柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(14)
折々や蝶に手を出す馬の上 我 峯
長閑な春の道中の樣である。
馬はほくほくと步いて行く。馬上の人は屈託もなささうに搖られて行く。折々蝶がひらひら飛んで來るのを、馬上の人は捕へようともなく手を出す、といふのであらう。
春日の永きに倦む馬上の旅の樣子がよく現れてゐる。煕々たる春光の中を飛ぶ蝶の姿が、ありありと眼に浮んで來るやうな氣がする。
[やぶちゃん注:「煕々たる」やわらぎ楽しむさま。また、広いさまの意も掛けているのであろう。]
朝風や蛙鳴出す雨くもり 千 百
「雨くもり」といふのは、雨を催す曇り空の意であらう。しづかな朝風も自ら濕氣を含んでゐる。どこかで蛙の鳴く聲が聞える。この蛙は雨蛙のやうなものではないかも知れぬが、集團的合唱でなしに、少數の蛙の率先して鳴く場合が想像される。「鳴き出す」といふ語は、その聲の多からざることを示してゐるからである。
泥足や緣にさげたる櫻がり 万 乎
泥足といふと泥田の中にでも踏込んだやうに思はれるが、それほど限定しないでも差支あるまい。泥まみれになつた足をぶら下げて、緣に憩いこうている有樣を描いたのである。
「櫻がり」とあるだけで、この場所は明瞭でないから、他は想像で補うより仕方がない。寺か何かの髙い緣であれば、ぶら下げるといふことも適切なやうな氣がするが、それもそういふ氣がするまでである。泥足だから上へ上るわけに行かず、ぶらりと緣から垂れている。そこに草臥くたびれた樣子も窺われる。
櫻狩中の一瑣事を捉えたのである。
[やぶちゃん注:「万乎」(まんこ ?~享保九(一七二四)年)は江戸前期から中期の俳人。当該ウィキによれば、『伊賀上野の豪商。屋号は大坂屋。通称は次郎大夫。剃髪して証厭坊(房)といった』。『伊賀上野において、俸禄米で金を融通する「お倉屋」を営む裕福な商人であった』。『松尾芭蕉の旧主家筋に当たる藤堂新七郎家に対し、金銀の貸し付けを行っていたと見られる証書が残されている』。元禄四(一六九一)年三月二十三日、『自邸に芭蕉を招いた際に彼の弟子(伊賀蕉門)となった』。「芭蕉翁全伝」では、『この日、芭蕉が詠んだ』、
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万乎別墅(べつしよ)
としどしや櫻をこやす花のちり
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『の句を伝える』(この句は服部土芳の「芭蕉翁全傳」では、万乎の別荘で催した花見で三月二十三日の詠で、この句を発句とした連句一折があったとするが、伝わっていない)。『万乎の発句の初出は』「猿蓑」で、入集された万乎の句(「㽗」は「うね・せ」で畑の畝(うね)を言う。しかし「田」であるから、これは「畦」か。「あぜ」と読みたくなるが、現行のこの句では「へり」と読んでいる。確かに「へり」の方がワイドになって躓かない)、
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田の㽗の豆つたひ行(ゆく)螢かな
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『については、向井去来の』「去來抄」に『見える次の逸話がよく知られている。この句はもともと、芭蕉の添削が入った野沢凡兆の句であった。しかし、凡兆は「此の句見るところなし除くべし。」などと評価しなかったため、芭蕉が、伊賀の連中の句に似たものがあるので』、『それを直してこの句にしようと言い、ついに万乎の句として入集させたという』とある。「去來抄」の冒頭の「先師評」の一節。所持する岩波文庫ワイド版(一九九三年刊・正字正仮名)で引く。
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田のへりの豆つたひ行螢かな
元トハ先師の斧正有し凡兆が句也。猿ミの撰の時、兆曰、此句見る處なし、のぞべし。去來曰、へり豆を傳ひ行く螢の光、闇夜の景色風姿ありと乞ふ。兆ゆるさず。先師曰、兆もし捨バ我ひろハん。幸いがの句に似たる有。其を直し此句となさんとて、終に□□が句と成けり。
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『作品は』ほかに、「有磯海」・「笈日記」に『収められている』。『伊賀蕉門の中にあっては多いといえる計』六十『余句が』、「猿蓑」『以降の複数の俳書において確認できる』。『それらは、安井小洒の』「蕉門名家句集」に『まとめられている』。享保九年八月十五日に没し、『伊賀上野の念仏寺に葬られた』。「代表句」の項に、他に、
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子規なくや尻から夜も明る
あはれさや日の照る山に鹿の聲
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が挙げられてある。]
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