[やぶちゃん注:これは大正一三(一九二四)年五月十五日発行の月刊『日本及日本人』の四十八号初出である。国立国会図書館デジタルコレクションで、初出が視認出来る(狭いところに注のように入っているのは、南方熊楠にはちょっと可哀そうな気がしたわい)。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』「第七卷文集Ⅲ」(渋沢敬三編・一九五二年乾元社刊・正字正仮名)の当該部を視認した。]
嵯峨帝の世に出來た日本靈異記中に、蟹が報恩の爲めに蛇を殺して人を助けた話が二つ出て居る。一つは行基大德の信徒置染の臣鯛女が、山中で大蛇が大蝦蟆を食ふ處を見て、汝の妻となるから免せと云ふと蛇が蝦蟆を放つ。後ち蟹を持た老人に逢ひ衣裳を脫で贖ひ放つた。扨(さて)蛇が此女を妻らんと來た處を其蟹が切り殺したと云ふので 今一つは山城紀伊郡の女に同樣の事有つたといふ。[やぶちゃん注:句点はないが、補った。]日本法華驗記、今昔物語、元亨釋書、古今著聞集には、久世郡の女とし、是等諸書には蛇の死と蟹の苦を救ひ弔はんとて蟹滿寺を建てたとある。山州名蹟志には、此寺、相樂郡に在りと見ゆ。入江曉風氏の臺灣人生蕃物語に、卑南山腹に住む蕃人が蟹を買ふて放ちやり、又娘を蛇の妻にやるとて蛙を助命させると、蛇が五位姿の男と化けて姬を求め來るを一旦辭し返すと、二三日立て蛇の姿のまゝ來り、娘が隱れた押入の戶を尾で敲く所を多くの蟹が現はれて切殺したとある。一九〇九年板ボムパス著サンタル・パルガナス俚談に較や似た話を出す。コラと名くる男、怠惰で兄弟に追出され土を掘て蟹を親友として持あるく。樹の下に宿ると、夜叉來り襲ふを、蟹が其喉を挾み切て殺す。王之を賞して其女婿とするに、新妻の鼻孔から蛇二疋出で、睡つたコラを殺さんとするを蟹が挾み殺した。其報恩にコラ、其蟹を池に放ち每日其水に浴し相會ふたと有る。
(大正一三、五、十五、日本及日本人、四八號)
[やぶちゃん注:「日本靈異記中に、蟹が報恩の爲めに蛇を殺して人を助けた話が二つ出て居る」正式には「日本國現報善惡靈異記」で平安初期に書かれた(序と本文の記述から弘仁一三(八二二)年とする説がある)現存する最古の說話集である。著者は奈良右京の薬師寺の僧景戒。原文はかなりクセのある日本漢文である。一般には「日本靈異記」(にほんりょういき)という略称で呼ぶことが多い。熊楠の指すそれは、「中卷」の「蟹(かに)蝦(かへる)の命を贖(あが)ひて放生し、現報を得る緣第八」と、同「中卷」の「蟹と蝦との命を贖ひて放生(はうじやう)し、現報を得て、蟹に助けらるる緣第十二」である。所持する角川文庫昭和五二(一九七七)年五版の板橋倫行(ともゆき)校註「日本霊異記」を元としつつ、疑問部分は別の抄録本を参考に補正して電子化する。但し、読み易さを考え、句読点を追加し、一部の読みは推定で歴史的仮名遣で附し、段落を成形した。
*
蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報を得る緣第八
置染(おきそめ)の臣(おみ)鯛女(たひめ)は、奈良の京の富(とみ)の尼寺の上座の尼(あま)、法邇(ほふに)が女(むすめ)なりき。道心純熟(もはら)にして、初婬、犯さず[やぶちゃん注:世間の男との交渉を一切持たなかった。]。
常に、懇(ねもころ)に菜を採りて、一目も闕(か)かず、行基大德に供侍(つか)へ奉る。
山に入りて、菜を採りき。
見れば、大蛇(おほへび)の、大蝦(おほがへる)を飮めり。
大きなる蛇に誂(あと)へて[やぶちゃん注:頼み。]曰はく、
「是の蝦を、我に免(ゆる)せ。」
といふ。
免さずして、なほ、飮む。
亦、誂へて曰はく、
「我、汝が妻とならむ。故に、幸(さひはひ)に、吾に免せ。」
といふ。
大きなる蛇、聞き、高く頭を捧(あ)げて、女(をみなの面(おも)を瞻(まは)り[やぶちゃん注:じっと見つめて。]、蝦を吐きて、放ちぬ。
女、蛇に期(ちぎ)りて曰はく、
「今日より、七日を經て、來よ。」
といふ。
然して、期りし日に到り、屋(や)を閉ぢ、穴を塞ぎ、身を堅めて、内に居(を)り。
誠に期りしが如く來(きた)り、尾もて、壁を拍(う)つ。
女、恐(おそ)りて、明くる日に大德に白(まう)す。大德、生馬(いこま)の山寺にあり。告げて言はく、
「汝、免(まぬか)るること、得じ。唯、堅く、戒(いむこと)を受けよ。」
といふ。
乃(すなは)ち、三歸五戒を受持し、然して、還り來(きた)る。
道に、知らざる老人(おきな)、大蟹(おほがに)をもちて逢ふ。
問ふ。
「誰(た)が老(らう)ぞ。乞(ねが)はくは、蟹を吾に免(ゆる)せ。」
といふ。
老、答ふらく、
「我は攝津(つ[やぶちゃん注:二字への読み。])國兎原(うなひ)郡の人、畫問(ゑどひ)の邇麻呂(にまろ)なり。年、七十八にして、子息(うまご)無く、活命(わたら)ふに、便(たより)無し。難波(あには)に往きて、たまたま、この蟹を得たり。ただ、期(ちぎ)りし人、有るが故に、汝に免さじ。」
といふ。
女、衣を脫ぎて贖(あが)ふに、なほ、免可(ゆる)さず。
また裳(も)を脫ぎて贖ふに、老、乃(すなは)ち、免しつ。
然して、蟹を持ち、更に返りて、大德を勸請(くわんじやう)し、咒願(じゆぐわん)して放(はな)つ。
大德、歎じて言はく、
「貴(とふと)きかな、善きかな。」
といふ。
その八日の夜、又、蛇、來り、屋の頂(むね)に登り、草を拔きて入(い)る。
女、悚(おそ)り慄(お)づ。
ただ、床(とこ)の前に、跳(をど)り爆(はため)く音のみ、有り。
