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2024/04/06

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(17)

[やぶちゃん注:頭の句の及び解説中の短歌の「雉子」は孰れも「きぎす」。中七は字余り。]

 

   鳴く雉子微雨に麥の莖立ぬ 鷺 雪

 

「微雨」はコサメと讀むのであらうか。どこかに雉子の聲がする。微雨の中の麥もいつか莖が伸び立つて來たといふので、單なる配合のやうに見えて、そこにいふべからざる陽春の氣が感ぜられる。雨に濡れた麥の色と、どこともわからぬ雉子の聲と、野外の春は一句に溢れてゐるといつて差支無い。

「ほろほろと椿こぼれて雨かすむ巨勢の春野に雉子なくなり」といふ歌は、美しいことは美しいけれども、大和繪風の纖麗に墮だした傾がある。莖立つ麥に啼く雉子の工まざるに如しかぬやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「ほろほろと椿こぼれて雨かすむ巨勢の春野に雉子なくなり」不詳。識者の御教授を乞う。岩波文庫版では「巨勢」には『こぜ』とルビがある。しかし、これは大和國高市郡(たかいちのこほり)巨勢鄕(こせがうのことで、現在の奈良県御所(ごしょ)市古瀬(こせ:グーグル・マップ・データ)で、古くも清音の「こせ」である。]

 

   紅梅やひらきおほせて薄からず 睡 闇

 

 紅梅の花が開ききつて、尙濃かな色を保つてゐるといふのである。それだけのことで、格別すぐれた句でもないが、古人の觀察が往々この種の世界に觸れてゐるといふ點で、やはり棄てがたいものがある。

 子規居士の晚年、鉢植の紅梅を枕邊に置いて、日夕見ながら作つた歌の中に「紅のこそめと見えし梅の花さきの盛りは色薄かりけり」「ふゝめりし梅咲にけりさけれども紅の色薄くしなりけり」といふのがあつた。これは紅梅の花が開いたら、稍〻色のうすくなつたことを詠んだのである。「薄からず」にしろ、「薄かりけり」乃至「薄くしなりけり」にしろ、かういふ觀察は漫然紅梅に對する者からは生れない。比較的長い間、紅梅をぢつと見入つた結果の產物である。紅梅は紅いものだといふだけで、それ以上の觀察に及ばぬ人から見たら、この句も歌も蓋し興味索然たるものであらう。

[やぶちゃん注:「紅のこそめと見えし梅の花さきの盛りは色薄かりけり」所持する岩波文庫土屋文明編の「子規歌集」(一九五九年刊)では、

   *

 紅(くれなゐ)のこぞめと見えし梅の花さきの盛りは色薄かりけり

   *

となっている。

「ふゝめりし梅咲きにけりさけれども紅の色薄くしなりけり」同前で、

   *

 ふゝめりし梅咲にけりさけれども紅の色薄くしなりけり]

 

   はなの山のぼりすませば上廣し 淡 水

 

「二丁上れば大悲閣」ではないが、頂上まで登つて見たら、上に平なところがあつて、廣やかな感じがした、といふ意味らしい。作者は多分はじめてこの山に登り、思ひがけず上に平地を見出したものかと想像する。

 高い山ではなささうである。上廣くして人の遊ぶに任すのは、如何にも花の山にふさはしい。

[やぶちゃん注:「二丁上れば大悲閣」芭蕉の句とされて、ネット上にもある、

      嵐やま

   花の山二町のぼれば大悲閣

であるが、所持する中村俊定校注「芭蕉俳句集」では、「存疑の部」にあり、「もとの水」(重厚編・天明七(一七八七)年跋)に載るもので、脚注に「袖日記」(元禄四年)・「句解参考」・「一葉」(貞享・元禄年中)に載るとする。私の持つ複数の全芭蕉句集でも収録しているものは少ない。個人ブログ「徘徊の記憶」の「大悲閣千光寺」に、『千鳥ヶ淵の号で先の芭蕉の句碑について以下のように記している』として、『なにやら挨拶じみた句で、芭蕉の作品とするには気の毒のような出来である。芭蕉もこの句を『嵯峨日記』に入れていないし、重んじもしなかったようで、私の手もとの二種類の『芭蕉句集』にもこの句はない。おそらく地元で句会をひらいたとき、ひとびとの手帳にこの句が記録されたのであろう。』とあった。いかにも駄句である。]

 

   三味線や借あふ花の幕鄰 柳 士

 

 其角の句に「花に來て都は幕の盛かな」といふのがある。花見の幕は上方風俗だつたらしい。この句の作者も恐らくは上方であらう。西鶴の『五人女』にも花見の幕が出て來るのは、お夏淸十郞のところであつた。

 幕を張つて花を見る、その幕の鄰同士が三味線を借合つて唄でもうたふといふ意味らしい。偶然幕を鄰合せただけの人に三味線を借りたりするのも、花見の一情景たるを失はぬ。花に浮れ、酒に興ずる人の間には、今でも珍しからぬことかも知れない。

[やぶちゃん注:「花に來て都は幕の盛かな」其角の句として確認は出来た。

「西鶴の『五人女』にも花見の幕が出て來るのは、お夏淸十郞のところであつた」国立国会図書館デジタルコレクションの「西鶴撰集」の「好色五人女」(大正九(一九二〇)年名作人情文庫刊行会刊。但し、一部に伏字がある)の「太鼓による獅子舞」と、続く「狀箱は宿に置いて來た男」のシークエンスである。]

 

   花散ていかの尾かゝる梢かな 從 吾

 

「いか」は「いかのぼり」の畧、紙鳶[やぶちゃん注:「たこ」。]のことである。花の散つた梢に紙鳶の尾の引かゝつてゐるのを發見した。多分花の咲く前からのものであらうが、花が散つてから今更のやうに目につく。それを「いかの尾かゝる」と云つたわけである。

 面白いところを見つけたものである。

 

   足洗ふ石川淺しもゝの花 市 中

 

「石川」といふのは地名でなしに、底に石の多い川の意であらう。「砂川」などといふ例もあつたやうな氣がする。

 見るから淸冽な流が想像される。さういふ淺い川で足を洗ふ。桃の花はその川のほとりに咲いてゐるらしい。桃の句といふと、とかく平遠な農村の景色がつきもののやうであるが、これは多少趣を異にする。

 桃花の趣は梅より櫻よりも明るい。さうして野趣がある。底の見える石川の流に日がさして、きらきら光るあたりに足を浸して洗ふなどは、慥に桃と或調和を持つてゐる。

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