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2024/04/21

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(5)

 

   蟲ぼしや掛物そよぐ笹の風 里 揚

 

 蟲干でいろいろな掛物がかけてある。その掛物に庭から風が吹いて來る。「曝書風强し赤本飛んで金平怒る」などといふやうな、えらい風ではない。日中の笹もそれによつてそよぎ、掛物もまたそよぐといふ靜な風である。趣は平凡だけれども、自然なところが棄て難い。

[やぶちゃん注:「曝書」(ばくしよ)「風强し赤本飛んで金平」(こんぴら)「怒る」高濱虛子の明治四一(一九〇八)年八月の句。]

 

   蟲干や葛籠拂へば包熨斗 鶴 聲

 

 これとちよつと調子の似た句に「蟲干や幕を振へば櫻花 卜枝」といふのがある。花見の時用ゐた幕の中に、櫻が散り込んでゐたと見えて、幕を振つたらその花びらが出て來たといふのは、一種の浮世繪趣味で、綺麗な代りに巧に失する嫌がある。葛籠[やぶちゃん注:「つづら」。]を拂つた中から包熨斗[やぶちゃん注:「つつみのし」。]が出て來たのでは、畫にはならぬかも知れないが、それだけ眞實性が强い。吾々はこの眞實性を尊重したいのである。

 

   買や否ものゝ書たき扇かな 秋 冬

 

 說明するまでのこともない、つまらぬ句である。たゞ正面から率直に云つたところが、取得と云へば取得であらう。句を作る者の通弊は、どうしても巧に流れる點に在る。かういふ稚拙な句を故意に作らうとすると、大人が子供の字を眞似したやうになつて面白くない。この句にしても「買や否」の上五字は、單なる初心者には置き得ぬところがある。

 

   蚊屋釣ていれゝば吼る小猫かな 宇 白

 

 水鳥がさへづるといふことは無いといつたら、いや『源氏物語』にあると云つて例を擧げた話が、『花月草紙』に書いてあつた。猫が吼る[やぶちゃん注:「ほえる」。]といふのもざらには無い。例證を擧げる必要があれば、この句なども早速持出すべきものであらう。猫が不斷と違つたやうな聲を出すのを、「吼る」といつたものではないかと思ふ。

 吉村冬彥氏がはじめて猫を飼つた經驗を書いた文章の中に、蚊帳のことが出て來る。この句を解する參考になりさうだから、左に引用する。

[やぶちゃん注:以下は底本では、全体が二字下げである。前後を一行空けた。]

 

我家に來て以來一番猫の好奇心を誘發したものは恐らく蚊帳であつたらしい。どういふものか蚊帳を見ると奇態に興奮するのであつた。殊に內に人が居て自分が外に居る場合にそれが著しかつた。背を高く聳やかし耳を伏せて恐ろしい相恰[やぶちゃん注:「さうがう」。]をする。そして命掛けのやうな勢で飛びかゝつて來る。猫にとつては恐らく不可思議に柔かくて强靭な蚊帳の抵抗に全身を投げかける。蚊帳の裾は引きずられながらに袋になつて猫のからだを包んでしまふのである。此れが猫には不思議でなければならない。兎も角も普通のじやれ方とはどうもちがふ。餘りに眞劍なので少し悽いやうな氣のする事もあつた。從順な特性は消えてしまつて、野獸の本性が餘りに明白に表はれるのである。

蚊帳自身か或は蚊帳越しに見える人影が、猫には何か恐ろしいものに見えるのかも知れない。或は蚊帳の中の蒼ずんだ光が、森の月光に獲物を索めて步いた遠い祖先の本能を呼び覺すのではあるまいか。若し色の違つた色々の蚊帳があつたら試驗して見たいやうな氣もした。

 

 吾々も猫を飼つた經驗は屢〻あるが、不幸にしてかういふ觀察を下す機會が無かつた。猫と蚊帳に就てこれだけ精細な觀察を試みたものは、或は他に類がないかも知れない。宇白の句は僅に「吼る」の一語によつて、猫の蚊帳に對する奇態な興奮を現したに過ぎぬが、とにかく觀察のこゝに觸れてゐる點を異とすべきであらう。

[やぶちゃん注:「水鳥がさへづるといふことは無いといつたら、いや『源氏物語』にあると云つて例を擧げた話が、『花月草紙』に書いてあつた」「花月草紙」は松平定信の作で、寛政八(一七九六)年から享和三(一八〇三)年の間に成立した随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫(西尾実・松平定光校/昭和一四(一九三九)年刊)のここの「八 ことばとがめ」である。それによれば、「源氏物語」の四十五帖「橋姬」の始めの方にある。亡き源氏の異母弟宇治八宮(親王)は世に埋(うず)もれて失意の日々を送っていたが、京の邸宅が焼けたため、宇治に移り住み、大君(おおいきみ)と中君(なかのきみ)を育てているというワン・シークエンス。当該箇所は、

