柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(11)
新道の置土かわく堇かな 里 東
堇といふ花は、明治以後所謂星堇趣味の普及によつて、一種の型を生じたが、昔の日本にはそんなハイカラなものは無い。野草として普通の待遇を受けるにとゞまつてゐた。赤人の「野をなつかしみ一夜ねにける」にしても、芭蕉の「山路來て何やらゆかし」にしても、明治の若い連中が隨喜したやうなものでないことは勿論である。
この里東の句なども當り前の田舍の景色で、新しく作つた道の上に置土をする、その土の乾いたところに堇が咲いてゐる、といふまでである。ハイカラでもなし、艷でもない。たゞさういふ置土の間にある、小さな野草の紫色が人の目を惹くに過ぎぬ。
小便に連まつ岨の堇かな 松 白
に至つては、一層野趣の甚しいもので、星堇黨に見せたら憤慨しさうな句であるが、わざわざかういふ材料を持出したのではない。古人は自然の間に堇を認め、或觀念を以て臨まなかつたから、岨道[やぶちゃん注:「そばみち」。崖に沿った道。]に小便をする男なども、句に取入れられることになつたのであらう。反對に古人が或觀念を以て臨み、今人は却つて無關心なものもある。時代趣味の上からいろいろ對照して見たら、存外面白い結果になるかも知れない。
[やぶちゃん注:「星堇趣味」星堇派(せいきんは)のこと。当該ウィキによれば、『星や』花のスミレ『に託して、恋愛や甘い感傷を詩歌に』謳った『ロマン主義文学者のこと』或いは、『一般的に、そのような感傷的作品しか作れない詩人を揶揄する際にも用いられる』。一九〇〇(同年は明治三十三年)『年代初頭、与謝野鉄幹・晶子夫妻を中心とする雑誌『明星』によって活躍した人たちを指す』とある。]
あひさしの傘ゆかし花の雨 淀 水
「あひさし」は二人でさすの意、相合傘のことであらう。かういふ言葉があるかどうか、『大言海』などにも擧げてはないが、相住、相客等の用例から考へて、當然さう解釋出來る。
花の雨の中を相合傘で來る人がある。「ゆかし」は「暖簾の奧ものゆかし」とか、「御子良子[やぶちゃん注:「おこらご」。]の一もとゆかし」とかいふのと同じで、傘の內の人は誰だか知りたい、といふ意味である。艷と云へば艷なやうなものの、少しつき過ぎる嫌がある。但普通の春雨よりは、花の雨の方がいくらかいゝかと思ふ。
[やぶちゃん注:句の「傘」は「からかさ」と読む。
「淀水」取り敢えず「てんすい」と読んでおく。]
鶯や籠からまほる外のあめ 朱 拙
飼鶯である。「まほる」は「まぼる」卽ち「まもる」の意であらう。雨の日の鶯が籠の中からぢつと外を見てゐる。雨の降る樣を見守つてゐるやうだ、といふのである。
鶯には限らぬが、動物には時にかういふところがある。彼等は實際外の雨を見てゐるのかも知れない。或は人間にさう見えるだけで、うつろな眼には雨も何も映つてゐないのかも知れない。いづれにしても作者は自己の感じたまゝを句にしたので、つれづれな雨の日の觀察がこゝに及んだことはい云ふまでもあるまい。
鶯や目をこすり來る手習子 溫 故
鶯が啼いてゐる。手習子[やぶちゃん注:「てならひご」と読みたい。岩波文庫では「てららひこ」。]がやつて來る。朝早いのに無理に起されたと見えて、眠さうな眼をこすりながらやつて來る、といふのである。「目をこすり來る」の一語によつて、朝の早い樣子と、その子の年の行かぬ樣子とをよく現してゐる。さうした可憐な趣が鶯と或調和を得るのである。
