譚 海 卷之十四 山城醍醐寺の事 淀舟ふなちんの事 甲州身延山他宗參詣の事 駿州富士登山の事 大坂より四國へ船ちんの事 江戶より京まで荷物一駄陸送料の事 京都より但馬へ入湯の次第の事 京都書生宿の事 京都見物駕ちんの事 京都より江戶へ荷物送り料の事 京智恩院綸旨取次の事 關東十八檀林色衣の事 堺住吉神官の事 接州天王寺一・二舍利幷給人の事 淨瑠璃太夫受領號の事
○山州、上醍醐寺は、女人登山制禁なり。下の醍醐より三十六町餘にあり。西國順禮の觀音あれば、婦人順禮の札を納(をさむ)る、受取(うけとる)所は、下の醍醐にある也。
[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「上醍醐寺」底本の竹内利美氏の後注に、『京都市伏見区醍醐の醍醐寺。貞観十八年』(八七六年:「准胝堂」と「如意輪堂」が建立された年。開山自体は二年前)、『聖宝の開創と伝え、これか上醍醐となり、後に下醍醐に伽藍がつくられ、三宝院その他の塔頭ができた。真言宗の大寺で、上醍醐の本堂准肌観音堂は西国観音霊場第十一番の札所である。』とある。上醍醐(かみだいご)と下醍醐(しもだいご)の醍醐寺の位置関係は、こちらのグーグル・マップ・データで確認されたい(上醍醐をポイントした。醍醐寺伽藍は西の麓にある)。]
○淀舟、船賃、京都より大坂まで、一人に付、七十二錢也。大坂より上京するには、此倍にして、一人に付、百五十錢也。然れども、壹人錢にては、船中、乘合ゆゑ、甚(はなはだ)窮屈也。貳人分出すときは、船中を竿にて仕切(しきり)、ゆるりと坐せらるゝやうにある也。貳人分、三人前、心にまかせて、ゆるりとゐらるゝやうに成(なる)庖也。大坂より乘合をせず、船壹艘、借切(かしきり)にすれば、三貫文程也。淀夜船中(ちゆう)、くひものを乘(のせ)來りて、賣(うり)かふ小舟あり。洒肴・飯・菜、好(このみ)にしたがつて、あたふ。呼聲、
「くらはんか。」
といふ。
「古(ふるき)時より、爰(ここ)の方言也。
といふ。
○甲州身延山、登山するに、門内に逆旅(げきりよ)、上町、あれども、日蓮宗の者をば、止(とむ)る事あたはず。其宗旨の者は、皆、山上に、江戶諸國の寺々の取次(とりつぎ)ありて、其寺にしたがつて、坊々に、とまる也。
町にて、とむれば、
「坊より、糺す事。」
とて、とゞめず。
他宗の者、登山には、町の逆旅に止むる事を憚らず。
○駿河、富士山登り口、「すばしり」より「御馬がへし」といふまで、山腹二里八町の間は、馬に乘(のり)て登山する事を、ゆるす。
夫(それ)より、步行にて、中宮(なかのみや)迄、一里、叢樸(さうぼく)の中を行(ゆき)て中宮に至る。[やぶちゃん注:「叢樸」草むらと荒ら木。]
中宮にて、「山役錢」とて、壹人につき、鳥目三百五十文を出(いだ)す。「山杖」といふを、あたふる也。「あららぎ」といふにて造(つくり)たる杖なり。[やぶちゃん注:「あららぎ」裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata の異名。漢字では「一位」「櫟」と書く。この杖は所謂「金剛杖」である。]
中宮は、下の「すばしり」に、「淺間(せんげん)の宮」あるにたいして、いへる也。宮造(みやづくり)、壯麗也。
爰(ここ)より、里數を、いはず、「一合」・「二合」といふ。「一升」といふは、「絕頂」といふなり。
「合」ごとに石室(いしむろ)ありて、巖中に、雪を煎(いり)て、湯になし、賣る。行人(ゆくひと)、是(ここ)に休みて、飮食をなし、登山する也。
絕頂、「御八龍」といふ。ぐるりと、まはれば、四十二町あり。[やぶちゃん注:四・五八二キロメートル。現在の火口は一周約二・六〇〇キロメートルとする。恐らく「お鉢めぐり」の火口部外側下部を含む見どころを廻るコースの実測であろう。]
まはり終(をはり)て、砂に乘じて、中宮まで走り下る、半時ばかりに、くだる也。
下向は甲州口より登りたる人々、皆、同じ所へ下る也。
○大坂より、四國、金比羅權現へ參詣、舟貨、風便(かぜだより)、遲速にかゝはらず、壹人に付、銀五包づつ、拂(はらふ)。大坂北濱に船宿あり。
○江戶より京都まで、荷物、壹駄三十六貫目[やぶちゃん注:百三十六キログラム。]にて、「飛脚や」へ、相賴(あひたのみ)登(のぼ)せる時、代銀、凡(およそ)貳百五十匁ほど也。
○京都より但馬へ、湯治駕籠賃、往來にて、銀三十五匁。人、壹人、やとひ代金三步。右賴(たのみ)候所、京寶町錦小路下ル所、出石屋(いづしや)山兵衞、但(ただし)、是は但馬宿也。丹後宿は、同所四條下ル所、無雙屋西右衞門と申(まうす)方へ參り、可二聞合一。
