フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 譚 海 卷之十四 山城醍醐寺の事 淀舟ふなちんの事 甲州身延山他宗參詣の事 駿州富士登山の事 大坂より四國へ船ちんの事 江戶より京まで荷物一駄陸送料の事 京都より但馬へ入湯の次第の事 京都書生宿の事 京都見物駕ちんの事 京都より江戶へ荷物送り料の事 京智恩院綸旨取次の事 關東十八檀林色衣の事 堺住吉神官の事 接州天王寺一・二舍利幷給人の事 淨瑠璃太夫受領號の事 | トップページ | 譚 海 卷之十四 信州より三州へ往來關所の事 日蓮宗派の事 上方穢多の名目の事 駿州猿𢌞し 芝居狂言の者御關所手形事 宇治黃檗山住持の事 禁中非蔵人の事 同御佛師の事 江戶神田犬醫者の事 京都米相場の事 京・大坂非人・穢多の事 京西陣織の價の事 禁裏公家町の草掃除の事 京壬生地藏狂言の事 下野栃木町の事 附馬九郞武田うば八の事 琉球人朱の事 御鷹雲雀の事 婦人上京のせつ御關所手形の事 江戶商家十仲ケ間の事 爲登船荷物問屋の事 江戸より諸方へ荷物附送る傅馬の事 / 譚海卷之十四~了 »

2024/04/24

譚 海 卷之十四 三州瀧山淸涼寺の事 關東より禁裏へ鷹と鶴を獻上の事 火にて親燒死たる時の心得の事 寺幷宗旨をかふる時の事 中國銀札をつかふ事 奥州仙臺出入判の事 加州城下町の事 紙一帖數の事 油・酒相場の事 諸物目形の事 茶器諸道具價判金壹兩の事 醫の十四科の事 京・大坂へ仕入商物の事 染物・反物あつからふる事 狩野家の事 大判・小判・古金・新金・南鐐銀の事 頭陀袋の事 江戶橋新場肴屋の事 願人支配の事 上州草津溫泉入湯の次第の事 伊豆修善寺入湯の事 攝州有馬溫泉入湯次第の事

[やぶちゃん注:「かふる」はママ。なお、「三州瀧山淸涼寺の事」の前半は「譚海 卷之六 三州瀧山淸涼院年始鏡餅獻上の事」と同文で、津村がダブって記している。そちらで注したものは、採録しないので、必ず、読まれたい。]

 

○公方樣、每冬、御(おん)「こぶしの鶴」を、一羽づつ、年の内に、宿次(しゆくつぎ)にて、禁裏へ進獻あり。

 道中、鶴のはねを、延(のばし)たるまゝにて、箱に入(いれ)、桐油(きりゆ)を、おほひ、靑竹にて、になひ傳送する也。尤(もつとも)、桐油は、宿々にて用意置(おき)たるを、取替(とりかへ)、おほひ達(たつ)する故、桐油に、何(いづ)れも宿驛の名目印、有(あり)。

 殊の外、大成(だいなる)箱也。是も、旅人、下乘也。

 扨、京都にて、正月十九日、此鶴を調ぜられるについて、天子、紫宸殿に御(ぎよ)し、舞樂、御覽あり。此日は、諸人も、舞樂拜見を、ゆるされ、庭上に群集して、京洛の兒女、男子(なんし)、一日、拜見す。男子は、無刀に麻上下(あさがみしも)、僧は衣(え)、又は十德(じつとく)也。

 前年は、此日、「鶴の庖丁舞」御覽とて、内膳司(ないぜんのつかさ)、御前にて、鶴を調ずる鑾刀(らんたう)を、あはせて、舞を奏する事なりしが、炎上の後、大内裏の規模を移され、紫宸殿の前に、朱門・拔垣(ぬきがき)を、ほどこされ、日をも轉じて、十九日に定められ、鶴は小御所にて調ぜられて後、舞樂斗(ばか)り、紫宸殿にて行(おこなは)るゝ事に成(なり)たり。

 師走、東海道は、この鶴と、瀧山(さう)の御神供とにて、殊の外、混雜する事也。

[やぶちゃん注:「鑾刀」「鸞刀」とも書く。鸞鳥(私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鸞(らん) (幻想の神霊鳥/モデル種はギンケイ)」を参照されたい)の形の鈴をつけた刀。古代中国で、祭祀の生贄を裂くのに用いたもの。

