柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(17)
風の香も麻のうねりや馬の上 冠 雪
炎天下を馬上で行く場合であらうか。道端の麻畠を吹いて來る風も、生ぬるくてムツとするやうな感じが想像される。「風の香」は勿論麻の香で、靑い麻の葉がゆさゆさ搖れている樣らしく思はれる。
けれどもこの句は決して右のやうな光景を的確に表現してゐるわけではない。一讀何となく暑さうな感じがした爲に、さう解したまでであるが、作者の意は或は日も少し昃つた[やぶちゃん注:「かげつた」。]場合で、麻を吹く「風の香」に多少爽涼の氣を含ませてゐるのかもわからない。要は「風の香」といふ語の解釋如何に在る。讀者は自己の連想によつて、之を解するより仕方がない。
手にすゑて淺瀨をのぼる鵜匠かな 一 之
讀んで字の如くである。
一羽の鵜を手に据ゑて、淺瀨をざぶざぶ上つて行く鵜匠の姿を描いたので、現在鵜を使つてゐるわけではない、準備的狀況のやうに思はれる。「淺瀨」の一語によつて、自ら徒涉の樣を現してゐる。勿論晝の景色であらう。
夏旅やむかふから來る牛の息 方 山
今は夏を以て旅行シーズンとするのが常識になつてゐるが、昔はさうでなかつた。一所不住のやうな惟然坊にして猶且「夏さへも有磯行脚のうつけ共」といふ句を作つてゐる位だから、その苦痛は思ひやられる。
こゝに「夏旅」といふのも、さういふ季題があるのではない。今日の人が夏になつて旅を想ふのとは反對に、寧ろ夏の旅の苦しさを現す爲に、先づこの語を置いたものではないかと思ふ。
喘ぎ喘ぎ炎天下の道を行く。現代のやうな廣い道路は無いから、厭でも向うからのろのろ步いて來る牛とすれ違はなければならぬ。牛の熱い鼻息を身に感ずる、といつたやうな、昔の旅の暑さ、侘しさを捉へたものであらう。そこまで云はないでも、向うから牛が息を吐き吐き來るといふだけでも差支無いが、特に「むかふから來る牛の息」といふ以上、どうしてもその息は身に近く感ずるやうに思はれるのである。
[やぶちゃん注:「方山」滝方山 (たきほうざん 慶安四(一六五一)年~享保一五(一七三〇)年)は。京都の人。東本願寺で、一如に仕えた。俳諧を松江重頼・富尾似船に学んだ。通称は主水。編著に「枕屏風」「北之筥」などがある。
「夏さへも有磯行脚のうつけ共」惟然坊は好きな俳人だが、この句は知らなかった(サイト版横書「惟然坊句集」・同縦書有り)。調べたところ、前書に「有磯にて」とあるようである。芭蕉の「わせの香や分入右は有磯海」(私のブログ版『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 61 越中國分 早稲の香や分け入る右は有磯海』)を受けて北陸路を旅した際のものであろう。]
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