ブログ2,140,000アクセス突破記念 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(23) /「春」の部~了
[やぶちゃん注:因みに、この記事は、本日未明、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,140,000アクセスを突破した記念として公開するものである。【二〇二四年四月十一日 藪野直史】]
雉子啼や藏のあちらの蜜柑畑 桃 先
田舍の屋敷內などであらう。母家を離れたところに土藏があつて、その向うはずつと蜜柑畑になつてゐる。雉子はその邊まで來て啼くとも解せられるし、藏の向うに蜜柑畑の見えるやうな場所で、けんけんと啼く雉子の聲を聞いたといふことにしても構はない。
雉子の聲の背景としては、これまでも隨分いろいろな世界を擧げて來たが、「藏のあちらの蜜柑畑」は正に一幅の畫圖である。こゝに雉子の聲を點じて、畫以上にすべてを生動せしめた。雉子の啼く頃では、蜜柑は枝頭に朱い玉をとゞめていないかも知れぬが、土藏の先に一面の蜜柑畑が展開しさへすれば、果の有無の如きは深く問ふに及ばぬであらう。
山燒て峯の松見る曇かな 魚 口
この句に於て多少の疑問があるのは、「山燒て」といふ言葉にかゝる時間である。山を燒いて然る後、どの位の時間を經てゐるか、それによつてこの句の味は異らなければならぬ。
山燒の濟んだ後の峯に、何本かの松が聳そびえてゐる、燒かれて稍〻あらはになつた山の頂の松が、曇つた空に高く見える、といふ風にも解釋出來る。
もう一つは現在なお山を燒きつゝある場合で、煙はそこら一面に流れてゐる、峯頭の松もその煙の爲に曇つて見えるか、或は實際曇つた空に聳えてゐるか、とにかく山燒が現に行はれてゐるものと解するのである。
「山燒て」といふ言葉は、本來はつきりした時間を現してゐないから、何方にも解し得ると思ふが、再案するに「峯の松見る曇かな」といふ十二字には、しづかに落著いた空氣が含まれてゐるので、現に火が燃えてゐる――山を燒きつつあるものとすると、感じの上においてそぐわぬところがある。やはり山を燒いてから多少の時間を經過したものと見るべきであらう。
[やぶちゃん注:後半の宵曲の推定はヴィジュアルな印象を検証したすこぶる優れた見解である。]
にくまれてたはれありくや尾切猫 蘆 本
猫の戀を詠んだ句は、比較的漠然たる趣のものが多く、猫そのものの樣子なり、動作なりを現したものは寧ろ少い。この句はその少い方に屬する一である。
春の季題に猫の戀を取入れたのは誰か知らないが、戀猫といふものはそれほど雅趣に冨んでゐるとも思はれぬ。家を外に浮れ步くあの樣子は、平生猫に好意を持つてゐる人にすら、疎むとか、憎むとかいふ心持を起させ易い。さういふ猫の中に尾を短く切られたのが一匹おつて、日夜狂奔しつゝある。その樣子を皆が見て憎らしいと云ふが、猫はそんな世評には頓著せず、相變らず家を外に狂ひ步いてゐる、といふのである。
猫を飼ふ趣味にもいろいろあつて、必ずしも同一標準に立つわけではないけれども、尾の長い方が見た恰好もいゝし、可愛らしくもある。この猫が人に憎まれるのは、尾の短いことも一理由になつてゐるかもわからぬが、作者はそれを正面に置いてはゐない。「にくまれて」はどこまでも「たはれありく」樣子にかゝるので、その猫は尾が切られてゐて短い、といふ特徵を描いたまでのものであらう。
