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2024/04/19

南方熊楠「江ノ島記行」(正規表現版・オリジナル注附き) (5)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は「(1)」を参照されたい。]

 

 濱と江の島の間、潮水之を遮る其間半町[やぶちゃん注:五十四・五五メートル。]に足ず、涉人、往來を辨す、島の北端は平沙濱をなせり。海鷗群飛して悲鳴す。海蝦の漁甚多し。鳥居を過て一丁ばかり人家對列す、旅舍多し、之を西の町と云ふ。輙ち惠比須屋茂八方に宿し出で島上に遊ぶ。介貝を賣る肆[やぶちゃん注:「みせ」。]多し。每肆皆なホツスガイを列示す、この島專有の名產なり。坊の衝く所石壇有り、上れは[やぶちゃん注:ママ。]正面に石碑あり。東都吉原妓家の建る所、書して曰く、最勝銘最勝無最勝匹至鈔匪名、起滅來去香味色聲事物蕭寂眞空崢嶸顯處漠々暗裡明々 明治甲申 原坦山撰とあり。此邊に案内者あり、乃一人を雇ひ伴ひ行く。邊津社は舊下の宮と稱し、建永元年僧良眞が源實朝の命を請て開く所なり。沖津社[やぶちゃん注:ママ。「中津社」が正しい。]は舊上の宮と號し、文德帝の時慈覺大師の創造する所なり。中津社より奧津宮に至る其間の道を山二つといふ。進て行けば介肆[やぶちゃん注:貝殻を売る店。]多し。奧津社舊岩屋本宮の御殿と云ふ。養和二年文覺が賴朝の祈願により龍窟の神を此に勸請せるなり。社前に酒井雅樂頭の眞向きの龜と號する畫額あり。但し余の見を以てすれば、寧ろ眞拔けの龜と稱するが佳ならん。

[やぶちゃん注:「濱と江の島の間、潮水之を遮る其間半町に足ず、涉人、往來を辨す」当時の江ノ島の様子は、私の『サイト「鬼火」開設8周年記念 日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳 始動 / 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 1』以下の、同章を通読される(第五章は、カテゴリ『「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳【完】』で全二十二回)と、私がグダグダ解説するより、目から鱗である。例えば、当時はしっかり砂州があって(満潮や荒天時は切れる)、平時は陸繋島であった。例えば、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 5 附江の島臨海実験所の同定」の私の注で引用した地図を見られたい。また、実は現在、江の島に初めて砂州の途中から桟橋が架けられたのは明治二四(一八九一)年とされているのだが、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 25 幻の桟橋」のモースの記載に明治一〇(一八七七)年夏の時点で、極めて脆弱ではあるが、「島から本土へかけた、一時的の歩橋」が、まさに砂州の途中から既に島に架かっていた事実が記されてあるのである!

「西の町」この呼称は現在知られていないので、貴重な当地での呼称として非常に貴重である。

「惠比須屋茂八」「恵比寿屋」として現存する(グーグル・マップ・データ)。「『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 15 惠比壽樓」を参照されたい。

ホツスガイ」海綿動物門六放海綿(ガラス海綿)綱両盤亜綱両盤目ホッスガイ科ホッスガイHyalonema sieboldi 。私の毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 拂子貝(ホツスガイ)  / 海綿動物のホッスガイの致命的な海綿体本体部の欠損個体』を見られたい。私が小さな頃は、江ノ島のどこの土産物屋にも、不思議に美しい骨格J標本が売られていたものだが、最近はめっきり少なくなった。ちょっと寂しい。

「最勝銘無最勝匹、……」訓読を試みる。

   *

「最勝の銘」。「最勝、匹(たぐ)ひ無く、至妙、名に匪(あら)ず。起滅、來去(らいきよ)、香味、色聲(しきしやう)、事物は蕭寂(しせうじやく)、眞空(しんくう)は崢嶸(さうくわう)たり。顯處(けんしよ)は漠々、暗裡は明々たり。明治甲申 原擔山撰

