譚 海 卷之十四 諸國大名武器海運相州浦賀御番所手形の事 御代官納米の事 駕籠願の事 大刑の者の妻子の事 訴狀裏書等の事 公儀御役所御休日の事 國々御構者の地名事 萬石以下領所罪人の事 猿樂配當米の事 歲暮御禮申上候町人獻上品の事 道中御傳馬役の事 二挺立三挺立・船幷町駕事 出居衆の事 本馬輕尻等江戶出立駄賃の事 大赦行る事
○西國・四國・奥州大名等、在所、或は、大坂表へ、武器の類、船つみにいたし登(のぼ)せ候時は、相州浦賀御番所にて、改(あらため)を請(うけ)、登せ候事也。其大名より、兼て、御老中へ申達、有ㇾ之、
「拙者家來、何がし印形にて、此末(このすゑ)、浦賀御番所通用致させ申度(まうしたき)。」
段、御願、有(あり)。印鑑、差出有ㇾ之候へば、右印鑑、御老中より、浦賀奉行所ヘ、御渡しなされ、御老中より、印鑑・御書付、御添(おんそへ)、被二仰渡一有ㇾ之。
其(その)已後、右印鑑を以て、通用致(いたす)事也。
其船積(ふなづみ)、書面の覺(おぼえ)は、
大坂何町誰船爲二積登一申、武器の事、
一、鑓壹本
頭書壹口 數壹本 頭書とは一と言事也。
一つと書(かく)所二つあれば、頭書貳口
と書(かく)事也。
右は誰(たれ)家中、武器荷物、自二江戶一大坂迄、積爲ㇾ登申候。浦賀御番所無二相違一御通被ㇾ成可ㇾ被ㇾ下候。右武器に付、自今已後、出入も御座候はば、私可二申譯一候。爲二後日一價仍(よつ)て如ㇾ件。
年號支干[やぶちゃん注:「干支」の誤記。]月日
誰内 留主居名判
相模國浦賀
御番所
御番衆中
○御代官所、納米口米(をさめまいくちまい)は、上方、御物成(おものなり)、伊勢・美濃までは、壹石に付、三升づつ、三河より關東迄は、三斗五升入(いり)壹俵に付、壹升づつ、口永錢(くちえいせん)は、壹貫文に付、三文づつの、よし。奥州は、御物成、壹石に付、口米三升づつの、よし。
[やぶちゃん注:「納米口米」通行税の一種。近世、諸国の年貢米が神領などを通過する際、運送船から取った金。
「御物成」江戸時代の年貢。「本途物成」(ほんとものなり:田畑に課せられた本年貢)と「小物成」(こものなり:正税である「本途物成」以外に山野・湖沼の用益などに課した雑税)とがあったが、特に「本途物成」を指す。
「口永錢」「口永」とも言う。江戸時代、金納の貢租に附加された銭、又は、銀のこと。本租永一貫文に対して三十文を定率とした。銀納の場合を「口銀」(くちぎん)、銭納の場合を「口銭」(くちせん)と称した。]
○勤仕(ごんし)の者、病身に付(つき)、駕籠勤(かごづとめ)相願(あひねがひ)候者、月限(つきかぎり)に御免あるものの、よし。
○大刑に處せられ候ものの子供は、死罪のよし。
但(ただし)、十五歲已前にて、父の惡事にたづさはり申さねば、親類へ、十五歲に成(なる)迄は御預け有ㇾ之、其後、遠島、仰付らるる由也。
其内、出家願(しゆつけねがひ)に致(いたし)候へば、遠島に處せられざるものの由(よし)也。
又、他家へ養子に遣(つかは)したる子どもは、事の子細によりて、御構(おかまひ)なき事も、有ㇾ之。
大刑の者の妻・娘などは、御構無ㇾ之事も有(あり)。子細によりて、奴(やつこ)に仰付らるゝ事もあり、とぞ。
[やぶちゃん注:「奴」これは、前の「妻・娘」を受けた附記と見て、江戸時代の身分刑の一つで、重罪人の妻子や関所破りをした女などを捕らえて籍を削って牢に入れるものの、希望者には、その女を与えて「婢」(ひ:はしため)とした者のことを言っていると読む。
なお、以下の二条は、底本では全体が一字下げで、それぞれ二行目以降はさらに、二字下げになっているが、これは二条ともに「訴狀裏書等の事」に相当するものであり、字下げの意味は不明である。国立国会図書館本では、一行目は行頭から始まり、二行目以降は一字下げで、これは訴状をそのまま転写したことを示す組版であって、違和感がない。なお、ブラウザでは不具合が生じるので、字下げはカットした。二条目は「○」をカットして、前に並べてもいいが、今までにこのようなものはなかったので、独立した形で、示した。但し、条の間の一行空けは、なし、とした。]