明くる日に見れば、大きなる蟹、一つ、有り。
而も、彼の大きなる蛇、條然(つたつた)に段切(き[やぶちゃん注:二字への読み。])れたり。
乃(すなは)ち、知る、贖ひ放てる蟹の、恩を報いしなり。幷(ならば)せて、戒を受くる力なることを。
虛實(まこといつはり)を知らむと欲(こ)ひ、耆老(おきな)の姓名を問へども、遂に無し。定めて委(し)る、耆(おきな)は、これ、聖(ひじり)の化(け)ならむことを。これ、奇異の事なり。
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「奈良の京の富(とみ)の尼寺」板橋氏の脚注に、『行基が天平三』(七三一)『年に大和國添下郡』(そへじものこほり)『登美村(今、奈良県生駒郡富雄村』(とみおむら:現在は奈良市富雄地区)『に立てた隆福尼院であらう。奈良の京とあるのは正確ではない』とある。確かにこの附近(グーグル・マップ・データ)で、平城京の西方の地で、「奈良の京」とは言えない。但し、現行では、この寺の旧地は明らかではない。「三歸五戒」は三宝に帰依することと、殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒(おんじゅ)の五つを禁ずる誡しめ。
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蟹蝦の命を購ひて放生し、現報を得て蟹に助けらるる緣第十二
山背國紀伊郡の部内に、一(ひとり)の女人(をみな)あり。姓名、いまだ、詳(つまびらか)ならず。天年(ひととなり)慈の心ありて、ふかく因果を信(うべな)ひ、五戒と、十善とを、受持(うけも)ちて生物(いきもの)を殺さず。
聖武天皇の代に、彼(そ)の里の牧牛(うしかひ)の村童(むらわらべ)、山川(やまかは)に、蟹を、八つ、取りて、燒き食はむとす。
この女、見て、牧牛に勸めて曰はく、
「幸(さひはひ)に願はくは、此の蟹を我れに免(ゆる)せ。」
といふ。
童男(わらべ)、辭(いな)みて、聽(ゆる)さずして曰はく、
「なほ、燒き瞰(く)はむ。」
といふ。
慇(ねむごろ)に誂(あと)へ乞ひ、衣(ころも)を脫ぎて買ふ。
童男等(わらべら)、すなはち、免(ゆる)しつ。
義禪師(ぎぜんじ)[やぶちゃん注:臨時の頼んだ禅師の意か。]を勸請(くわんじやう)し、咒願(じゆぐわん)せしめて、放生す。
然して後(のち)に、山に入りて見れば、大蛇(おほへび)の大蝦(おほかへる)を飮む。
大蛇に眺へて言はく、
「この蝦を我れに免せ。多(あまた)の帛(みてぐら)を賂(まひ)し奉らむ[やぶちゃん注:御贈与を奉りましょう。]。」
といふ。
蛇、聽(ゆる)さずして吞む。
女、幣帛を募りて、禱(の)りて曰はく、
「汝を神として祀らむ。幸に乞(ねが)はくは、我れに免せ。」
といふ。
聽さずして、なほ、飮む。
また、蛇に語りて言はく、
「此の蝦に替ふるに、吾をもちて汝が妻とせよ。故に乞はくは、我に免せ。」
といふ。
蛇、すなはち聽して、高く頭頸(くび)を棒(あ)げ、もちて、女の面を瞻(まはり)[やぶちゃん注:じっと見守り。]、蝦を吐きて放つ。
女、蛇に期(ちぎ)りて言はく、
「今日より、七日を經て、來たれ。」
といふ。
然して、父母に白(まう)して、具(つぶさ)に蛇の狀を陳(の)ぶ。
父母(ぶも)、愁へて言はく、
「汝(いまし)や、たゞ了(つひ)の一子(ひとりご)、何に誑託(くる)へる[やぶちゃん注:如何なる霊(れい)がとり憑いた。]が故に、能(よ)くせざる語(こと)をなせる。」
といふ。
時に行基大德(だいとこ)、紀伊の郡(こほり)の深長寺(ぢんちやうじ)にあり。往きて、事の狀を白す。
大德、聞きて曰はく、
「ああ、量(はか)り難き語(こと)なり。ただ、能く三寶を信(う)けむのみ。」
といふ。
敎(をしへ)を奉りて、家に歸り、期(ちぎ)りし日の夜に當り、屋(や)を閉ぢ、身を堅め、種々(しゆじゆ)、發願(ほつぎわん)して、三寶を信(う)く。
蛇、屋を繞(めぐ)りて、婉轉(ゑんてん)腹行(ふくかう)し[やぶちゃん注:腹這いになって、しなやかに動き来たって。]、尾、もちて、壁を打ち、屋の頂(むね)に登り、草を咋(く)ひて、拔き開きて、女の前に落つ。
然りといへども、蛇、女の身に就(つ)かず。
ただ、爆(はため)く音あり。
跳(をど)り䶩齧(か[やぶちゃん注:二字への読み。])むが如し。
明くる日、見れば、大蟹、八つ、集(あつま)り、その蛇、條然𢶨段(つたつた)に切らる。
すなはち、知る、贖(あが)ひ放ちし蟹の、恩に報いしことを。
悟無(さとりな)き蟲だに、なほ恩を受くれば、返りて、恩に報ゆ。あに、人にして恩を忘るべしや。
これより已後(のち[やぶちゃん注:二字への読み。])、山背の國にして、山川の大蟹を貴(たふと)み、善を爲して放生するたり。
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この「紀伊の郡の深長寺」は不詳。板橋氏の脚注に、『大秦廣隆寺の末寺に紀伊郡の法長寺が見え、深草寺ともいつたと見える。その寺か』とある。
「日本法華驗記」正しくは「大日本國法華驗記」(通称・異名は複数あり)。平安中期に書かれた仏教説話集。著者は比叡山の僧鎮源(伝不詳)。本文は変体日本漢文で拙い。これは同書の「下卷」の「第百廿三 山城國久世郡(くせのこほり)の女人」である。私は岩波書店の『日本思想体系新装版』の『続・日本仏教の思想――1』の「往生伝 法華験記」(注解・井上光貞/大曾根章介・一九九五年刊)を所持するが、漢字が新字であるので、恣意的に正字化して以下に示す。読点・記号・会話記号(改行)・読みの一部を推定して歴史的仮名遣で追加し、段落を成形した(底本も四段から成る)。
