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2024/04/09

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(21)

 

   寺の菜の喰のこされて咲にけり 龜 洞

 

 寺の中に畠があつて菜が作つてある。いづれ坊主どもの食用であらうが、その食ひ殘りの菜に薹が立つて花が咲いた、といふ風に解せられる。事實としては寺の畠の菜に花が咲いたといふに過ぎぬが、それを坊主どもに食ひ殘されたと見たのがこの句の眼目である。「喰のこされて」の一語によつて、この菜は油を取る目的や何かで花を咲かせたものでないことがわかると同時に、花の分量がそう多くないことも想像出來る。

「春雨や食はれ殘りの鴨が鳴く」といふ一茶の句がある。春まで池か沼にゐる鴨に對して、人に捕られず、食はれずに命を全うしたと見るのは、いさゝか持つて廻つた嫌があつて、素直に受取りにくいが、畠の菜が食ひ殘されて花が咲くといふ方は、句に現れた通り感じ得るやうに思ふ。それが寺の畠であるといふことも、場所に關する連想を補ふ效果があつて、而も不自然に亙る弊からは免れ得てゐる。奇拔といふ點から云へば、一茶に一籌[やぶちゃん注:「いつちう」。]を輸[やぶちゃん注:「ゆ」。]せねばならぬけれども、食はれ殘りの鴨よりは、食ひ殘されて春に逢ふ菜の花の方に眞のあはれはあるのである。

[やぶちゃん注:「龜洞」比企郡番匠村(現在の埼玉県比企郡ときがわ町)の、代々、在村医で俳諧を嗜んだ小室家の二代田代通仙(享保一七(一七三二)年~文化 三(一八〇六)年)は幼名を波門と称し、俳号らしき自在庵亀洞を持つが、彼か。

「春雨や食はれ殘りの鴨が鳴く」「七番日記」所収。そこでは、

   春雨や食れ殘りの鴨が鳴

である。自筆本では下五が異なり、

   春雨や食はれ殘りの鴨の聲

である。]

 

   染物をならべて掛る柳かな 路 健

 

 綺麗な感じである。染物の色は何だかわからぬが、柳の綠に映發する鮮な色のやうな氣がする。色彩を表面に現さないで、色彩が目に浮ぶから妙である。

「ならべ」といふ言葉は、柳に竝んで染物を掛けたといふ風に解されぬこともないが、染物をいくつも竝べて掛ける、卽ち複數の場合と見る方が自然であらう。この十七字を誦して、駘蕩たる春風を面に感ぜぬ者は、竟に詩を解するの人ではない。

 

   笠かけて笠のゆらるゝ柳かな 荻 人

 

 この方は柳に掛けるものと見ていゝやうである。柳に近く茶屋の柱とでもいふべきものがあつて、そこに笠を掛けたのでも差支ないが、特に柳の木から切離す必要もなささうに思ふ。

 春風は徐に空を吹き、又柳を吹く。柳の枝の靡くにつれて、そこに掛けた笠も搖れるのである。笠を掛けて憩ふ者は旅人であらう。場所を描かず、人を描かず、柳と笠とだけで一幅の畫圖を構成してゐるから面白い。

「笠かけて笠の……」といふ風に同語を繰返す句法は、後世にも好んで用ゐる人がある。見方によれば一種の技巧であるが、この句の場合の如きは極めて自然で、一向斧鑿痕は感ぜられぬ。

[やぶちゃん注:「荻人」「てきじん」と読んでおく。蕉門であることは判った。]

 

   目ぐすりの看板かける柳かな 呂 風

 

 ついでだからもう一つ同じやうな句を擧げて置かう。

 讀んで字の如き市中の小景で、說明を要する點も無いが、この句に至ると、染物の句ほど柳を離す必要も無し、笠の句ほど柳につける必要も無い。配合趣味ともいふべきものが强くなつてゐる。「目ぐすりの看板かけむ絲柳」となつてゐる本もあるが、いづれにせよ店の前に柳の垂れた、長閑のどかな景色が目に浮ぶまでで、强ひて柳と看板との關係を限定するにも及ばぬやうである。

