通ずる呪的境界であり、霊的な場所であったのである。

「櫛を引て問」これは「櫛占」(くしうら)と言い、民俗社会で、女・子どもが行なった占いの一つ。黄楊(つげ)の櫛を持って辻に立ち、「あふことをとふや夕げのうらまさにつげの小櫛もしるし見せなむ」という古歌を、三度、唱え、境を区切って、米を撒き、櫛の歯を鳴らし、その境界内に来た通行人の会話や独り言を聴いて吉凶を占ったものであり、「辻占」の一種。]

譚 海 卷之十三 血どめのまじなひの事 船駕にゑはざるまじなひの事 舟の醉を治する事(二条) むしばまじなひの事 はなぢまじなひの事

○血止(ちどめ)の「まじなひ」は、紙を、三つに折(をり)、又、夫(それ)を、三つに折(をり)て、血の出(いづ)る所を、押(おさ)ふべし。卽時に、血、とまる事、妙也。

 

○舟・駕籠に醉はざる「まじなひ」、乘(のら)んとする人の座する所に、指にて、「賦」の字を書(かき)て、「點(てん)」を、うたず、その人を坐(ざ)せしめ置(おき)て、「點」を、その人の「ひたひ」に、うつべし。ゑふ事、なし。

[やぶちゃん注:別な類似の対応の咒(まじな)い法が、「耳囊 卷之十 船駕に不醉奇呪の事」に載る。]

 

○舟に醉(ゑひ)たる時、「いわう」を、少し、なめて、よし。「いわう」なき時は、付本(つけぎ)の先を、なむべし。立所(たちどころ)に直(なほ)る事、妙也。

 

○蟲齒の「まじなひ」、紙を三十二に折(をり)て、「蟲」といふ字を書(かき)て、釘にて、ひとつ、ひとつ、うちて、柱の「われめ」に、はさむべし。

 

○鼻血出(いで)て、留(とま)らざるを、まじなふには、その人に對坐し、指にて、

「難波津に さくや此花 冬ごもり」

と云(いふ)歌を、鼻へ書(かき)て、「とまり」の、

「冬ごもり」

の「り」の字を、「理」の字に書(かく)べし。とまる事、妙也。下の句を書(かく)に及ばず。

譚 海 卷之十三 八木とくの事 品川海苔・日光海苔幷生のり事 蓴菜をふやす方の事 またゝびせん氣を治する事 ほんだらの事 しだの葉はの痛を治する事 はこべくらふべき事 山椒眼の出來物を治する事 藤ばかま臭氣を除く事 ふくべ便器に作る事 眼鏡くもりをみがく事 舌をくひて血出るを治する事 山城國八はた竹の事 日光山杖の事 野生黃菊便祕によき事 木うりみそ漬の事 白つゝじの花腫物を治する事 足の腫物を治する事

[やぶちゃん注:「目錄」の「山藥」は「サンヤク」で「山芋」の漢方名である。「かんぴう」はママ。]

 

