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2024/04/22

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(6)

[やぶちゃん注:初句の「白雨」は「ゆふだち」と読む。「洞」は「ほら」。]

 

   白雨や洞ほらの中なる人の聲 畏 計

 

 洞穴の中に夕立を避けたのである。その人の姿を描かずに、その聲のみを描いたのが面白い。雨やみをしてゐる人の聲が、洞穴の中にくゞもつて聞えるなどは、都會人の思ひもよらぬ趣である。

 子規居士も奧羽旅行の時、飯坂溫泉で「夕立や人聲こもる溫泉[やぶちゃん注:二字で「ゆ」。]の煙」といふ句を作つてゐる。趣はこの句と違ふけれども、心持には似通つたところがある。

[やぶちゃん注:子規の句は明治二六(一八九三)年の作。「奥の細道」を辿った俳文「はて知らずの記」に載る。国立国会図書館デジタルコレクションの『代表的名作選集』第二十二編「子規選集 花枕」(大正五(一九一六)年新潮社刊)の当該部を視認して以下に示す。

   *

   夕立や人聲こもる溫泉の煙

二十六日朝小雨そぼふる。旅宿を出でゝ町中を下ること二三町にして數十丈の下を流るゝ河あり。摺上(するがみ)川といふ、飯坂湯野兩村の境なり。こゝにかけたる橋を十綱(とつな)の橋と名づけて昔は綱を繰りて人を渡すこと籠の渡しの如くなりけん。古歌にも

   みちのくのとつなの橋にくる綱のたえずも人にいひわたるかな

など詠みたりしを今は鐵の釣橋を渡して往來の便りとす。大御代の開化旅人の喜びなるを好古家は古の樣見たしなどいふめり。

   *]

 

   夕顏のにぶきそよぎや簾越し 包 之

 

 あまり風の無い夕方らしい。簾越に咲いてゐる夕顏の白い花が僅にそよぐのが見える、といふのである。「にぶきそよぎ」の一語が、簾越の花の僅にそよぐ趣をよく現してゐる。元祿らしい寫生句である。

 

   瓢簞の蔓に見越すや雲の嶺 范 孚

 

 俳畫に描くとすれば、窓に垂れた瓢簞の蔓を比較的大きく畫いて、その向うに雲の峯の白く聳えてゐるところを現すのであらうか。この句を讀むと、靑い瓢簞の葉越に晴れた夏の空と、雄大な雲の峯のたゝずまいが眼に浮んで來る。

 大小の配合と云つたやうな點からこの句を見ることは、必ずしも當つてゐない。たゞ雲の峯といふやうな題目は、とかく大景の連想に捉はれ易いのに、この句は植物の中でも細い、軟な瓢簞の蔓を配したところに興味がある。それも一茶の「蟻の道雲の峯よりつゞきけり」のやうな、意識的な配合でなしに、自然の景色として成立つてゐるから面白いのである。

[やぶちゃん注:『一茶の「蟻の道雲の峯よりつゞきけり」』は「八番日記」のもの。「おらが春」では、

   蟻の道雲の峯よりつゞきけん

写本の「句帖」では、

   蟻の道雲の峯よりつゞく哉

と載る。私の好きなワイドな句である。]

 

   馬のりに乘や淸水の丸木橋  釣眠

 

 湧き出る淸水が自ら細流をなして、そこに一本の丸木橋が架つてゐる、淸水をむすびに來た人が、ふとした興味でその丸木橋に跨つて見た、といふだけのことであらう。淸水の句としては少しく變つた趣を具へてゐる。

 これが夕涼の場合ででもあつたならば、橋に跨る趣向も多少平凡に陷らざるを得ない。運座席上の調和論などは、往々にしてかういふ平凡を支持し易いものである。淸水に對して丸木橋を持出し、それに馬乘になるといふやうなつれづれのすさびは、單に平凡でないのみならず、經驗無しには念頭に浮べにくい。おどけたやうでしかも棄て難い閑中の趣である。

 

   えり垢の春をたゝむや更衣 洞 池

 

 輕い著物に脫ぎ替る初夏の快適な心持は、今も昔も變りはあるまい。「蝶々も輕みおぼえよ」と云ひ、「籠ぬけのかろみ覺えつ」と云ひ、多くは輕快な感じが主になつてゐる。この句の如く脫ぎ捨てた舊衣に眼を注いだものはあまり見當らぬ。

 新衣に更ふるに當つて脫ぎ捨てた著物は、已に多少襟垢がついてゐる。作者はこの襟垢を以て、すがすがしい新衣に對照せしむると同時に、舊衣に對する愛著の情を寓するものとした。

「えり垢の春をたゝむ」といふのは、かなり巧な言葉遣ひで、その衣に裹まれた三春行樂の迹も、自ら連想に上つて來る。昔の更衣は四月一日ときまつてゐたから、過去つた春を顧る情は、今よりもはつきりしてゐたことと思はれる。

 西鶴の「長持に春かくれ行く更衣」といふ句も、多少この句と趣を同じうするやうであるが、西鶴の更衣は單に季節を現してゐるまでで、洞池のやうな實感を伴つてゐない。「長持に春かくれ行く」は、華かな花見小袖の類が、長持にしまはれることを指すのであらうが、巧を求めて機智を弄し過ぎた嫌がある。舊衣の襟垢にとゞめた春の名殘の自然なるに如かぬのである。

[やぶちゃん注:西鶴の句は俳人としては初期の作であるが、相応に評価されている句である。但し、私は彼の一句たりとも、評価しない。]

 

   綿拔やひそかに宵の袖だたみ 兆 邦

 

 綿拔といふのは袷[やぶちゃん注:「あはせ」。]のこと、布子の綿を拔いて袷とするの意であらう。「南無阿彌陀どてらの綿よひまやるぞ」といふ一茶の句は、最も簡單に這間[やぶちゃん注:「しやかん」(しゃかん)。「この間(かん)」。]の消息を傳へてゐる。

 この句は隱れた意味は無い。綿を拔いて著られるやうになつた袷を、そつと袖疊にして置いた、といふつゝましやかな趣である。それが宵の燈下であることも、何となくこの句に或情味を添えてゐる。

[やぶちゃん注:「南無阿彌陀どてらの綿よひまやるぞ」一茶のこの句は「句稿消息」他に出る句。表記は、

   なむあみだどてらの綿よ𨻶やるぞ

が正しいか。

「袖疊」(そでだたみ)は着物の略式のたたみ方。背を内側へ二つに折り返し、両袖を合わせて揃え、それを更に袖付(そでつけ)の辺りで折り返してたたむことを言う。]

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