 この三句を併觀すると、柳といふ一の季題に關し、期せずして同じところへ落込んだといふ風にも考へられる。併しその落込んだ狹い領域の中で、三句三樣の變化を示してゐるのを見れば、俳諧の天地は容易に窮まらぬといふ感じもする。俳諧の變化は毛色の變つた句の中に求めるよりも、かういふ近似した句の中に求めた方が、却つてよく會得出來るのかも知れない。

 

   春雨や音こゝろよき板庇 蘆 角

 

 雨に古今の變りは無いが、之を受けるものには變りがある。この句は板庇に當る雨の音を快しと聞いたので、從つてこれは音もなく煙るやうな春雨でない、もつと强い降り方の場合と思はれる。

 香取秀眞氏が大學病院で詠まれた歌に「風の音あめのしづくの音聞かむ板葺やねを戀ひおもふかな」といふのがあつた。これは「雨ふれど音の聞えず、しぶきのみ露とぞ置く」コンクリート建築に慊焉たる結果、爽な[やぶちゃん注:「さはやかな」。]雨の音に想ひを馳はせられたものであらう。板庇にそゝぐ雨の音を愛づることは同じであつても、茅葺屋根に居住する人の心持と、トタン葺に馴れた人の心持とでは、その間に多大の逕庭あるを免れまい。この句の眼目は春雨の音を主にした點に在る。閑居徒然の耳を爽にする春雨は、相當降りの强い場合でなければならず、之を受けるのも板葺でなければならぬ。トタンでは爽を通り越して、少々やかましい憾がある。

[やぶちゃん注:「香取秀眞」既出既注

「慊焉」(けんえん)あきたらず思うさま。不満足なさま。]

 

   白鷺の雨にくれゆく柳かな 諷 竹

 

 柳に鷺の配合は、日の出に鶴ほどではないかも知れぬが、畫材としては頗る陳腐なものである。それに雨を添へただけでは、まだ格別のことも無い。たゞ「くれゆく」といふ時間的經過が加はるに及んで、稍〻陳套を脫すると同時に、繪畫の現し得る以外のものを取入れたことになる。

 柳の上にぢつとしてゐる鷺は、下の水にゐる魚でも狙つてゐるのであらうか、先刻から少しも動かぬ。霏々たる雨のやまぬ中に、水邊の空氣は徐に暮れかけて來た。白い塊のやうな鷺の姿も、影のやうな柳の木も、一つになつて夕闇の中に見えなくならうとしてゐる。――かう解して來ると、見慣れた常套的畫景の外に、何等か新なものが感ぜられる。作者が腦裏に組立てた景色でなく、實感より得來つた爲であらう。

 

   花の雨鯛に鹽するゆふべかな 仙 化

 

 これだけのことである。到來の鯛でもあるか、それに鹽をふつて置く。かういふ事實と、花の雨との間にどういふ繫りがあるかと云へば、こまかに說明することは困難だけれども、そこに或微妙なものが動いてゐる。その微妙なものを感ずるか、感ぜぬかで、この句に對する興味は岐れるのである。

 花の雨といふことに拘泥して、花見の料に用意した鯛が、雨の爲にむだになつたのを、夕方になつてから鹽をふるといふ風に解すると、誰にもわかり易いかも知れぬが、それでは一句が索然たるものになつてしまふ。この句の眼目は、鯛に鹽をふるといふことと、花の雨との調和にあるのだから、どうして鯛に鹽をふらなければならなくなつたか、といふ徑路や順序に就て、さう硏究したり闡明したりする必要は無い。そんなことが何處が面白いかといふやうな人は、むしろ最初からこの句に對する味覺を缺いてゐるのである。この作者が都會俳人であることは、贅するまでもあるまい。

[やぶちゃん注:「仙化」(生没年不詳)「仙花」とも書いた。江戸の人。蕉門。俳諧撰集「蛙合(かへるあはせ)」(貞享三(一六八九)年刊)を編している。「あら野」・「虛栗」・「續虛栗」などに入句している。]