○一、訴訟裏判取揃相手へ渡候はば、請取候といふ判形、取(とり)て、相手、差(さす)月に不參候はば、公事は、先(まづ)さし置、不參の科(とが)、手錠也。
○一、裏判付候處、和談にて濟(すみ)候へば、相手は出るに不ㇾ及。付(つき)候者計(ばかり)、初判へ訴へ、評定所へ出(いづ)る。評定所より「濟口證文(すみくちしようもん)」出(いづ)る。段々、判(わ)けしに、𢌞濟(まはしすま)し、初判へ上り、雙方、於二評定所一勝劣裁許(さいきよ)相濟(あひすみ)、返答書、遣合(やりあひ)候て、出(いで)候處、劣(おとり)候もの、順に、印闕に𢌞る事也。
[やぶちゃん注:「印闕」「缺印」か。江戸時代の訴訟用語で、幕府の評定公事の「目安」(訴状)の裏書に必要である評定所一座(寺社・町・公事方勘定奉行)全員の加印があるものと、不服あって、ある奉行の印が押されていないもののことか。]
○「正月七日・十六日、『御休日』とて、出仕せぬは、御家人に『はしたなき事』と覺え候間(あひだ)、やはり、登城可ㇾ仕(つかまつるべき)や。」
と御伺(おうかがひ)有(あり)しに、
「古來より致し來り申(まうす)事なれば、其通り、休日に致(いたす)べき。」
よし、仰出(おほせいだ)されし、となり。
三月朔日・五日朔日、節句近きにより、登城、なし。
○公儀より御構(おかまひ)の道中、東海道・中仙道・甲州海道・奧州海道・日光海道也。
[やぶちゃん注:「御構」江戸時代の刑罰の一つ。特定場所(御構之地・御構場等)への立ち入りを禁ずる刑で、ここは、その通行禁止とされた街道であろう。]
○萬石已下の領所にて罪あるものは、自分として其所(そこ)にて仕置申付(まうしつく)る事はならず、公儀の御仕置の由。
○猿樂配當米は、壹ケ年、高、三萬六千石也。壹萬石にて、三石づつ、割合也。御法事施行米は三百俵也。
○歲暮御禮申上候御用聞(ごようきき)の分、後藤庄三郞、紗綾三卷、猷上。庄三郞世悴(せがれ)は、麻上下二具。
銀座年寄は紅糸壹斤。銀座總中は銀子拾貳枚。銀役五人は銀子五枚。
大黑屋長左衞門は紅糸二斤。
御爲替方(おんかはせかた)の者四人は綿十把。
箔座の者は扇子壹本。
年頭には、御爲替の者、金ちりめん五反。朱座の者、朱百兩。此外、獻上は、歲暮におなじ事、とぞ。
[やぶちゃん注:「後藤庄三郞」初代(?~寛永二(一六二五)年)は江戸初期の江戸幕府の金座主宰者。基は橋本姓で遠江出身。天正大判を鋳造した後藤四郎兵衛徳乗の門人。文禄二(一五九三)年に徳川家康の要請で金銀御用のため、後藤家名代として関東に下ることとなっていた徳乗の弟七良兵衛が病気であったため、代わって庄三郎が名代を勤めることになり、後藤家の養子として一族に加えられ、その時から庄三郎光次(みつつぐ)と名乗った。光次は同四年(一説では翌年)、本邦最初の鋳造小判である「武蔵墨書小判」を、関八州の領国向け通用のため、江戸で初めて鋳した。次いで、小額金貨である短冊型の一分金試作にとりかかり、小判についても、広く頻繁に通用出来る「極印打(ごくいんう)ち」に改め、慶長五(一六〇〇)年に、量目・品位とも、一定な、所謂、「慶長小判」・「一分判」を大量に鋳造・発行させた。翌年には、末吉勘兵衛とともに「銀座」を設立、徳川氏の金銀貨を全国貨幣として流通させるため、指導性を発揮した。また、光次は、家康の厚い信任を得て、その側近の一人として、幕府財政にも深く関わり、「朱印状」の発給や、外交交渉にも、他の重臣とともに関与するなどした。「大坂夏の陣」(慶長二〇(一六一五)年)の後は、眼病を得て、隠居し、庄右衛門と称した。 金座主宰者としての職は、その後も庄三郎家が代々継承したが、金貨への極印は幕末まで初代の「光次」名で打たれた。