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2024/04/10

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(22)

 

   早梅や奧で機織長屋門 吏 明

 

 もうだんだん少くなつてしまつたが、それでも古い屋敷などで長屋門を存してゐるところが、東京にもいくつかある。門の兩側が長屋になつて、人の住むやうに出來てゐる、いかめしいと云へばいかめしいが、現代の邸宅にはちよつと緣の遠い門である。

 この句の早梅[やぶちゃん注:「さうばい」。]の花は、長屋門のどこに咲いてゐるかわからない。門のほとりに咲いてゐるとしないでも、長屋門のある屋敷の中なり、或は近所なり、とにかく背景的に存在すればいゝのである。その長屋門の奧で機[やぶちゃん注:「はた」。]を織つてゐる――目に見えるのでなしに、音が聞える方だらうと思ふが、それがこの句の眼目になつてゐる。早梅の花と、長屋門の奧に聞える機の音とが、季節的に或調和を得てゐることはいふまでもない。

[やぶちゃん注:「吏明」伊賀生まれの蕉門で月空居士露川の門下。]

 

   鶯やついと覗てついとゆく 白 雪

 

 鶯が庭先か何かにやつて來て、ちよつと覗くやうにしてゐたかと思ふと、そのまゝついと行つてしまつた。相手が鶯である以上、見つけた者はその啼くことを期待する。鶯に取つては迷惑かも知れぬが、人間の方で勝手にさうきめてゐる。しかし人間の爲に啼かなければならぬ理由は無いから、鶯は啼きたくなければ構はず澄して行つてしまふ。その期待外れのやうなところを詠んだのである。

 作者はこの句に「鳴はせで」といふ前書をつけた。前書があれば一層はつきりはするけれども、「ついと覗てついとゆく」といえば、その鶯が御誂通り啼かぬことは言外に含まれてゐる。「鳴はせで」と斷るのは蛇足である。今の人はあまりかういふ前書をつけないが、昔は屢〻前書によつて句意を補ふといふ方法を取つた。それだけ世の中がのんびりしてゐたのであらう。

[やぶちゃん注:「白雪」太田白雪(はくせつ 万治四(一六六一)年~享保二〇(一七三五)年)は三河新城(しんしろ)の富商で、庄屋。蕉門。各務支考・高島轍士らと親交があった。郷土史や百人一首の研究に努めた。名は長孝。通称は金左衛門。編著に「誹諧曾我」・「三河小町」等がある。]

 

   梅さぶし灯もきえず朝餉 素 覽

 

 この句にも「寒梅」といふ前書がある。特に寒梅と斷らずとも、「梅さぶし」の語がこれを現してゐるやうに思ふが、或は春立つ以前の――冬の梅といふ意味で、特にこの前書を置いたのかも知れぬ。

 朝餉は「アサガレヒ」である。宮中の場合に特に用ゐられることもあるが、この句はさういふ特別なものではあるまい。早朝の膳に向つて食事をする。この「灯[やぶちゃん注:「ともし」。]」は何の灯かわからぬが、前夜來の灯でなしに、曉の暗い爲に點したものらしく思はれる。寒梅のほのかに薰る早朝に、さういふ灯の消えぬ下で膳に向ふといふ、何となく引緊つた感じの句である。その感じを主にすれば、必ずしも如何なる家であるかを穿鑿する必要はない。

 

   種まきや當字だらけの紙帒 左 岡

 

 種を蒔かうとして去年しまつて置いた袋を取出す。その袋には種の名か何かが書いてある。いづれ農家の事であらうから、本當の名前を知つてゐるわけではない。いゝ加減な當字ばかり書いてある。滑稽といふほどでもないが、ちよつと微笑を誘ふやうなところがある。

 昔は敎育が普及してゐなかつたから、餘計さういふ傾があつたらうと思ふが、現代と雖もこの種の當字は絕無ではあるまい。專門語の中には、仲間だけに通用する特殊な當字があるかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「紙帒」「かみぶくろ」。]

 

   山やくや舟の片帆の片あかり 水颯

 

 湖か、川か、あるいは海に近い山を燒く場合であるか、とにかく春になつて山燒をする。その火の明りが水にうつり、またそこを行く舟の片帆にうつる、といふ西洋畫にでもありさうな景色である。

 一茶に「山燒の明りに下る夜舟の火」といふ句がある。『七番日記』には「夜舟かな」となつてゐるが、その方がかえつていゝかも知れない。山燒の明りが火である上に、更に火を點ずるのは、句として働きが無いからである。片帆に片明りするの遙に印象的なるに如かぬ。山燒と舟といふ稍〻變つた配合も、元祿の作家が早く先鞭を著けてゐたことになる。

[やぶちゃん注:筑前蕉門の久芳水颯。kenji氏のブログ「久芳姓の歴史上の人物」の「久芳(Kuba) 久芳姓について」に、『筑前の芭蕉門下で名の知れた俳人』で、『安芸国(広島)出身で当主の「忠左衛門」は東京の「久芳淳七氏」、門司の「久芳勇氏」の先祖にあたるそうです。俳号を「水札」と号していましたが、後に「水颯」と変えました』。『関屋も本陣守の竹屋の久芳家も分限者』『で、黒崎宿に伝わる古い謡(よう・唄)に歌われていました』とあり、