「炎上の後、大内裏の規模を移され」これは天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京都で発生した「天明の大火」を指す。当該ウィキによれば、『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした』「応仁の乱」の『戦火による焼亡を』、『さらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた』とある。本「譚海」の終稿は寛政七(一七九五)年夏である。

「拔垣」この熟語は知らないが(読みも、あてずっぽう)、状況からみて、庶民が透き見が出来るように、隙間を開けた垣根のことかと思われる。]

 

○出火にて、親、燒死(やけじに)たる事あるときは、

「出火に付(つき)、親同道、仕立(したて)、退(のき)候處、群集にまぎれ、行方(ゆくへ)、見失ひ、唯今に罷歸(まかりかへ)り不ㇾ申候。」

と訟ふる事也。

 ありのままに、燒死たるよしあれば、其子、死刑に處せらるゝ公儀の御大法也。

 

○勝手につき、寺を替(かへ)るに、人を賴(たのみ)、旦那寺へ斷(ことわり)申遣(まうしつかは)し候時は、其人、他人たりとも、

「當人の親類にて、たのまれたる。」

由、申(まうす)事也。

 親類ならでは、寺、承知いたさぬ事、是も、諸宗の法也。

[やぶちゃん注:「勝手」「自身の思うところによって発想したこと」の意。宗旨変えは、自身の信心の問題であり、例えば、江戸時代、日蓮宗へ宗旨を変えるケースは諸記事に見られる。]

 

○中國は、大抵、銀札をつかふ也。就中(なかんづく)、因幡・伯耆・出雲・石見は、數多(あまた)、領分、入交(いれまじ)りたる上、不ㇾ殘、銀札也。半日ほど行(ゆき)て、他領に入れば、跡の領分の銀札、通用せず。聞合せて他領にいらぬ手前にて、其領分の銀札、役所にて、銀と引替(ひきかへ)、他領に入(いる)時、又、銀札を買(かひ)て遣(つか)ふべし。勝手しらぬ旅人は、ゆきかゝり、銀札、通用せず、跡へ、もどりて引(ひき)かふれば、往來の日數、無益(むえき)多く、はなはだ難儀する事哉。中國、陸路往來のもの、心得べき事也、とぞ。

 

○奧州仙臺へ行(ゆく)者は、小菅生[やぶちゃん注:底本では「小菅生」の右に編者補正注で『(越河)』とある。]といふ所にて入判(いりはん)を、もらふ。壹人に付、八錢也。仙臺を、いでて、他領へ、おもむくときも、出判(いではん)を、もらふ。壹人五錢也。仙臺より、南部へ入(いる)ところに、南部領鬼柳の關所あり。爰(ここ)にても、壹人、五十錢づつ出して、入判をもらふ。但(ただし)、南部、逆旅主人(げきりよしゆじん)に賴みて、判を取(とり)てもらふ也。

[やぶちゃん注:「小菅生」(✕)「越河」現在の宮城県白石市越河御境に「越河」(こすごう)「番所跡」が残る(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「鬼柳」現在の岩手県北上市鬼柳町(おにやなぎちょう)町分(まちぶん)にある「南部領鬼柳御仮屋跡」がそれ。なお、南西直近にポイントされてある「相去御番所跡」(岩手県北上市相去町(あいさりちょう))の方は伊達藩の番所である。]

 

○加賀城下、町屋、三里、有(あり)。馬つぎ問屋、二ケ所にあり。又、加賀國中(かがのくにうち)の關所は、誰(たれ)にても、皆、下乘して通る也。

 

○「西の内紙」は、壹帖四十枚、「保戶村紙」は廿六枚、「靑土佐紙」は三十四枚、「仙過紙(せんくわし)」は五十枚、「杉原紙(すぎはらがみ)」は四十八枚、「薄樣(うすやう)」・「中葉(ちゆうえふ)紙」は、共に百枚、三十枚は[やぶちゃん注:ママ。]十五枚、「淺草半切紙(あさくさはんきりがみ)」は、九拾六枚を「百枚」と號す。其餘、「半切紙」、國々によりて不レ同(おなじうせざる)也。「奉書」・「美濃紙」・「小菊」等は、皆、壹帖四十八枚づつ也。「大鷹團紙」[やぶちゃん注:底本では「團」の右に編者補正注で『(檀)』とある。されば、以下の「小鷹團紙」も「小鷹檀紙」であろう。]・「小鷹團紙」は、壹帖共に、二十四枚也。

