柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(12)
水うてば夕立くさき庭木かな 芝 柏
一日照りつゞけた庭に水を打つ。立木と云はず、草と云はず、石や土のたぐひからも、一齊に一種の氣が立騰る。あの氣を感ずるのは第一に嗅覺であるが、それが何に似てゐるかと云へば、夕立の降りはじめに感ずる匂に外ならぬ。「夕立くさき」の一語は穉拙だけれども、ちよつと他に換ふべき言葉が見當らない、穉拙なりにその感じを道破してゐる。
かういふ句に比べたら、太祇の「水打て露こしらへる門邊かな」の如きは巧であらう。けれども畢竟巧であるといふに止つて、吾人の感覺に訴へて來るところは何も無い。のみならず「こしらへる」の語に云ふべからざる厭味を感ずる。實感による穉拙と、厭味を伴ふ巧と――この比較の結果は、已に度々繰返した元祿、天明の對照になり易い。それは一句々々の優劣論でなしに、この兩時代の句の傾向の相異である。特にこの一句に就て多くを談ずるに及ばぬであらう。
[やぶちゃん注:この太祇の句は宵曲の言う通り、品が全くない厭な句だ。]
朝草の鎌利(トキ)立る水雞かな 史 興
「朝草」といふのは朝刈る草の意であらう。「猿蓑」にも「涼しさや朝草門に荷ひ込」といふ凡兆の句があつた。
この句は朝草を刈るべき鎌を硏いでゐる場合らしい。水鄕などの實景であらうか。朝まだきの靜な空氣の中に水雞の聲が聞える、といふ趣である。全體の表現は稍〻不明瞭だけれども、水雞の句としては珍しい方に屬する。
[やぶちゃん注:句のルビは原本のもの。中七は「かま ときたつる」だろう。岩波文庫版は「とぎたてる」とルビする。他にも岩波版はルビに首を傾けたくなるルビが非常に多い。編集部の知的レベル(少なくとも俳諧に対する基礎知識が致命的に欠けている)が甚だ疑われるほどの杜撰さである。
「水雞」は「くひな」で、ここは、鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus ではなく、クイナ科ヒメクイナ属ヒクイナ Porzana fusca であろうと思われる。その理由と博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」を参照されたい。
「涼しさや朝草門に荷ひ込」「猿蓑」では、
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すゞしさや朝草門ンに荷ひ込(こむ)
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と載る。]
藻の花に雲の白みや峯の池 濫 吹
山上の池といふものは、何となく恐しい感じのするものである。山の池で泳ぐのが一番氣味が惡い、といふ話を誰かに聞いた。やはり底が深かつたり、水が冷たかつたりする關係かも知れない。その水につき纏う傳說でもあれば尙更の話である。
この句は峯の池を舞臺としてゐるが、さういふ氣味の惡い空氣には觸れてゐない。そこに藻の花が咲き、白雲が影を落す、夏の日中の靜な樣子を現してゐるだけである。併し場所が峯の池だけに、普通の池沼とは多少趣を異にするものが無いでもない。
[やぶちゃん注:揚げ足を取る気持ちは全くないが、宵曲の「藻の花」は戴けない。句を引用しているのだから、うじゃうじゃ言いたくはないが、ここは『水草の「花」』ぐらいにして欲しい。通常、淡水の池にあって「花」をさかせる種は、まず、「藻類」ではなく、池となると、松藻(被子植物門マツモ目マツモ科マツモ属マツモ Ceratophyllum demersum 辺りであろう。個人的には白く可憐な梅花藻(双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属バイカモ亜属イチョウバイカモ変種バイカモ Ranunculus nipponicus var. submersus )をイメージしたくなるのだが、バイカモは流水でないと棲息出来ないからアウトである。]
靑すだれ黑齒つけつけの咄かな 山 鳳
鐵漿[やぶちゃん注:「かね」或いは「おはぐろ」。句の「黑齒」は「かね」であろうから、ここも以下で述べるように「かね」と読みたい。]といふものは今の吾々には全く親しみが無い。先日圖らずも齒を染めた老婆を往來で見たが、周圍の世界と全くかけ離れた感じであつた。
川柳子は鐵漿に關する觀察をいろいろな點から試みて居り、デツサンとして面白いものもあるが、未だ一幅の畫圖を成すに至つてゐない。この句は靑簾を垂れたところに、鐵漿をつけながら誰かと話をしてゐる女を描いたので、大してすぐれた句といふでもなし、好畫圖といふほどでもないけれども、全體がちやんと纏つてゐる。川柳と俳句との相異は、かういふ扱ひ方の上にも認められる。
「黑齒」はやはり「カネ」と讀むのであらう。「黑齒つけつけ」といふ言葉によつて、その女の樣子、鐵漿をつけるのに相當時間を要することなども想像出來る。「つんぼかと覗けばかねをつけてゐる」「稍しばしあつてお齒黑返事する」などといふ川柳は、この句を解する上に多少參考になる。
夜に入て雨を呼出す水雞かな 源 五
日が暮れてから一しきり水雞の聲が聞えてゐたかと思ふと、やがて雨が降つて來た、といふやうな場合であらう。水雞が啼き、而して雨が降る、といふ自然の現象を、水雞の聲が雨を誘ふものの如く見たのである。「雨を呼出す」の一語は人爲的に過ぎる嫌があるが、季節の上から見て、かういふ事實はいくらもありさうに思ふ。
水雞の句にはこの外にも
夜嵐をおさへて廻る水雞かな 東 推
狐火をたゝきけしたる水雞かな 楚 山
なるかみをしづめて扣く水雞かな 露 川
といふやうに、何か他に働きかけるやうな意味のものがあるけれども、水雞の聲の性質から云ふと、いづれも少し强過ぎるやうである。尤も事實は水雞の聲にさういふ力があるわけではなく、夜嵐や神鳴のしづまつたあとに啼き、狐火の見えなくなつた闇に啼くのであらうが、言葉の意味はどうしても水雞にそぐはぬ憾がある。雨を呼出す水雞は一番平凡かも知れぬが、それだけ無難だとも云ひ得るであらう。
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