*
第百廿三 山城國久世郡の女人
山城國久世郡に一の女人あり。年七歲より、「法華經觀音品」を誦して、每月(つきごと)の十八日に持齋して、觀音を念じ奉れり。十二歲に至りて、「法華經」一部を讀めり。深く善心ありて、一切を慈悲す。
人ありて、蟹を捕へて、持ち行く。この女(むすめ)、問ひて云はく、
「何の料(れう)に充てむがために、この蟹は特ち行くぞ。」
といふ。答へて曰く、
「食(じき)に宛てむがためなり。」
といふ。女の言はく、
「この蟹、我に與へよ。我が家に、死にたる魚、多し。この蟹の代(しろ)に、汝に與へむ。」
と、いへり。
卽ち、この蟹を得て、憐愍(れんみん)の心をもて、河の中に放ち入れり。
その女人の父の翁(おきな)、田畠を耕作せり。
一(いつ)の毒蛇あり、蝦蟇(かへる)を追ひ來りて、卽ち、これを吞まむ、と、せり。
翁、不意(おもはず)して[やぶちゃん注:うっかりと。]曰く、
「汝、蛇、當(まさ)に蝦蟇を免(ゆる)すべし。もし、免し捨つれば、汝をもて聟(もこ)とせむ。」
と、いへり。
蛇、このことを聞きて、頭(かしら)を擧げて、翁の面(おもて)を見、蝦蟇を吐き捨てて、還り走り、去りぬ。
翁、後の時に、思念(おも[やぶちゃん注:二字へのルビ。])へらく、
『我、無益(むやく)の語(こと)を作(な)せり。この蛇、我を見て、蝦蟇を捨てて去りぬ。』
と、おもへり。
心に歎き憂ふることを生じて、家に還りて食(じき)せずして、愁ひ歎げる形にて居(ゐ)たり。
妻、及び、女(むすめ)の云はく、
「何等(なんら)のことに依りて、食せずして歎き居るぞや。」
といふ。
翁、本緣(ほんえん)[やぶちゃん注:この嘆きの原因。]を說(と)けり。
女の言はく、
「ただ早く食せられよ。歎息の念なかれ。」
と、いへり。
翁、女の語に依りて、卽ち、食を用ゐ、了(を)へり。
初夜[やぶちゃん注:現在の午後八時から九時頃。]の時に臨みて、門を叩く人、あり。
翁、
『この蛇の、來れり。』
と知りて、女(むすめ)に語るに、女の言はく、
「三日を過ぎて、來(きた)れ。約束を作(な)すべし。」
と、いへり。
翁、門を開きて見れば、五位の形[やぶちゃん注:頭注に『緋衣を着ている』とある。]なる人の云はく、
「今朝(けさ)の語(こと)に依りて、參り來れるところなり。」
といふ。
翁の云はく、
「三日を過ぎて來り坐(ましま)すべし。」
と、いへり。
蛇、卽ち、還り了(を)へぬ。
この女(むすめ)、厚き板をもて、藏代(くらしろ)[やぶちゃん注:臨時に即製した蔵様(よう)のもの。]を造らしめて、極めて堅固ならしむ。
その日の夕(ゆふべ)に臨みて、藏代に入り居(ゐ)て、門を閉ぢて籠り畢(を)へぬ。
初夜の時に至りて、前(さき)の五位、來れり。門を開きて、入り來り、女の藏代に籠りたるを見て、忿(いか)り恨める心を生(おこ)し、本(もと)の蛇の形を現じて、藏代を圍み卷き、尾をもて、これを叩く。
父母(ぶも)、大きに驚怖せり。
夜半(よなか)の時に至りて、蛇の尾の、叩く音、聞えず。
ただ、蛇の鳴く音(こゑ)のみ、聞ゆ。
その後、また、聞えず。
明朝に及びて、これを見れば、大きなる蟹を上首として、千萬の蟹、集りて、この蛇を螫(さ)し殺せり。諸(もろもろ)の蟹、皆、還り去りぬ。
女、顏の色、鮮白にして[やぶちゃん注:まことに白く美しくして。]、門を開きて出(いで)て來り、父母に語りて云はく、
「我、通夜、「觀音經」を誦するに、一尺計(ばかり)の觀音、告げて言はく、『汝、怖畏することなかれ。當(まさ)に『蚖蛇及蝮蝎(ぐわんじやふくかつ)、氣毒煙火燃(けどくえんくわねん)』等の文(もん)を誦すべし。』と、のたまふ。我、妙法・觀音の威力(ゐりき)に依りて、この害を免(まぬか)るることを得たり。」
と、いへり。
この蛇の死骸(しにかばね)を、この地に穿(うが)ち埋(うづ)みて、蛇の苦、及び、多くの蟹の罪苦を救はむがために、その地に寺を建(たて)て、佛を造り、經を寫して、供養恭敬(くぎやう)せり。
その寺を「蟹滿多寺(かにまたでら)」と名づけて、今にありて、失(う)せず。時の人、ただ、「紙幡寺(かみはたでら)」と云ひて、本の名を稱(い)はず。
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「蚖蛇及蝮蝎、氣毒煙火燃」「觀世音菩薩普門品」の「偈」。次に「念彼觀音力(ねんぴかんおんりき) 尋聲自剋去(じんしやうじえこ)」とあり、これで、『蚖(毒蛇の一種)や蛇、及び蝮(マムシ)と蝎(サソリ)の気の毒気が、煙火の如く燃えようとも、かの観音力を念じれば、声に続いて、自(おのずか)ら帰り去る。』の意。「蟹滿多寺」底本の頭注に『京都府相楽郡山城町にある。その地域は』「和名抄」『の山城国相楽郡蟹幡(加無波太)郷にあたる』「山城名勝志」『に「今有二小堂一宇一、号二光明山懺悔堂一本尊觀音立像、又有二釋迦之像一」と記す。釈迦像は白鳳時代のもの』とある。ある、とするのは、京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗智山派普門山蟹満寺(かにまんじ)のこと。本尊は釈迦如来。詳しくは当該ウィキを見られたい。
