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2024/04/28

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 檜

 

Hinoki

 

ひのき   檜

      【和名非

【音膾】  言心ハ火乃木也】

       幸種【倭俗

        左木久佐】

クワイ

 

字說云檜葉與身皆曲以曲會名檜【樅葉與身皆直以直從名樅也】詩經

檜揖松舟是也

△按本草綱目柏葉松身者檜也其葉尖硬一名栝【又圓柏】

 蓋此時珍誤檜與栝二種相混註之乎檜葉不尖硬而

 似柏葉而肥厚有繩文柏直枝檜曲枝其樹相摩則有

 出火故名火木其實纍纍似杉實而無刺又有無實者

 今人盛饅頭器鋪檜葉不知其㨿焉其材白濃密無橒

 而美也能可堪水濕宜爲屋柱宜作箱器最良材也皮

 以覆宮屋謂之檜皮葺土州之產堅而宜柱材尾州之

 產柔而宜噐木

一種阿須檜 似檜而木心似柀爲噐脂出不佳此與檜

 只如有一夜之差乎匠人用僞檜【又阿須奈呂】卽柏木也

                          西園寺入道

  夫木 君か代を我立杣に祈りおきてひはら杉原色もかはらし

    此殿はむへも富みけりさき草のみつはよつはに殿作りして

五雜組云孔子廟中檜歷周秦漢𣈆幾千年至懷帝永嘉

三年而枯三百九年子孫守之不敢動至隋恭帝時復生

五十一年至唐髙宗時再枯三百七十四年至宋仁宗時

復榮至金宣宗時兵火摧折後八十二年至元世宗時故

根復生至明太祖洪武二年凡九十六年其髙三𠀋有竒

至明弘治巳《✕→己》未爲火所焚今雖無枝葉而未嘗枯也聖人

手澤其盛衰關於天地氣運豈可得思議乎

 

   *

 

ひのき   檜

      【和名「非《ひ》」。

       言心《いふこころ》は「火の木」なり。】

【音膾】

       幸種《さきくさ》【倭俗、

        「左木久佐《さきくさ》」。】

クワイ

 

「字說」云はく、『檜は、葉と身と、皆、曲る。曲會《きよくくわい》を以つて「檜」と名づく【樅は、葉と身と、皆、直《す》ぐなり。直ぐに從ひて、以つて、「樅」と名づくなり。】。「詩經」に、『檜の揖(かひ)の松の舟』と云ふ、是《これ》なり。

△按ずるに、「本草綱目」に、『柏の葉、松の身なる者は、「檜」なり。其の葉、尖り、硬《かた》し。一名、「栝《かつ》」【又、「圓柏《ゑんぱく》」。】』≪と≫。蓋し、此れ、時珍、誤りて、檜(ひのき)と栝(びやくしん)と、二種、相混《あひこん》じて之れを註するか。檜の葉は、尖り硬からずして、柏《かしは》の葉に似て、肥厚《し》、繩文《じやうもん》、有り。柏は、直枝、檜は、曲枝。其の樹、相摩(《あひ》す)る時は、則ち、火《ひ》、出づること有り。故に「火の木」と名づく。其の實《み》、纍纍として、杉の實に似て、刺《とげ》、無し。又、實、無き者、有り。今の人、饅頭を盛る器《うつは》に檜≪の≫葉を鋪(し)く。其の㨿《よるところ》を知らず。其の材、白く、濃密なり。橒(もく≪め≫)無く、美(うつく)し。能く水濕に堪ふべく、屋柱に爲るに宜《よろ》しく、箱・器に作る≪も≫宜≪しく≫、最も良材なり。以つて、宮屋《きうをく》を覆ふ。之れを「檜皮葺(ひわだぶき)」と謂ふ。土州の產、堅くして、柱材に宜し。尾州の產は、柔かにして、噐≪の≫木に宜し。

一種「阿須檜(あすひ)」 檜に似て、木≪の≫心、柀(まき)に似たり。噐に爲《つく》る≪も≫、脂《あぶら》出でて、佳ならず。此れ、檜と、只だ、「一夜の差(ちが)ひ」有るか。匠人《たくみ》、用ひて、檜に僞《いつは》る【又、「阿須奈呂《あすなろ》」。】。卽ち、柏木(このてがしは)なり。

