譚 海 卷之十四 信州より三州へ往來關所の事 日蓮宗派の事 上方穢多の名目の事 駿州猿𢌞し 芝居狂言の者御關所手形事 宇治黃檗山住持の事 禁中非蔵人の事 同御佛師の事 江戶神田犬醫者の事 京都米相場の事 京・大坂非人・穢多の事 京西陣織の價の事 禁裏公家町の草掃除の事 京壬生地藏狂言の事 下野栃木町の事 附馬九郞武田うば八の事 琉球人朱の事 御鷹雲雀の事 婦人上京のせつ御關所手形の事 江戶商家十仲ケ間の事 爲登船荷物問屋の事 江戸より諸方へ荷物附送る傅馬の事 / 譚海卷之十四~了
[やぶちゃん注:「駿州猿𢌞し」はママ。「(の)事」がないのは特異点。]
○「草津の湯より信州へ越(こえ)る所に、かり宿新田といふ所に關所あり。此關所は上州あがつま郡なるに、上州の女は通(とほ)す事、ゆるさず。信州の女は其所(そこ)の名主の判形(はんがた)にて往來を禁ぜず。昔より右の次第也。」
と云(いふ)。
[やぶちゃん注:「かり宿新田」これは現在の群馬県吾妻郡高山村中山のここに(「中山宿新田本陣の大けやき」をポイント。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)があるが、位置的に「信州へ越る所」ではないから違う。さらに調べると、信州に通う吾妻郡内の関所或いは宿駅を探してみたところ、草津の東の境は高い山脈で、通行が当時は非常に困難と思われたため、南に下がって探してみたところ、やっと、群馬県吾妻郡長野原町(ながのはらまち)応桑(おおくわ)に残る「旧狩宿茶屋本陣」というのを発見した。「『新田』の地名もなけりゃ、関所でもないじゃないか!」という御仁のために、当該部の「ひなたGPS」の地図の方をお見せする。まず、国土地理院図の方に現在の桑応地区に相当するど真ん中に『新田』の地名がある。そうして、戦前の地図を見ると、『桑應』地区名の直ぐ左下に『關趾ノ樅』ってのが、ある。而してこれは、旧狩宿茶屋本陣の旧区域に含まれることは間違いない。ここで決まりである。]
○日蓮宗に「八本勝劣」と云(いふ)は、駿河國岡の宮、興長寺と云(いふ)根本[やぶちゃん注:「根本道場」。]也。「四卷法華」と云は、駿河富士郡北山村、本門寺根本にて、廿八品(ほん)の内十四品を用ゆ。初の釋文を捨(すて)、後の本文十四品を用(もちゆ)る也。「壹品勝劣」は得量品ばかりを用ゆ。富士の大石寺根本にて、衣も鼠衣也。又、阿佛といふ有(あり)。佐渡國より、はじまりたる日蓮宗なり。差別、分明ならず、身延山廿八品を、さながら用るなり。
[やぶちゃん注:「八本勝劣」日蓮宗の「勝劣派」を作る一派。「法華経二十八品」では、後半の「本門」が勝れ、前半の「迹門」 (しゃくもん) が劣ると説くもの。現在の法華宗本門流・法華宗陣門流・顕本法華宗・本門法華宗・法華宗真門流・日蓮正宗などがそれに当たる。対して「一致派」があり、こちらは「法華経」の「迹門」と「本門」と に説かれる理りは、一致したものであって、勝劣はないと説くもので、現在の一般的な日蓮宗はこれに該当する。なお、私は無神論者であるが、思想家としては親鸞を最も高く評価し、巧妙なプロパガンダに長じ、エピソード形成に巧みであった実践的宗教者としての日蓮を次に面白いと感じている人種である。
「駿河國岡の宮、興長寺」静岡県沼津市岡宮(おかのみや)にある法華宗本門流の大本山光長寺(こうちょうじ)の誤りだろう。
「駿河富士郡北山村、本門寺」静岡県富士宮市北山にある日蓮宗七大本山の一つで、日興の法脈を継承した富士門流の富士山法華本門寺根源。]
○上方には穢多(ゑた)の異名を、「けど」と云(いふ)也。隱遊女(かくしいうぢよ)などを捕(とらふ)るに、上方にては同心衆をば。やらず、穢多をして、とらへしむる故、
「『けど』が入(いり)たる。」
と云(いふ)也。
[やぶちゃん注:「隱遊女」非合法の遊女。俗に「夜鷹」「比丘尼」「ころび芸者」「惣嫁」(そうか)「ぴんしょ」「茶屋女」「隠し売女(ばいた)」などとも呼んだ。捕縛された彼女らは新吉原へ交付され、二年の年季を勤めさせられた。]