「今昔物語」「今昔物語集」の「卷第十六」の「山城國女人依觀音助遁蛇難語第十六」を指す。所持する小学館『日本古典文学全集』第二十二巻「今昔物語集 二」を参考に、前と同じ仕儀で示す。カタカナはひらがなにし、また、特に読みを減ずるために、読みの一部を多く送り仮名に出した。
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山城の國の女人(によにん)觀音の助けに依りて蛇(へみ)の難を遁(のが)るる語(こと)第十六
今は昔、山城の國、久世(くぜ)の郡(こほり)に住みける人の娘、年七歲より、「觀音品」を受け習ひて讀誦しけり。
月每(つきごと)の十八日には、精進にして、觀音を念じ奉りけり。
十二歲に成るに、遂に「法花經」一部を習ひ畢(をは)んぬ。幼き心なりと云へども、慈悲深くして、人を哀(あは)れび、惡しき心、無し。
而る間、此の女(をんな)、家を出でて遊び行く程に、人、蟹を捕へて、結びて持ち行く。
此の女、此れを見て、問ひて云はく、
「其の蟹をば、何の料(れう)に持ち行くぞ。」
と。
蟹持ち、答へて云はく、
「持(も)て行きて食(くら)はむずる也。」
と。
女の云はく、
「其の蟹、我に得しめよ。食の料ならば、我が家(いへ)に死(しに)たる魚、多かり。其れを此の蟹の代(しろ)に與へむ。」
と。
男(をのこ)、女の云ふに隨ひて蟹を得しめつ。
女、蟹を得て、河に持(も)て行きて、放ち入れつ。
其の後(のち)、女の父の翁(おきな)、田を作る間に、毒蛇(どくへみ)有りて、蝦(かへる)を吞まむが爲に追ひて來たる。
翁、此れを見て、蝦を哀れびて、蛇に向ひて云はく、
「汝(なむ)ぢ、其の蝦を免(ゆる)せ。我が云はむに隨ひて免したらば、我れ、汝を聟(むこ)と爲(せ)む。」
と、意(おも)はず、騷ぎ云ひつ。
蛇(へみ)、此れを聞きて、翁の顏を打ち見て、蝦を棄て、藪の中に這ひ入りぬ。
翁、
『由無き事をも云ひてけるかな。』
と思ひて、家に返りて、此の事を歎きて、物を食はず。
妻、幷びに、此の娘、父に問ひて云はく、
「何に依りて、物を食はずして歎きたる氣色(けしき)なるぞ。」
と。
父の云はく、
「然々(しかじか)の事の有りつれば、我れ、不意(おもはぬ)に騷ぎて、然(し)か云ひつれば、其れを歎く也。」
と。
娘の云はく、
「速かに、物、食ふべし。歎き給ふ事、無かれ。」
と。
然(しか)れば、父、娘の云ふに隨ひて、物を食ひて、歎かず。
而る間、其の夜の亥の時に臨むて、門を叩く人、有り。
父、
『此(こ)の蛇の、來たるならむ。』
と心得て、娘に告ぐるに、娘の云はく、
「『今、三日を過ぎて來たれ。』と約し給へ。」
と。
父、門(かど)を開(ひら)けて見れば、五位の姿なる人也。其の人の云はく、
「今朝の約に依りて、參り來れる也。」
と。
父の云はく、
「今(いま)を、三日を過ぎて來給ふべし。」
と。
五位、此の言を聞きて返りぬ。
其の後(のち)、此の娘、厚き板を以つて、倉代(くらしろ)を造らしめて、𢌞(めぐり)を强く固め拈(したた)めて、三日と云ふ夕(ゆふべ)に、其の倉代に入居(いりゐ)て、戶を强く閉ぢて、父に云はく、
「今夜(こよひ)、彼(か)の蛇(へみ)、來りて、門(かど)を叩かば、速かに開くべし。我れ、偏へに觀音の加護を憑(たの)む也。」
と云ひ置きて、倉代に籠り居(ゐ)ぬ。
初夜の時に至るに、前の五位、來たりて、門を叩くに、卽ち、門を開きつ。
五位、入り來たりて、女の籠り居たる倉代を見て、大に怨(あた)の心を發して、本の蛇の形に現じて、倉代を圍み卷きて、尾を以つて、戶を叩く。父母(ぶも)、此れを聞きて、大きに驚き、恐るる事、限り無し。
夜半許に成りて、此の叩きつる音、止みぬ。
其の時に、蛇(へみ)の鳴く音(こゑ)、聞ゆ。
亦、其の音も止みぬ。
夜明けて見れば、大なる蟹を首(かしら)として、千萬の蟹、集まり來たりて、此の蛇を、螫(さ)し殺してけり。
蟹共、皆、這ひ去りぬ。
女、倉代を開きて、父ざまに[やぶちゃん注:父に向かって。]語りて云はく、
「今夜(こよひ)、我れ、終夜(よもすがら)、「觀音品(かんおむぼむ)」を誦し奉つるに、端正美麗の僧、來たりて、我に告げて云はく、
『汝ぢ、恐るべからず。只、「蚖蛇及蝮蝎氣毒烟火」等(とう)の文(もん)を憑(たの)むべし。』
と敎へ給ひつ。此れ、偏へに、觀音の加護に依りて、此の難を免(まぬ)かれぬる也。」
と。
父母(ぶも)、此れを聞きて、喜ぶ事、限り無し。
其の後、蛇の苦を救ひ、多の蟹の罪報を助けむが爲に、其の地を握(つか)ねて、此の蛇の屍骸を埋(うづ)みて、其の上に寺を立てて、佛像を造り、經卷を寫(うつ)して供養しつ。
其の寺の名を「蟹滿多寺(かにまたでら)」と云ふ。其の寺、今に有り。世の人、和(やはら)かに「紙幡寺(かみはたでら)」と云ふ也けり。本緣(ことのもと)を知らざる故(ゆゑ)也。
此れを思ふに、彼の家の娘、絲(いと)、只者には非ずとぞ思ゆる。
「觀音の靈驗、不可思議也。」
とぞ、世の人、貴(たふと)びける、となむ語り傳へたるとや。
*