○「八木とく」と云(いふ)もの、相州三浦海邊より出(いづ)る。奇怪成(なる)形也。

「多葉粉の葉を去(さり)たる跡の「しん」のごとく、又、「疊いはし」を網(あみ)たる物の如し。紅花の色にして、一、二尺より、三尺に及ぶ物、有(あり)。」

と、いへり。

 海底に生ずる物にして、食物の用、なし。只(ただ)、席上に置(おき)て翫(もてあそぶ)べし。

 時々、漁網にかかりて、取得(とりえ)れども、損じ安し。

「全形の物を取(とる)には、水を、くゞり入(いり)て、取る。」

と、いへり。

 水中にては、甚(はなはだ)、柔か也。水を、はなるゝときは、かたまりて、鐵鎖(てつぐさり)の如し。根は、石を帶(おび)て有(ある)也。

[やぶちゃん注: 「八木とく」叙述と「やぎ」から、これは、刺胞動物門花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目Gorgonaceaの海産動物の古い総称であろう。個虫は羽状突起のある八本の触手と、八枚の隔膜とを持つ。総て群体となり、群体の中心に角質、或いは、それに石灰質を膠着した骨軸を保持し、下端で、岩礁などに固着することによって八放サンゴ類のほかの目から区別される。十八科約百二十属に属する多くの種が知られ、やや高緯度地方にも少数のものが棲息するが、殆んどの種は暖海の潮間帯より一千メートルの深海にまで分布する。特にインド洋から西太平洋と西インド諸島の熱帯海域に多い。群体は一般に平面的な樹枝状分岐をし、扇状となるが、なかには、全く分岐をせずに鞭状となるもの、さらに膜状、或いは、葉状となるものもある。骨軸上に共肉が厚く覆い、個虫は共肉中に埋まるか、若しくは、共肉表面より突出している。個虫の胃腔は短く、共肉内に埋まり、骨軸中へは侵入しない。共肉内を骨軸に沿って走る主縦管が縦方向に個虫の胃腔を貫くほか、細い共肉内細管が網目状に走り、それぞれの胃腔を連絡する。有性生殖でできたプラヌラ幼生が岩礁に付着し、変態して一個のポリプをもったヤギとなり、それが出芽法による無性生殖で個虫を増やし、大きな群体となる。この類は骨軸の性質によって二つの亜目に分けられ、石灰質の骨片が角質様物質で膠着された骨軸をもつ骨軸亜目Scleraxoniaと、角質の薄片が層状に固着し、骨片を含まない骨軸をもつ全軸亜目Holaxoniaである。両亜目とも、共肉部は多くの骨片を含み、皮部とよばれる。骨軸亜目には、骨軸が一続きで節がないウスカワヤギ科・ヒラヤギ科・サンゴ科などがあり、骨軸に節部と間節部が交互にあるイソバナ科・トクサモドキ科などがある。一方、全軸亜目には、骨軸に節がなく、骨軸がほとんど石灰化されず弾力のあるトゲヤギ科・フタヤギ科・フトヤギ科などがあり、骨軸に節がなく、強く石灰化するために弾力性のない骨軸をもつムチヤギ科・キンヤギ科・オオキンヤギ科などがあり、骨軸に節部と間節部が交互にあるトクサヤギ科がある。以上はネットの小学館「日本大百科全書」の「ヤギ(腔腸動物)」に拠ったが、そこに四種の画像があり、その中でも、本条は「紅花の色」と述べていることから、赤みがかったオレンジ色となると、ヤギ目ではない、花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目石軸亜目イソバナ科イソバナ属オオイソバナ Melithaea ochraceaや、ウミトサカ目角軸亜目トゲヤギ科ウミウチワ属ウミウチワ Anthogorgia bocki などが候補になるように私には思われる。]

 

○「品川海苔」は、寒中に取(とり)て製したる、匂ひ、殊にはげしくして、賞翫に堪(たへ)たり。

 又、「駿州ふじのり」、一種、珍物也。吸物に調ずべし。

 日光山大谷川(だいやがは)より出(いづ)る「川海苔」と稱するもの、殊に匂ひはげし、絕品也といへども、久しく保ちがたし。疊一枚の大さ程に造りたる物にて、色は「伊勢のり」の如く靑し。然して、その味は「淺草のり」の如し。總じて、生のりを調じ遣ふには、先(まづ)、器物(うつはもの)に入(いれ)て、「あくた」を、さり、數へん、淸く、洗ひ、後(のち)、酒に、ときて用ゆる也。

[やぶちゃん注:「品川海苔」「淺草のり」と同一。「品川歴史館」の解説シート「品川の海苔」PDF)によれば、『浅草海苔の名が生まれたのは慶長年間』(一六一四年~一五九六年)『と言われ、続いて品川海苔の名称が有名になった』。『海苔の大量生産が可能になったのは、品川の漁業者が養殖方法を発明し、それが各地に伝わったからである。初めは各地方とも生産地名で売り出したが、浅草海苔の名に押されて伸び悩み、次第に商いの上から有利である、「浅草海海苔」の名で売り出すようになっていった』。『なお、「浅草海苔」の由来については、①品川・大森で採れた海苔を浅草に持って行って製したから、②浅草川(現隅田川)で採れたから、③大森の野口六郎左衛門が、浅草紙の作り方をまねて工夫をこらし、乾海苔を作り、これを浅草海苔と名付けたかから、といった諸説がある』とあった。本来の使われていたのは、紅色植物門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属アサクサノリ Neopyropia tenera であったが、同種は東京湾では絶滅したと考えられたいが、近年、多摩川の河口近くで残存個体群が発見されて、保護が行われている。

