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2024/04/18

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (3)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

  ○十七日

 朝六時起て戶を開けば則一天曇陰、一𨻶[やぶちゃん注:「いちげき」。]の陽光り漏らすなし。十時草鞋を穿ちて[やぶちゃん注:「うがちて」。穿(は)いて。]出づ。道路膏[やぶちゃん注:「あぶら」。]の如く一步悉く意を注す。道傍に空地有り、石碑に刻して日蓮上人牢屋敷の跡という。北に向かひ行く事數町、佛頭の高く門上に聳へたるを見る。則知[やぶちゃん注:「すなはち、しる」。]其果して鎌倉大佛なるを。門に額を揭て大異山と書せり。門を入りて大佛の前に至り、仰瞻良久[やぶちゃん注:「あふぎみる。やや、ひさし」。]、右側の家に鎌倉地圖大佛寫眞等を賣るあり、乃就て地圖と寫眞とを購ふ。僧予を延て[やぶちゃん注:「ひきて」。]佛の體内に入り階[やぶちゃん注:「きざはし」。]を上りて三尊及觀音を見せしむ。此觀音像は德川家康の納進する所と云ふ、それより鶴岡八幡宮に詣す。宮は南に向て立てり。社殿美なりと雖も、頗る聞く所より小なり。百聞一見不如の言、洵に[やぶちゃん注:「まことに」。]欺かざるなり。石壇を上りて之を見下て若宮を見る。若宮は本社の下右方に在り、又下の宮といふ。仁德天皇を奉祀す。靜女が袖を飜して「しづやしづ」の吟詠ありしは、この神前に於てせりといふ。此近傍に双枝の竹を栽[やぶちゃん注:「うゑ」。]たり。鶴岡の東方に賴朝の邸址あり。其地、方六町許瓦片[やぶちゃん注:「かはらけ」。]田圃の中に磊砢[やぶちゃん注:「らいら」。多く積み重なっているさま。]として、徒らに古色の日々古へを增すを致せり。北方の丘上に賴朝の墓有り。苔むし蘿[やぶちゃん注:「つた」。]纏ひ字々讀むべからず。其東に大江廣元・島津忠久の墓有り。二階堂村に至り鎌倉宮を見る。凡そ鎌倉の名所と稱する者、其數多しと雖も、其實一坪の墟禾麥箕子を泣かしめ、一个[やぶちゃん注:「いつこ」。]の穴、狐を棲しめ狸を息はしむるものに過ぎず。之を尋ね之を辨ずること、まことに難く、人をして識別に苦ましむ。名所か迷所か我れその何れか當れるを知らず。たとひ終日[やぶちゃん注:「ひねもす」。]杖を牽き足を痛ましむるも、其益を得る事實に少々ならん。且つ降雨益々盆を傾け、鞋損じ、衣霑ふを以て久しく止まる能はず、步を却して[やぶちゃん注:「かへして」。]宿に歸る。時已に二時なり。五六時の交に至り雨寖く[やぶちゃん注:「やうやく」。「漸」に同じ。]止む。しかれども、一天の陰闇少しも決𨻶[やぶちゃん注:隙間。ちょっとした一瞬の変化。]なし。夜九時に至り寢す。

[やぶちゃん注:「日蓮上人牢屋敷の跡」これは、移動の地理状況から、長谷寺の北西直近にある「光則寺」にある「日朗上人の土牢」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)の誤りである。

「若宮」これは鶴岡八幡宮本宮を下った、下に向かって左(東)にある「若宮」。但し、本来の「鶴岡八幡宮」が勧請された時の「若宮」は、ずっと海側の現在の材木座のここにある。ここの北西直近に藪野家の本家があった(昨年、父の兄は逝去)。因みに、その全く反対側の南東直近には、芥川龍之介が新婚時代に住んだ家があった。「辻の薬師」の横須賀線を挟んだ反対側である。私の偏愛する芥川龍之介との地理上の奇しき近き縁を知ったのは、遅蒔きながら、大学生の時であった。

「双枝の竹」如何なる竹なのか不詳。識者の御教授を乞う。

「賴朝の邸址」現在の「大倉幕府跡」

「賴朝の墓」「法華堂跡(源頼朝墓)」。但し、実際の法華堂(現行の頼朝の墳墓は島津氏が勝手にデッチアゲたものであり、頼朝は墓石ではなく、法華堂として存在した)は、「頼朝の墓」の登る手前の左にある「よりとも児童公園」がその跡地である。因みに、私が生まれる前後、私の父母は、この東にある荏柄天神の境内におり、母は老婆のやっていた「頼朝の墓」の右手にあった「よりとも茶屋」の女中をしていた。

「大江廣元・島津忠久の墓有り」Yahoo地図のここ。源頼朝墓の東側の山の中腹に三つの「やぐら」が並ぶが、その中央が大江広元の、左が、その子で毛利氏の祖となった毛利季光の、右が源頼朝の子ともいわれる島津忠久の墓であるが、大江広元のそれは、毛利の後代のデッチアゲである。実際の「伝広元の墓」は、もっと東方の十二所に近い浄妙寺の山の尾根にあるが、まず、訪ねる人は少ない。

「鎌倉宮」大塔宮護良親王が軟禁されて殺された屋敷跡(土牢はウソっぱち)にあり、同親王を祀る。ここ。明治天皇が作った新しいものである。

「一坪の墟」(きよ)「禾麥」(くわばく)「箕子」(きし)「を泣かしめ」所謂、「麦秀の嘆」である。「史記」の「宋微子世家」に基づく「亡国の嘆き」を言う。殷の箕子(きし)が、滅びた殷の都の跡を通り過ぎ、麦畑となっているのを見て、悲しみのあまり「麥秀の歌」を作った故事に依るもの。]

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