[やぶちゃん注:「西の内紙」「西ノ内紙」(にしのうちし)。当該ウィキによれば、『茨城県常陸大宮市の旧・山方町域で生産される和紙である。コウゾのみを原料として漉かれ、ミツマタやガンピなどが用いられないことに特徴がある。江戸時代には水戸藩第一の特産物となり、各方面で幅広く使われた』。『強靱で保存性に優れたその性質から、江戸では商人の大福帳として用いられた』。宝暦四(一七五四)年に刊行された「日本山海名物圖繪」では(以下、国立国会図書館デジタルコレクションの寛政九(一七九四)年板の板本で独自に視認した。標題は「越前方奉書紙」で、挿絵もある。一部、読み・句読点は私が附したものである)、

   *

凡(およそ)、日本より、紙、おおく出(いづ)る中に、越前奉書、美濃なをし、関東の西内、程(ほど)村、長門岩国半紙、尤(もつとも)上品也。

   *

『と称された』とあった。

「保戶村紙」前の注の引用から「程村紙」が正しいことが判った。当該ウィキによれば、『栃木県那須烏山市で作られる楮紙』。『烏山和紙を代表する和紙で、「厚紙の至宝」』『と評されるほどに厚手で丈夫なのが特徴』で、『品質が高いことで知られる』『那須楮を原料とする』。『起源は奈良時代とされ』、『かつて烏山町境村にあった程村地区が産地であったことに由来する』。『襖や障子等の建築部材のほか、投票用紙、皇居用の懐紙』。『烏山藩藩札などの重要書類で用いられ』、『現在は卒業証書用紙が主力である』。『宮中で年頭に行われる「歌会始の儀」でも用いられた』。『烏山地方は戦前は和紙の一大産地であったが、安価な西洋紙に押されて』、昭和三九(一九六四)年には、一『軒のみになっている』。『福井県越前市の越前奉書、岐阜県美濃市の美濃の直紙、山口県岩国市の岩国半紙、茨城県常陸大宮市の西ノ内紙と共に、日本の代表的な』五『紙の一つとされている』とあった。

「靑土佐紙」高知県で生産される「土佐和紙」の一つ。近世初期から生産の始まった青色染めの紙で、色がやや薄いものを「青土佐紙」、やや濃いものを「紺土佐紙」として区別する場合もある。表具用紙・工芸紙などに用いられる。

「仙過紙」「仙貨紙・仙花紙・泉貨紙」が正しい。楮を原料にして漉いた厚手の強い和紙。包み紙や合羽などに用いた。天正年間(一五七三年~一五九二年)の伊予の人、兵頭仙貨(ひょうどうせんか)が作り始めたとされる。

「杉原紙」鎌倉時代、播磨国揖東郡杉原村(現在の兵庫県多可郡多可町加美区地区)で産したと言われる紙。奉書紙に似て、やや薄く、種類が豊富で、主に武家の公用紙として用いられた。後、一般に広く使われるようになると、各地で漉かれた。近世から明治にかけて、色を白く、ふんわりと仕上げるため、米糊(こめのり)を加えて漉かれ、「糊入れ紙」「糊入れ」と称された。他に「すぎはら」「すいばら」「すぎわらがみ」とも呼ぶ。

「薄樣」薄手の和紙のこと。「薄葉」とも書く。「厚様(厚葉)」に対する語で、平安初期に「流し漉(ず)き法」が確立されたことにより、薄紙の漉きが容易となった。平安時代の女性に好まれ、当時の文学作品の中に多くの用例がみられる。「日葡辞書」(慶長八(一六〇三)年)に「薄樣」と「薄紙」が挙げられてあるが、特に「薄樣」は「鳥の子紙の薄いもの」といった解説がなされてある。「流し漉き法」が一般化しても、ガンピ(雁皮)類を原料とした上代の斐紙(ひし)は薄手の紙に適しているため、薄様の主流は、この系統の「雁皮鳥の子紙」が占めていた。