「駿州ふじのり」「川海苔」所謂、「川海苔」(かわのり)で、淡水河川に棲息する、緑藻植物門トレボウクシア藻綱カワノリ目カワノリ科カワノリ属 Prasiola(タイプ種はカワノリ Prasiola japonica当該ウィキによれば、岐阜県・栃木県・熊本県などの河川に棲息し、日本海側の河川からは発見されていない。渓流の岩石に着生して生活するが、棲息数は少なく、本邦では絶滅危惧種に指定されている)の一種。ウィキの「富士苔」によれば、『静岡県富士宮市に生息するもの』「芝川のり」『とも呼称される』。『芝川が生息域である』(ここ。グーグル・マップ・データ)。『古くは「富士海苔」・「富士苔」・「富士のり」と表記し「ふじのり」と呼称される例が多く、近世に入るとこれらの他に「芝川海苔」・「芝川苔」と表記し「しばかわのり」と呼称される例が見られる』。『古くより天皇・幕府への献上品として、そして公家からも嗜まれた名品であり、しばしば進上品として用いられてきた。例えば駿河国守護である今川範政は室町幕府将軍足利義教へ富士苔を送り、礼として太刀を送られている』。『富士氏は管領細川持之へ富士海苔等を献上している』。『葛山氏も足利義教に富士苔を送り、返書を受けている』。『当記録が所載される』「昔御内書符案」には『「若公様御誕生御礼」とあり、この進上品は将軍足利義教の子である足利義勝の誕生祝に伴う進上であった』。また、『公家に送られることも多く』、『三条西実隆』『や山科言継』『等に送られた記録が残る。また天皇への進上品としても選ばれ、三条西実隆が後奈良天皇に進上している』。『近世になっても名品の地位は揺るがず、江戸幕府への献上品として用いられた。天保』一四(一八四三)年の「駿国雑志」『十八之巻には「芝河苔」とあり、「富士郡半野村芝河より出す(中略)毎年十一、十二月の内発足、江戸に献す。世に富士苔と云ふ是也。(中略)宿次にて江戸に送り、御本丸御臺所に献す」「富士郡半野村芝川より出づ、故に富士苔と號す」とあり、江戸幕府へと献上されていた記録が残る。また同記録には「富士郡半野村、芝川にあり。故に芝川海苔と號す。其色緑にして味至て甘し』……『」と味を伝える』。「料理物語」には『「ふじのり」とあり、「ひや汁 あぶりざかな 色あをし」と説明がある』。『毛吹草』(寛永二一・正保元・二(一六四五)年)『には「富士苔 山中谷川二有之」とある。貝原益軒』の「大和本草」(宝永六(一七〇九)年)『には「富士山の麓柴川に柴川苔あり富士のりとも云」とあり』(私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 川苔(かはのり) (カワノリ・スイゼンジノリ)」を参照されたい)、『同じく貝原益軒』の「壬申紀行」『には「柴川は名所なり(中略)此川に富士苔と云物多し」とあ』り、「献上料理集」(天明六(一七八六)年)『には秋の料理として「御精進二ノ汁 御澄し 初たけ 富士海苔 ゆ(柚)」とある』。「駿河雑志」では『十一・十二月』とあり、「献上料理集」『では秋の料理として挙げられているため、秋冬が特に良いとされていたようである。その他、多くの書物に名物として記されている』。「和漢三才図会」巻九十七の『水草の部には「駿河国土産」として「富士苔」とあり、また同書に「富士苔 富士山の麓、精進川村より之を出し、形状紫菜に似て青緑色、味極めて美なり」とある』(私の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類   寺島良安」の「紫菜 あまのり」の附録の「富士苔」を見られたい。そこでは逐一、私が海苔類を詳注してある)。『このように、駿河国の土産品としても知られていたようであり、東泉院(富士市今泉に所在していた)の土産としても用いられていた』。文政三(一八二〇)年の「駿河記」『には「この川より水苔を出す 富士苔あるいは芝川苔と称す」とある』。『現在は収穫量が限られており』、『特に水力発電所の建設が大きな影響を与えた』。『近年「幻のカワノリ」とまで言われるまでに減少していたが』一九九八年『に特定の場所で多量に生育していることが確認され、調査が進められることとな』り、『今現在、芝川のりの保護・育成が図られている』とあった。

