柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(9)
老僧の理窟いはるゝ接木かな 重 就
これは別にいゝ句ではない。老僧の接木といふ言葉があつて、齡已に傾ゐた老僧が接木をする。猶幾程未来恃んでそんなことをするのかといふと、自分の爲にするのではない、かうやつて接いでさへ置けば、何時かは大きくなつて人の役に立つ時があらう、と答へるのである。鳩巢[やぶちゃん注:「きうさう」。]の『駿臺雜話』にも「老僧が接木」なる一章があり、三代將軍が谷中邊へ鷹狩に出た時、將軍とは知らずに今のやうな理窟を云つて聞かした、といふ話が出てゐる。その眞僞はわからぬが、さういふ考で接木をした者はいくらもあつたらうと思ふ。子規居士の沒前數日に口授[やぶちゃん注:「くじゆ」。]した「九月十四日の朝」といふ文章を讀むと、朝納豆賣が來たのを聞いて、家人にこれを買はせる話が書いてある。「余の家の南側は小路にはなつて居るが、もと加賀の別邸內であるので、この小路も行きどまりであるところから、豆腐賣りでさへ此裏路へ來る事は極て少ないのである。それで偶〻珍しい飮食商人が來ると、余は奬勵の爲にそれを買ふてやりたくなる」といふのであるが、これなどもやはり老僧の接木の一種であらう。
重就の句は老僧が理窟を云つたといふまでで、その內容には觸れていない。けれども老僧が接木をしながらの理窟である以上、先づ例の話と見て間違は無さそさうである。たゞその理窟を御尤とも何とも云はず、「理窟いはるゝ」とだけ云つたところに、多少のをかしみを生じてゐるやうな氣がする。
[やぶちゃん注:「重就」歌人香川景樹の門下。
「鳩巢の『駿臺雜話』」江戸中期の儒学者室鳩巣(むろきゅうそう 万治元(一六五八)年〜享保一九(一七三四)年:江戸生まれ。名は直清。加賀前田家に仕え、藩命により、木下順庵に学び、朱子学を信奉した。後、新井白石の推挙で、将軍徳川吉宗の侍講となった)の著した随筆にして儒学書。成立は没する二年前の享保一七(一七三二)年。全五巻で、仁・義・礼・智・信の五常を五巻に配してある。朱子学的な観点から、学術・道徳などを奨励した教訓的な作品。室鳩巣による著作物の中でも最も著名なものであり、江戸随筆の中でも代表的作品である。当該話は以下。所持しないので、国立国会図書館デジタルコレクションの『名家隨筆集』上 (大正二(一九一三)年有朋堂文庫刊)の当該部を視認した。【 】は底本では編者による頭注。読みは一部に留めた。直接話法に準ずる部分は改行した。また、一部に句読点・記号を挿入した。
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○ 老僧が接木
されば是につけて思ひ出しし事あり。忍が岡のあなた谷中(やなか)のさとに、何がしの院とてひとつの眞言寺(しんごんでら)あり。翁いとけなかりし頃、其住僧をしりてしばしば寺に行きつ〻、木の實ひろひなどして遊びしが、住僧かたへの人にむかひて前住の時の事をなん語りしをき〻侍りしに、寬永の頃の事になん、將軍家【「寛永のころ」と先にあれば、三代家光なるべし。】谷中わたり御鷹狩のありし時、徒歩(かち)にてこ〻やかしこ御過(す)ぎがてに御覽ましましけるが、此寺へもおもほえず渡御ありしに、折ふし其時の住僧はや八旬に及びて、庭に出でて、みづはぐみつゝ【い屈まりて[やぶちゃん注:「老い屈(かが)まりて」であろう。「非常に年老いて腰が曲がっていて」の意。]】手づから接木(つぎき)して居けるが、御供の人々おくれ奉りて、お側(そば)に二人三人つき奉りしを、中々やんごとなき御事をば思ひよらねば、そのまゝ背(そむ)き居たりしを、
「房主[やぶちゃん注:「ばうず」。]なに事するぞ。」
と仰せられしを、老僧心に、
『あやし。』
と思ひて、いとはしたなく、
「接木するよ。」
と御いらへ申せしかば、御笑ひありて、
「老僧が年にて今接木したりとも、其木の大きになるまでの命も知れがたし。それにさやうに心をつくす事の不用なるぞ。」
と上意ありしかば、老僧、