「戀ひ負けて去りぎはの一目尾たれ猫 より江」といふ句は、さすがに近代の產物だけあつて、猫の樣子なり、動作なりについて更にこまかい觀察を試みてゐるが、「尾たれ猫」の一語は特に畫龍點睛の妙がある。蘆本の句は觀察の精粗に於て固より同日の談ではない。但この句の眼目は畢竟「尾切猫」の一語に在る。この一語が無かつたら、尋常一樣の漠然たる戀猫の句になつてしまつたに相違無い。
[やぶちゃん注:「尾切猫」民俗社会では、尻尾の長い猫が歳を重ねると、尾が二股になり、妖獣猫又になるという迷信があって、そのために尾を切るということが行われた事実もあるようである。但し、実際の切っているのではなく、元来、尻尾の短い中国から来た猫は、遺伝的に短い尻尾や鍵尻尾を持っていて、実際、江戸時代には尻尾の短い猫が好まれてきた事実があり、これも、前記のような理由から人為的に切ったのではなく、そうした猫をかく呼称したともとれる。
「より江」久保より江(明治一七(一八八四)年~昭和一六(一九四一)年)は女流俳人・歌人。郷里の愛媛県松山で夏目漱石や正岡子規に接し、句作を始め、上京後、府立第三高女を卒業し、耳鼻咽喉科学者で歌人の久保猪之吉(明治七(一八七四)年~昭和一四(一九三九)年:短歌を落合直文に学び、尾上柴舟らと「いかづち会」を結成、浪漫的な歌風で知られた)と結婚し、福岡に住み、高浜虚子に俳句を、服部躬治(もとはる)に和歌を学び、かの美貌の歌人柳原白蓮らと交友があった。旧姓は宮本。著作に「嫁ぬすみ」「より江句文集」等がある。]
晝からは茶屋が素湯賣櫻かな 菐 言
これはどういふ場所であるか、櫻があつて、茶屋があつて、人が見に來るやうなところらしいが、それ以上の想像は困難である。或は不必要かも知れぬ。
特に「晝からは」と斷つたのは、午前は何も無いが、午後からは……といふ意味に解せられる。午前はあまり人が來ないのか、茶屋が開業しないのか、それもわからない。
反對に人があまり來過ぎるので、午後からは茶屋が茶でなしに素湯[やぶちゃん注:「さゆ」。]を飮ませてゐる、といふ意味に解すると、素湯だから冷たくはないにしても、いさゝか冷遇の意味になつて來る。「晝からは」といふ以上、午前と午後とで何か異る事情がなければならぬ。その事情は大づかみに見て、消極、積極の二通りになるが、愈〻となると斷定は下しにくいやうに思ふ。
[やぶちゃん注:「菐言」寺島菐言(てらしまぼくげん 正保三(一六四六)年~元文元(一七三六)年)は江戸前・中期の蕉門俳人。尾張鳴海宿の本陣の子。貞享四(一六八七)年十一月五日、芭蕉を招いて句会を開いている。「鳴海六俳人」の一人。名は安規。通称は伊右衛門。]
羽子板の箔にうけたり春の雪 吾 仲
美しい句である。
春降る雪の冬の雪と感じの違ふところはいくらもあるが、要するに季節を過ぎてゐるだけに、何となく一種のゆとりを生じて居り、雪片が大きいながらふはふはと降つて來る趣なども、この感じを大に助けてゐる。この句はその趣を捉へたもののやうに思はれる。
箔を置いた羽子板をさしのべて、春の雪片を受けて見る。深窓に育つ羽子板の持主の嫣然たる趣を連想すれば更に美しい。「ロシヤ更紗の毛蒲團を、そつとぬけでてつむ雪を、銀のかざしでさしてみる、お染の髮の牡丹雪ぼたんゆき」といふ夢二氏の童謠を昔讀んだことがあるが、どこかそれと共通する浮世繪趣味に似たものが感ぜられぬでもない。併しそれは固より連想、餘情の範圍で、句の表に現れたものは、春の雪の降る中にさしのべた、美しい羽子板だけである。
「箔にうけたり」といふ言葉を、箔を置いた羽子板と取らずに、春の雪を受けて羽子板の箔とした――雪片そのものを箔と見る――といふ意味に解すると、多少技巧的な句になる。吾々はやはり箔ある羽子板をさしのべた、美しい句としてこれを見たい。