○駿河國に、猿𢌞(さるまはし)、二村、住所(すむところ)、有(あり)。此者、春は、猿を帶(たいし)て、人家に到(いたり)て猿を舞(まは)せて、錢をもらひ、秋は茶筅(ちやせん)を拵へて、民家に贈り、麥(むぎ)にかへて、もらふて歸る。「穢多の下にあるもの」のよし。世に「茶せん」と唱(となふ)るものあるは、此等の輩(やから)なるにや。
○芝居狂言をつとむる戲者、京・江戶往來の時、道中、御關所手形は、みな、穢多の頭(かしら)より貰(もらひ)て、往來する也。江戶より上京するには、淺草團左衞門、手形をいだす也。京郡より江戶へ下るには、四條智恩院橫町に住する穢多の頭(かしら)天部(あまべ)より、手形を出(いだ)す也。
[やぶちゃん注:「四條智恩院」浄土宗総本山知恩院。
「穢多の頭天部」「青空文庫」の喜田貞吉「えた源流考」によれば(書誌・初出はリンク先の最後の「底本」データを見られたい)、『今の天部(あまべ)部落は、もとこの鴨河原の住民で、後に四条河原の細工とも呼ばれ、やはりここで放牧葬送の地の世話をしておったのがその起原であったかと察せられるのである。これらの島や鴨河原へ、餌取(えとり)や余戸(あまべ)の本職を失ったものが流れ込んで、所謂河原者をなし、その或る者はエタと呼ばれ、或る者は天部(あまべ)と呼ばるるに至ったものではあるまいか。しからば所謂「エタの水上」なる京都に於いては、もと鴨河原や島田河原の葬送や放牧の世話をしていたものに、餌取・余戸等の失職者が落ち合ったのを以て、所謂エタ源流中の本流とすべきものと解せられる。その中にも、「穢多の始は吉祥院の南の小島を以て本と為す」という「雍州府志」の記事は、ここがエタ最初の場所だと語り伝えられていたものと思われる』とある。その被差別民の支配頭目を同じく「天部」と呼んだもののようである。]
○宇治黃檗山、萬治年中開基より、今、寬政に至る迄、百三十年餘に及ぶ間、開山隱元禪師より住持の僧廿三人也。此内十八人は唐山の僧、五人は日本の僧住持す。
此比(このごろ)に至つて、來朝唐山の僧、なければ、已來は、日本の僧のみ住持する事に成(なり)たりと聞ゆ。
「柴山よりも願(ねがひ)に因(より)て、彼(かの)國へも仰遣(おほせつかは)されぬれど、近年、來朝僧、なし。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「宇治黃檗山」京都府宇治市にある黄檗宗の大本山黄檗山萬福寺。当該ウィキによれば、『万治元』(一六五八)年、明の渡来僧『隠元は江戸へおもむき、第』四『代将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し』万治三年には、『幕府によって山城国宇治にあった近衛家の所領で、後水尾天皇生母中和門院の大和田御殿があった地を与えられ、隠元の為に新しい寺が建てられることになった。ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初』、三『年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局』、『日本に骨を埋めることとなった』。『寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元』(一六六一)年に『開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝』七(一六七九)年『頃にほぼ完成した』とある。]
○禁裏院中等の御用、武家より辨ぜらるゝには、非藏人(ひくらうど)といふもの、取次で御用かゝりの公家衆へ、申述(しんじゆつ)す。此非藏人といふもの、無官にて、禁裏ヘ參内の路次(ろし)は、上下(かみしも)にて參り、禁中詰所にて、衣官[やぶちゃん注:底本では「官」の右に編者補正注で『(冠)』とある。]に着代(きがへ)てつとむる也。尤(とちと)も、衣官も無位の裝束なれば、木綿の樣なる直衣(なほし)を着る也。
此非藏人の中(うち)、古老壹人、每年元日には天子を拜し奉る。
