柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(4)
梅がかや雨だれ傳ふやれ簾 古 道
閑窓春雨の眺は決して新しいものではない。けれども「つくづくと春のながめのさびしきはしのぶに傳ふ軒の玉水」といふ新古今の歌から、「春雨や蜂の巢つたふ屋根の漏」といふ芭蕉の句に眼を移すと、そこに歌と俳句との相異を感ずる。同じ閑中の趣にしても、蜂の巢を傳ふ屋根の漏の侘しさ、面白さは、自ら案を拍たしむる[やぶちゃん注:「うたしむる」。]ものがある。
「雨だれ傳ふやれ簾」は所詮蜂の巢の斬新なるに如かぬ。たゞ去年のまゝの破簾に雨垂の雫が傳ふ趣は、やはり俳人の擅場[やぶちゃん注:「せんじやう」。]ともいふべき天地である。蜂の巢に遜る[やぶちゃん注:「ゆづる」。]の故を以て、輕視するわけには行くまいと思ふ。
[やぶちゃん注:宵曲は判り切ったものとして、上五の嗅覚感覚を述べていないが、視覚表現に「やれ簾」を抜けて香ってくる梅の香を多重している巧みさに触れないのは、やはり残念と言わざるを得ない。
「つくづくと春のながめのさびしきはしのぶに傳ふ軒の玉水」「新古今和歌集」の「卷第一 春歌上」に載る(六四番)、大僧正行慶行慶(ぎょうけい 康和三(一一〇一)年~永万元(一一六五)年:平安後期の天台僧。白河天皇の皇子で、母は源政長の娘。大僧正行尊に天台をまなぶ。保延元(一一三五)年、摂津四天王寺別当となった。権僧正となり、仁平二(一一五二)年には近衛天皇の護持僧ともなっている。同年、近江園城寺(おんじょうじ)長吏に就任している)の一首で、
*
閑中ノ春雨といふことを
つくづくと春のながめのさびしきは
しのぶにつたふ軒(のき)の玉水(たまみづ)
*
とあるもの。「しのぶ」はノキシノブ(軒忍・瓦韋剣丹:シダ植物門ウラボシ(裏星)綱ウラボシ目ウラボシ科アヤメシダ(菖蒲羊歯)亜科ノキシノブ属ノキシノブ Lepisorus thunbergianus )の古名に「忍ぶ」(寂しさをじっと耐える)を掛けている。
「春雨や蜂の巢つたふ屋根の漏」「漏」は「もり」。「炭俵」所収。「蕉翁句集」で元禄七(一六九四)年五十一歳の作とする。「許野消息」(きょやしょうそこ)の野坡書簡に『「春雨の蜂の巢、是はまことに世の人のさほどに沙汰をせぬ句なりといへども、奇妙天然の作なり。」と、翁、つねづね吟じ申され候。此蜂の巢の草菴の軒に殘たるに、春雨のつたひたる靜さ、面白くいひとりたる、深川の菴の體(てい)そのまゝにて、幾度も落淚致申候』とある。正慶の「しのぶにつたふ」と「蜂の巢つたふ」に歴然とした近世俳諧精神の侘びの真骨頂が示されてあると言える。]
うぐひすの音にうち當る割木かな 李 邦
木を割る音の中に鶯の聲を聞いたのである。もう少し委しく云へば、戛然[やぶちゃん注:「かつぜん」。堅い物が触れ合って音を発するさま。]として木を打ち割つた音と同時に鶯が啼ゐたので、「音[やぶちゃん注:「ね」。]にうち當る」と云つたものであらう。音に形あつてぶつかるものの如く云つたのは、一種の技巧ではあるが、又その場合の感じをよく現してゐる。
單に二つの音が空中にかち合つたといふだけでなしに、作者が現在木を割りつゝある場合と思はれる。「鶯の音にうち當る」といふのは、慥に木を割る方が主になつてゐる感じである。
[やぶちゃん注:「李邦」九州蕉門の一人と思われる。]
鶯や寺のはさかる制の中 野 紅
必ずしもその寺に鳴くと限らなくても宜しい。町中に寺の介在してゐる、さういふ場所で鶯が啼くのである。「はさかる」は「はさまる」と同義であらう。
一茶に「五月雨の竹にはさまる在所かな」といふ句がある。竹にはさまる在所は、じめじめした五月雨時の陰鬱さを想像せしむると共に、その在所の小さなものであることをも語つてゐる。市中に介在する寺も、勿論さう大きなものではあるまい。寧ろそこに寺のあることが、周圍に對して多少不調和なやうな場所ではないかと思はれる。
[やぶちゃん注:「野紅」長野野紅(やこう 万治三(一六六〇)年~元文五(一七四一)年)は蕉門で志太野坡の門下。豊後生まれで、名は直玄、通称は三郎右衛門。家は代々、庄屋を務めた。享保元(一七一六)年、妻の「りん」とともに「歌仙貝発句」(かせんかいほっく)を編んでいる。編著に「梅ケ香」・「小柑子」(しょうこうじ)がある。
「五月雨の竹にはさまる在所かな」一茶四十一歳の享和三年の作、
五月雨の竹に隱るゝ在所かな
の句が「享和句帖」にあり、ずっと後の文政版では、この句は、ここにあるように、
五月雨の竹にはさまる在所かな
の句形で載る。]
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