   *

 春のうららかなる日影に、 池の水鳥どもの、羽うち交はしつつ、おのがじしさへづる聲などを、常は、 はかなきことに見たまひしかども、つがひ離れぬをうらやましく眺めたまひて、 君たちに、御琴ども敎へきこえたまふ。いとをかしげに、小さき御ほどに、とりどり、搔き鳴らしたまふ物の音ども、 あはれにをかしく聞こゆれば、淚を浮けたまひて、

「うち捨ててつがひ去りにし水鳥の

    仮のこの世にたちおくれけむ

心盡くしなりや。」

 と、目おし拭ひたまふ。容貌いときよげにおはします宮なり。年ごろの御行ひにやせ細りたまひにたれど、さてしも、あてになまめきて、君たちをかしづきたまふ御心ばへに、直衣(なほし)の萎(な)えばめるを着たまひて、しどけなき御さま、いと恥づかしげなり。

   *

である。

「吉村冬彥」かの寺田寅彦の俳号。国立国会図書館デジタルコレクションの「吉村冬彦鈔」(『青年讀物』第一篇/昭和一一(一九三六)年)上伊那郡教育委員会編刊)が正字正仮名で、活字が大きく読み易い。「鼠と猫」の「四」章の冒頭部分で、ここから。]

 

   しる人の見込て通る蚊やりかな 和 丈

 

 門口を通る人が家の中を覗のぞいて通る。それは知つた人で、家の中を覗いては行つたが、別に立寄もせずに通つてしまつた。夏の晚で家の中には蚊遣が焚いてある、といふ趣である。

 知人の店の前を通る時など、通りすがりに家の中を見込んで、在否を窺ふやうなことは現在の吾々にもある。この句の場合は作者が家の中にゐて、外を通る者の知人たることを認めてゐるのだから、立場は反對になるわけであるが、中を見込んで通る知人の方は、やはり吾々と同じく在否を窺ふやうな心持なのではなかろうか。この句は町家の光景と解したい。

 

   膳棚に鼠早渡る蚊やりかな 河 菱

 

「早渡る」は「さわたる」と讀むのであらう。燈火の暗い家の中には蚊遣の煙が漲つてゐる、膳棚には鼠が傳ひ步く、といふ侘しい感じの句である。「さわたる」といふ言葉は、鼠には少し上品な感じがせぬでもないが、ちよろちよろと傳ふ樣子をよく現してゐる。

 ちよつと見ると夜寒とか、夜長とかの方がふさはしいやうにも思はれる。併し再按するにそれは机上句案の頭で、蚊遣の煙の籠つた家の中に鼠の荒れてゐる樣子は、竟に如何ともし難い實感である。活字で讀む場合の感じだけで是非するわけには行かない。

 

   雨もりも天井ちかき紙帳かな 十 丈

 

 紙帳といふものは釣つて寢た經驗が無いから、何とも云ふことは出來ないが、この句から想像する紙帳の趣は、蚊帳より遙に侘しさうである。天井近い雨もりの跡なども、はつきり眼につくに相違無い。その雨もりの跡を仰ぎながら、紙帳の中に寢てゐる樣子を考へると、甚だ憂鬱になつて來る。實際紙帳に包まれて見たら、はじめて蚊帳にぶつかつた猫のやうに、奇態な興奮を感ずるかも知れぬが、目下のところでは俄に經驗して見たいとも思はない。

 

   供舟はまだ日のあたる涼かな 花 明

 

 まだ日の暮れぬうちに涼み舟に乘つた場合である。自分の舟は比較的岸に近く居り、供舟は稍〻向うに漕出してゐるのであらうか、半ば昃つた[やぶちゃん注:「かげつた」。]水の上に、供舟の人たちが夕日を浴びてゐるのが見える。「供舟はまだ日のあたる」といふ言葉によつて、その間に多少の距離のあることもわかり、水面も此方は稍〻暗く、向うの方が明るい情景も眼に浮んで來る。納涼の本舞臺はまだはじまらぬのであるが、晚涼の氣は已に四邊に動きつゝあることと思はれる。

「供舟」の「供」は深く文字に拘泥せず、「友舟」と同程度に解して然るべきであらう。

 

   涼風や障子にのこる指の穴 鶴 聲

 

「おさなき人の早世に申遣す」といふ前書がついてゐる。この句に就て思ひ出すのは、小泉八雲が「小さな詩」の中に譯した「ミニシミルカゼヤシヤウジニユビノアト」といふ句である。この句の作者は誰か、八雲の俳句英譯に關する最も重要な助手であつた大谷繞石氏が、この句の下に(?)をつけてゐるのを見ると(全集第六卷)或は出所不明なのかも知れない。ケーベル博士が日本の詩歌について語つた中に

  おお、「障子」の孔を通つて來る風の寒いこと、

  私は硬くなる――これもお前の小さい指の仕業だ!