「中葉紙」中ぐらいの厚さの「鳥の子紙」。

「淺草半切紙」「半切紙」は杉原紙を横に半分に切り、書状に用いた紙。寸法は概ね、縦五寸(約十五・二センチメートル)・横一尺五寸(約四十五・六センチメートル)。寛文(一六六一年~一六七三年)頃から、この形に漉いたり、長く接(つ)がれて「巻紙」となったりした。単に「はんきり」「はんきれ」とも呼ぶ。「淺草半切紙」は、浅草で、使用済みの和紙(反古紙)を漉き直して作った中古の和紙「漉返紙」(すきがえしがみ)を盛んに作ったことによる。

「美濃紙」美濃国(岐阜県)から産出する和紙の総称。美濃国は古く奈良時代から和紙の産地で、「直紙」(なおし)・「書院紙」・「天具帖」(てんぐじょう)など、多くの紙を産した。現在でも「本美濃紙」・「障子紙」・「提灯紙」・「型紙原紙」など、多種の紙が漉かれている。

「小菊」楮製の小判の和紙。はながみ、または茶の湯の釜敷などに用いる。美濃国(岐阜県)で古くから製している。単に「小折」「小美濃」とも言う。

「大鷹」「團」(✕)→「檀」(○)「紙」「小鷹團紙」(✕)→「小鷹檀紙」「檀紙」は和紙の一つ。厚手白色で縮緬 のような皺がある。檀(まゆみ:ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ変種マユミ Euonymus sieboldianus var. sieboldianus )の樹皮で作る。包紙や目録・免許状のような文書に用い、皺や紙形により「大高」(おおたか)・「小高」の別がある。平安時代、陸奥国の産で、「陸奥紙」(みちのくがみ)と呼ばれ、現在のような形質になったのは、室町時代からである。公家・武家に用いられ、備中・越前産が有名である。]

 

○油は十樽をもて、「何十兩」と云(いふ)。酒は廿樽をもて「何兩」と定む。又、酒二樽を「壹駄」と云(いふ)。

 

○藥種は、目形(めかた)四匁を「壹兩」とす。四拾兩を「壹斤」とす。砂糖・金米糖も、是に同じ。茶は目形二百匁を「壹斤」とす。羽州にては、蠟、目方壹貫四百目を「壹斤」とす。

 

○茶器諸道具の價(あたひ)、金「壹兩」といふは、小判七兩貳步也。大判(おほばん)の相場にては、なし。

 

○唐山(たうざん)の醫、古(いにしへ)は「十四科」、有(あり)。肺胃科、亡(ほろび)て、今は、「十三科」、あり。其「十三科」は、

風科・傷寒科・大方脈・小方脈・婦人胎前科・鍼灸科・眼科・咽喉口血科・瘡瘍(さうやう)科・正骨科・金鏃(きんぞく)科・養生科・祝由(しゆくゆう)科。

 「大方脈」は、大人の療治する醫者、「小方脈」は小兒醫者、「瘡瘍」は外科(げか)の事。「正骨科」は「骨つぎ」療治、「金鏃」は金瘡(かなきず)の療治する醫者也。「貌由科」は「まじなひ」をする醫者の事也。此事、「古今醫統」に出(いで)たり。

[やぶちゃん注:「古今醫統」明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六年)によって編纂された医書。全百巻・四十冊・一六六〇年刊行。歴代の医聖の事跡の紹介に始まり、漢方・鍼灸・易学・気学・薬物療法などを解説する。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べてあり、分類された病名のもとに病理・治療法・薬物処方という構成になっている。対象は内科・外科・小児科・産婦人科・精神科・眼科・耳鼻咽喉科口腔科・歯科など、広範囲に亙る(「東邦大学」公式サイト内の「額田記念東邦大学資料室」の「額田文庫デジタルコレクション」のこちらに拠った。原本画像が総て見られる)。]

 

○江戶より京・大坂へ、買物注文いたし遣(つかは)し、其品、賣主(うりぬし)にて、荷物に拵へ、船積(ふなづみ)いたせば、大坂川口にて、破船に及(および)ても、代物(だいもつ)は、買主(かひぬし)の損に成(なる)事也。決して、京・大坂の賣主は、拘(かかは)らず。