「元亨釋書」(げんこうしゃくしょ)は史書。鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史で、著者は知られた臨済宗の名僧虎関師錬(弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)で、全三十巻。無論、全文漢文。私は同書を所持しないが、ネットを始めた初期に電子化テクストを毎日のように集めた中に、どこが提供していたか忘れたが、同書の全ベタ・データを入手している。而して、私のテクスト同様、Unicode以前のものであるため、正字不全があるが、そこは国立国会図書館デジタルコレクションの『國史大系』「第十四卷」の「百鍊抄 愚管抄 元亨釋書」経済雑誌社編明治三四(一九〇一)年刊)の当該部(左ページ後ろから六行目以降)で補正して、そこにある通りの訓点を附して原文を示す。当該話は「卷二十八」の掉尾にある。段落を成形した。漢文であるが、既に電子化した同話から、簡単に訓読出来るはずである。
*
蟹滿寺者。在二山州久世郡一。有二郡民一。合家慈善奉ㇾ佛。有女[やぶちゃん注:「むすめ」。]、七歲誦二法華普門品一。數月而終二全部一。一日出遊。村人捕ㇾ蟹持去。女問。捕ㇾ此何爲。答曰。充ㇾ飡[やぶちゃん注:「くらふにあつる」。]。女曰、以ㇾ蟹惠ㇾ我。我家有ㇾ魚。相報酬。村人與ㇾ之[やぶちゃん注:「これにくみして」。]。女得放二河中一。歸ㇾ家貺二多乾魚一。[やぶちゃん注:「貺」「給(たまふ)」に同じ。]
其父耕田中。一蛇追二蝦蟆一而含ㇾ之。父憐而不意曰。汝捨二蝦蟆一。以汝爲ㇾ壻。蛇聞ㇾ言。擧ㇾ頭見ㇾ翁、吐ㇾ蝦而去。父歸ㇾ舍思念。誤發ㇾ言。恐失二愛子一。懊惱不ㇾ食。婦及女問曰、翁何有二憂色一而不ㇾ食。父告ㇾ實。女曰、莫ㇾ慮也。早飡焉[やぶちゃん注:「慮(おもんぱか)る莫(な)かれ。早や、飡(くら)ひ焉(をは)られよ。」。]。父悅受膳。
初夜、有二叩ㇾ門人一。女曰。是虵[やぶちゃん注:「蛇」に同じ。]也。只言二三日後來一。父開ㇾ門。有二衣冠人一曰。依ㇾ約來。父隨二女語一曰、且待三日。冠人去。女語ㇾ父。擇二良材一固造二小室一。室成。女入ㇾ内閉居。三日後。冠人果來。見二女屛室一。生二忿恨心一。乃復二本形一。長[やぶちゃん注:「たけ」。]數丈。以ㇾ身纏ㇾ室。擧ㇾ尾敲ㇾ戶。父母大恐。不ㇾ得二爭奈一[やぶちゃん注:対抗して争う事は出来なかった。]。半夜後。叩聲息聞二悲鳴聲一。頃刻[やぶちゃん注:暫くして。]悲聲又止。
明旦、父見ㇾ之。大螃蟹[やぶちゃん注:「ばうかい」。中国語で「カニ」の意。]百千、手足亂離。蛇又被瘡百餘所。并皆死。女開室出。顏色不變曰、我聞戸外、大小蟹千百、夾二-殺此虵。大蟹多歸。小蟹死。今存者皆小蟹耳。然大二於尋常一。我通夜誦二普門品一。有二一菩薩一。長尺餘。語ㇾ我曰、無ㇾ怖也。我擁二-護汝一。父母大悅。便穿ㇾ土埋二衆蟹及蛇一。就二其地一營ㇾ寺。薦二冥福一。故號二蟹滿寺一。又曰二紙幡寺一。
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「古今著聞集」当該部は「卷第二十 魚蟲禽獸」の現行のよく知られた通し番号「六八二」の通用される仮標題「山城國久世郡(くぜんこほり)の娘、觀音經の功德と蟹の報恩とにより、蛇の難をのがれ得たる事」である。所持する『新潮日本古典集成』(第七十六回)「古今著聞集 下」(西尾光一・小林安治校注)を参考に先と同じ仕儀で示す。
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山城國久世郡に、人のむすめ、ありけり。をさなくより、觀音に仕へけり。慈悲深くして、ものをあはれぶに、人、かにを捕りて殺さんとしけるを見て、あはれみて、買ひ取りて放ちてけり。
その父、田をすかす[やぶちゃん注:「掘り起こす」。]とて、田づらにいでたりける時、「くちなは」、「かへる」を飮みてありけるを、うちはなたんとすれども、はなたざりければ、こころみに、なほざりがてら、
「そのかへる、はなて。さらば、わがむこにとらん。」
と、いひかけたりける時、くちなは、このぬしが顏を、うち見て、のみかけたる「かへる」を、はき出だして、藪の中へはひ入りぬ。
『げには、よしなきことをもいひつるものかな。「くちなは」はさるものにてあるに。』
とくやしく思へど、かひなし。さて、家に歸りぬ。
夜にも入りぬれば、
「いかが。」
と案じゐたるに、五位のすがたしたる男(をのこ)、いりきたれり。
「今朝の御(おん)やくそくによりて參りたる。」
よしを、いふ。
さればこそ、いよいよ、あさましく悔しき事、限りなし。何と言ふべきかたなくて、
「今、兩三日を經て來たるべき。」
よしを、いひければ、則ち、歸りぬ。
むすめ、このことを聞きて、おぢわななきて、寢どころなど、深く、かためて、隱れゐたり。
兩三日をへて、きたり。
このたびは、もとの「くちなは」のかたちなり。
むすめの隱れゐたる所を知りて、そのあたりをはひめぐりて、尾をもちて、その戶を叩きけり。
これを聞くに、いよいよおそろしきこと、せんかたなし。
心をいたして、「觀音經」を讀み奉りて、ゐたり。
かかるほどに、夜半ばかりにいたりて、百千のかに、あつまりきて、この蛇(くちなは)を、さんざんに、はさみきりて、かには見えず。
この事、信力(しんりき)にこたへて、觀音、加護し給ふゆゑに、かに、また、恩を報じけるなり。
その夜、「觀音經」をよみたてまつりて、他念なく念じ入りたりけるに、御たけ一尺ばかりなる觀音、現ぜさせ給ひて、
「汝、恐るる事、なかれ。」
と仰せられける、とぞ。
このむすめ、七歲より「觀音經」をよみたてまつり、十八日ごとに持齋(ぢさい)をなん、しける。十二歲よりは、さらに「法華經」一部を讀み奉りてけり。
法力(ほふりき)、誠に、空(むな)しからず。現當の望み[やぶちゃん注:現世と来世ゐでの無事安楽の願い。]、たれかうあたがひを、なさんや。
