柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(1)
[やぶちゃん注:底本では、内容本文はここから。]
夏
湯殿出る若葉の上の月夜かな 李 千
爽快な句である。湯上りの若葉月夜などは、考へただけでもいゝ氣持がする。湯から上つたあとは何時でも惡いことはないが、一脈の懶さを伴つてゐる春の夜よりも、汗を流すのを第一とする夏の夜よりも、はつきりした空氣の中に多少の冷かさを含んでゐる若葉時分の夜が、爽快な點では最も勝まさつてゐるであらう。湯殿を出た人はそのまゝ庭に立つて、若葉に照る月のさやかな光を仰いでゐるのである。時刻を限る必要も無いけれども、あまり夜の更ふけぬうちの方がよささうに思ふ。
この句は中七字が「靑葉の上の」となつている本がある。若葉にしても靑葉にしても、爽快な點に變りはない。その方には作者が「里仙」となつているが、恐らく同人であらう。珍碩――珍夕、曲翠――曲水その他、同音別字を用いた例はいくらもあるからである。
病 後
笋ときほひ出ばや衣がへ 吾 仲
病が漸う癒えて衣を更へる場合であらう。その恢復に向ふ力に對して、土を抽づる笋[やぶちゃん注:「たけのこ」。]の勢を持つて來たのである。現在それほど元氣になつたといふわけではない。笋の勢に倣はうといふので、なお病後の弱々しい影の去りやらぬことは、前書及「出ばや」といふ言葉に現れてゐる。病後の更衣はその後にも屢〻見る趣向であるが、これは主觀的に笋を扱つて、恢復に向ふ力を描いたところに、元祿の句らしい特色がある。
子規居士にも「病中」の前書で「人は皆衣など更へて來りけり」といふ句があつた。癒ゆべからざる長病の牀に在つて、更衣の圈外に置かれた居士の氣持は、この句を誦する者に或うらさびしさを感ぜしめずには置かぬであらう。笋と共にきおひ出でむとする病者は、癒ゆべき日を眼前に控へてゐるだけに、一句の底に明るい力が籠つてゐるやうに思はれる。
定紋の下に鬼かく幟かな 秋 冬
などといふ句も、鯉にあらざる幟の樣子を最もよく現している。とかくの說明にも及ばぬが、前の句の參考資料たるだけの價値は十分にあると思ふ。
[やぶちゃん注:子規のそれは、明治二九(一八九六)年の作で、「寒山落木 卷五」に載る以下。
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病 中
人は皆衣など更へて來りけり
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山ごしに顏は見えけり幟の畫 峯 雪
一目瞭然、說明するまでもない句であるが、幟[やぶちゃん注:「のぼり」。]の顏といふことは、近頃の人にはちよつとわかりにくいかも知れぬ。子規居士が「定紋[やぶちゃん注:「ぢやうもん」。]を染め鍾馗を畫きたる幟は吾等のかすかなる記憶に殘りて、今は最も俗なる鯉幟のみ風の空に飜りぬ」と云つて歎息したのは、已に四十餘年の昔だから、今の東京に鯉幟が幅を利きかしてゐるのも、勿論已むを得ぬ次第である。
この句の働きは「山ごしに」といふ上五字に在る。大した山でないと同時に、さう遠距離でないことは、「顏は見えけり」といふ言葉から想像出來る。この顏は幟に畫いた鐘馗か何かの顏である。「幟の畫」とある以上、如何に鯉幟が天下を風靡したところで、鯉の顏と解釋される虞はなささうに思ふが、念の爲に蛇足的說明を加へることにした。
[やぶちゃん注:子規のそれは、二十八、九歳の頃に書いた随筆「松蘿玉液」の一節である。国立国会図書館デジタルコレクションの『正岡子規全集』第一巻 (改造社『日本文學大全集』の内・一九三一年刊)の正字正仮名の当該部(右ページ上段七行目から)を参考に、所持する岩波文庫一九八四年刊の同書を更に参考にした(国立国会図書館デジタルコレクションの諸種のものを見たが、傍点が複数あるのは、これだけであったため。「﹆」は「太字」とし、「﹅」は下線とした)。当該記事執筆は明治二九(一八九二)年の五月九日と思われる。
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○幟の節句 は東京にては新曆を用ふることゝて舊曆の三月末に當りしかも立夏に立てあひたるもをかし。儀式は大方にすたれたるを幟樹つることばかりはいよいよはやり行くを見るに子を可愛がる親の心は文明開化も同じことなるべし、それさへ定紋を染め鍾旭を畫きたる幟は吾等のかすかなる記憶に殘りて今は最も俗なる鯉幟のみ風の空に飜りぬ。此日ある場末を通りけるに家の庇に菖蒲葺たる家あり。それをいと珍らしと見つゝ更に行けば極めて淋しき片側町の門邊に菖蒲と蓬とを束ねて掛けたるを見るに兎角に昔なつかしき心地せらる。
君が代や縮緬の鯉菖蒲の太刀
東京や菖蒲掛けたる家古し