[やぶちゃん注:「夢二氏の童謠」は竹久夢二の「どんたく 繪入り小唄集」の中の「雪」の一節。私は彼の絵が嫌いなので所持しない。幸い、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで、原本(大正二(一九一三)年実業之日本社刊)を視認出来たので(ここと、ここ)、以下に電子化する。
*
雪
赤(あか)いわたしの襟卷(えりまき)に
ふわりとおちてふときえる
つもらぬほどの春(はる)の雪(ゆき)。
これが砂糖(さたう)であつたなら
乳母(うばも)でてきてたべよもの。
ロシヤ更紗(ざらさ)の毛布團(けぶとん)を
そつとぬけでてつむ雪(ゆき)を
銀(ぎん)のかざしでさしてみる
お染(そめ)の髮(かみ)の牡丹雪(ぼたんゆき)。
七番藏(ばんぐら)の戶(と)のまへで
手招(てまね)きをするとうじさん
顏(かほ)ににげない白(しろ)い手(て)で
ひねり餅(もち)をばくれました。
納戶(なんど)のおくはほのくらく
紀州蜜柑(きしうみかん)の香(か)もあはく
指(ゆび)にそまりし黃表紙(きべうし)の
炬燵(こたつ)で繪本(ゑほん)をよみました。
窓(まど)からみれば下町(したまち)の
角(かど)の床屋(とこや)のガラス戶(ど)に
大阪下(おほさかくだ)り雁二郞(がんじろ)の
春狂言(はるきやうげん)のびらの繪(ゑ)が
雪(ゆき)にふられておりました。
*
最終行の「おり」はママ。]
尋よる門やしまりて梅の花 野 紅
この訪問者と居住者との關係はわからない。門前を通りかゝつたから寄つて見るといふやうな漫然たる訪問でないことだけは慥である。
折角たずねて來た門がしまつてゐる。近頃は門がしまつてゐても、必ず不在だとはきまらない。ベルを押して、取次が出て來てからでも、眞の在否のわからぬ手合さへある。作者はこの場合「門やしまりて」の一語によつて、門がしまつてゐるといふことだけでなく、主の不在であることをも現している。「九日驅馳日閑。尋君不遇復空還。怪來詩思淸人骨。門對寒流一雪滿山」といふやうな趣であるとすれば、梅花に門を鎖した主は隱者らしくなつて來るが、この句はそこまではつきり描いてゐない。門のしまつてゐる爲に得た失望の感を、「尋よる」の一語に含ませてゐるに過ぎぬ。
[やぶちゃん注:引用している漢詩は、「三體詩」宋の周弼撰の漢詩集。全三巻。一二五〇年成立。七言絶句・五言律詩・七言律詩三体の詩、四百九十四首を集録する。唐代中晩期の作品が中心で、「虛」(叙情)と「實」(叙景)に分類する。本邦では、室町時代に翻刻されて以来、盛んに流布した]の巻頭の「七言絕句」の「虛接」にある、中唐の韋應物の一篇。所持する朝日新聞社の『中国古典選』二十九巻(全巻吉川幸次郎監修)の村上哲見著を参考に正字で示し、訓読を示す。
*
休日訪人御不遇 韋應物
九日驅馳一日閑
尋君不遇又空還
怪來詩思淸人骨
門對寒流雪滿山
休日人を訪ねて遇はず 韋應物
九日(きうじつ)驅馳(くち)して 一日(いちじつ) 閑(かん)なり
君を尋ねて遇はず 又た空しく還(かへ)る
怪み來たる 詩思(しし)の人骨を淸(きよ)うするを
門(もん)は寒流(かんりう)に對し 雪は山に滿つ
*
語釈しておく。
・「驅馳」走り回ること。当代の官人は、九日、働き続けて、十日目に一日だけの休暇が与えられる決まりであった)。
・「怪來」…あやしむ。「來」は助辞で、何やらん、不思議に思われることを響かせるもの。
・「詩思」村上氏は『留守を残念におもいつつ、門前の景を眺めるうちに、詩情がわいてきた』という意を採っておられる。