   *

この「最勝」とは、仏教の教典の一つである「金光明最勝王經」のこと。「法華經」・「仁王經」(にんのうきょう)とともに、「国家鎮護」の「三部経」とされる経典である。「色聲」は字面上は同経典の有難い経文の美称であろうが、確信犯で吉原の妓女を通わせているに違いない。「眞空」は仏語で、一切は因縁によって生じ、我とか実体とか言ったものがなく、完全に空しいことを言う語である。「小乗」では、これを悟りの境地とするが、このように空と観ずることによって智慧が発現する際、その真空は、そのまま「妙有」(みょうう:真実の有。 相対的な有・無の対立を超えて初めて、その空の上にこそ存在の真実の姿が現れるとするもの)であり、それを「真空妙有」と呼ぶ。則ち、この「空」は、ただの「空」ではなく、「真如の理性の諸相を離れた姿」なのである。妓女を苦海から浄土へと導く引導としたものであろう。「明治甲申」は明治十七年(以下を参照のこと)。なお、この碑は江島神社の瑞心門の左手の無熱池の背後の崖の上に現存する。サイト「古今東西舎」のkokontouzai氏の『江の島(最勝銘碑)南方熊楠の「江島紀行」にも登場』に写真と解説があり、『新吉原の関係者が寄進した石碑』とあり、発起人として、『長崎屋、吉村屋、山口巴屋、尾張屋』の名が彫られてあり、『この石碑「最勝銘碑」は』、熊楠が訪れた前年の明治一七(一八八四)年に『建てられたもので、東京大学でインド哲学を教えた曹洞宗の僧の原担山の撰による文言が刻まれてい』るとあるから、実に、南方熊楠が訪れた前の年に建立された、出来たてホヤホヤのものであったことが判る。原担山(はらたんざん 文政二(一八一九)年~明治二五(一八九二)年)は磐城出身。初め、江戸の「昌平黌」で儒学を学び、また、医学を修めた。後に曹洞宗の僧となり,明治一二(一八七九)年に東京大学和漢文学科で仏典の講義を行い、これが同大学の印度哲学科の端緒となった。 明治二四(一八九一)年に曹洞宗大学林(現在の駒澤大学)総監に就任している。著作は「心識論」・「心性實驗錄」など、多数ある。吉原遊廓とインド哲学者の取り合わせがグーだね! 今度行ったら、じっくりと見たいものだ。

「邊津社」現在の江島神社辺津宮(へつのみや;グーグル・マップ・データ。以下同じ)のこと。

「建永元年」一二〇六年。

「良眞」江の島の岩窟に籠もって修行した鶴岡八幡宮の供僧。サイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「聖天島~天女出現伝説:江の島~」を見られたい。

「沖津社」(✕)「中津社」(○)江島神社中津宮

「文德」(もんとく)「帝の時」在位は嘉祥三(八五〇)年~天安二(八五八)年。

「慈覺大師」円仁のこと。

「奧津宮」ここ

「山二つ」ここ

「介肆多し」ストリートビューで見たが、昔、嘗ての恋人にベニガイ(斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ニッコウガイ科ベニガイ属ベニガイ Pharaonella sieboldii )を買った店に併設されていた「世界の貝の博物館」(旧主人が貝類学者とも親しかった方で貝類研究家でもあった。何度か親しくお話を聴いたのを思い出す)も既に閉じていた……

「養和二年」一一八二年。

「酒井雅樂頭の眞向きの龜と號する畫額あり。但し余の見を以てすれば、寧ろ眞拔けの龜と稱するが佳ならん」。「酒井雅樂頭」江戸後期の絵師俳人酒井抱一(ほういつ 宝暦一一(一七六一)年~文政一一(一八二九)年:本名酒井忠因(ただなお))のことだが、彼は権大僧都ではあったが、「雅樂頭」(うたのかみ)ではない。彼の父親(抱一は次男)が、老中や大老にも任じられた酒井雅楽頭家の姫路藩世嗣酒井雅楽頭忠仰であったのを、誤認したものである。さて。「龜」の絵だが、「眞向きの龜」ではなく、「八方睨みの亀」(どこから見てもこっちを睨んでいるように見える)である。奥津宮拝殿天井に描かれてあった。私が先の恋人と見た時は、原画であったが、現在のものは、彩色された復原画になってしまっている。私は原画が大好きだ。熊楠には物言いを叫ぶ!【二〇二四年五月二十六日追記】

   *

Happouniraminokame_20240528044501

   *

父母の遺品を整理している内に、私が写した旧原画だった頃の写真を発見したので、ここにお披露目しておく。

 それよりまた步をかえす[やぶちゃん注:ママ。]に、潮水なほ未だ滿ち來らず、天氣朗晴にして相豆[やぶちゃん注:「さうづ」。相模・伊豆。]の形色悉く備はる。男は巖崕の上に踞して釣竿を斜にし、女は汀際に俯して藻介を覓む。兒童が蟹甲を剝て舟となし、𧶺蟲[やぶちゃん注:「ていちゆう」。ヤドカリの古名。]を客として水に浮べてなぐさむも亦目新らし。かくて旅舍へ歸りしに時なほ四時に早きを以てまた出でて山上に至り介肆に就て諸種の介蠏[やぶちゃん注:「かひ・かに」。後者はカニのこと。]數十個を購收せり。介又やぎを以て簪箸[やぶちゃん注:「かんざし・はし」。]など種々の細工をなす。美にして雅なり、頗[やぶちゃん注:「すこぶる」。]愛すべし。又店頭に印度、薩隅及北海道の所產をも列する事少なからず、之を問ふにこれみな此島所產を以て彼と交易するなりといへり。此夜一天片雲なく、星茫煌々として、金波爛揚[やぶちゃん注:「らんやう」。]、價値千兩とも謂つ可し。夜九時に臥す。

[やぶちゃん注:「やぎ」花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱亜綱ヤギ(海楊)目Gorgonaceaに属する多数の種群の総称。俗に「ソフトコーラル」と呼ばれる。黄色や赤など、様々な色彩に富み、美しい水中景観を作る。その群体の中心には、角質或いはそれに石灰質を膠着した骨軸を持っており、これが、加工されて土産物となっている。]

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