譚 海 卷之十四 車造幷大八車の事 鍋釜鑄物家業の事 毒藥賣買の事 書物屋賣買の事 玉子問屋の事
○車造りと云(いふ)者は、古來より、家數(いへかず)、定(さだま)りありて、私(わたくし)に其業をはじむる事、成(なり)がたき物也。
又、大八車と號するは、車の輪木を、八つ合せて造るゆゑ、大八車といふ也。御所車の輪の造方(つくりかた)とは、少し替りたる物の由を、いへり。
[やぶちゃん注:前段の「車」と、「大八車」の違いが判らない。「ベカ車」があるが、これは大坂で用いられた人力台車であり、同時期にそれより大きな「大八車」が併存していた。]
○鍋釜を鑄る家業の者、江戶にては、本所「をなぎ澤」斗(ばかり)也。其外は、武州足立郡川口村に數軒あり。
しかしながら、鍋釜の免狀を所持せし者は、「をなぎ澤」に壹人、川口に三人ならで、なし。
天明七年、京都より御改(おあらため)有(あり)て、川口の鑄物師三人の外は、暫く、家業をやめ、免狀を取(とり)に上京する事に成(なり)たり。
「公訴に及(および)しかども、右の裁許に仰付られたり。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「本所」「をなぎ澤」小名木川の貫流するこの附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)かと思われる。
「武州足立郡川口村」現在の埼玉県川口市の市街部か。
「鍋釜の免狀」底本の竹内利美氏の後注に、『中世の座の伝統をひいて、鋳物師仲間には、京都から特免の書状を下附される要があった。偽綸旨などを原拠とする特免状ではあったが、これを所持することが正統の鋳物師の証明になっていた』とある。
「天明七年」一七八七年。]
○毒藥に類したる物、數品(すひん)有(あり)。皆、等閑(なほざり)に商賣せず。病(やまひ)により用(もちゆ)る事有(ある)時は、
「何の病に用る」
よし、一札を出(いだ)し、藥種屋にて、聞濟(ききすみ)、賣渡す也。
○書物、何にても、草稿出來る時は、
「右の書物 開板商買仕度(したき)」
由、公儀へ書上(かきあげ)、免許有(あり)て、賣出す事也。
○天明八年五月、從二町奉行所一被二仰出一候書面。
玉子問屋の儀は、御用玉子相納候玉子屋共廿七人に限り、直荷物引受問屋商賣可ㇾ致、其外の者は右廿七人の問屋どもより、買請可ㇾ致二商買一趨趣に、先年より相定り有ㇾ之。就ㇾ中去未七月中右玉子や廿七人の外、直荷物引受候者有ㇾ之候はば、及ㇾ見及ㇾ聞次第、早速可二訴出一旨、廿七人の玉子や共へ申渡置候得ども、町人一統には其旨不二相心得一候や、素人にて玉子直荷物引受隱賣致し、或は途中へ出迎ひ、山方より玉子荷物持出し候持[やぶちゃん注:この「持」は衍字っぽい。]人足の者へ致二相對一荷物直段せり上買請、又は田舍へ直買に出し、商賣致候類有ㇾ之趣相聞え候。左候へば定にも不二相叶一御用の御差支に相成、其上直段もせり上買請候故自然とせり上、玉子直段も近年は殊の外高直に相成、旁不ㇾ可ㇾ然義に有ㇾ之候間、先年定有ㇾ之通、以來右廿七人玉子問屋共の外、決て玉子直荷物引受申義は勿論、田舍へ直買に出し、或は途中出迎ひ、山方より持出候直荷物せり買致候類一切致間敷候。若直荷物引受度候はば、御用玉子問屋廿七人の者と對談いたし、仲ケ間[やぶちゃん注:「なかま」「仲間」であろう。]へ入、引請候荷物玉子撰立所へ其儘差出し、御用玉子撰出相殘り候分、可ㇾ致二商頁一候。其外町中玉子商賣致候者共は、御用相納候玉子問屋廿七人より、買請可ㇾ致二商賣一候。若相背候者於ㇾ有ㇾ之者急度可二申付一候。此旨可二申渡一候。
[やぶちゃん注:下知状であるので、手を加えずにそのままとした。
「天明八年」一七八八年。
「去未七月」前年天明七年丁未(ひのとひつじ)。]
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