・「骨」村上氏は『骨髄までも清められるおもいだった』と訳しておられる。]
白梅の月をさゝげて寒さかな りん女
明治の末に「寒月照梅花」といふ敕題が仰出された時、誰かがいろいろ古歌の例を引いたものを見たら、月に梅を配したものはあつても、寒月といふ感じのものは少かつた。當時詠進の歌には、何かの景物によつて寒さを現したものが多かつたやうに記憶する。歌では「寒月や」といふ風の言葉が使ひにくい爲、自然配合物の力を藉る[やぶちゃん注:「かりる」。]ことになるのであらう。
この句は春になつてからの句かも知れぬが、寒さが主になつてゐるので、「寒月照梅花」の意にも適ふかと思ふ。皎々たる月の光の下に、白い梅の花が咲いてゐるといふ、見るからに寒い感じの句である。月下の梅といふことを云はずに、「月をさゝげて」といつたのは、月が中天にかゝつてゐることを現す爲もあるが、そこに作者の技巧らしいものが見えて、さういゝ句だといふわけではない。たゞ同じ作者の句に「白梅の月をおさゆる寒さかな」といふのがあり、彼此對照すれば、やはり「さゝげて」の方が優つてゐる。「おさゆる」では作者の技巧的主觀が强くなつて、自然の趣を損ずることが多いからである。
爐ふさぎや上へあがりてふんでみる 朱 拙
久しい間の爐を塞いで蓋をする。一冬を賴みにして來ただけに、愈〻塞いでしまふ段になると、うら寂しい感じもするが、同時にその邊が綺麗になつて、さつぱり片付くところもある。作者はさういふ氣分の下に、今塞いだばかりの爐を上から踏んで見たのであらう。
「上へあがりて」といふと、何だか高いものゝ上に上つたやうに聞えるが、實際は爐を塞いだ疊の上を踏むに過ぎまいと思ふ。今まで明いてゐたところを急に塞いだので、その慥たしかさを蹈み試みるといふ風にも解せられる。實際は年々歲々塞ぐことを繰返し、その度にかうやつて蹈んで見るのかも知れない。若し難を云へば、「上」といふことよりも「あがりて」の方にありさうである。
桃さくや古き萱屋の雨いきれ 四 睡
桃の咲く時分になつて、春の暖氣は俄に加はり、降る雨にも萬物を悉く蒸し返らすやうな力を生じて來る。この句はさういふ雨に濡れた、古い萱屋根の家を描いたのである。
瓦屋根やトタン屋根では、到底かういふ感じは起らない。萱屋根にしても、新に葺かれたばかりの家だつたら、やはり感じが異るかも知れぬ。多くの歲月を經て眞黑に古びた萱屋根が、折からの雨に濡れて、ムーツといきれたやうになつてゐる。このいきれた空氣の中に、屋根草は芽を吹き、もろもろの蟲の卵は孵り、天地の春を形づくるのであらう。野趣といつただけではまだ盡さぬ、多くの詩歌の看過する春のいぶきを、俳人は容易に捉へ得た。この蒸れるやうな雨の感じに調和するものは、他の何の花よりも桃でなければなるまい。
或はこの句は現在雨が降つてゐる場合でなしに、雨がやんだばかりに日がさして、水蒸氣が一面に立騰るといふやうな光景でもいゝかと思ふ。春らしい實感を十分に盛り得た點で、異色ある桃の句と云ふべきである。
[やぶちゃん注:「多摩市立図書館/多摩市デジタルアーカイブ」の「多摩市史 通史編1」の「地元の句合」に、現在の多摩市にあった連光寺村の俳人名に、この人物の号が載る。]
はるの月またばや池にうつる迄 諷 竹
「猿澤邊に圓居[やぶちゃん注:「まどゐ」。]して」といふ前書がついてゐるから、この句の場所は明瞭である。もう程なく春の月が出る。それが少し高く上れば、猿澤の池の面にうつるやうになる。それまで待たう、待つて池にうつる春の月を見よう、といふ句意らしい。