 又、江戶より、諸品、上州をはじめ、奧州ヘ荷物にいたし遣し、其品、途中にて水に入り、又は、盜賊などに取(とら)るゝ事、ありても、買主の損金には、ならず、皆、江戶の賣主の損に成(なる)事、定法(ぢやうはう)也。

 其上、京・大坂の賣主、其品を、江戶へ積出(つみいだ)せば、かならず六十目目には、爲替(かはせ)を取(とり)て、代物を受取(うけとり)に、こす也。

 右日限、一日にても、金子、渡方(わたしかた)、延引すれば、重(かさね)て、京・大坂より、荷物、送る事を、せず。

 されば、上方と奧筯(おうすぢ)との商内(あきなひうち)は、江戶の者、損德、有(ある)事、上方の商内は、十分の「つよみ」、有(ある)事と、いへり。

 

○黑き色に反物(たんもの)を染(そむ)るならば、先(まづ)、紺屋(こうや)へ、あつらふる時、

「下染(したぞめ)を見るべき。」

よし、申(まうす)べし。下染を花色に染めたる時、取寄(とりよせ)て、一見して後、返して、黑色に染(そめ)さすれば、年を經ても、黑き色、かはる事、なし。

「唯(ただ)、あつらへし儘にて、下染を、みざれば、多く、『紺や』にて、上染斗(ばか)りする故、早く、色、さむるもの。」

と、いへり。

 

○洞雲(どううん)は「松蔭子」と、いへり。松花堂(しようくわだう)より、得たる名と、いへり。探幽は「白蓮子」、養朴は「寒雲子」と、いへり。其外、狩野家畫(ゑかき)は、俗名は、系圖に有(あり)。

[やぶちゃん注:「洞雲」狩野洞雲(寛永二(一六二五)年~元禄七(一六九四)年)は江戸前期の画家。狩野探幽の養子となるが、探幽に探信・探雪の二子が生まれ、別家となった。寛文七(一六六七)年、幕府から屋敷を与えられ、「駿河台狩野家」を立てて、表(おもて)絵師の筆頭格となった。名は益信。通称は采女。

「松花堂」松花堂昭乗(しょうじょう(歴史的仮名遣:せうじよう) 天正一二(一五八四)年~寛永一六(一六三九)年)は江戸初期の僧で書画家。堺の人。松花堂は晩年の号。男山石清水八幡宮滝本坊の住職で、真言密教を修め、阿闍梨法印となった高僧。書は「寛永の三筆」の一人で、御家流・大師流を学び、「松花堂流」を創始した。また、枯淡な趣の水墨画を多く描いたことでも知られる。

「養朴」狩野常信(寛永一三(一六三六)年~正徳三(一七一三)年)は江戸前期の画家。尚信の長男で、「木挽町狩野家」二代目。探幽没後の狩野派を代表した。古画の模写にも力を入れたことで知られる。]

 

○大判は、初め、吹立(ふきたて)られたる時、壹萬枚を限(かぎり)とせられて、今、天下に通用するは、此數(かず)の外、なし。大判、所持しても、慥成(たしかなる)持主、書付等、指出(さしだ)さゞれば、兩替屋にて、皆、引(ひき)かへず。兩替、殊の外、六つケ敷(むつかしき)事也。但(ただし)、大判の書判(かきはん)、少しも、墨色、剝落すれば、通用せず。夫(それ)故、墨色、落消(おちけ)するときは、後藤かたへ、相願(あひねがひ)、書判を、書直(かきなほ)しもらふ也。此書直し料、大判壹枚に付、金壹步づつ也【此は下直(げぢき)にて書替(かきかへ)致したるト覺ゆ。今時は、壹兩も貳兩も書替料、收(をさむる)也。】。古金(ふるがね)は引替の事、兩替屋にて、難ぜす[やぶちゃん注:これ、「せず」の誤記か誤植であろう。]。但(ただし)、金百両に付、元文小判(げんこばん)百六十五兩に引替(ひきか)ふ。六割半の增(まし)也。元文小判壹兩に付、目形(めかた)は三匁五分あり。古金は壹兩、目形、四匁八分。當時、南鐐銀、壹片の目形は、三匁七分也。

[やぶちゃん注:【 】は底本では二行割注。

「後藤」近世日本の金座の当主=「御金改役」を世襲した名跡。後藤庄三郎。詳しくは当該ウィキを見られたい。]