此古老、年限ありて、「卿藏人」と云(いふ)物に成(なり)て勤め、又、年月をへて「古藏人[やぶちゃん注:底本では、この右に編者補正注で『(召次)』とある。]」と云物に被ㇾ成(なされ)、又、年月を勤(つとむ)れば、「極﨟(ごくらう)」といふ物に成(なる)也。
極﨟、昇進するには、五位の官を賜(たまは)る。極﨟を勤むる年限ありて、三位に敍せられ、始(はじめ)て公卿と同班(どうはん)の列に成(なる)なり。
凡俗より殿上する事、其家にあらずして昇進するは、非藏人ばかり也。
されども、かく年月を重(かさね)ざれば、昇進成(なり)がたき事ゆゑ、至つて、かたき事にて、長壽の人ならでは、成(なし)がたき事、とぞ。
[やぶちゃん注:「非藏人」既出既注だが、再掲すると、江戸時代、賀茂・松尾・稲荷などの神職の家や、家筋のよい家から選ばれ、無位無官で宮中の雑用を勤めた者。]
○禁裏の御佛師は、七條左近といひて、世々、上京(かみぎやう)に住す。諒闇(りやうあん)御中陰の中、禁裏御法事の本尊、日々、かはる事なるを、此左近、其日の佛像を、かはがはる、調進する斗(ばかり)の御用勤(ごようづとめ)斗(ばかり)にて、平日、閑暇のくらしにてあれども、中古已來、家の例によりて如ㇾ此有(ある)事也。
[やぶちゃん注:「諒闇」「諒陰」「亮陰」とも書き、「らうあん(ろうあん)」とも読む。「諒」は「まこと」、「闇」は「謹慎・慎み」の意、「陰」は「もだす」で、「沈黙を守る」の意。天皇が、その父母の死にあたり、喪に服する期間。また、天皇・太皇太后・皇太后の死にあたり、喪に服する期間を指す。]
○江戶神田柳原土手内(うち)に、「犬醫者」といふもの、一人、拜領屋敷、給はり、住居す。
是は寶永中、公(こう)の犬を大切に被二仰付一候より、出來たる醫者にて、今時(こんじ)は、一向、無用の人なれども、其節被二仰付一たる儘にて、ある事也。
拜領屋敷も、殊の外、大きなる所なれども、「犬醫者」の名、惡(あしく)て、おのづから、屋敷沽劵(やしきこけん)も下直(げぢき)なる事、とぞ。
「其餘の御用と云(いふ)は、御鷹の犬の療治を役にする事のみ也。右御鷹犬、療治料として、上(かみ)より、別段に、壹ケ年に金三兩づつ賜ふ。夫(それ)を、今は、其儘、御鷹匠の方(かた)へ送りやりて、あの方にて、犬の療治、合細[やぶちゃん注:「がつさい」。一切「合切」(いっさいがっさい)の誤字であろう。]、賴み遣す事(こと)故、殊更に鷹犬の療治をする事には非ず。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「寶永中」一七〇四年から一七一一年(宝永八年)。犬公方綱吉は宝永六年一月十日に逝去している。ウィキの「生類憐みの令」によれば、『綱吉は死に臨んで世嗣の家宣に、自分の死後も生類憐みの政策を継続するよう言い残したが、同月には犬小屋の廃止の方針などが早速公布され、犬や食用、ペットなどに関する多くの規制も順次廃止されていった』。但し、『牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護など、継続した法令もある。また、将軍の御成の際に犬や猫をつなぐ必要はないという法令は綱吉の死後も続き』、これは第八『代将軍』『徳川吉宗によって廃止されている』。『鷹狩が復活したのも、吉宗の代になってからである』。家宣が「生類憐みの令」を『撤回したのを農民は喜んでいた』とある。]
○京都の米相場は、大坂堂島にて、肥後米の直段(ねだん)をしるして、江州大津へ送る。其直段に、大津にて、江州の米直段を引合)ひきあは)せ、高下(かうげ)して、京へ送りて、京都の米相場は極(きま)る也。
○京都の乞食は「非田兒(ひでんじ)」といふ。穢多をば「天部(あまべ)」と云(いふ)。「非田兒」は非田院村に住する故、かく、いへり。穢多は、天部村に住する故、かく、いふ。鴨川北岸に非田院村あり、今は此村に「溜(ため)」の牢を置(おく)るゝあひだ、「非田兒」、牢守にせらるゝ故、爰に聚落して居(を)る也。