もう十年近くも前になるか、奈良に遊んで一宿したことがある。當時は燈火管制も何も無かつたが、春の夜の町へ散步に出るのに、驚いたのは道の暗いことであつた。元祿時代の奈良は更に暗かつたであらう。作者はどんなところに圓居してゐるのかわからぬが、日が暮れてから電車で京都や大阪へ歸り得る時代でないから、月を待つてどうしようといふのでもあるまい。猿澤の池にうつるまで、月の上るのを待つて、その眺を見囃さうといふに過ぎまいと思ふ。
奈良の月は直に「春日なる三笠の山を出でし月」を連想せしめるが、作者はさういふ傳統に捉はれず、猿澤の春月といふ新な配合を見出し、更に「池にうつる迄」といふ興味を點じた。「はるの月またばや池にうつる迄」と繰返し誦して見ると、のんびりした昔の春の心持が、我身に近く感ぜられて來る。
[やぶちゃん注:「春日なる三笠の山を出でし月」「古今和歌集」「卷第九 羇旅歌」の冒頭に掲げられてある安倍仲麿の一首(四百六番)の以下である。
*
もろこしにて月をみてよみける 安倍仲麿
あまの原ふりさけみれは春日(かすが)なる
三笠(みかさ)の山にいでし月かも
このうたは、むかしなかまろを、もろこしに
物ならはしにつかはしたりけるに、あまたの
年をへて、えかへりまうでごさりけるを、こ
のくにより又つかひまかりいたりけるにたぐ
ひて、まうできなむとて、出(い)でたりけ
るに、めいしうといふ所のうみべにて、かの
國の人うまのはなむけしけり。よるになりて、
月のいとおもしろくさしいでたりけるを見て
よめる、となむかたりつたふる。
*
語釈する。所持する角川文庫窪田章一郎校注「古今和歌集」昭和五二(一九七七)年刊八版の脚注を参考・引用した。
・「物ならはしにつかはしたりける」元正天皇の養老元(七一七)年遣唐使多治比縣守(たじひのあがたもり)に留学生として随行したことを指す。仲麿十七歳であった。
・「又つかひまかりいたりけるに」孝謙天皇の天平勝宝二(七五〇)年藤原淸河(きよかは)を遣唐大使に任じ、同四年に渡唐した、『仲麿は淸河とともに帰国しようとしたが』、『果たせず』強『風のため』に『安南に漂流』してしまい、『帰国を断念し、名を朝衡と改め、唐朝に仕え、長安に都で没した。称徳天皇の宝亀元』(七七〇)『年にあたり』、享年『七十歳』であった。現在、「阿倍仲麻呂紀念碑」が西安の興慶宮公園にある。私は実際に詣でた。奈良市と西安市とが、友好都市締結をした一九七九年に記念して建てられたもので、この和歌も刻まれていた。]
我のせよ御形咲野のはだか馬 祐 甫
御形[やぶちゃん注:「ごぎやう」。]の花の咲いた野に裸馬が放し飼になつてゐる。あの馬に乘つてこの野を乘廻して見たい、己を乘せてくれぬか、と云つたのである。「我のせよ」は單なる願望の意で、若し强いて對象を求めれば、その裸馬に對して述べたことになる。
御形はハヽコグサである。この作者の感興の背景をなすものとしては、ハヽコグサは少し寂しい。五形と書くゲンゲの方なら、一望の野を美しくするかと思ふが、作者が御形と書いてゐる以上、やはりハヽコグサの眺と解して已むべきであらう。
[やぶちゃん注:「祐甫」神戶祐甫(かんべゆうほ 寛永九(一六三二)年~宝永七(一七一〇)年)は。伊賀上野の富商。芭蕉に学んだ「伊賀三十一人衆」の一人である。作品は「猿蓑」・「炭俵」・「續猿蓑」等に採録されており、「蕉門名家句集」にも収められてある。通称は八郎右衛門。
「ハヽコグサ」「母子草」。キク目キク科キク亜科ハハコグサ連ハハコグサ属ハハコグサ Pseudognaphalium affine 。