「日光山大谷川」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「伊勢のり」伊勢国で産出する海苔であるが、現在、三重漁連がアサクサノリをブランド化して、かく呼称している。]

 

○「じゆんさい」、池、あらば、うえ[やぶちゃん注:ママ。]置(おき)て生ずべし。一、二本、池へ植(うゑ)るときは、年々、はびこりて、羹(あつもの)に用るほどは出來(いでく)る也。敢て古池にかぎらず。

[やぶちゃん注: 「じゆんさい」「蓴菜」。多年生水生植物である双子葉植物綱スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ Brasenia schreberi 。私の大好物である。「大和本草卷之八 草之四 水草類 蓴 (ジュンサイ)」を見られたい。]

 

○「またゝび」の實を煎じて、疝氣(せんき)・腰痛に用れば、よく治る也。

[やぶちゃん注:「またゝび」藤天蓼。ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama当該ウィキによれば、『蕾にマタタビミタマバエまたはマタタビアブラムシが寄生して』形成された虫瘤(むしこぶ:虫癭(ちゅうえい))に『なったものは』「木天蓼」(モクテンリョウ)又は「木天蓼子」(モクテンリョウシ)という『生薬』とされ、『鎮痛、保温(冷え性)、強壮、神経痛、リウマチ、腰痛などに効果があるとされる』とある。

「疝氣」大腸・小腸・生殖器などの下腹部の内臓が痛む疾患を広く指す。]

 

○「ほんだはら」、吸物に調ずべし。梅干抔(など)、加へて、精進に、よし。

[やぶちゃん注:私の「大和本草諸品圖上 ヒヱ藻(モ) (ホンダワラ属)」の私の注を参照されたい。]

 

○「しだ」の葉を收め置(おき)て、齒の痛むとき、煎じて、あらふべし。又、切(せつ)に、つゝみて、ふくみふくみ、唾(つば)を吐出(はきいだ)すべし。

 

○「はこべ」、又、ひたし物にすべし。よく、にて、用(もちい)ざれば、靑き匂ひ、うせず。

[やぶちゃん注:ナデシコ目ナデシコ科ハコベ属Stellariaの内、食用となる、一般に「ハコベ」(繁縷・蘩蔞)と呼ばれるコハコベ Stellaria media ・ミドリハコベ Stellaria neglecta ・ウシハコベ Stellaria aquatica などの葉。ほろ苦い野趣に富んだもので、私は好きだ。]

 

○山椒の實、「まぶた」に出來(でき)たる「物もらへ」と稱する出來物(できもの)を治す。宵に、五粒、丸のまゝにて、飮(のん)で寢(ねる)時は、翌朝、出來もの、うする也。

 

○藤ばかまの葉、雪隱に釣(つり)て臭氣を避(さく)べし。久敷(ひさしく)して、しほれかゝる時は、取りかへて懸(かく)べし。

 

○「ふくべ」、柄を木にて造り、便器にすべし。人の膚(はだへ)にさはる所、柔かにして、「しびん」にまさる事、萬々(ばんばん)也。

 

○「たばこ」の葉にて、眼がねを、ぬぐふべし。くもりとれて、明(あきらか)也。

 

○舌を、くひて、血の出(いづ)るには、何の草にても、三色(みいろ)を取(とり)かみて、口中に含せれば、血、すなはち、とまる也。

[やぶちゃん注:「何の草にても」乱暴で、毒草もあるから、試すべきではない。]

 