非田院村に、つゞきて、上天部村、有(あり)、爰(ここ)に穢多の部落あるゆゑ、都(すべ)て、穢多の總名を、よんで、「天部」といふ也。
京都に、上下(かみしも)の「天部村」、有(あり)。下の天部村は、大佛の邊にあり、此天部にも、穢多、住居する、おほし。
大坂の非人をば、「かいと」といふ。「垣外」と、文字には、かく。「常の人に異(こと)なる」心にて、「かいと」と書(かく)也。
「垣外」四箇所の「長吏」の支配なり。「長吏」とは、穢多の事を、大坂にて、いふ。大坂、邊土の四方に分れて居(を)るゆゑ、「四ケ所の長吏」とは、いふなり。
[やぶちゃん注:「かいと」は「ほかひびと」(ほかいびと)の縮約であろう。通常は「乞兒」で、これは「家の戸口に立ち、祝いの言葉を唱えて物を乞い歩いた人」を指す語であったものが、乞食のみでなく、渡り歩く芸人を広く指し、広く被差別民の卑称となった。「垣外」は意訳の当て字であろう。]
○京西陣にて織出(おりいだ)す反物、至つて價(あたい)、廉(れん)に、渡世に引(ひき)あはぬほどなれども、かさ[やぶちゃん注:「量(かさ)」。]を織出すをもて、渡世とする也。たとへば、大機(おほはた)を織(おる)とき、上の二階に居(ゐ)て、絲をさばく事をするもの、壹人づつ、織人の外(ほか)に、あり。此一日の雇ひ錢、十六文づつ也。其節、絲をくり、絲を染(そめ)、種々(しゆじゆ)の事に價の費(つひへ)、多く懸る事(こと)故、隨分、廉に、やとひものせねば、賣物(うりもの)に引(ひき)あはず。
たとへば、羽二重(はぶたへ)壹反、種々の事に、あたひのかゝりたるを集め、織あぐる手間(てま)迄も勘定して、壹兩壹步貳朱餘(あまり)かゝりて出來る事なれども、賣捌(うりさばく)あたひは、壹兩貳步より、高價(たかね)には售(うり)がたし。
是(これ)にあはせて、おもへば、「織(おり)や」の辛苦、はなはだ、利分、すくなきには、引合(ひきあひ)かぬれども、高價に至るをおそれて、「あたひ」を原(もと)にして、諸事の費・やとひ人までをも、賤(いやし)くなして仕上(しあぐ)る事、とぞ。
西陣に、「機のせわり」といふ者ありて、常に、あたひを制して、貴(たか)くせず、甚(はなはだ)吟味する事也。
「『せわり』とは京の方言にて、關東の詞(ことば)には、『世話役』と云ふ事と、おなじ。」
と、人の、かたりぬ。
○禁裏公家町の掃除、草を芟(かる)事は、御所の近邊の、六町より、賦(ふ)にて勤むる事也。六町にて請負(うけおひ)の者を立(たて)て、草をひかせなど、する。此請負料、はなはだ廉なる事なれども、草を、又、田地の「こやし」にうり[やぶちゃん注:「うる」(賣る)の誤記か誤判読。]なるゆゑ、廉にて、請負來(きた)る、といふ。
○京壬生(みぶ)地藏尊の狂言は、「桶取(をけとり)」と云(いふ)、濫觴也。其餘の狂言は、のちのち、能の狂言にならひて拵(こりらへ)たる物、といふ。
始(はじめ)は、猿を集(あつめ)て狂言をなしける故、元來の名目は「猿狂言」と云(いふ)也。
「桶取」の由來は、昔、地藏尊、
「堂守の信を、敎化(きやうげ)し給(たまは)ん。」
とて、三(み)つ指(ゆび)不具の女と化(け)して、每夜、地藏に、「あかの水」を桶に入(いれ)、かしらにささげ來(きたり)て供養しけるが、此女、もとより、容貌、美麗成(なり)しかば、堂守の僧、懸想(けさう)して、いひより、言葉を盡して、くどきける時、女、此三つ指を示(しめし)て、かたわなるよしを告(つげ)けるにより、僧の心、本心にかへりて、成道(じやうだう)しけるより、「桶取」の狂言を、たくみいだせる也。
「されば、今も『桶とり』の狂言には、三つ指をもて、桶をさゝへ、出(いづ)るを、故事とする事。」
と、人の語りぬ。
[やぶちゃん注:「猿を集(あつめ)て狂言をなしける故」私は、寡聞にして、こんな話は聴いたことがない。後代には「猿回し」がそうした演芸をしたことはあったが、これは、狂言の原型となった「猿楽」に引っ掛けて、津村に語った話者が、面白おかしく作り話をしたのではないか?