                  西園寺入道

 「夫木」君が代を我が立つ杣(そま)に祈りおきて

              ひばら杉原色もかはらじ

     此の殿はむべも富みけりさき草の

             みつばよつばに殿作りして

「五雜組」に云はく、『孔子廟の中の檜(ひのき)、周・秦・漢・𣈆[やぶちゃん注:「晉」の異体字。]を歷(へ)て、幾千年、懷帝永嘉三年に至りて、枯れて、三百九年、子孫、之れを守り、敢へて動かさず。隋の恭帝の時に至りて、復《ま》た、生(は)へ、五十一年にして、唐の髙宗の時に至りて、再たび、枯れ、三百七十四年して、宋の仁宗の時に至りて、復た、榮《さか》ふ。金(きん)の宣宗の時に至りて、兵火《に》、摧(くじ)き折(を)れて後、八十二年、元の世宗の時に至りて、故根(ふる《ね》)、復た、生じ、明(みん)の太祖洪武二年に至りて、凡《すべ》て、九十六年。其の髙さ、三𠀋有竒《あまり[やぶちゃん注:二字への読み。]》。明(みん)の弘治己未に至りて、火の爲(ため)に焚(や)かるる。今、枝葉、無しと雖も、未だ嘗つて枯れざるなり。聖人の手澤《しゆたく》、其の盛衰、天地の氣運に關(あづか)る。豈《あ》に、得て思議《しぎ》すべけんや。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:前回同様、同一漢字が、中国と当時の日本とでは、種が異なることが判らずに読み解いている。ちょっと良安が可哀そうな感じがしてくる。東洋文庫の後注にも、『現代の植物学界では、日本のヒノキに当るものは中国になく、中国でいう檜とは日本のヒノキ(ヒノキ属)ではなくビャクシンまたはイブキ(ビャクシン属)とされている。どうやら良安は『本草綱目』の檜を日本のヒノキと同じとして言をすすめているようにみえる』とある。本邦の「檜」=ヒノキは、日本固有種で中国には自生しない

球果植物(裸子植物)門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa

であるが、当該ウィキによれば、『日本の固有種であり』、『本州の福島県以南、四国、九州の屋久島まで分布する』。『スギ』(ヒノキ科スギ亜科スギ属スギ 属 Cryptomeria japonica )『と分布域は重なるが、北限は福島県でスギよりはやや南の地域となる』。『多雪を嫌うため』、『日本海側にはあまり見られず、スギに比べて分布地は著しく太平洋側に偏る』とある。

 それに対し、「檜」は、中国では、まず、

裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属 Juniperus

を指す。「ビャクシン属」は、現代中国では「刺柏属」である同中文ウィキ参照)。次いで、現代中国では「檜柏」(簡体字では「桧柏」)と書く、

ビャクシン属Juniperus節イブキ変種イブキ  Juniperus chinensis var. chinensis

で、日中では、「檜」の字が想起させる樹種が全く異なることが判明するのである(同中文ウィキ参照。ウィキの「イブキ」も見られたい)。

「字說」北宋の政治家にして著名な文人であった王安石(一〇二一年~一〇八六年)が書いた、漢字の由来を述べた大著で、彼の代表的作品として知られる。初め全二十巻であったが、後に二十四巻となった。漢字研究のバイブルである「說文」の解釈法を採用せず、会意に依って、漢字を説明・解釈する手法を採ったものである。但し、それに拘り過ぎ、牽強付会の弊に陥ったとも評される。中国も探してみたが、ネット上に視認出来るデータがない。

「曲會」樹の葉も幹も、折れ曲がって、相互に絡み合っていることを言う。私の好きなビャクシンはまさに「曲會」に相応しい!

「樅」前回で述べた通り、日本特産種であって中国には分布しない裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科モミ属モミ Abies firma ではなく、これは「馬尾松」=マツ属バビショウ Pinus massoniana であるので、注意!!!

『「詩經」に、『檜の揖(かひ)の松の舟』と云ふ』「詩經」の「國風」の「衞風」に載る「竹竿」。私が教授された故乾一夫先生の『中国の名詩鑑賞』「1 詩経」(昭和五〇(一九七五)年明治書院刊)を参考に以下に原文・訓読・訳を示す。

   *

   竹竿

籊籊竹竿 以釣于淇

豈不爾思 遠莫致之

 

泉源在左 淇水在右

女子有行 遠兄弟父母

 

淇水在右 泉源在左

巧笑之瑳 佩玉之儺

 

淇水滺滺 檜楫松舟

駕言出遊 以寫我憂

 

     竹竿(ちくかん)

 籊籊(てきてき)たる竹竿

 以つて淇(き)に釣る

 豈に爾(なんぢ)を思はざらんや

 遠くして之れを致す莫(な)し

 

 泉源は左に在り

 淇水(きすい)は右に在り

 女子(ぢよし)は行(かう)有りて

 兄弟父母(けいていふぼ)に遠ざかる

 

 淇水は右に在り

 泉源は左に在り

 巧笑(かうせう)の瑳(さ)

 佩玉(はいぎよく)の儺(だ)

 

 淇水は滺滺(いういう)たり

 檜楫(くわいしふ)の松舟(しようしう)