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「十八日ごとに持齋をなん、しける」底本の頭注によれば、『毎年正月十八日に仁寿殿または真言院で観音供(かんのんぐ)が行われたことにちなみ、一般にも十八日を観音供養の日とするならはしとなっていた』とあり、「持齋」については、『節食の持戒。具体的には、日中、正午前に一度だけ食事をするという戒律を守ること』とある。そもそも、仏教に於いては、僧は一日に午前中の一回の食事だけが許されていたのである。
※
さて、実は、この同系説話は、以上だけではない。近世の焼き直し怪奇談集等まで含めると、実際には、かなりの改変物がある。取り敢えず、そこまで広げず、比較的知られる中古と中世から一本づつ、示しておくと、まずは、「三寶繪(詞)」である。永観二(九八四)年に成立した、二品尊子内親王ために学者源為憲が撰進したの仏教説話集である。その「中卷」に「置染郡臣鯛女(おきそめのこほりのおみたひめ)」を主人公としたものが、それである。所持する『新日本古典文学大系』の第三十一巻「三宝絵 注好選」(馬淵和夫・小泉弘校注/一九九七年刊)を同じき仕儀で以下に示す。底本は漢字・カタカナ混じりであるが、カタカナはひらがなに直した。
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置染郡臣鯛女は、ならの尼寺の上座の尼の娘也。道心ふかくして、はじめより男(をとこ)、せず。つねに、花を、つみて、行基菩薩にたてまつる事、一日も不怠(おこたらず)。
山に、いりて、花を擿(つ)むに、大なる蛇(くちなは)の、大蝦(おほかへる)を、のむを、みる。
女(をんな)、かなしびて云はく、
「此蝦、我に、ゆるせ。」
といふに、猶(なほ)、のむ。深くかなしぶに、たへずして、「蛇は如此(かくのごとく)云ふになむ、ゆるすなる。」と云ひて[やぶちゃん注:一般に言われた俚諺を言ったもの。]、
「我、汝(なむじ)が妻と、ならむ。猶、ゆるせ。」
と云ふ時に、蛇、たかく、かしらを、もたげて、女を、まもりて、蝦を、はきいだして、ゆるしつ。女、
『あやし。』[やぶちゃん注:「怪しい」。]
と思ひて、日を、とをくなして[やぶちゃん注:再び逢う日(=婚姻の日)をわざと遠く隔てて。]、
「今(いま)、七日(なぬか)ありて、きたれ。」
と、たはぶれにいひて、さりぬ[やぶちゃん注:冗談に言って立ち去った。]。
其夕(そのゆふべ)になりて、思ひいで、おそろしかりければ、「ねや」を、とぢ、「あな」を、ふたぎて、身をかためて、うちに、こもれり。
蛇(くちなは)、來たりて、尾を、もちて、壁をたゝけども、いること、あたはずして、さりぬ。
あくる朝に、いよいよ、をぢて、行基菩薩の山寺に居(ゐ)給へる所にゆきて、
「このことを、たすけよ。」
といふに、答へて云はく、
「汝、まぬかるゝことを、えじ。たゞ、かたく、戒を、うけよ。」
と云ひて、すなはち、三帰五戒を、うけて、女、歸るみちに、しらぬ「をきな」、あひて、大なる蟹を、もたり。
女の云はく、
「汝、何人(なにびと)ぞ。この蟹、我に、ゆるせ。」
といふに、翁の云はく、
「我ハ攝津國宇原郡(うはらのこほり)に、すめり。姓名は某甲(しかいしか)と云ふ也。年、七十八に成りぬるに、一人(ひとり)の子、なし。よをふるに、たよりなければ、難波(なんば)のわたりにゆきて、たまたま、この蟹を、えたる也。人にとらせむと、ちぎれる[やぶちゃん注:約束した。]事あれば、こと人には、とらせがたし。」
と云ふ。
女、きぬをぬぎて、かふに、ゆるさず。又、裳(も)をぬぎて、かふに、うりつ。
女、蟹をもちて、寺に歸りて、行基菩薩して、呪願(しゆぐわん)せしめて、谷河に、はなつ。
行基菩薩、ほめて云はく、
「善哉(よきかな)、貴哉(たふときかな)。」
と。
女、家に歸りて、其夜、たのみ思ひて、ゐたるに、蛇(くちなは)、屋(や)上より、おりくだる。
大(おほき)に、をそれて[やぶちゃん注:ママ。]、「とこ」をさりて、のがれ、かくれぬ。
とこのまへを、きくに、踊り騒ぐ「こゑ」あり。
あくる朝に、みれば、一つの大(おほき)なる蟹、ありて、蛇を、
「つだつだ」
と、きりをけり。
即(すなはち)、しぬ。
「蟹の、我が恩を、むくひ、我が佛(ほとけ)の戒を、うけたる力(ちかr)なり。」
と。
「まこと、いつはりをしらむ。」
とて、人を攝津の國にやりて、翁(おきな)の家、尋ねとはするに、
「この郡里(こほりさと)に、さらに、なき人也。」
と云ふ。
又、しりぬ。
「翁、變化(へんぐゑ[やぶちゃん注:ママ。])人也。」
と。
「靈異記」に、みへ[やぶちゃん注:ママ。]たり。
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これは、珍しく、ちゃんと律儀にも最後に出典を明らかにしている。
次に鎌倉後期に無住道暁(宇都宮頼綱の妻の甥。八宗兼学の学僧)の編した仮名交り文で書かれた仏教説話集「沙石集」(全十巻。弘安二(一二七九)年起筆、同六(一二八三)年成立。大きく分けても三系統の異なる伝本があり、話しの順列・標題も異なる)に載るものを示す。これは複数のカップリングの中の一つであるが、私は、この「沙石集」が好きで何度も読んでいる関係上、当該話を総て掲げることとする。底本は複数所持するもののうち、私が好んでいる正字正仮名の岩波文庫の筑土鈴寬(つくどれいかん)校訂本(一九四三年刊)を使用した。そこでは読みが殆んどないので、所持する岩波書店『日本古典文學大系』版をも参考に歴史的仮名遣で読みを振り、句読点・記号を変更・追加し、段落を成形した。
