南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (1)
[やぶちゃん注:書かれたのは、最後のクレジットから明治一八(一八八五)年五月二日である。「記行」はママである。当時の南方熊楠は満十八歳で、この前年に大学予備門に入学しているが、当該ウィキによれば、『学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れ』ていた。まさに、その一齣でもある。江の島へ行ったのは、同年四月のことであった。私が手掛ける南方熊楠のテクスト中、彼が最も若き日の記事である。
底本は『南方熊楠全集』第五巻 「文集Ⅰ」(澁澤敬三編・一九五二年乾元社刊)の「江島記行」(目次のママ)に載るものを用いた。戦後のものだが、正字正仮名である。底本冒頭の「解說」(ここは正字(但し、新字体が多く混入)新仮名(但し、促音は小振りでない)によれば、この「江島記行」に続く「日光山記行」・「日高郡記行」の『紀行文三篇は一冊に纏められている和綴稿本「紀行卷一」に收められていて、細画が添えられている。「江島記行」は他の草稿と覺しき同様の書あつたが、「紀行卷一」の方に翁自身整理淨書されたものと考えて、この方に從つた。三篇中前二篇(江島記行と日光紀行[やぶちゃん注:ママ。本文では「日光記行」。])は明治十八年、大學豫備門時代の紀行であり、「日高紀行」は翌十九年、渡米前に帰省中の旅行記である』とある。なお、加工データとして「私設万葉文庫」の一九七三年平凡社刊『南方熊楠全集』第十巻『初期文集他』を用いた新字新仮名の電子化されたものを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
本篇は紀行の性質から、文章がベタで続く箇所が殆んどであるが、注を施すのに、割注ばかりでは読者が不便極まりなくなるので、「私設万葉文庫」の平凡社版の改行を生かしておいた。また、長い文章ではないものの、語注や行動ルートの検証(熊楠の錯誤を含む)に、どうしても注が増えるため、分割してしめすこととした。
本篇を電子化しようと思ったのは、ずっとオリジナル電子化注に携わっている南方熊楠の作品であること以外に、私自身がサイトとブログで鎌倉史を研究している関係上、「江の島」もその守備範囲内に完全に入っており、また、「江の島」は個人的に、青春の日の忘れ難い思い出の地でもあるからでもある。
なお、本文に配された標題の「ノ」は、底本では右寄せ小振りである。本文中では「江島」である。本文の小振り右寄せは、総て下附きとした。]
江 ノ 島 記 行
予東京に來てより越二年、塵に吸ひ埃に喁し[やぶちゃん注:「ぎようし」。口をぱくぱくさせ。]足未だ一たび市外に出ざるなり。今年四月、大學、例により十數日の休業有り。予乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]此間を以て江島に一過せんと欲し、俄然行李を治す。不幸にして曇天雨天續て止まざるもの十數日、十六日に至り天漸く晴る。乃[やぶちゃん注:「すなはち」。]宿を出て新橋に至り、十一時發列車に搭して神奈川に至る途上、男女の海邊に徒步して蛤藻[やぶちゃん注:「がふさう」。]の屬を採るを觀る。神奈川より程ヶ谷へ行かんと思ひしに先日來の雨にて道路頗る泥濘なりと聞き、乃ち足を轉して橫濱に趣き、道を東南に取て進むこと二里餘日野に至る。此地橫濱鎌倉の中央に位すと云ふ。此邊道路狹窄泥濘甚だし。又迂廻にして步を浪費する事多し。既にして切通坂に至る道路の惡しきこと極れり。聞く往年橫濱の惡漢、是に於て車客に向て種〻の暴行を加えたりと。但それ寥落の地なるを以て方今と雖とも夫れ或は之有らん[やぶちゃん注:「方今」「はうこん」。現在只今。]。坂の下り口の左傍に土の崩れたるあり。近ついて之を案して一化石を得たり。第一圖に示すが如く靑白の土上に褐色の印痕あるものなり。
[やぶちゃん注:この化石の手書き図が底本に載るが、この画像は国立国会図書館デジタルコレクションの許諾を得ないと使用出来ないので、各人でアクセスして見て貰いたい。右端に手書きで、
明治十八年四月十六日鎌倉所𫉬、
とあり、化石図の左上方に
Fig.Ⅰ
とある。サンゴ虫類或いは海藻類の化石痕か。図が粗いので、特定不能である。なお、この採集地は「日野」と、次の「公田村」から、この中央附近の坂(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)であることが推定出来る。私は初任校が柏陽であったので、この辺りは何度も歩き(一番楽しかった横浜緑ケ丘時代には、大船の自宅から未明に出て、この坂を抜けて、長途を歩くこと、六回ほどやった)、聊か、土地勘があるのである。]