○山州の「八幡山竹(やはたやまだけ)」は、脇指の目釘によし。皆、此物也。

[やぶちゃん注:「八幡山」石清水八幡宮がある京都府八幡市北部にある男山(おとこやま:グーグル・マップ・データ)の異名。古くから、ここの産の竹は茶杓にも用いられている。]

 

○日光山より出す「みねばり」と云(いふ)杖(つゑ)、殊に堅固也。おるゝ事、なし。求めて用ゆべし。老人には缺(かく)べからざるもの也。

[やぶちゃん注:「みねばり」ブナ目カバノキ科カバノキ属オノオレカンバ Betula schmidtii の異名。満州・韓国・ロシア極東の沿海地方及び日本を原産とする。ほぼ黒色の樹皮を持つ高さ三十メートルにも達する巨木で、その材は浮き上がらないほど緻密にして、しかも丈夫で耐久性のある材料が求められるものに使用される。]

 

○野生の黃菊有(あり)。花、至(いたつ)てこまかなるもの也。花を取(とり)て、胡麻の油に、たくはふべし。大便、けつし[やぶちゃん注:「結し」。]、通じがたきとき、此油を、一滴、なむれば、よきほどに通る也。此葉・花とも、油にひたし置(おき)て、髮をすくときは、頭の「ふけ」を、さる也。

 

○木瓜(ぼけ)を、「みそ」にてくふも、大便を通ずる也。蔭干にして貯(たくはふ)れば、冬月の用にも備ふべし。

 

○白花のつゝじ、俗に「りうきう」と稱す。花を集(あつめ)て、目形(めかた)壹匁、貯ふべし。名のしれぬ出來(でき)ものを、せんじ、洗ふに、功、あり。

[やぶちゃん注: ツツジ目ツツジ科ツツジ属交雑種リュウキュウツツジ Rhododendron × mucronatum。何故、「琉球躑躅」なのかは、判然としない。]

 

○足、靑くはれる事、有(あり)。腫(はれ)たる足の入(いれ)らるゝ程に、地をほりて、穴を、こしらへ、穴の中へ、藁を、いくらも入(いれ)て、火を燒(やき)て、穴のうち、あたゝまりたるとき、藁灰を、殘らず、取出(とりいだ)し、捨(すて)、その跡へ、桃の靑葉を、澤山に取(とり)て入(いる)。扨(さて)、腫たる足を、穴へ入(いれ)、足の際(きは)をも、「桃のは」にて、よく、つめて、穴の側(かたはら)に莚(むしろ)を敷(しき)、片足、かしこまりゐて、一時(いつとき)近く、足を、火氣に蒸れて居(を)る也。如ㇾ此すれば、足の靑く腫たる、治する也。

 

○血止(ちどめ)の「まじなひ」は、紙を、三つに折(をり)、又、夫(それ)を、三つに折(をり)て、血の出(いづ)る所を、押(おさ)ふべし。卽時に、血、とまる事、妙也。

譚 海 卷之十三 葛もち加減の事 ところの粉の事 薩州そてつ餅の事 かたくりの事 山藥幷長いもの事 ねり柹うゑを助くる事 竹の實もちとなす事 そば飯の事 麥湯の事 胡椒にむれたるを治する事 餅のんどへつまりたるを治する事 五辛をくひて口氣のくさきを去方の事 からしねる事 鰹節けづる事 かんぴうこしらへの事 れいしの事

[やぶちゃん注:「目錄」の「山藥」は「サンヤク」で「山芋」の漢方名である。「かんぴう」はママ。]

 

○葛餅をねるには、茶碗に、葛の粉一盃、水三盃にて、よく出來る也。おほく拵(こしらへ)るも、此加減にすべし。

 

○天明七年、初(はじめ)て、「ところ」の根を製して、葛の如く用(もちゆ)る事を始(はじめ)たり。上・中・下、三品、有(あり)、上品の物は、葛の粉(こ)に、かはる事、なし。今年、飢饉に付(つき)て、常人、官ヘ訴へ、製法を弘(ひろ)く傳授する事也。

[やぶちゃん注:「ところ」ここは広義のヤマイモ類を指す。]

 

