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2024/04/26

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(13)

 

   さはやかに身は藍くさし衣がへ 和 風

 

 重い綿入を脫いで袷に著更へる。それだけでも爽快なのに、新しい著物と見えて藍の香がしきりに鼻をうつ。「くさし」といふ言葉は、いづれかと云へば不愉快な匂の場合に用ゐられるやうであるが、この句は必ずしもさうではない。强い藍の香も亦「さはやか」な感じの幾分かをつとめてゐるのである。

 化學染料の幅を利かす今日では、昔のやうな、爽な藍の香に浸ることは困難であらう。

 

   娵ばかりそめ物くさしころもがへ 廣 房

 

などといふ句も、略〻同じところを覘つてゐるが、これは人事的關係を取入れた爲、複雜になつたやうで却つて俗に墮てゐる。ひとり著る衣の爽なるに及ばざること遠い。

 

   物拭ふ袖に紙あり衣更 其 林

 

「物なくて輕き袂や更衣」とか、「袷著て袂に何も無かりけり」とかいふことは、明治以後の俳人もこれを詠んでゐる。更衣をすました爽な心持から云へば、袂には一物も無い方がいゝかも知れぬが、一槪にさうきめてしまふと、又一種の型に陷る虞がある。

 其林の句は物を拭ふべき紙を袖にしてゐる、といふだけではない。實際何かを拭ふ必要があつて、袂の紙を取出した場合である。これほどのものならば更衣の感じを妨げぬのみならず、たゞ袂に何もないといふよりも複雜な場合を現してゐる。元祿の句を單純だとのみ片づけることは、當つてゐないのである。

 

   卯の花やせきだ干(ホシ)置ク里の垣 左 白

 

「せきだ」は雪蹈[やぶちゃん注:「せつた」。雪駄。]のことである。「言海」には雪蹈の訛としてある。卯の花の咲いてゐる里の垣根に雪蹈が干してある、といふだけのことに過ぎぬが、これは考へて後にはじめて得る配合ではない。眼前の實景である。工夫に成る配合は所詮自然の配合に如かぬ。この句が一見平凡なやうで、しかも棄てがたいのは全くその爲であらう。

 

   卯の花に誰(タ)が櫛けづる髮の落 桃 蛘

 

 これも實景に相違無い。卯の花の咲いてゐるほとりに、誰が梳つた[やぶちゃん注:「くしけづつた」。]ものか、髮の毛が落ちてゐる、といふ趣である。

 卯の花は必ずしも妖氣を伴ふ花とも考へられぬが、白いこまかい花でもあり、陰鬱な季節の連想もあり、何となく寂しい感じがする。そこに「誰が櫛けづる髮の落」などといふ趣と一脈相通ずるものがある。この句は卯の花の凄すさまじいといふか、無氣味といふか、さういふ方の感じを發揮したものである。

 

   初せみや日和鳴出す雲の色 邦 里

 

 初蟬を聞く爽な空の感じを捉へたのである。蟬も盛になると暑苦しい感を免れぬが、初蟬の頃はまだその聲が珍しいといふばかりでなく、季節の關係と相俟つて、寧ろ明るい爽な感じを伴つてゐる。

 子規居士の晚年の句に「蟬初メテ鳴ク鮠釣る頃の水繪空」といふのがある。句の內容は同じではないが、蟬のはじめて鳴く頃の空の感じを捉へた點は、揆を一にしてゐると云つて差支無い。

 

   針つけて絲につながん柿のはな 染 女

 

 面白い句ではない。たゞ見つけどころの女らしい點を取れば取るのである。

 柿の花の固いところ、手に取つても崩れぬところ、その他いろいろな點から考へて、數珠つなぎにするにはふさはしい感じのやうに思ふ。色彩から云ふと、いさゝか寂し過ぎるけれども、地上に夥しく落ちるところから、この想を得たものであらう。何でもないやうに見えて、女性でなければ思ひつき得ぬ趣向である。

 

   わた拔や机に臂をついてみて 雨 帆

 