「京都の壬生狂言の代表曲目の一つ。老人(隠居、出家、大尽ともいう)が美女に言い寄って一緒に踊っている所へ、老妻が来て嫉妬するという筋。「京都大好き隆ちゃん」のブログ『京都壬生大念佛狂言(その4)「桶取(おけとり)」』に、より詳しい解説と写真が載るので、見られたい。]
○野州栃木は領分也。陣屋は新田と云(いふ)三里わきに有(あり)。栃木の町は廿町餘あり、繁昌の地にして富饒(ふぎやう)の者、多し。皆、江戶へ交易して生活をなす。
江戶小網町河岸より、栃本迄は荷物船、積船賃、酒樽は壹樽にて壹匁、荷物は壹箇にて、貳匁程づつ也。
栃木に關東第一の馬工郞[やぶちゃん注:底本では右に編者補正注で『(博勞)』とある。]あり。「武田うば八」と云(いふ)者にて、常に、馬、六、七千疋程づつを所持して、ひさぐ事を業(なりはひ)とす。馬あり餘りて、人にあづけて、つかはしむ。馬所望の者、來(きた)れば、其望(のぞみ)にまかせて、取出(とりいだ)し、あきなふ。預置(あづけおき)たるをも、遠近に隨(したがひ)て、取寄(とりよせ)てあきなふ也。奥羽をはじめ、關八州より、皆、「うば八」を志して、ひき來り、賣(うり)なす也。馬七疋を、「一はな」といふ。日々、「廿はな」・「三十はな」づつ引來(ひききた)るを、殘りなく、「うば八」、買取(かひとる)事と、いへり。
○琉球朱は、「葡萄」・「新ぶとう」・「から子」・「角印」とて、四品也。商賣、御制禁なき已前は、目かた九十匁に付(つき)、代銀廿匁より、廿五匁までに、價(あたひ)を捌(さばき)たる事、とぞ。
[やぶちゃん注:「琉球朱」琉球製の漆器。
「角印」読み・様態不詳。]
○公方樣御鷹の雲雀、御大名へ給はり候は、年々、夏秋、御鷹匠衆を上總・房州等へ遣(つかは)され、彼(かの)地にて執(とり)たるを、江戶へ送り、配分して給はりけるが、往來、日數(ひかず)を經て、雲雀、損じ多く出來(しゆつたい)、すたり有ㇾ之に付(つき)、當時は、彼地にて、鹽漬(しほづけ)にしておくるやうに被二仰付一ける故、一切、すたり、無レ之也[やぶちゃん注:「完全に廃った訳ではない」の意。]。且(かつ)、御鷹匠衆、他國逗留の定(さだめ)の如く、雲雀取候へば、罷歸事(まかりかへること)故、往來、日數かゝらず、房總等にても、右のまかなひ、ついへ、すくなく成(なり)たるよし。是は、寬政中、白河侯【松平越中守殿。】、御老中御勤の時より定置(さだめおか)れし、よし。仍(よつ)て、當時、拜領の雲雀は、皆々、鹽漬の物なり。
[やぶちゃん注:【 】は二行割注。]
○「江戶町家の婦、上京の節、荒井・橫川御關所等、通行御手形相願候事、先年は願(ねがひ)申出(まうしいで)、御許容、相濟候て、願人(ねがひにん)、日日、御役人宅へ、御手形、持參致し、御家來へ申入(まうしいれ)、御判申請(まうしうけ)候事(こと)故、御判取揃(とりそろへ)迄は、壹ケ月餘りも、かゝりたる所、當時、上京の願書(ねがひがき)・願人、相認(あひしたため)、其所(そこ)の名主へ指出(さしいだし)候へば、名主・願人、同道致し、町年寄三人の内、月番の宅へ罷越(まかりこし)、子細申入、願書、差出候へば、月番の年寄、右、手形を受取(うけとり)、評定御寄合の席へ持參致し、御列座にて、一日に、御判、相濟候まゝ、町年寄より名主・願人へ、配符の催促、來(きたり)て、御手形、御判、相濟候を、渡さるゝ事に成(なり)たるゆゑ、先年の如く、願人、御役人の宅へ罷越候事、無ㇾ之故、甚(はなはだ)、事、速(すみやか)に相濟(あひすみ)、辛勞なき事に罷成候。