 駕(が)して言(ここ)に出でて遊び

 以つて我が憂ひを寫(のぞ)かん

 

     竹の竿(さお)

長い竹竿で

淇水に魚釣りをする

あなたを恋せぬわけではないが

遠くにあって思いを届ける術(すべ)もない

 

泉水(せんすい)[やぶちゃん注:川の名。]は左(北)にあり

淇水は右(南)にある

所詮 女は嫁に行き

兄弟父母から離れるものだ

 

淇水は右にあり

泉水は左(北)にある

にっこり笑った美しさ

佩(お)び玉(だま)の美しさ

 

淇水の流れはとうとうと

檜(びゃくしん)の櫂(かひ)の松の舟

舟に乗って出でて遊び

恋の憂いを晴らしたい

   *

『「本草綱目」に、『柏の葉、松の身なる者は……』「本草綱目」の「卷三十四」の「木之一」「香木類」の冒頭の「栢」の「集解」の一節。「漢籍リポジトリ」のこちらのガイド・ナンバー[083-2a]の三行目にある。

   *

柏葉松身者檜也其葉尖硬也其葉尖硬亦謂之栝

   *

くどいが、この「檜」はヒノキではなく、ビャクシン属か、イブキとなるが、「栝」は日中辞書では「イブキ」とし、「圓柏」も中文ウィキの「桧柏」(=イブキ)『圓柏』とある。

「橒(もく≪め≫)」木目。

「土州」土佐國。

「尾州」尾張國。

「阿須檜(あすひ)」「阿須奈呂」ヒノキ亜科アスナロ属アスナロ Thujopsis dolabrata

「柀(まき)」ヒノキ目コウヤマキ科コウヤマキ属コウヤマキ Sciadopitys verticillata の異名。

『此れ、檜と、只だ、「一夜の差(ちが)ひ」有るか』ウィキの「アスナロ」の「名称」によれば、『和名であるアスナロの名は、ヒノキに似ているが材としてやや劣るため、「明日はヒノキになろう」に由来するとされることが多く』、古く清少納言の「枕草子」、松尾芭蕉の「笈日記」、現代の井上靖の小説「あすなろ物語」『などでも』、『この意味で記されている』。『しかし、この語源は』、『俗説であり』、『正しくないとされることもあり』、『また』、『材質がヒノキに劣ることはないともされる』。『古くは高貴なヒノキを意味する「アテヒ(貴檜)」とよばれ、これが「アスヒ(阿須檜)」になり、「アスナロ」に転化したともされる』。また『西日本では、ヒノキ属のサワラ』(ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera )『をナロとよぶ地域がある』。『また、ヒノキに比べて葉が厚いことを示す「アツハヒノキ(厚葉檜)」から転じたとの説もある』。『青森県などではヒバ(檜葉)』、『石川県ではアテ(档、檔、阿天)』と呼ばれ、『他にも別名が多く、アスナロウ(明日奈郎宇)』アスヒ・アスダロ・アテビ・アスワヒノキ(明日檜)・ツガルヒバ・シラビ(白檜)・オニヒノキ(鬼檜)・クサマキ(草槇)・ラカンハク(羅漢柏)『などがある。青森県や北海道でヒバとよばれるものは変種のヒノキアスナロ』( Thujopsis dolabrata var. hondae )『のことを指していて、渡島半島の檜山地方という地名は、ヒノキアスナロが多いことから来た名前である』とあった。

「卽ち、柏木(このてがしは)なり」球果植物門種子植物亜門裸子植物上綱マツ綱マツ亜綱マツ目ヒノキ科ヒノキ亜科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis (中国北部原産と考えられているが、本邦にも古くから植栽されている)。「柏木」に「このてがしは」とルビすることについて、東洋文庫では割注があって、『コノテガシワとアスナロは別種だが、良安は同じものとしている』とある。

「夫木」「君が代を我が立つ杣(そま)に祈りおきてひばら杉原色もかはらじ」延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集「夫木和歌抄」の「卷廿九」の「雜十一」に所収する。作者「西園寺入道」とは平安末から鎌倉前期にかけての公卿・歌人で従一位・太政大臣の西園寺公經(さいおんじきんつね)のこと。

「此の殿はむべも富みけりさき草のみつばよつばに殿作りして」「古今和歌集」の「序」にあるもので、所謂、「祝い歌」の一種で、元は伝統芸能の催馬楽(さいばら)で歌われるものの一つの一節。「此殿」又は「此殿者」という歌である。

   *

この殿はむべもむべも富みけり三枝のあはれ三枝のはれ

三枝の三つ葉四つ葉の中に殿造りせりや殿造りせりや

   *

「五雜組」既出既注。以下は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここにあるものを参考に示しておく。

   *]

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