○薩摩に「蘇鐵餅」といふもの有(あり)。其國、そてつ樹、多き故、その實を取(とり)て製したるもの也。

「餅一つを、くふ時は、一日の食に當(あた)る。」

と、いへり。その家にては、

「兵粮(ひやうらう)に、たくはへ、三年に一度、取(とり)かふ事。」

とぞ。そてつの實、樹の「しん」の「きは」に有(あり)、「しん」を、ひらけば、ことごとく、實、付(つき)て有。

[やぶちゃん注:「そてつ樹」裸子植物上綱ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta 。但し、同種は幹や種子には多くのデンプンが貯留しているが、同時に有毒なサイカシン(cycasin)やL-アラニン誘導体であるβ-メチルアミノ-L-アラニン(=BMAA)を含むため、何度も水にさらして、それらを分離除去しなくてはならず、除去が不完全だと、死に至る。実際に琉球では、救荒食として古くからあったが、その処理の不備で、有意に多くの人々が亡くなり、「ソテツ地獄」と呼ばれた過去がある。]

 

○「かたくり」、腹瀉(はらくだし)を、能(よく)、治す。茶碗の内にて、「そばこ」をねる如くすれば、能(よく)、かたまり、出來(いできた)る也。砂糖を、くはへて、用ゆ。腹瀉を治するには、葛餅も又、よろし。

 

○山藥(さんやく/やまいも)を燒(やき)て服すれば、又、能、飢(うゑ)を、たすく。外の野菜は久敷(ひさしく)服すれば、なづむものなれども、「長いも」は、日日(ひび)服して、なづむ事、なし。

「燒たるは、殊に、よし。」

と、いへり。

 「長いも」を。水にて洗ひたるまゝ、紙に包(つつみ)て、あたゝか成(なる)灰の中に埋(うづ)め、上より、火にて蒸(むす)べし。熟して後(のち)、灰の中より取出(とりいだ)し、紙を、さり、燒鹽(やきじほ)にて、もちゆ。食(しよく)に、かふべし。

[やぶちゃん注:「山藥」「長いも」は、この場合は食用になる広義のヤマイモ類(分類学的には単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea に属する種の内の有毒種でない種となるが、有毒種でも適切な処理すれば、食用にしうる種もある)を指す。

「食」主食。]

 

○ねり柹、又、飢(うゑ)を助(たすく)るには、比類なきものの、よし。

「朽腹[やぶちゃん注:底本では「朽」の右に補正注があり、『(空)』とある。「すきはら」。空きっ腹(ぱら)。]に成(なり)たる時、壹つ、二つ、くへば、半日、食を思ふ事なし。」

とぞ。

 

○「竹に生(おい)たる實を粉(こ)にして、團子に、つくり、くふべし。飢饉には、『とちのみ』と、ならびて、功あり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「竹に生たる實」先行する「竹の實の事」の本文及び私の注を参照されたい。]

 

○蕎麥(そば)を「から」を脫(はが)し、丸のまゝにて、飯に焚(たき)て、服す。せうゆ[やぶちゃん注:ママ。「醬油」の歴史的仮名遣は「しやうゆ」が正しい。]の汁にて、そば切(ぎり)のごとく用ゆ。一品(いつぴん)異成(いなる)もの也。

 

○麥を、丸のまゝにて、いり、湯に入(いれ)て、「麥茶」と稱し、用ゆ。

 「うこぎ」の葉ばかりをも、ほし、かはかして、茶に用ゆべし。

[やぶちゃん注:「うこぎ」バラ亜綱セリ目ウコギ科ウコギ属 Eleutherococcus は多くの種があるが、本邦に広く植生するのはウコギ属ヤマウコギ変種ヤマウコギ Eleutherococcus spinosus var. spinosusである。ウィキの「ヤマウコギ」によれば、北海道と本州に植生するという説以外に、岩手県以南の本州と四国に広く分布するという説がある、とある。]

 

○胡椒の粉にむせたるは、打捨置(うちすておけ)ば死に至る也。胡麻の油を、一雫、飮(のむ)時は、立(たち)どころに治する也。

 

○餅を、くひて、のどへつまり迷惑するには、「おはぐろ」の水、少しばかり、のむべし。そのまゝ吐逆(とぎやく)して治する也。

 