[やぶちゃん注:「溫故」初代久居(ひさい)藩主藤堂高通(俳号は任口)が、外宮の弘氏の宿所に「神風館」と命名し、扁額を与えたことによると伝えられる俳諧号「神風館」主、の第六代が「溫故」。]
ふたつみつ花になりけり苔の梅 從 吾
老木の梅と見える。幹には深々と苔をつけた梅の木が、僅に二輪か三輪の花を著けてゐる。「花になりけり」といふ言葉は、單に花が咲いたといふだけでなしに、咲くべくも思はれなかつたのに咲いた、といふやうな意が寓せられてゐるやうに思ふ。
森田義郞氏の歌に「苔むせる老木のつはり痛々しかくて幾世の春を飾れる」といふのがあつた。花と芽との相違はあるけれども、老木を憐むの情に於ては略〻この句と趣を同じうしてゐる。「苔の梅」といふ言葉は多少無理な感じが無いでもないが、苔むせる老木の梅を現す場合、他に適當な言葉も無さそうである。
[やぶちゃん注:「森田義郞」(ぎろう 明治一一(一八七八)年~昭和一五(一九四〇)年)は歌人。愛媛県生まれ。本名は森田義良。國學院大學卒。明治三三(一九〇〇)年、「根岸短歌会」に参加し、『馬酔木』の創刊にも関わったが、意見の対立により離脱し、従来から関係していた『心の花』に拠った。後、右翼政治運動に加わり、日本主義歌人として活動した。「万葉ぶり」の作風で、論客としても知られた(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。]
朱鞘さす人物すごしんめの花 一 庸
この梅の咲いてゐるのはどんな場所かわからぬ。が、恐らくは梅見に人の來るやうなところで、特に朱鞘の人が目立つといふのであらう。講談に出て來る中山安兵衞のやうな浪人者であるかどうか、とにかく一見物凄いやうな感じを與へる人物がいる。「人物すごし」は「ヒトモノスゴシ」で「ジンブツスゴシ」でないことは勿論である。
「何事ぞ花見る人の長刀」といふ櫻の下では、到底この種の人物は調和しない。假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]朱鞘の浪人者が徘徊するにしても、空氣は一變して春風駘蕩の圖とならざるを得ぬであらう。物凄い朱鞘の人物に調和するのは、やはり梅より外はあるまいと思ふ。
梅を「んめ」と書くのは古俳書によくある例である。蕪村は「梅さきぬどれがむめやらうめぢややら」と言つたが、文字面[やぶちゃん注:「もじづら」。]からいふと、もう一つ「んめ」がある。但發音は「む」と同じだから、特に云ふほどのことは無いかも知れぬ。
いかのぼり見事にあがるあほうかな 林 紅
凧たも得揚げまいと思つてゐた阿房[やぶちゃん注:「あほう」。阿呆。]が、見事に凧を揚げたといふだけでは面白くない。皆が揚げ惱んでゐる風の日であるとか、人の目をそばだてるやうな大凧であるとか、何か特別な事實がないと、いくら阿房でも揚げ甲斐があるまいと思ふ。「見事にあぐる」でなしに、「見事にあがる」である點にも注意しなければならぬ。凧を揚げ得た阿房が主眼ではない。阿房の手から見事に大空に揚つた凧が主眼なのである。
他に何の能も無いが、凧を揚げることは名人だといふ解釋も成立ち得るかも知れぬ。吾々は阿房の手によつて見事に揚つた凧を仰ぎ見るだけにとゞめて置きたい。
羽織著た禰宜の指圖や梅の垣 素 覽
垣の修理か、庭の手入かわからぬが、羽織を著た禰宜がそこに出て、何かしきりに指圖してゐる。その垣根には梅が咲いてゐる、といふ趣である。平服の禰宜を捉へたのが一風變つてゐて面白い。
「その後」の中にある「地祭り」といふ文章の最後のところに、地祭が濟んで地主の家へ行つて見ると、神官は束帶を脫いで只の人で坐つてゐた、そして目白の話をしたりしてゐたが、歸る時に好い序だからと云つて接骨木[やぶちゃん注:「にはとこ」。]小苗を貰つて行つた、といふことがある。