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四 畜生の靈の事
寬元年中のことにや、洛陽に騷ぐことありて、坂東の武士、馳せ上(のぼ)ること侍りき。相(あひ)知りたる武士、ひかせたる馬の中に、ことに憑(たの)みたる馬にむかひて、
「畜生も心あるものなれば、きけ。今度、自然(じねん)のこと[やぶちゃん注:変事。]もあらば、汝(なんぢ)を憑みて、君の御大事(おんだいじ)にあふべし。されば、餘の馬よりも、物を別にまして飼ふべし。返々(かへすがへす)不覺、すな。たのむぞよ。」
と言ひて、舍人(とねり)に云付(いひつ)けて、別に用途を下(くだ)したびけるを[やぶちゃん注:入用の費用を賜ったにも関わらず。]、此舍人、馬には、かはずして、私(わたくし)に用ひけり。
さて、京へ上り着きぬ。
此舍人、俄(にはか)に物に狂ひて、口ばしりていふやう、
「殿の仰せに、『汝をたのむなり。自然の大事もあらば、不覺、すな。』とて、別に物をそへて下したべば、『いかにも御勢[やぶちゃん注:元は「御前」か。]にあひ參らせん。』と思ふに、己(お)れが物を取り食(くら)ひて、我には、くれねば、力もあらばこそ、御大事にもあはめ、憎きやつなり。」
と云ひて、やうやうに狂ひけり。
とかく、すかしこしらへて、治(なほ)りてけり。
彼(か)の子息の物語なり。
畜生なれども、かやうに心あるにこそ。みだりに狂惑(きやうわく)[やぶちゃん注:だましまどわすこと。]すべからず。
[やぶちゃん注:「寬元年中」一二四三年から一二四七年。鎌倉幕府執権は北条経時・北条時頼。
以下が、本篇の同系話。]
むかし物語にも、或人の女(むすめ)、なさけ深く、慈悲ありて、よろづの者のあはれみけるに、遣水(やりみづ)の中に小き蟹のありけるを、常にやしなひけり。年ひさしく食物をあたへけるほどに、此むすめ、みめ・かたち、よろしかりけるを、蛇(じや)、思ひかけて、男に變じてきたりて、親にこひて、
「妻にすべき。」
よしを云ひつつ、隱す事なく、
「蛇なる。」
よしを云ふ。
父、此事をなげきかなしみて、女に此やうを語る。
女、心あるものにて、
「力及ばぬ、わが身の業報にてこそ候(さふらふ)らめ。『叶はじ。』と仰せらるるならば、それの御身も、我身も、徒(いたづ)らになりなんず。ただ、ゆるさせ給へ。この身をこそ、いたづらに、なさめ。かつは、孝養にこそ。」
と、打ちくどき、なくなく申しければ、父、かなしく思ひながら、理(ことわ)りにをれて、約束して、日どりしてけり。
女、日比(ひごろ)養ひける蟹に、例の物食はせて、云ひけるは、
「年比、おのれを、哀れみ、やしなひつるに、今は、其日數(ひかず)、いくほどあるまじきこそ、あはれなれ。かかる不祥(ふしやう)にあひて、蛇(じや)に思ひかけられて、其日、われは何(いづ)くへか、とられて、ゆかんずらん。又もやしなはずして、やみなん事こそ、いとほしけれ。」
とて、さめざめと泣く。人と物語らん樣(やう)に、いひけるを聞きて、物も、くはで、はひさりぬ。
その後(のち)、かの約束の日、蛇共(じやども)、大小、あまた、家の庭に、はひ來たる。
恐しなんど、いふばかりなし。
爰(ここ)に、山の方(かた)より、蟹、大小、いくらといふ數もしらず、はひ來たりて、此蛇(じや)を、皆、はさみ殺して、都(すべ)て、別のこと、なかりけり。
恩を報ひけること、哀れにこそ、人は情(なさけ)あるべきにぞ。
山陰の中納言の、河尻にて、海龜をかひて、はなたれける故に、其子の、海に、あやまちて落入(おちい)りてけるを、龜の、甲に乘せて、助けたる事、申し傳へたり。
されば、八幡の御託宣にも、
「乞食・癩(らい)・蟻・螻(けら)までも、哀れむべし。慈悲、廣ければ、命、長し。」
と、のたまへり。蟹なんどの、恩を知るべしとも覺えねども、蟲類も、皆、佛性(ぶつしやう)あり、靈知あり。などか、心もなからむ。
[やぶちゃん注:当該話柄としては、ここまで。]
ある澤の邊(ほとり)に、大・中・小の三つの蟹、ありけり。
蛇(じや)をはさみけるに、蛇、木に登る。
やがて、つづきて、大なると、中なる蟹、木に這ひ登りて、はさまんとするに、蛇、口より、白き水を、はきかく。
蟹、是に、しじけて、はひおりて、力もなきてい[やぶちゃん注:「體」。]なり。
小さき蟹、蕗(ふき)の葉をはさみきりて、うちかづき、木にのぼる。
蛇、又、白き水を、はきかくれども、葉にかかりて、「かに」には、かからず。
其時、葉をうちすてて、はひよりて、
「ひしひし」
とはさむ。
蛇、たへずして、木よりおつ。
二つの蟹、力、いできて、さしあはせて、はさみ殺しつ。
さて、大なる「かに」、蛇を、三つにはさみきりて、頭(かしら)の方(かた)をば、我分(わがぶん)にし、中(なか)をば、中(ちゆう)の「かに」のまへに置き、尾の方をば、小蟹のまへにおくに、「小かに」、あわ[やぶちゃん注:ママ。「泡(あは)」。]をかみて、
「ふしふし」
として、うちしさりて、食はず。
『われこそ、奉公したれ。』
と言ふ心にや、と見えけり。
其時、「大がに」、我分の頭の方を、「小かに」の前におき、尾の方を、我分にする時、「小がに」、食してけり。
さも、ありぬべし。畜生も、心は、只人(ただびと)にかはらぬにや。
遠州にも、「つばくらめ」[やぶちゃん注:「燕」。]の雌(めんどり)、死せり。