「御身は誰人(たれひと)なればかく心なき事をきこゆる[やぶちゃん注:ママ。]ものかな。よくおもうて見給へ。今此木どもつぎておきなば、後住(こうぢう)の代に至りていづれも大きになりぬべし。然らば『林も茂り寺も黑みなん。』と、我は寺の爲をおもうてする事なり。あながちに我一代に限るべき事かは。」
と言ひしをきこしめして、
「老僧が申すこそ實(げ)にも【原本「實も」とあり。】理(ことわり)なれ。」
と御感ありけり。その程に御供(おんとも)の人々おひおひ來りつ〻御紋(ごもん)の御物ども多くつどひしかば、老僧それに心得て、大きに恐れて奧へ逃(にげ)入りしを、御めし出しありて、物など賜りけるとなん。今翁も此老僧が接木するごとく、老朽ちぬれども、ある限(かぎり)は舊學(きうがく)をきはめて、人にも傳へ書にものこして、後世に至りて正學(せいがく)の開(ひら)くる端(はし)にもなり、此道のために萬一の助(たすけ)ともなりなば、翁死しても猶いけるが如し。古人のいはゆる死しても骨(ほね)くちじといひしこそ、思ひあたり侍れ。いさ〻か我身のために謀(はか)るにあらず。諸君も翁がこの意(こゝろ)を信じ給へかし。
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『子規居士の沒前數日に口授した「九月十四日の朝」といふ文章』これは、所持する岩波文庫の「飯待つ間――正岡子規随筆集」によれば、『ホトトギス』第五卷第十一号(明治三五(一九〇二)年九月二十日発行。子規逝去の翌日である)に載ったもの。幸い、正規表現で「青空文庫」のこちらに電子化されているので、見られたい。]
新井戶や春たつけふの釣甁竿 釣 眠
立春の日に古今の相違は無い。違ふのは曆の上の日だけである。けれども正月の初に春が立つのと、二月の初に春が立つのとでは、連想に著しい相違がある。この感じは畢竟新年と立春とが一致すると否とによつて分れるのであらう。
尤も現在でも農村あたりでは一般に舊曆が用ゐられてゐる。折衷的に一月おくれといふところも少からずある。それも遠い地方ではない、先年大東京に編入された府下の某村などでも、役場とか、學校とか、工場とかいふ文明的施設の場所では、勿論一月一日に新年を祝ふけれども、農家の方は二月にならないと正月の行事をやらぬといふ話であつた。つまり年賀狀は一月、雜煮は二月といふわけで、或は今の人の氣には入らぬかも知れぬが、そこに日本らしい面白味があるやうに思ふ。由來統一論者の弊は、狹い範圍の主張を强ひて一般に推及ぼさうとする點に在る。吾々の考へ方が時に都會本位になる虞があるのも、不知不識の間に同樣の誤に陷つてゐるのかも知れない。
この釣眠の句なども、一陽來復といふ言葉が、そのまゝ新年に通用する時代ならば、とかくの說明を要せぬのである。年內に掘つた井戶を春立つと共に汲みはじめる。井戶が新しいのだから、釣瓶も竿も悉く改つてゐるに相違無い。新しい木の香を帶びて汲上げられる水にも、同じく新春のよろこびを感ずる、といふ新な氣持である。この氣持は「春立つ」を「年たつ」としたら、今の人にもわかりよくなるかと思ふ。
尤もこの「新井戶」は單に新しい井戶といふまでで、若水から汲みはじめるものとまで限定しなくとも差支無い。以上は昔の春が大體に於て年と共に改ることを說く爲に、新しい感じを稍〻强めて云つたに過ぎぬのである。
[やぶちゃん注:宵曲は、本句に限って解説しているので、書く必要を認めなかったのだが、一言言っておくと、本邦の旧暦では、「立春」は、実は新年を迎えての「立春」よりも、僅かであるが、頻度から言うと、「年内立春」(前の年の十二月半ばから大晦日の間に立春が来ること)の方が、実は、多いのである。参考にした平凡社「世界大百科事典」の「立春」によれば、『暦法上では冬至を』十一『月のうちに置くということが基本になっているので』、『その約』四十五『日後にくる立春は』十二月十五日『から正月』十五『日の間におさまって』、『平均すれば』、『元旦立春ということになる』とある。]
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