この句を讀んだらすぐあの一節を思ひ出した。平服の神官に興味を持つたりするのは、俳人的觀察の一であらう。
[やぶちゃん注:「素覽」三輪素覧(生没年未詳)は尾張蕉門で、沢露川と交わった。露川門と蕉門諸家の句集「幾人水主」(いくたりかこ)を元禄一六(一七〇三)に編している。通称は四郎兵衛・四郎太夫。別号に松隣軒・鶏頭山・鶏頭野客。
『「その後」の中にある「地祭り」』俳人・小説家であった篠原温亭(明治五(一八七二)年~大正一五(一九二六)年:熊本県宇土郡宇土町(現在の宇土市)生まれ。本名は英喜。京都本願寺文学寮(現在の龍谷大学)に学んだ後、上京し、徳富蘇峰主宰の『國民新聞』に勤め、活躍した。その傍ら、『ホトトギス』の同人となり、正岡子規・高浜虚子らに俳句を学んだ。温厚な人柄で、人望があった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションで、亡くなる二年前に出た大正一三(一九二四)年民友社刊のもので、ここから視認出来る。終りの部分というのは、ここ。
「接骨木」「庭常」とも書く。双子葉植物綱マツムシソウ目ガマズミ科ニワトコ属亜種ニワトコ Sambucus racemosa subsp. sieboldiana 。当該ウィキによれば、『日本の漢字表記である「接骨木」(ニワトコ/せっこつぼく)は、枝や幹を煎じて水あめ状になったものを、骨折の治療の際の湿布剤に用いたためといわれる。中国植物名は、「無梗接骨木(むこうせっこつぼく)」といい、ニワトコは中国で薬用に使われる接骨木の仲間であ』るとあって、『若葉を山菜にして食用としたり、その葉と若い茎を利尿剤に用いたり、また』、『材を細工物にするなど、多くの効用があるため、昔から庭の周辺にも植えられた』。『魔除けにするところも多く、日本でも小正月の飾りや、アイヌのイナウ(御幣)などの材料にされた』。『樹皮や木部を風呂に入れ、入浴剤にしたり、花を黒焼にしたものや、全草を煎じて飲む伝統風習が日本や世界各地にある』。『若葉は山菜として有名で、天ぷらにして食べられる』。但し、『ニワトコの若葉の天ぷらは「おいしい」と評されるが』、『青酸配糖体を含むため』、『多食は危険で』、『体質や摂取量によっては下痢や嘔吐を起こす中毒例が報告されている』とあった。『果実は焼酎に漬け、果実酒の材料にされる』とある。私は、若葉の「天ぷら」を食べたことがある。]
飛咲の菜の花寒し麥の中 三 徑
「飛咲」といふのは飛び離れて咲くの意であらう。靑い麥の中にぽつつり離れて菜の花の咲いてゐる趣である。萬綠叢中黃一點といふほどではないが、とにかく菜の花の甚だ優勢ならざることを示してゐる。「寒し」は氣候の感じでもあり、また乏しい菜の花の感じでもある。春色未だ遍から[やぶちゃん注:「あまれから」。]ざる野の景色であらうと思ふ。
麥綠菜黃をはつきり描いた句に、子規居士の「菜の花の四角に咲きぬ麥の中」がある。印象明瞭の一點では、三徑の句はこれに及ばぬであらう。たゞ感じの複雜なところは、あるいは勝つているかも知れぬ。「飛咲」といふ耳慣れぬやうな言葉も、この場合相當な效果を收めてゐる。
[やぶちゃん注:断然、子規のものより遙かに優れている。
「麥綠菜黃」「ばくりよくさいわう」では如何にも無粋な熟語である。敢えて「むぎのみどりなのき」と読んでおく。]
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