「ゲンゲ」「紫雲英」。マメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus 。私の偏愛する花。しかし、「げんげ畑」を見たのは、七年前に西伊豆の絶景の宿「富岳群青」に行く途中の山越えの時が最後だ……。]
陽炎や身を干海士の日向ぼこ 朱 拙
岩の上か、砂濱か、場所はわからぬ。今しがた海から上つたばかりの海士が、身體を乾かしながら日向ぼつこをしている。そのほとりから陽炎がゆらゆら立のぼる、といふ海岸の一小景である。
「身を干」といふ言葉がこの句の眼目であらう。この一語によつて、單に日向にゐるといふだけでなしに、海から上つたばかりの海士といふこともわかれば、風も無い海邊の日和の暖さも自ら連想に浮んで來る。
現在の歲時記では「日向ぼこ」は冬と定められてゐるが、必ずしもそう限定するには及ぶまい。身體を乾かしながらの「日向ぼこ」には、冬よりも春の方が適切であらう。ゆらゆらと立つ陽炎は、この光景を一層效果あらしめているやうな氣がする。
乳呑子の耳の早さや雉子の聲 りん女
この句の舞臺に登場する者は、乳を含ませてゐる母親と、乳を飮みつゝある幼兒とだけである。しづかな春の日中であらう、どこかで鋭い雉子の聲がする、といふので、その空氣は一應描かれたことになるが、「耳の早さや」といふ中七字は、考へやうによつていろいろに解釋出來る。
主要な登場人物の一人である乳呑子が、いち早く雉子の聲を聞きつけたといふ點に變りは無いが、たゞ聞耳を立てたといふだけか、あれは何の聲だといつて尋ねたのか、或は已に雉子の聲の何者たるかを知つてゐて聞きつけたのか、そこは俄に斷じがたい。乳呑子のことだから氣がつくまいと思つたのに、いち早く聞きつけたといふのか、母親がうつかりしてゐるうちに、乳呑子の方が聞きつけたといふのか、その點も解釋が二三になりさうである。
けれどもこゝではつきりしてゐるのは、母親の乳を含みつゝある幼兒の小さい耳が、いち早く雉子の聲を聞きつけたといふことと、その耳の早さを先づ感じた者が母親だといふことである。女性たる作者がその母親であることも、略〻推定し得る。一句の眼目たる事實が動かぬ以上、その他の小さい連想は、各自の感ずるところに從つて差支あるまいと思ふ。
夜の明ぬ松伐倒きりたおすさくらかな 陽 和
山中の景色であらうかと想像する。
まだ夜の明けぬうちに杣[やぶちゃん注:「そま」。]がやつて來て、そこにある松の木を伐り倒す。巨幹は地ひゞきして倒れると、又もとの靜寂に還る。あたりには櫻がたわゝの花をつけてゐる、といふやうな光景を描いたものらしい。
この場合の松と櫻は、たゞ近くにあるといふだけで、深い因緣や交涉があるわけではない。「花の外には松ばかり」といふ山中自然の配合であらう。未明の天地に木を伐るといふ一の活動が起つて、間もなく松は伐倒される。その背景として爛漫たる櫻を描いたといふよりも、櫻の背景の前にかういふ活動が行はれたものと解すべきである。
人の姿を點出せずに、たゞ松と櫻のみを描いたのは、如何にも未明伐木の光景にふさはしい。伐られる松と、しづかに咲いてゐる櫻とを對照的に扱つて、とかくの辯を費すが如きは、抑〻無用の沙汰であらう。
[やぶちゃん注:「陽和」山岸陽和(ようわ ?~享保四(一七一九)年)は伊賀上野の人。藤堂家に仕えた。芭蕉に学び、「有磯海」・「枯尾花」に句が収められてある。妻は芭蕉の姉である。名は宥軒。通称は重左衛門。]
« 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(22) | トップページ | 柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(1) »