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2024/04/27

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(14)

[やぶちゃん注:初句は「つりそめてかやのかをりやふつかほど」。]

 

   つり初て蚊屋の薰や二日程 花 虫

 

 この句に極めて類似してゐるのは「つり初て蚊帳の匂や二三日 浪化」である。「薰」と「匂」、「二三日」と「二日程」では殆ど兩立するだけの相違點は認められぬ。「浪化上人發句集」にはこの句は見えず、「二三日蚊屋のにほひや五月雨」といふ句が出てゐる。「二三日」も「にほひ」もこの方にはあるが、果してどう混線したものか。「類題發句集」以外に慥な出所がわかるまでは、疑問として浪化の句を存し、花虫の句を擧げて置くより仕方があるまい。花虫の句は北陸の選集たる「猿丸宮集」に在るので、地方的に云へば浪化の作と混雜する可能性も多少ある。

 蚊帳はうるさいものであるが、釣りはじめの間はさう暑くないせゐか、何となくなつかしいやうな感じがする。花蟲の句は一日二日の間、萠黃の匂を珍しく感ずるところを詠んだのである。秋になつて蚊帳を釣らなくなる時でさへ、「蚊帳の別れ」だの「蚊帳の名殘」だのといふ情趣を感ずる俳人が、釣り初めの蚊帳に對して、普通人以上の感情を懷かぬはずは無い。前に引いた浪化の「五月雨」の句以外にも

 

   つり初て蚊帳面白き月夜かな 言 水

 

   一夜二夜蚊帳めづらしき匂かな 春 武

 

の如きものもあるが、花虫の句は最もすぐれたものと云ひ得るであらう。

[やぶちゃん注:私は小学校六年の卒業(一九六九年)まで、蚊帳を釣っていたことを思い出す。独特の蚊帳の匂いも記憶にある。もう五十五年も前か……

「猿丸宮集」「さるまるみや(の)しふ」と読む。江戸中期の俳諧集で三十六の編になる。]

 

   ほとゝぎす腹の立事言てより 草 籬

 

 何か腹の立つことがあつて、それを口にした、その後でほとゝぎすの聲を耳にした、といふのである。

 不機嫌な折からほとゝぎすを聞いたといふ事實の報告ではない。何か腹の立つことをいつてのけた、むしやくしやしたやうな、而も一面にはけ口を見出したやうな心理狀態を捉へたところが主眼である。さういふ氣持とほとゝぎすの聲とが、或調和を得てゐることは云ふまでもない。

 太祇の「思ひもの人にくれし夜時鳥」といふ句も、或心理的變化の上にほとゝぎすを持込んでいるが、その事柄が特別過ぎる爲、奇は奇であつても、拵へた痕迹を免れない。「腹の立事言てより」は平凡な代りに自然である。こういふ心理的經過ならば、吾々でも十分察することが出來る。

 

   くれもせぬ鄰の餅や五月雨 野 棠

 

 鄰の家で餅を搗いてゐる。五月雨に降りこめられた徒然のまゝにそれを聞いて、あの餅をくれゝばいゝな、と思ふが、一向持つて來る樣子も無い。そのうちに杵の音も止んでしまつた、といふやうな趣であらうか。

「鄰の餅」といふだけでは、現在搗きつつある場合かどうかわからない。冬搗いたかき餅などを五月雨時分に燒いて食ふこともないではないが、それにしては云方が事々し過ぎるやうな氣もする。何か特別な事があつて餅を搗いてゐるものと見た方が、「くれもせぬ」といふ言葉にも適ふし、五月雨の徒然な樣子も現れるやうである。

 くれるときまりもせぬものに對して、「くれもせぬ」と云つたところに、多少滑稽な趣が伴つてゐる。一茶の「我門に來さうにしたり配り餅」なども、氣持の上に似たところがあるが、際どいだけに俗な點があつて面白くない。「くれもせぬ」といふ餘裕ある不平に及ばざること遠い。

[やぶちゃん注:一茶の句は、「おらが春」の一節に、

   *

        二十七日晴

坊守り朝とく起て飯を焚ける折から、東隣の園右衞門といふ者の餅搗なれば、例の通り來たるべし、冷てはあしかりなん、ほかほか湯けぶりのたつうち賞翫せよといふからに、今や今やと待にまちて、飯は氷りのごとく冷えて、餅はつひに來ずなりぬ

     我門へ來さうにしたり配餅

   *

この後、本文掉尾の、知られた

   ともかくもあなた任せのとしのくれ

の一句の載る手紙文風のものが続く。]

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