坂を下りて往くこと數百步、公田村に至る。村内の老若、手に苞[やぶちゃん注:「つと」。]を持し、腕に數珠を掛けて囁喃步[やぶちゃん注:「せうなんぽ」。念仏或いは経文を呟きながら歩くこと。]し來る。之を問ふに、乃曰く圓覺寺、本日法會を修せるに詣せるなりと。山内村を通り行くに圓覺寺道路の衝[やぶちゃん注:「しよう」。突き当り。]に當れり。寺内を通りながら一見するに靑松蓊鬱[やぶちゃん注:「をううつ」。]として許由の瓢を鳴らして、堂宇甍を列べて徒らに蜂房[やぶちゃん注:「はうばう」。蜂の巢。アシナガバチのそれであろう。]を懸下せり。やがて寺門を通りぬけ進み行くに、當日法會の某所に在りし故にや僧徒數十人頭に笠を戴き、手に杖を鳴らしつゝ數十人列を成して步み來たれり。道を右傍に屈して坂路あり、走り下るに道傍延胡索の屬小なる者甚だ多きを見る。行く事數町、道の左傍に小祠を見る。佐助稻荷と書せり。西南の山側小村落を見る。卽ち長谷なり。余是に於て旅舍の近きに在るを知り、步を早くして行く。道の岐分する所に碑石あり、芭蕉翁が詠、「夏艸やつはものどもが夢の跡」といふを刻せり。長谷村に入りて街道の右に小祠あり、甘繩神社といふ此村の鎭守にして天照大神を奉祀せり。往時文治の頃賴朝この祠に詣して幣を奉け[やぶちゃん注:ママ。]たりといふ。當時それ或は莊美の祠殿なりしや知らされとも[やぶちゃん注:総て清音はママ。]、現今は矮陋[やぶちゃん注:「わいらう」。]何の見所もなき小祠也。
[やぶちゃん注:「許由の瓢を鳴らして」「蒙求」(もうぎゅう)に載る、孔子が最も愛した弟子顔回の「顏囘簞瓢」と、三皇五帝時代の伝説の隠者許由の「許由一瓢」に出る話である。顔回は、一瓢を携え、陋巷で貧窮の中にあっても、その清貧を楽しんでいた。許由は、樹の枝に掛けておいた瓢簞が風に吹かれて鳴るのを「五月蠅い」と言って、それさえも捨て去ったという故事。禅の公案として知られるもの。
「道を右傍」(みぎかたはら)「に屈して坂路あり」一見すると、旧「巨福呂坂(こぶくろざか)切通」、現在の国道二十一号の「巨福呂坂切通」の北西の建長寺の前の、この中央附近から圓應寺の山側を南南西に尾根を登り、南東に進み、青梅聖天社へ下って、鶴岡八幡宮の北西の向かいの国道二十一号に出るルートでのように一見、見える(私が「鎌倉七切通」の内、唯一、完全踏破していないものである。私は鎌倉側から青梅聖天社を経て登り詰めが、人家を抜けないと行けないため、通行不能であった。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」附録 鎌倉實測圖」の内、こちらの図(画像)の中央附近に点線で記されてあるのがそれである)が、しかし、熊楠は建長寺を記述しておらず、しかも「道を右傍に屈して坂路あり、走り下るに」とあることから、建長寺にさえ行っていないことが判り、熊楠は旧「巨福呂坂切通」を踏破したのではなく、その手前の「長壽寺」を右に折れて急坂の「龜ケ谷坂(かめがやつざか)」を下って「扇ケ谷」に出、さらに「海藏寺」手前から「化粧坂」(けわいざか)を登って、尾根伝いに「佐助稻荷」に至ったことが判明するのである。
「延胡索」「えんごさく」これは、キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ亜科キケマン属 Corydalis を指す。本邦には二十種近くが分布するので、花の色や形状が記されていないので、これだけでは種同定は出来ない。
『道の岐分する所に碑石あり、芭蕉翁が詠、「夏艸やつはものどもが夢の跡」といふを刻せり』これは、ずっと南南西に行った鎌倉市街地のここにある「六地蔵」(旧地名を「飢渇畠(けかちばたけ)」と言う。鎌倉時代、この先にあった問注所で、死罪を宣告された罪人が、近くの裁許橋を渡りここにあった処刑場で処されたことによる。刑場ゆえに耕作をしない更地であったことによる地名である)の背後にある。狭い中に建立されているため、調べたが、同句の碑の写真が見当たらない。私も何度も行ったが、異様に狭苦しい状態で、見難い。そもそも、場違いな句碑で、私は感心しない。これは、鎌倉雪ノ下住で芭蕉の弟子であった松尾百遊が芭蕉の没後九十二年に建てたものであった。嘗ては、ここを「芭蕉の辻」とも称したらしい。この周辺については、私の「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 巽荒神/人丸墓/興禅寺/無景寺谷/法性寺屋敷/千葉屋敷/諏訪屋敷/左介谷/裁許橋/天狗堂/七観音谷/飢渇畠/笹目谷/塔辻/盛久首座/甘繩明神」を見られたい。なお、叙述では、この六地蔵が「長谷村」の中にあるように書かれているが、ここは「大町」である。但し、この六地蔵を南西に行く「由比ガ浜通り」は長谷往還の道ではある。
「甘繩神社」ここ。正しくは「甘繩神明宮」。私は、この神域の裏山を幼少期から密かに愛している。]
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