 花の黑崎 酒屋が五軒 心とむるな久芳 関屋

及び、

 久芳も關屋も 昔の事よ 今は熊手の 住吉屋

が掲げられてある。『黒崎の「御茶屋守」の竹屋の久芳氏の出身地、安芸国(広島県)には、中世に大内系国人「久芳氏」が見られるようです。また、「久芳」と言う地名も広島市近郊に残っています。この久芳と何らかの関係がある人物と考えられます』とあった。一応、姓の「くば」で読んでおく。

「山燒の明りに下る夜舟の火」これは「七番日記」の嘉永版の句形。]

 

   江戶留守の枕刀やおぼろ月 朱 拙

 

 主人が江戶に出てゐる場合であらう。留守の心細さに枕許に刀を置いて寢る。折からの朧月夜であるが、何となく寂しい留守の狀態を詠んだものであらう。

 天明期の作者は、屢〻かういふ複雜した場合を題材に採る。併し元祿期の作者も、全然興味が無かつたのでないことは、この句のみならず、「江戶留守」を詠んだ句が散見するによつて證し得られる。

 

   江戶留守や笋はえて納戶口 露 竹

 

   江戶留守を見込で鳴やかんこ鳥 宵 月

 

   江戶留守を嫁々の岡見ぞをかしけれ 涓 流

 

 江戶留守を題材にした點は同じであるが、一句の働きに於ては朱拙の朧月を首[やぶちゃん注:「はじめ」。]に推さなければなるまい。

 蕪村の「枕上秋の夜を守る刀かな」といふ句は、長き夜の或場合を捉へたものである。この句も或朧月夜を詠んだに相違無いが、江戶留守といふ事實を背景としてゐる爲に、もつと味が複雜になつてゐる。朧月といふものは必ず艷な趣に調和するとは限らない。かういふ留守居人の寂しい心持にも亦調和するのである。

[やぶちゃん注:「笋」「たけのこ」。

「枕上」(まくらがみ)「秋の夜」(よ)「を守る刀かな」岩波文庫「蕪村俳句集」(尾形仂校注・一九八九年刊)によれば、推定で、明和五(一七六八)年九月一日の作とする。]

 

   蹈なほす新木の弓やはるの雨 孟遠

 

 弓に關する知識は皆無に近いから、頗るおぼつかないけれども、新木[やぶちゃん注:「あらき」。]で拵へた弓は狂ひ易いといふやうなことがあるのであらう。春雨に降りこめられたつれづれに、その弓を足で蹈んで狂ひを矯め[やぶちゃん注:「ため」。]やうとする、といふ意味ではないかと思はれる。或は新木で拵へた弓である爲に、雨降の時には狂ひを生ずるといふやうなことがあるのかも知れぬ。

 弓から「はる」といふことを持出したので、「はるの雨」は「張る」にかけたのだ、といふやうな解釋を下す人があつても、それは取らない。さういふ解釋を妥當とするには、元祿より更に前に遡らなければならぬ。後世蕪村等の用ゐた緣語と雖も、勿論これとは趣を異にする。たゞこのまゝの句と見るべきである。

[やぶちゃん注:「孟遠」山本孟遠(もうゑん 寛文九(一六六九)年~享保一四(一七二九))は近江彦根藩士。森川許六の高弟。正徳四(一七一四)年に出家し、中国・九州に彦根蕉風を広めた別号に須弥仏(しゅみぶつ)・横斜庵。編著に「俳諧桃の杖」等がある。]

 

   魚懸にあたまばかりや春の雨 朱 拙

 

 西鶴の『永代藏』であつたか、『胸算用』であつたか、臺所に魚懸[やぶちゃん注:「さかなかけ」]といふものがあり、年末に鰤でも懸けてあるのを見て、出入の者がもう春の御支度も出來ましたと云ふ條があつたと記憶する。この句はさういふ魚懸の魚をだんだん食べてしまつて、頭だけが殘つてゐるといふのである。春の用意に懸けた魚が、春雨頃に頭だけになるのは自然の數であらう。

 魚懸は現在の吾々には緣が遠い。吾々が臺所にぶら下つてゐたのを知つてゐるのは、鹽引の鮭位のものである。「鹽鮭の頭ばかりや……」と云へば、今の人には通じいゝかも知れない。だんだんに食べて頭ばかりになつた魚と春雨との間には、趣としても相通ふものがある。

[やぶちゃん注:「西鶴の『永代藏』であつたか、『胸算用』であつたか、臺所に魚懸といふものがあり、……」「世間胸算用」の「七 祈るしるしの神の折敷(をしき)」の一節。但し、表記は「肴掛」。戦後のものであるが、正字正仮名の「日本永代藏・世間胸算用評解」の再版(守随憲治・大久保忠国共著/一九五二年有精堂刊)のここで確認出来る(左ページの最終行)。次のコマに「語釋」があり、そこに『○肴掛――干魚などを掛けて置く鉤。』とある。]

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