柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(7)
雲に入鳥の行衞や星ひとつ 其 由
「鳥雲に入る」といふ季題は、春になつて鳥の北地に歸ることを意味するらしい。古來の句を見るのに、いづれもたゞ鳥の遙に眼界より消え去ることを詠んでゐるやうである。「げに歌人、詩人といふは可笑しきものかな。蝶二つ飛ぶを見れば、必ず女夫[やぶちゃん注:「めをと」。]なりと思へり。塒[やぶちゃん注:「ねぐら」。]に還る夕鳥、嘗て曲亭馬琴に告げて曰く、おれは用達に行くのだ」といつた明治の皮肉家の筆法を以てすれば、果して北地へ歸る鳥であるかどうか、一々吟味がつかぬはずであるが、雲に入つてしまふのだから、その邊は大まかに見てよからうと思ふ。
この句は夕方の景色で、雲に入る鳥を目送してゐると、蒼茫と暮れ初めた空の中に、一點の星が見えて來た、といふのである。星光一點は巧に似てしかも自然なところがある。芭蕉の「ほとゝぎす消行く方や嶋一つ」と同じやうな調子であるが、印象はこの方がはつきりしてゐる。飛鳥の影の消え去つたあとに、しづかに一點の星光を認めるのは、大景のうちに引緊つたところがあつて面白い。
[やぶちゃん注:「雲に入鳥の行衞や星ひとつ」「くもにいる とりのゆくへや ほしひとつ」。
「其由」多賀其由。信頼出来る論文等によると、蕉風俳諧の復興を志した京都の俳人蝶夢の門下で、近江蕉門の一人であり、江戸の夏目成美とも親交があった月川法師が、その人で、多賀社造営に尽力した、とあった。
「げに歌人、詩人といふは可笑しきものかな。蝶二つ飛ぶを見れば、……」これは明治時代の小説家・評論家として知られる斎藤緑雨(慶応三(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年)の「綠雨警語」の一節。同書は『讀賣新聞』に連載したアフォリズムの一篇で、初出は明治三二(一八九九)年六月二十六日附に掲載された以下の一条。
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○古の歌人の月花を脫し得ざるが如く、今の新體詩人は、唯一つの星を脫し得ずとは、某批評家の言なりと聞く。げに歌人、詩人といふは可笑しきものかな。蝶二つ飛ぶを見れば、必ず女夫なりと思へり。塒に還る夕烏、嘗て曲亭馬琴に告げて曰く、おれは用達に行くのだ。
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「ほとゝぎす消行く方や嶋一つ」「笈の小文」の掉尾に、
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時鳥消えゆく方(かた)や島一つ
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と出るもの。詳しくは、私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――須磨~最終回』を見られたい。]
もまるゝや花見の中の相僕とり 李 千
花見の群集の中に相僕取が一人まじつてゐる。人波に揉まれながらも、その巨軀が目立つて見える。一人の相撲取をここに點じたのは、群集に或ポイントを與へたもので、その大きな身體が揉まれることによつて、夥しい周圍の人波が想像されるのである。
行過て女見返す汐干かな 露 桂
川柳子は「三月はいとなまめゐた漁師出る」といつた。春の干潟は慥に汐干狩の女によつて彩られる。「汐干けふ女草履や一からげ 兎園」などといふ句は、干潟に下り立つた女の草履を、一まとめにしてからげて置くといふに過ぎないが、それでも何となく艷なる趣を感ぜしめる。平生何も無い海上だけに、特にさういふ色彩が著しく感ぜられるのであらう。
「行過て」の句は、汐干潟で出逢つた女が、行過ぎてから此方を見返した、といふだけのことである。向うが見返したのを認める以上、此方からも見返つたか、そのまま見送つてゐたかしたに相違無い。或は女の方から見返したものとせずに、行き過ぎてから此方が見返した、と解することも出來る。「女(が)見返す」と見るか、「女(を)見返す」と見るかの相違であるが、そうやかましく僉議するほどのこともあるまいと思はれる。
子規居士にも「春の野に女見返る女かな」といふ句がある。これは行違つた女同士が互に見返るといふ點で、多少複雜な變化を生じてゐる。
[やぶちゃん注:「春の野に女見返る女かな」子規の明治二五(一八九二)年の二十六歳の作。]
春雨に雀かぞゆる夕部かな 如 嬰
稺拙な句である。春雨の夕方、庭先か軒端かに來て雀が啼き交してゐる。それが何羽ゐるか、數を算えて見たといふに過ぎない。
その實雀が何羽ゐるかはさのみ問題ではないので、數を算へて見るといふところに、徒然な春雨の夕方の心持を感じ得ればいいのである。
小でまりや花に座を組雨蛙 伊 珊
このまゝの景色であらう。粉團花の白い花の上に坐つてゐる綠色の雨蛙は、色彩の上からも訓和か得てゐる。「座を組」といふのは單なる蛙の形容で、佛樣に見立てたりしたわけではない。
雨蛙といふ季題は、今では獨立して夏になつてゐるが、古くは蛙の下に包括されて、春の部に入つてゐた。この句もその一例である。
[やぶちゃん注:「小でまり」「粉團花」バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属コデマリ Spiraea cantoniensis の中文名の一つ。]
合羽干日影に白きつゝじかな 不 流
合羽がひろげて干してある、その傍に白い躑躅が咲いてゐる、といふ趣である。合羽と躑躅との間には格別重大な關係は無い。躑躅は躑躅で白く咲き、合羽は合羽で目に乾きさえすればいゝのである。
雨のあがつた庭先などの景色であらうか、日光の漲つた、明るい空氣が眼に浮ぶ。