但し、第十一代光包(みつかね)の時、金包方に不正が発覚し、文化七(一八一〇)年、伊豆三宅島に流罪となって、二百年余続いた同家は絶家となった(主文は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「大黑屋長左衞門」ウィキの「大黒常是」(だいこくじょうぜ)によれば、「大黒常是」は、近世の「銀座」の「吹所」(ふきしょ)で「極印(ごくいん)打ち」を『担当していた常是役所の長として』、『代々世襲の家職に与えられた名称である』とあり、慶長六(一六〇一)年、『徳川家康が和泉堺の銀吹き職人である南鐐座の湯浅作兵衛に大黒常是を名乗らせたのが始まりであった。常是という名称は豊臣秀吉により堺の南鐐座の銀細工師に与えられたものであった』。細かくはそちらを見られたいが、『京都銀座は湯浅作兵衛の長男である大黒作右衛門、江戸京橋銀座は次男である大黒長左衛門が銀改役となり以後世襲制とされた。寛政』一二(一八〇〇)『年には』、『江戸の八代目長左衛門常房が家職放免となり、銀座機能の江戸蛎殻町への集約移転に伴い、京都の十代目作右衛門常明が罷下りを命ぜられ』、『蛎殻町銀座の御用を務めることとなった』とあり、そこにある「大黒作兵衛常是家」の系図を見ると、「長左衛門」の代々が判る。
「箔座」本邦で金箔の歴史において実際に存在した金銀箔類の統制機関。]
○道中、御傳馬役、上(かみ)十五日、南侍馬町にて相勤(あひつとめ)、下十五日は、大傳馬町にて相勤(あひつとむ)る也。
○貳丁立、三丁立等の船、御停止は、正德三年なり。屋形船の數は百艘に限(かぎり)候御定(ごぢやう)の由、町駕籠の数は三百丁に限候御定の、よし。
[やぶちゃん注:「貳丁立」「二挺立」。二挺の櫓(ろ)をつけて漕ぐ和船の総称。 江戸時代、吉原通いに使用された「猪牙船」(ちょきぶね)や日除船は、その代表的なもの。
「三丁立」「三挺立」。江戸市中の茶船の一種。櫓三挺を立てて、「猪牙舟」より、やや大型の茶船の俗称。ここにある通り、正徳三(一七一三)年に「二挺立」とともに禁止された。]
○無商賣の物のかたに「出店衆(でみせしゆ)」と申(まうす)者、差置(さしおき)候事は御制禁なり。何にても商賣致し候者のかたに、「出店衆」は御構(おかまひ)なきよし也。「人宿組合(ひとやどくみあひ)」と申者も出來候。此方(このはう)、取逃(とりにげ)・訣落(かけおち)等の、益(えき)にも相(あひ)ならざる故、人宿、御停止(ごちやうじ)にて、古來の通(とほり)、何者にかぎらず、慥成(たしかなる)請人(うけにん)、有ㇾ之(これある)奉公人、召抱(めしかかへ)候やう、正德三年、御觸(おふれ)のよし也。
[やぶちゃん注:「出店衆」標題に出る「出居」と同じで「出居衆(でゐしゆ)」のこと。近世、日傭取(ひようとり)を営んだり、武家奉公や商用などの出稼ぎをするため、町方で部屋借りをして暮らした者たちを指す。
「人宿組合」使用人の周旋をする商売屋の組合。「口入れ宿」「人置き」などとも言った。]
○江戶より品川・内藤宿・板橋・千住、右四ケ所へ、日本橋より本馬壹疋に付(つき)、駄賃九十四文づつ、輕尻(からじり)は、本荷駄賃の三分一也。人足は、本荷半駄賃也。
[やぶちゃん注:「輕尻」「からしりうま」「からしり」とも呼んだ、江戸時代に宿駅で旅人を乗せるのに使われた駄馬を指す。人を乗せる場合は手荷物を五貫目(十八・八キログラム)まで、人を乗せない場合は、本馬(ほんま)の半分に当たる二十貫目まで荷物を積むことが出来た。]
○將軍宣下の御祝儀には、大赦取行(とりおこなひ)候に付(つき)、諸大名領分・百姓等に至るまで、公儀へ御伺(おうかがひ)、有ㇾ之、罪人は勿論、自分に罪科(つみとが)申付(まうしつく)るに至(いたる)者も、差免(さしゆるし)候て、仕置に相滯(あひとどこほる)筋(すぢ)無ㇾ之分は、其品(そのしな)により、相應に赦免、又は、歸參等の義も、主人、心次第に宥免(いうめん)可ㇾ致よし、被二仰渡一有ㇾ之事也。
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