 

   灸居てみる山近しはつ櫻 吾 仲

 

「灸居て」は「スヱテ」である。灸をすゑながら山を見るといふのか、灸をすゑてから山を見るといふのか、その邊は俳句の敍法の常で判然しないが、とにかく而して見た山の端に初櫻を認めた、といふ句意らしく思はれる。

 その山は近くに在る。從つてその櫻も霞か雲かと見まがうやうなものではない。初櫻といふものは花の量の乏しいことを現すと同時に、季節に於て稍〻早いといふところを蹈へてゐる。そこに灸をすゑる爲に脫いだ肌の寒さといふやうなものが感ぜられて來る。初櫻と灸との間には、それ以外に何の因緣も無ささうである。

 

   菜の花のふかみ見するや風移り 路 健

 

 一面の菜の花に風が吹渡る。さう强い風ではないが、花から花へと風の移つて行くのを見送ると、今更のやうに菜の花畑の廣さ、奧行の深さといふやうなものが感ぜられる、といふ意味であらう。

 ちよつと變つた句である。點景もなければ背景もない。たゞ菜の花といふものを――一本一輪の微[やぶちゃん注:「び」。]でなしに、一面に咲いた菜の花を見つめたところに、この句の特色がある。

 

   春雨の足もと細しみそさゝい りん女

 

 春雨の中を餌でもあさつてゐるのであらう、鷦鷯[やぶちゃん注:「みそさざい」。]がちよこちよこしてゐる、その足もとを細しと見たのである。

 小鳥の中でも小さい鷦鷯の足もとが細いといふことは、格別特異な觀察でもないが、作者は見た通り、感じた通りを句の中に持つて來た。この場合、鷦鷯がどこにゐるといふやうなことは問題にせず、細い足だけに注意を集中してゐる。鳥よりもむしろ人間に近い感じがせぬでもない。そこに女流の作たる所以があるかと思ふ。

[やぶちゃん注:スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)」を参照されたい。

「りん女」既注だが再掲すると、蕉門女流俳人。蕉門の筑前秋月の医師遠山柳山の妻。]

 

   菜畠に藪の曇りや雉子の聲 風 國

 

 菜畠の向うにどんより曇つた日の藪が見える、といふのがこの句の背景で、さういふしづかな舞臺の空氣を破つて、突然鋭い雉子の聲がした、といふのである。古風な云ひ方をすれば、靜中動ありとか何とかいふことになるのかも知れない。

 この菜畠は花が咲いてゐてもよし、春をよそにした靑菜畠であつても差支無い。要するに雉子が登場するまでの背景をつとめれば足るのだから、畫家の手心で一面の綠にしても、少々黃色をなすつても、そこは深く問ふに當らぬであらう。

 

   棚解てよごるゝ藤の長さかな 探志

 

 何かの必要があつて藤棚ふじだなの竹を解いたので、そこに下つていた藤の長房が地に垂れて、花の末を汚した、といふ意味であらう。藤棚の藤を句にする場合、その棚の竹を解く光景などは、容易に頭に浮ぶものでないから、こういふ實景に逢著して詠んだものに相違ない。

 藤の花はさう壽命の短いものでもないにせよ、棚の修理でもするなら、花が過ぎてからにしてもよささうな氣がする。何か事情があつたものと思ふが、作者はそんなことは穿鑿しない。たゞ眼前に棚を解いた爲、藤の花房が垂れて地に汚れてゐる、といふ事實だけを捉へてゐる。棚を外された藤などは慥に變つた眺であり、そこに又一種の趣も存する。

[やぶちゃん注:「探志」(たんし 生没年未詳)江戸前期の俳人。元禄(一六八八年~一七〇四年)頃の近江膳所(ぜぜ)の鞘師(さやし)で近江蕉門の一人。通称は小兵衛、別号に探芝・探子・探旨など。作品は「ひさご」「千句づか」などにのせられている。]

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