柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(16)
まよひ子の太鼓きく夜の朧かな 壺 中
誰かゞ迷子になつた場合、家族はいふに及ばず、近鄰の者まで動員して、「迷子の迷子の――やい」といつて搜して步く。遠くからわかるやうに、鉦や太鼓でたづねるといふ話は、吾々の子供の頃までよく聞かされたが、交番といふ便利なものが出來てゐたので、實際にはもう無かつた。漱石氏が「坊ちやん」に用ゐた「鉦や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郞と、どんどこどんのちやんちきりん……」といふ唄なども、やはりこの迷子さがしを蹈へているやうだから、昔は屢〻かういふ事件があつたものであらう。
「まよひ子の太鼓」は「迷子を搜す太鼓」の意味である。迷子自身が太鼓を聞くわけではない。春の夜の朧の空に太鼓の音が聞える。又どこかに迷子があつて、それを搜してゐるのであらう、と想像したのである。
迷子を搜すといふ事柄に對しては、寒月とか、木枯とかいふ配合の方が適切だといふ人があるかも知れない。併しそれは稍〻型に嵌つた見解で、哀れを强ひる嫌がある。この句の場合はさう立入つた氣持でない、あゝ又迷子があるな、といふ非人情的態度である。さうすれば背景が春の朧夜であることも、緩和的效果を與へてゐるやうに思ふ。
[やぶちゃん注:『漱石氏が「坊ちやん」に用ゐた「鉦や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郞と、どんどこどんのちやんちきりん……」』「九」の一節。
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しばらくしたら、銘々(めいめい)胴間聲(どうまごゑ)を出して何か唄ひ始めた。おれの前へ來た一人の藝者が、あんた、なんぞ、唄ひなはれ、と三味線を抱へたから、おれは唄はない、貴樣唄つて見ろと云つたら、金(かね)や太鼓(たいこ)でねえ、迷子(まひご)の迷子(まひご)の三太郞と、どんどこ、どんのちやんちきりん。叩いて廻つて逢はれるものならば、わたしなんぞも、金(かね)や太鼓でどんどこ、どんのちやんちきりんと叩いて廻つて逢ひたい人がある、と二た息にうたつて、おゝしんどと云つた。おゝしんどなら、もつと樂なものをやればいゝのに。
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である。「青空文庫」(新字旧仮名で気持ちが悪いが)のこちらで、確認出来る。]
春雨や戶板に白き餅の跡 酒 樂
かつて餅搗の場合に、戶板を外してその上に餅を竝べた。その時の餅の粉が白く戶板に殘つてゐる、といふのである。作者はそれを春雨の際に發見したのであるが、この戶板は外されてゐるのか、それとも立つてゐるのであらうか。「戶板」といふ言葉だけ切離して考へると、外された場合のやうでもある。たゞ雨戶といつたのでは、何で餅の跡があるのかわからぬから、前に外した時のことを現す爲、殊更に戶板と云つたのかも知れない。必ずしも歲暮の餅搗でなしに、近く搗いた餅の跡としても差支無いが、とかくは無用の穿鑿であらう。春雨のつれづれなるに當つて、「戶板に白き餅の跡」を發見しただけで、作者は滿足なのである。
面白い見つけどころの句である。戶板に殘る餅の跡などに興味を持つのは、俳人得意の世界でなければならぬ。
子を運ぶ猫の思ひや春の雨 里 倫
猫が自分の產んだ子を他の場所へ移す。人があまり覗いたりすると、危害を加へられるやうに思ふのか、知らぬ間に全く別の箇所へ運んでしまふ。子猫の首のところを銜へえて、一匹づつ運ぶ親猫の樣子は、慥に眞劍なものの一である。
香取秀眞氏の古い歌に「おしいれの猫の產屋に雨もりて夜たゞ親鳴く子を守りがてに」といふのがあつた。この場合も或は雨漏の爲にどこかへ移すのかも知れない。雨の中を子を銜へて運ぶ親猫の樣子が見えるやうである。
この句の面白味は「思ひ」といふところにある。「蛇を追ふ鱒のおもひや春の水」といふ蕪村の句も、動物の「思ひ」を捉へてゐるが、いささか特殊に過ぐる嫌が無いでもない。「子を運ぶ猫の思ひ」は平凡な代りに、何人にも窺ひ得る境地であらう。
[やぶちゃん注:「香取秀眞」鋳金工芸師の香取秀真(かとりほつま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、何より、私にとっては、芥川龍之介の田端の家のすぐ隣りに住み、龍之介とは友人でもあった点で、よく知っている。
「蛇を追ふ鱒のおもひや春の水」所持する岩波文庫版尾形仂校注「蕪村句集」(一九八九年刊)では、
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虵(へび)を追ふ鱒(ます)のおもひや春の水
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とあり、安永七(一七七八)年から天明三(一七八三)年の間の作とする。「虵を追ふ鱒」に脚注があり、「標註」からの引用で、『木より下りて鱒を捕らんとする蛇を、市中より躍りて尾をもて打ち落さんと』爭『ふ也』とある。「鱒」とあるが、これは蛇と争そうことから、一般的に広義の「マス類」ともされる、硬骨魚綱サケ目サケ科イワナ属イワナ Salvelinus leucomaenis のことだろうと考える。「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 いはな」の私の注を見られたい。]
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