 袷を著て机に倚る。每日机に倚らぬ男が、ことさらに机に倚るわけではない。綿を拔いた輕い著物になつて、何となく新な氣持の下に、机に臂をもたせるといふのであらう。「机に臂をついてみて」さてどうするのかと云ふと、それは誰にもわからぬ。作者はたゞ臂をついた刹那を捉へたまでなのである。

 これも大した句ではない。「ついてみて」といふ下の一字は少し輕過ぎるが、場合が場合だから、作者はこれでよしとしたのかも知れぬ。

 

   灌佛の日に生れけり唯の人 巴 常

 

 天上天下唯我獨尊といつて生れた釋迦と同じ日に、ただの平凡な人間が生れる。佛緣あつて同じ日に生れる、といふ風にこの作者は見てゐない。釋迦と同じ日に當前の凡夫も生れる、といふ世間の事實を捉へたものであらう。

 芭蕉にも奈良で詠んだ「灌佛の日に生れあふ鹿の子かな」といふ句がある。場所は佛に因緣の多い奈良であり、日も多いのに灌佛の日に生れるといふことが、芭蕉の興味を刺激したものと思はれる。畜生の身ながら、かゝるめでたき日に生れ合ふことよ、といふほど强い意味ではない。奈良で鹿が子を產むのを見た、それが恰も灌佛の日であつた、といふ卽事を詠んだのである。この方は現に眼前に生れたところを捉へたのだから、輕い事實として扱ふことも出來るが、今生れたばかりの子供を「唯の人」と斷定するには多少の無理がある。釋迦に比べればどう轉んでも「唯の人」に過ぎぬ、といふやうな意味とすれば、益〻理窟臭くなつて來る。鹿の子ならそのまゝで通用する事柄も、「唯の人」といふ言葉を用ゐた爲に、いさゝか面倒なのである。

 芥川龍之介氏の「少年」といふ小說の中に、バスの中の少女の事が書いてあつた。フランス人の宣敎師が今日は何日かと問うと、十二月二十五日と答へる。十二月二十五日は何の日か、と重ねて問はれたのに對し、少女は落著き拂つて「けふはあたしの誕生日」と答へるのである。この答を聞いて微笑を禁じ得なかつたといふ作者の氣持には、例の皮肉が漂つてゐるやうであるが、「クリスマスの日に生れ合ふ少女」も、面白い事實でないことは無い。但かういふ事實は散文の中に於てはじめて光彩を放つべき性質のもので、俳句のやうな詩に盛るには不適當である。芭蕉の句が比較的離れ得たのは、眼前の卽事を捉へたせゐもあるが、ものが「鹿の子」で、「唯の人」といふが如き理智を絕してゐる爲に外ならぬ。

[やぶちゃん注:「灌佛の日に生れあふ鹿の子かな」これは「笈の小文」に載り、その紀行の時制は「灌仏会」から、貞享(じょうきょう)五年四月八日(一六八八年五月七日)に詠んだものとなる。翌年の「曠野」(元禄二(一六八九)年刊。貞享五年九月三十日(一六八八年十月二十三日)に元禄に改元している)にも載る。「笈の小文」では、

   *

灌佛の日は、奈良にて爰かしこ詣侍るに、鹿(しか)の子を產(うむ)を見て、此日におゐて[やぶちゃん注:ママ。]おかしけれ[やぶちゃん注:ママ。]ば、

  灌仏の日に生れあふ鹿(か)の子哉

   *

で、「曠野」では、

   *

    奈良にて

  灌仏の日に生れ逢ふ鹿の子哉

   *

とする。

『芥川龍之介氏の「少年」』芥川龍之介の「保吉物」の一篇の冒頭に配された「一 クリスマス」の一節である。初出は大正一三(一九二四)年四月発行の『中央公論』。私の正規表現・注附きのサイト版「少年 芥川龍之介」を見られたい。

 因みに。私は昭和三二(一九五七)年二月十五日生まれである。伝承ではこの日、釈迦は入寂したこととなっており、同日には涅槃会が行われる。]

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