 

○「頭陀袋(ずだぶくろ)」は本名「法衣悟(ほふえご)」と云(いふ)也。「一番」・「二番」・「三番」まであり、「一番」は「九條」・「七條」等の「袈裟(けさ)」、入(はい)るやうに、せし物、也。至(いたつ)て大(だい)なれば、平生、往來に懸(かく)るには、邪魔也。「二番」も、なほ、大(おほ)し。遊山(ゆさん)登臨などに懸(かく)るには、「三番」といふもの、よきほど也。製は、江戶にては「衣や」、所々に、あり。然(しか)れども、尾張國津島の尼寺にて製する物、至(いたつ)て精工也。上方(かみがた)の婦人の所作・縫(ぬひ)やう、ともに、江戶の製に比すれば、萬々、勝(すぐれ)たり。浮家(ふけ)の貫通和尙、をしへ、製(せい)しいだせる事にて、袋の色は「香衣(かうえ)」と稱し、價(あたひ)五百錢ほど也。

[やぶちゃん注:以上に出る「袈裟」の種類は、説明するのが面倒なので、「無門關 十六 鐘聲七條」の私の「七條」の注を見られたい。

「尾張國津島の尼寺」探す気にならない。悪しからず。]

 

○鎌倉より東方、三浦・三崎鴨[やぶちゃん注:ママ。独立した「鴨」でも「走水」に附しても地名として成り立たない。思うに、これは「三崎」の「嶋」、則ち、「三浦」半島の「三崎」の先端にある「城ヶ島」を指し、「島」の異体字「嶋」の誤記か御判読であろう。]・走水(はしりみづ)・浦賀迄にて、獵漁せし魚は、皆、江戶橋新場(しんば)肴店(さかなみせ)へ、運送し商ふべき由、享保中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]、新(あらた)に定置(さだめおか)るゝ事、とぞ。

 是は、有德院公方樣[やぶちゃん注:吉宗。]、紀州に被ㇾ成御座候時、「沖鱠(おきなます)」と云(いふ)ものを召上(めしあが)られて、其通(そのとほり)に、江戶にて、料理仰付(おほせつけ)られぬれども、透と[やぶちゃん注:意味不明。「とくと」の当て字としても意味が「透」らぬ。「少しも(~ない)」の意でとっておく。]紀州の味に似ざる故、數度(すど)御吟味ありしに、新場、御納屋(おんをさめや)指上(さしあげ)候魚(うを)、料理仰付られけるに、始(はじめ)て、紀州にて召上られける如く、宜(よろ)しく出來(しゆつらい)せしかば、右、御褒賞として、如ㇾ此、定置れぬる、とぞ。

 

○願人(ぐわんにん)の總頭(そうがしら)は、京、鞍馬山大藏院也。江戶にては、右の支配、手遠(てどほ)にて、事行(ことゆ)かぬる故、東叡山へ御賴みにて、願人支配、有(あり)。江戶の支配頭(しはいがしら)住居は、芝金杉(しばかなすぎ)・四つ谷鮫ケ橋・神田豐島町(かんだとしまちやう)也。

[やぶちゃん注:「願人」「願人坊主」(がんにんぼうず)のこと。頼まれた者に代わって、神仏への代参や、代垢離(だいごり)をする坊主の姿をした門付芸人。近世、主に江戸で活躍し、「藤沢派」(または「羽黒派」)と「鞍馬派」に分かれ、集団的に居住し、寺社奉行の支配を受けた。天保一三(一八四二)年の町奉行所への書上には『願人と唱(となへ)候者、橋本町、芝新網町、下谷山崎町、四谷天龍寺門前に住居いたし、判じ物の札を配り、又は群れを成(なし)、歌を唄ひ、町々を踊步行(をどりあり)き、或は裸にて町屋見世先に立(たち)、錢を乞(こふ)』とあり、乞食坊主の一種でもあった。その所行により、「すたすた坊主」「わいわい天王」「半田行人」(はんだぎょうにん)「金毘羅行人」などとも呼ばれ、その演じる芸能は「願人踊」「阿呆陀羅經」「チョボクレ」「チョンガレ」など多種で、後、ここから「かっぽれ」や「浪花節」などが派生した。]