○諸國より、上京、止宿・書生宿、三條上ル所、夷河通、又、竹屋町にも有(あり)。大てい、金二步より銀壹匁ほどづつの、あたひ也。
又、借(かし)座敷は、三條より四條の間、新川原町、又其表通、木屋町にも、あり。座敷、大小によりて、直段(ねだん)、高下あり。大てい、金貳步より壹兩まで也。
京都に知る人あらば、請判(うけはん)致しくれ、請文(うけもん)壹枚にて、早速、移往(うつりすむ)なる事也。
長く店借(たながり)・住居、又、商買等にても、致し候にては、至(いたつ)て、むづかし。先(まづ)、口請人(くちうけにん)と云(いふ)者あり、是、店主へ店(たな)借(か)り度(たき)由、云入(いひいる)る也。此外に、證文を入(いれ)、請人に立(たつ)人、あり、其後(そののち)、店を借す事也。請人、二人、立(たつ)る事也。
○京都見物、駕籠賃、一日壹貫百文ほど也。但(ただし)、先より、先へ、とまり候ても、駕籠のもの、「とまりせん」[やぶちゃん注:「泊り錢」。]ともなり、晝食も此外にて不ㇾ構(かまはず)、何十度も、おり、くだり、見物所、不ㇾ殘、往來の約束也。
○京都より江戶へ、荷物壹貫目に付、十三匁程づつ也。
○京都、智恩院へ、諸國、淨土宗の僧、綸旨取(りんじとり)に上(のぼ)る事、一日に、二、三人程づつ也。壹人に付、金貳十五兩程づつ、入用といふ。但(ただし)、綸旨、一日に、壹人ならでは出(いだ)されざるゆゑ、二、三人あれば、段々、翌日へ、のべるゆゑ、人多き年は、逗留も日數(ひかず)かゝる也。
[やぶちゃん注:「綸旨取」底本の竹内利美氏の後注に、『勅旨をうけて蔵人が書いて出す文書が綸旨である。勅旨により僧位に任ずる形式の文書を、智恩院から交付していたのである』とある。]
○「關東十八檀林」の内、芝增上寺・小石川傳通院(でんづうゐん)二ケ寺は、紫衣(しえ)也。其餘は「黃衣(くわうえ)檀林」と號する也。
○堺、住吉明神の祠官を「社務」と號す。其下に、神主、六人あり。
此六人は住吉明神の子孫にて、「底筒男(そこつつつのを)」・「中筒男(なかつつを)」・「上筒男命(うはつつのを)」の血脈(けちみやく)にして、家々、連綿と續(つづき)て有(あり)。
ゆゑに、社務、あれども、社頭の鍵をば、此六人の神主、つかさどり行ふ也。社務は、「三位(さんみ)」にて、姓は、何れも「津守」と號す。京都、上下加茂の社務は、「三位」にて「住吉」と同事(おなじこと)、「公卿」也。
[やぶちゃん注:『「底筒男」・「中筒男」・「上筒男命」』住吉三神(すみよしさんじん)。「日本書紀」では、主に「底筒男命」(そこつつのおのみこと)・「中筒男命」(なかつつのおのみこと)・「表筒男命」(うわつつのおのみこと)、「古事記」では、主に「底筒之男神」(そこつつのおのかみ)・「中筒之男神」(なかつつのおのかみ)・「上筒之男神」(うわつつのおのかみ)と表記される三神の総称である。「住吉大神」とも言う場合があるが、この場合は住吉大社にともに祀られている「息長帶姬命」(おきながたらしひめのみこと:=神功皇后)を含めることがある(以上はウィキの「住吉三神」を参照した。]
○攝州、天王寺に、「一舍利法印」・「二舍利法印」といふあり。すべて、天王寺に屬したる社人・僧徒、此支配也。
樂人は「舍利法印」の支配也。
京都、天王寺の社人、あはせて、四十八人あり。俸綠四十石づつ也、とぞ。
姓は、皆、和州、法隆寺知行所の地名を稱す。元來、聖德太子、法隆寺興立のとき、百濟・新羅等の舞樂をつたへ、をしへまはしめ給ふ伶人(れいじん)の子孫、後世、京都、天王寺などに移住せし故、在所の地名を稱する也。
○京都、天王寺、伶人、ともに、右方・左方、相(あひ)まじりて、業(なりはひ)を、つたふ。
右方は「高麗樂(こまがく)」、左方は「唐樂(からがく)」也。
江戶、紅葉山、伶人は右方斗(ばかり)也。故に關東に、舞樂、有(ある)ときは、京・攝の伶人、下向せざれば、舞樂は、興行、成(なり)がたき事、とぞ。
○淨瑠璃かたるもの、某(なにがし)少掾・大掾・某太夫などと稱する事、元來、人形、造りて、禁裏へ奉りしものに、受領號を、ゆるされけるが、はじまり也。
其後(そののち)、「淨瑠璃」と云(いふ)者を語りて、人形にあはせて、「あやつり」もて、遊びしあひだ、おのづから、「淨瑠璃」語る者の、いきほひ、つよく、人形をつかふものは、其下にまはるやうに成(なり)たる故、いつとなく、人形遣ひの受領號を、淨瑠璃かたるものに、うばはれて、稱する事に成(なり)たる也。
餅菓子・鏡師なども、禁裏へ奉りしちなみに、受領號、名乘(なのる)事に成(なり)たる也。
[やぶちゃん注:その通り!!!]
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