とあるのは、何に據つたものかわからぬが、やはりこの句を指したものであらう。

 身に入むといふことは、俳句では秋の季になつている。「ミニシミル」の句は前書が無いと意味が十分に受取りにくいけれども、八雲の云ふ通り、「死んだ子を悼んで居る母の悲みを意味して居る」ことは想像出來る。障子の「軟かい紙へ指を突込んで破るのを子供は面白がる。すれば風がその穴から吹き込む。この場合、風は實に寒く――その母の心の底へ――吹き込むのである。死んだその子の指が造つた小さな穴から吹き込むからである」といふ說明も、西洋人に對しては無論必要であらう。たゞこの說明に從へば、この句は冬らしくなる。近頃のやうに障子を冬の季と限定してかゝれば差支無いが、昔の句としては、やはり「身に入む」によつて秋と解すべきではあるまいか。

 作者不明の「ミニシミル」の句は、この「涼風」の句から生れたものかどうか、今俄に斷定しがたいけれども、一句として見る場合には殆ど比較にならぬものである。實際のところ「身に入みる風」と云ひ、「指のあと」と云ただけで、子供の破つた障子の穴から寒い風が吹き込むと解釋するのは、いさゝか骨が折れる。それが亡くなつた子供の指の痕で、その爲に一層身に入みて感ぜられるのだ、と云ふに至つては、前書無しには不可能な話である。八雲が易々としてさう解し去つたのは、何かその意味を補ふだけの前提があつたものと見なければならない。

 そこへ行くと「涼風」の句は第一にちやんと前書がついてゐる。これによつて作者は自分の亡兒を思ひ出してゐるのでなしに、他人が子を失つたのに同情してゐるのだといふことがわかる。

 第二にこの場合の障子は夏の障子で、しめ切つて中に籠つてゐる場合ではない。涼風はその穴から吹入るものと解せられぬこともないが、夏のことだから明放してあつたとしてもいゝ。卽ちこの「指の穴」は眼に訴へるので、その穴から吹込む風が身に入む、といふほど深刻ではないのである。第三に「のこる」といふ一語が前書と相俟つて、世に亡い子供の殘した形見であることをよく現してゐる。子供は世の中に殘す痕跡の少いものだけに、僅なものが親の心を捉へずには置かぬのである。一茶が亡兒を詠じた「秋風やむしり殘りの赤い花」でも、子供がむしり殘した花といふところに、綿々たる親の情が籠つてゐる。この句の生命は繫つて「のこる」に在るといつても、過言ではあるまいと思ふ。第四に――もう一つ附加へれば、「指のあと」といふ言葉は「指の穴」の適切なるに如かぬであらう。畢竟「のこる」といふ言葉を缺いたから「あと」と云つてその意を現そうとしたものであらうが、その點は不十分な嫌がある。

 障子の穴から吹込む風が身に入みることによつて、今更の如く嘗てその穴をあけた亡兒を思ひ出すといふのは、一見悲痛な感情を描いたやうで、眞に凄涼なものを缺いてゐるのを如何ともすることが出來ない。鶴聲が他人の上を思ひ遣るに當つて、障子の穴を點出したのは、この意味において遙に自然である。俳句が强い人情を詠ずるに適せぬことは、先覺の夙に說いてゐる通りだから、繰返す必要もあるまいと思ふ。

[やぶちゃん注:『小泉八雲が「小さな詩」の中に譯した「ミニシミルカゼヤシヤウジニユビノアト」といふ句である』私の「小泉八雲 小さな詩 (大谷正信訳)」を見られたい。因みに、私はブログ・カテゴリ「小泉八雲」で、彼の来日後の総ての作品の訳注を終わっている。

「大谷繞石」英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年:パブリック・ドメイン)の俳号。松江市生まれ。松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされる)。また、京都三高在学中に虚子や碧梧桐の影響から句作を始めて子規庵句会に参加、繞石(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。

「ケーベル博士」(Raphael von Koeber ラファエル=フォン・ケーベル 一八四八年~大正一二(一九二三)年)はドイツの哲学者・音楽家。ロシア生まれ。明治二六(一八九三)年、帝国大学文科大学講師として来日。以後二十一年間、東京帝大で哲学・美学を講義し、また、東京音楽学校でピアノを教えた。超越的汎神論の立場をとり、日本哲学界に大きな影響を与えた。横浜で没した。著書に「E==ハルトマンの哲学体系」などがある。

『おお、「障子」の孔を通つて來る風の寒いこと、私は硬くなる――これもお前の小さい指の仕業だ!』ケーベルの随筆「私の觀た日本」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫「ケーベル博士隨筆集 改訂版」(久保勉譯編・昭和二一(一九四六)年)で正字正仮名で視認出来る。右ページの冒頭の一章。

「秋風やむしり殘りの赤い花」一茶五十六の時、初婚の菊との間に生まれた娘さとを疱瘡で亡くした(文政二年六月二十一日)。その三十五日に当たる墓参りで詠じたものが、「おらが春」には、

 秋風やむしりたがりし赤い花

の形で載る。宵曲の引用元は文政版「一茶發句集」所収の句形であるが、「むしりたがりし」の方が遙かにいい。「涼風や障子にのこる指の穴」との字面上の通性を考えて、この句を採ったのだろうが、「むしり殘りの」は、病臥と死後の有意な時間経過から事実毟り残した赤い花の名残ではない換喩となってあざといと私は思う。ここの宵曲の句選びには、賛同出来ない。]

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