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なお、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本及日本人』第二巻第五号(J&Jコーポレーション一九五一年五月発行)のここで正字正仮名で、柴田宵曲の「俳諧漫筆 その八」の「幟」が視認でき、冒頭でここと同じことを述べているので、是非、見られたい。]
長竿に板の武者繪や帋幟 汶 村
この幟も同類である。長い竿の幟が立ててあるが、その幟は布でなしに紙で、而もその繪が肉筆でない。版で摺つてあるといふ。(板の字の傍に棒が引いてあるから、これはハンと音で讀むのである)いづれ簡畧なものであらう。その繪が武者繪であることも、この句は明にしてある。
繪の幟の句があまり見當らぬ中に在つて、紙に板畫で武者繪を刷つたことまで描いたのは、慥に珍とするに足る。或は作者も珍しいと思つて、特に一句に纏めて置いたのかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「帋幟」「かみのぼり」。]
五日
旅なれや菖蒲も葺ず笠の軒 鶴 聲
端午の句である。かういふ年中行事に對する古人の心持は、自ら今人と異るものがある。今日でも全く人の意識から離れ去つたわけではないけれども、各自之を守る心づかひに至つては、多大の軒輊を免れぬ。王維が九日山東の兄弟を懷ふの詩「獨在異鄕爲異客。每逢佳節倍思親。遙知兄弟登高處。遍插茱萸少一人」の如きも、單に家鄕の兄弟を懷ふだけでなく、かういふ年中行事の中に洩れた自分を顧るところに、自ら微妙な味が籠つてゐる。これは時代も古いし、さういふ懷鄕の情を正面から詠じたのであるが、一步俳諧の世界に踏入つて
旅中佳節
馬の背の高きに登り蕎麥の花 移 竹
雨中九日病起
試みに下駄の高きに登りけり 銕 僧
といふやうな句を見ると、そこに或轉化の迹が目につく。移竹の句の登高は本當の登高ではない。重陽の日も旅にあつて馬に跨りつゝあることを、「馬の背の高きに登り」と登高に擬して興じたのである。銕僧の句も重陽ではあるが、雨が降つてゐるし、病起の狀態でもあるので、高きに登ることなどは出來ない。そこで單に下駄を穿いて見たまでのことを、「試みに下駄の高きに登りけり」と誇張して云つたのである。この二句は元祿期の作ではないけれども、俳諧の一特色たる轉化の傾向を見るべきもので、正面から云ふのと違つたおかしみを伴つてゐる。
鶴聲の菖蒲葺の句もやはりこの種類に屬する。旅中端午の節句に逢つて家鄕を想ふに當り、忽ち例の轉化を試みて、現在自分が被つてゐる笠を持出したのである。卽ち旅に在つて端午の菖蒲も葺かずにいるといふことから、笠の端を軒端に見立てゝ、そこに菖蒲を葺かぬといふことを以て一句の趣向にしたので、それが「馬の背の高き」に登つたり、「試みに下駄の高きに」登つたりするほど明快に片づかないのは、元祿調と天明調との相違によるのかも知れない。格別すぐれた句ではないが、一種の句として觀る價値はありさうである。
[やぶちゃん注:『王維が九日山東の兄弟を懷ふの詩「獨在異鄕爲異客。……」は、王維十七歳の時の七絶で、「唐詩選」にも載る有名なものである。所持する岩波書店『中国詩人選集』第六巻の都留春雄注「王維」を見ると、『多分、長安に遊学していて、故郷を憶って作ったものと推測される。因みに、彼が京兆府試』(けいちょうふし)『(都で行われるブロックごとの分館試験名)に合格したのは、十九歳の時である』とあった。所持するそれで、漢詩原文を示し、訓読は参考に留めた(新字新仮名で気持ちが悪いため)。
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九月九日憶山東兄弟
獨在異鄕爲異客
每逢佳節倍思親
遙知兄弟登高處
徧插茱萸少一人
九月九日 山東の兄弟(けいてい)を憶ふ
獨り異鄕に在りて 異客(いきやく)と爲る
佳節に逢ふ每(ごと)に 倍(ますます)親(しん)を思ふ
遙かに知る 兄弟(けいてい) 高きに登る處(とき)
徧(あま)ねく茱萸(しゆゆ)を插して一人(ひとり)を少(か)くを
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陶淵明の詩で知られているから、言わずもがなだが、中国では九月九日の最も縁起の良い重陽の節句の日は別に「登高」(とうこう)と呼んで、一族が、頭髪に茱萸(ムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum 或いは同変種ホンゴシュユ Tetradium ruticarpum var. officinale )の実を挿して、近くの小高い山や丘に登り、菊酒を飲んで、長生を祈念した。「兄弟」王維は長男で弟が四人いた。但し、この「兄弟」はより広い(所謂「排行」で範囲指定される)父方の従兄弟を含めた広い「兄弟」である。]
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