是も白河侯、御勤役中(ちゆう)より、定(さだめ)られたる事也。仍(よつ)て、當時は、婦人上京願書、御判取(ごはんとり)に指出(さしいだし)候て、大抵、五日目程には御判相濟候故(ゆゑ)、御判取に指出候ては、旅行の支度(したく)拵(そろへ)相待居(あひまちをる)程ならでは、大(おほい)に手遣(てづかひ)に成(なる)事有ㇾ之故、無二油斷一、右の心得にてよろしき、よし。」
名主、物語りなり。
○江戶、諸商賣の内、「拾仲間(じふなかま)」と號するは、[やぶちゃん注:以下二段落は底本でも改行。]
吳服物商賣・木綿太物商賣・綿ほうれい類商賣・洒屋商賣・燈油屋商賣・諸藥種商賣・小間物商賣・塗物椀家具商賣・諸鍋物類商賣・疊表荒物類商賣
右十種の問屋ども、十組、「仲間」を立(たて)、交易致し候事。
年々、□□□□と申者、相企(あひくはだて)候事にて、公儀へ御願(おねがひ)の上、右の通(とほり)に被二定置一候事也。
吳服物問屋は、本町・するが町・日本橋・南芝邊、木綿太物は通旅籠町(とほりはたごちやう)、綿ほうれい類は、本町・大傳馬町、酒問屋は、靈巖島・新川・萱場町邊、燈油問屋は、大傳馬町・小船町、其外、所々。菜種問屋は本町三丁目、小間物問屋は通油町(とほりあぶらちやう)・日本橋北南邊、塗物家具問屋は同斷、鐵物(かなもの)銅眞鍮類問屋は大門通、其外、諸所。荒物類問屋、日本橋南北、其外、堀留諸所、大抵、是等、殊に群居する所也。
[やぶちゃん注:「□」は底本の欠字記号。
「通旅籠町」しばしばお世話になるサイト「江戸の町巡り」の「通旅籠町」によれば、現在の『中央区日本橋小伝馬町、日本橋大伝馬町、日本橋堀留町二丁目』とある。
「通油町」同前で『中央区日本橋大伝馬町』とある。ここ。]
○いと荷物船問屋、靈巖島・新堀・新川邊、住居致し候。上下の者、道中駕籠、供の者等、相雇(あひやとひ)候には、日本橋木原店(きはらだな)に請負(うけおひ)の者、數多(あまた)住居致候。
○江戶より、品川・千往・板橋・四ツ谷、付出(つけだ)し傳馬相願(あひねがひ)候には、大傳馬町名主役所、南傳馬町名主古澤[やぶちゃん注:底本では「古」の右に編者補正注で『(吉)』とある。]主計(かづえ)、小傳馬町名主宮邊又四郞方へ相賴(あひたのみ)候へば、相辨(あひべんじ)候事。但(ただし)、大傳馬町名主馬込勘解由(かげゆ)事、當時、退住(たいぢゆう)仰付(おほせつけ)られ候故(ゆゑ)、傳馬町名主、代(かはり)、十二人にて、相勤候へば、右役所、相賴候事也。
« 譚 海 卷之十四 三州瀧山淸涼寺の事 關東より禁裏へ鷹と鶴を獻上の事 火にて親燒死たる時の心得の事 寺幷宗旨をかふる時の事 中國銀札をつかふ事 奥州仙臺出入判の事 加州城下町の事 紙一帖數の事 油・酒相場の事 諸物目形の事 茶器諸道具價判金壹兩の事 醫の十四科の事 京・大坂へ仕入商物の事 染物・反物あつからふる事 狩野家の事 大判・小判・古金・新金・南鐐銀の事 頭陀袋の事 江戶橋新場肴屋の事 願人支配の事 上州草津溫泉入湯の次第の事 伊豆修善寺入湯の事 攝州有馬溫泉入湯次第の事 | トップページ | 譚 海 卷之十五 諸病妙藥聞書(1) / 最終巻突入! »