 

○上州草津湯は、御代官所にて、入湯の者、壹人より、三錢づつ、公儀へ運上として上(あぐ)る。

 湯屋の家は、草津町千軒程づつの内、七、八十軒あるべし。

 此湯屋、本宅は二里餘(あまり)、麓西南に、小留村・沼屋村[やぶちゃん注:底本では「屋」の右に編者補正注で『(尾)』とある。]・八所村・井堀村・下間村、右五ケ村のもの所持にして、春三月八日より、草津へ引移(ひきうつ)り、湯客を請待(しやうたい)し、冬十月八日を限りにて、又、麓の宅へ歸り住(すむ)。是を「草津の冬住(ふゆずみ)」と云(いふ)。

 湯代は、大がいの座敷、諸道具付(つき)にて、湯代ともに、一廻(ひとめぐ)り二百五十文づつ、但(ただし)、大壯なる座敷、借(かり)て居(を)れば、座敷代を、いだす故、右二百五十錢は、いださず。但(ただし)、瀧湯(たきゆ)は十六ケ所あり。每夏は、一萬人も、入湯の人ある故、右の瀧、殘らず、ふさがりて、療治する事、あたはざる時は、入湯の人、「組」を、たてて、二、三十人程づつ、瀧一ケ所を借切(かしきり)にする也。其時は、

「『一𢌞り』より、『三𢌞り』までを、金二步づつ。」

と定(さだめ)て、幕を引(ひき)て、外(ほか)の人を入(いる)る事をせず。金二步にて、「一𢌞り」にても、同じ料(れう)也。

 夜具は、皆。木綿(もめん)也。下品は一𢌞り二百五十錢、中品は三百錢、上品のあたらしき夜具は、四百錢なり。但、夜具代をいだしても、湯代は、別に、いだす也。

 

○伊豆修善寺湯場は、尤(もつとも)座敷代をいだす事、あり。但、壹人・貳人、入湯の節は、一日壹人、「木賃泊(きちんどまり)」といふものにて取扱(とりあつかひ)、一日の木賃、三十一文づつ也。此外に、薪代も、何も、いらず、米は自分(おのづと)調(ととのへ)てくふ事にて、湯代は、

「寺の法施(ほふせ)也。」

とて、とらず。夜具の代は、別にいだすなり。

 

○熱海は、箱根湯治場(たうぢば)のごとく、諸品、高下(かうげ)、定(さだめ)がたし。

 

○攝州有馬の湯は、一𢌞りに付(つき)、壹人より銀壹兩づつ、祝儀として、宿の主人へ、つかはす。

 湯女(ゆな)へは、壹𢌞(ひとまはり)につき、銀貳匁三步づつ、遣(つかは)す事也。

 幕湯(まくゆ)は、幾(いく)まはりにても、人數(にんず)に構はず、銀四十五匁、いだす。但(ただし)、一日に三度に限る也。

 

« 譚 海 卷之十四 山城醍醐寺の事 淀舟ふなちんの事 甲州身延山他宗參詣の事 駿州富士登山の事 大坂より四國へ船ちんの事 江戶より京まで荷物一駄陸送料の事 京都より但馬へ入湯の次第の事 京都書生宿の事 京都見物駕ちんの事 京都より江戶へ荷物送り料の事 京智恩院綸旨取次の事 關東十八檀林色衣の事 堺住吉神官の事 接州天王寺一・二舍利幷給人の事 淨瑠璃太夫受領號の事 | トップページ | 譚 海 卷之十四 信州より三州へ往來關所の事 日蓮宗派の事 上方穢多の名目の事 駿州猿𢌞し 芝居狂言の者御關所手形事 宇治黃檗山住持の事 禁中非蔵人の事 同御佛師の事 江戶神田犬醫者の事 京都米相場の事 京・大坂非人・穢多の事 京西陣織の價の事 禁裏公家町の草掃除の事 京壬生地藏狂言の事 下野栃木町の事 附馬九郞武田うば八の事 琉球人朱の事 御鷹雲雀の事 婦人上京のせつ御關所手形の事 江戶商家十仲ケ間の事 爲登船荷物問屋の事 江戸より諸方へ荷物附送る傅馬の事 / 譚海卷之十四~了 »