○葱・「にんにく」の類を食して、口氣(こうき)、くさきには、飴を、一つ、くひて、水一ぱい飮(のむ)時は、口氣、うする也。又、「なんてん」の葉を、せんじて、その湯を飮(のむ)ときは、くさみ、うすると、いへり。

 

○「からし」の粉をねるには、水にて、かたく、ねり、其上へ、紙を、おほひ、ゆを一ぱい、つぎ、その湯へ、炭火を、いくつも落して、扨(さて)、湯をも、炭をも、捨去(すてさ)て、その「からし」のまゝ、器を、盆に移しおくべし。よく、からしの氣を生ずる也。

 

○鰹節、細(こまか)に、けづらんとならば、瀨戶物の、かけたるを求(もとめ)て、そのわれたる角(かど)ある所にて、けづるべし。

 

○「かんぴやう」を拵(こしらへ)るは、夕顏の實を、輪切にして、右の手に「ゆふがほ」をもち、左の手に、小刀を、あてたるばかりにて、右の手を、まはしまはしして、むく也。左を動(うごか)すときは、「かんぴやう」、厚薄(こうはく)、出來て、あしく、小刀は、かみそりを、ひらめて拵ると、いへり。

 すべて、柹をむくも、左の手、うごかすべからず。

 

○「れいし」、器に、たくはへて、茶菓子に供すべし。龍眼肉よりは、肉、多くして、よろし。

 嶺南の「橘皮(きつぴ)」といふもの、蜂蜜に漬(つけ)たる有(あり)、小口より切(きり)て、菓子に用ゆ。皆、佳品なり。

[やぶちゃん注:「れいし」「茘枝」。中国の嶺南地方原産の双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis の果実は、表面は皮革で、赤い鱗状の棘を持つ(新鮮な物ほど、棘が鋭い)。レイシの実は夏に熟し、その果皮を剝くと、白色半透明の多汁果肉(正しくは仮種皮(種子の表面を覆っている付属物)であって、狭義の意味での「果肉」ではない)があって高級な果物とする。

「嶺南」は中国の南部の「五嶺」(南嶺山脈)よりも南の地方を指す。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当する。部分的には「華南」と重なっている地域がある。参照した当該ウィキ地図を見られたい。

「橘皮」(キッピ)はミカン科のタチバナやウンシュウミカンなどの成熟果実の果皮を乾燥したもので、漢方では、理気・健脾・化痰の効能があり、消化不良による腹の張りや、吐き気、痰多くして胸が苦しい際に用いられる。]

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(2)

 

   薄紙にひかりをもらす牡丹かな 急 候

 

 子規居士の『牡丹句錄』の中に「薄樣に花包みある牡丹かな」といふ句があつた。これも同じやうな場合の句であらう。「ひかり」といふのは赫奕たる牡丹の形容で、同じく子規居士に「一輪の牡丹かゞやく病間かな」といふ句があり、また「いたつきに病みふせるわが枕邊に牡丹の花のい照りかゞやく」「くれなゐの光をはなつから草の牡丹の花は花のおほぎみ」などといふ歌もある。牡丹に「ひかり」といふ强い形容詞を用ゐたのは、この時代の句として注目に値するけれども、薄紙を隔てゝ「ひかりをもらす」などは頗る弱い言葉で、豐麗なる牡丹の姿に適せぬ憾みが無いでもない。「い照りかゞやく」にしろ、「光を放つ」にしろ、その形容の積極的に强い點から云へば、遙にこの句にまさつてゐる。

 尤もかういふ言葉の側から云ふと、元祿の句が稍〻力の乏しいのは、必ずしもこの句に限つたわけではない。牡丹に雨雲を配した

 

   雨雲のしばらくさます牡丹かな 白 獅

   方百里雨雲よせぬ牡丹かな 蕪 村

   雨雲の下りてはつゝむ牡丹かな 虛 子

 

の三句について見ても、言葉は蕪村の「方百里」が一番强い。しかして曲折の點から云へば、元祿の句は竟に大正に如かぬやうな氣がする。蓋し長所のこゝに存せぬためであらう。