雄(おんどり)、妻を尋ねて來たる。先(さき)の子、巢にありけるを、今の雌、「うばら」[やぶちゃん注:野茨(バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ Rosa multiflora )。同種の果実(偽果)にはマルチフロリン・クエルセチン・ラムノグルコシドなどのフラボノイド(フラボン配糖体)と、リコピンが含まれており、マルチフロチンは少量摂取しても緩下作用があり、ヒトでも腹痛や激しい下痢を引き起こすこともある。]の實を食はせて、皆、殺しつ。
雄、これを見て、雌を食ひ殺してけり。
嫉妬の心ありける人に、たがはず。是、たしかに見たる人の物語なり。
*
因みに、最後の話は雌雄の誤りがあるが、事実である。ツバメは、子を出産後、別な雄が、前に産んだ子を巣から意図的に押し落して殺害して、その雌を略奪する行動が確認されている。嘘だと思うなら、サイト「ツバメ観察全国ネットワーク 子殺し」の動画を見られるがよい。実は、この話と以上の事実を、どうしても載せたかったので、私は全文を示したのである。
さて。最後に、岩波書店の『日本思想体系新装版』の『続・日本仏教の思想――1』の「往生伝 法華験記」(注解・井上光貞/大曾根章介・一九九五年刊)の当該話の頭注の冒頭を引用して、本篇の同系話の纏めとしておく。『日本霊異記巻中八及び一二に類話があり、三宝絵巻中一二は前者による。この霊異記中八及び三宝絵の話は女を置染臣鯛女とし、本書とは別系統。霊異記巻中一二は本書と構成上類似しているが、女を山城国久世郡ではなく紀伊郡の一女人とし、観音信仰者でなく持戒者とし、観音信仰者でなく持戒者とし、
本人の父でなく、本人みずから蛇の妻となることを約すなどの違いがあり、本書の終りの蟹満多寺の一段もない。また本書は霊異記をみていないと認められるので』、『霊異記中一二に類似の話が変形して、たとえば蟹満多寺の縁起として伝えられ、本書にとりいれられたのであろう。今昔物語巻十六ノ一六・元亨釈書巻二十八、寺像志』(「元亨釈書」内のパート名)『の蟹満寺の話は、本書に類似する。本書によるか。古今著聞集巻二十・観音利益集『三十九(前後を欠く)』(説話集。成立年未詳で作者・編者も未詳。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「中世神佛說話」(『古典文庫』第三十八冊)近藤喜博校/一九五〇年刊(戦後のものだが、正字正仮名)のここから当該部が視認出来る。電子化しようとも思ったが、前後が欠損している断片なので、やめた)『は本書と同系統』とある。
「山州名蹟志には、此寺、相樂郡に在りと見ゆ」「山州名跡志」は全二十二巻二十五冊。釈白慧(坂内直頼)撰。成立は正徳元(一七一一)年で元禄一五(一七〇二)年の序がある。先に「山城四季物語」(六巻・延宝元(一六七三)年)を出した著者が、山城一国八郡三百八十六村を実地に踏査し、現状を片仮名混じりの和文で克明に描写している。旧本・古典籍のみに頼った大島武好の「山城名勝志」(同年)とは好対照をなしており、ともに山城研究の基本書とされる(平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの『大日本地誌大系』第十六巻「山州名跡志」(第一・二/蘆田伊人編・昭四(一九二九)年~同六年・雄山閣)のこちらの「相樂郡」(そうらくぐん)の「○普門山蟹滿寺(フモンザンカニマンジ)」で視認出来る。その「緣起」(全漢文・返り点附き)に本篇の内容と同じ話が載る。以上の私の注引用を読まれた方は、すらすらと読めること、請け合う。
「入江曉風氏の臺灣人生蕃物語に、卑南山腹に住む蕃人が蟹を買ふて放ちやり、又娘を蛇の妻にやるとて蛙を助命させると、蛇が五位姿の男と化けて姬を求め來るを一旦辭し返すと、二三日立て蛇の姿のまゝ來り、娘が隱れた押入の戶を尾で敲く所を多くの蟹が現はれて切殺したとある」「入江曉風」は「いりえぎょうふう」であるが、生没年未詳。本名は文太郎。「臺灣人生蕃物語」は大正九(一九二〇)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで大正十三年再版本を見つけた。当該部は、ここの『(二九)五位の蛇』だが、これ、どう考えても、本邦の原話が、台湾に日本人が意図的に輸入してデッチアゲたものとしか思われない。台湾で「五位」はないでショウ!
「一九〇九年板ボムパス著サンタル・パルガナス俚談に較や似た話を出す。コラと名くる男、怠惰で兄弟に追出され土を掘て蟹を親友として持あるく。樹の下に宿ると、夜叉來り襲ふを、蟹が其喉を挾み切て殺す。王之を賞して其女婿とするに、新妻の鼻孔から蛇二疋出で、睡つたコラを殺さんとするを蟹が挾み殺した。其報恩にコラ、其蟹を池に放ち每日其水に浴し相會ふたと有る」イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になる‘ Folklore of the Santal Parganas ’ (「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名。ここ(グーグル・マップ・データ))。「Internet archive」のこちらで(そこでは書誌にボディングが共著者として記してある)同原本(一九〇九年版)が視認出来る。この際、探してみた。あった! この“XCL ANOTHER LAZY MAN.”がそれだ! 私の注の大団円じゃ!!]