[やぶちゃん注:因みに、サイト「増殖する俳句歳時記」のこちらで、松下育男氏の評があり、岩波文庫の本条をもとにこの句を紹介されつつ、そこでは、

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]柴田宵曲は『古句を観る』の中で、この句について次のように解説しています。「牡丹に「ひかり」という強い形容詞を用いたのは、この時代の句として注目に値するけれども、薄紙を隔てて「ひかりをもらす」などは頗る弱い言葉で、華麗なる牡丹の姿に適せぬ憾(うらみ)がないでもない。」なるほど、これだけ自信たっぷりに解説されると、そのようなものかといったんは納得させられます。ただ、軟弱な感性を持ったわたしなどには、むしろ「ひかりをもらす」と、わざわざひらがなで書かれたこのやわらかな動きに、ぐっときてしまうのです。薄紙を通した光を描くとは、江戸期の叙情もすでに、微細な感性に充分触れていたようです。華麗さで「花の王」とまで言われている牡丹であるからこそ、その隣に「薄さ」「弱さ」を置けば、いっそうその気品が際立つというものです。いえ、内に弱さを秘めていない華麗さなど、ありえないのではないかとも思えるのです。句中の「ひかり」が、句を読むものの顔を、うすく照らすようです。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

私は、それほど大振りの牡丹の花が実は好きではないが、松下氏の感想は、宵曲の評よりも遙かに共感を感じることを一言述べておく。

「赫奕たる」「かくやくたる」或いは「かくえきたる」と読み、光り輝くさまを言う語。

「子規居士の『牡丹句錄』の中に「薄樣に花包みある牡丹かな」といふ句があつた」明治三二(一八九九)年六月『ホトヽギス』初出の「牡丹句錄」の句の冒頭にある。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「牡丹句録册子」(森有一編・一九四四年翠松亭刊)のここで視認出来るが、

      *

   薄樣に花包みある牡丹かな

      *

とあるものの、国立国会図書館デジタルコレクションの一九四三年大塚巧芸社刊の自筆復刻版(カラー)の当該句を見ると、

      *

   薄樣花包みある牡丹哉

      *

となっていることが、判る。補正部分は塗り潰されていて、判読出来ないが、「の」かも知れない。

『子規居士に「一輪の牡丹かゞやく病間かな」といふ句があり』同じく「牡丹句錄」所収で、前の活字本では、冒頭の「薄樣に」の後の四句目に、

      *

   一輪の牡丹かゝやく病間かな

      *

とある。「輝く」は古くは清音であった。また、前掲自筆本を見ると、

      *

   一輪の牡丹かゝやく病間哉

      *

である。

「いたつきに病みふせるわが枕邊に牡丹の花のい照りかゞやく」明治三三(一九〇〇)年四月二十五日の一首。前書がある。

      *

   左千夫より牡丹二鉢を贈り來る
   一つは紅薄くして明石潟と名づ
   け一つは色濃くして日の扉と名
   づく

 いたつきに病みふせるわが枕邊に

     牡丹の花のい照りかゞやく

      *

「くれなゐの光をはなつから草の牡丹の花は花のおほぎみ」前の一首と同じ日の三首目で、

      *

 くれなゐの光をはなつから草の

     牡丹の花は花のおほぎみ

      *

とある(短歌はブラウザの不具合を考えて上句と下句を分けた)。

「方百里雨雲よせぬ牡丹かな」「蕪村」寛政九(一七九七)年刊の発句・俳文集「新花摘」の発句の部に出る。所持する小学館『日本古典文学全集』「近世俳諧俳文集」に、

      *

   方(はう)百里雨雲よせぬぼたん哉

      *

とあり、栗山理一氏の頭注で、『安永六(一七七七)年四月十三日付の書簡には中七「雨雲尽きて」の句形になっているが、初案であろう。牡丹の背景を整えるために夏空の快晴を描いたことになる』とある。牡丹は蕪村のとりわけ好きな花であったらしく、『『新花摘』には牡丹の句が十二句ある』ともあった。

「雨雲の下りてはつゝむ牡丹かな」「虛子」大正七(一九一八)年の作。]

2024/04/12

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(1)

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