譚 海 卷之十四 加茂社人鞠の露はらひの事 公人朝夕人の事 護持院・金地院の事 三島曆の事 はかり座の事 絲割符の事 藍甕運上の事 江戶曆問屋の事 淨瑠璃太夫受領號の事 江戶髮ゆひ株の事 連歌歌住宅の事 婦人旅行御關所手形の事 十夜念佛の事 酒造米の事 東西渡海舟御掟の事
譚 海 卷の十四
〇主上御鞠(おんまり)の御遊(おあそび)ある時は、加茂社人、最初に「露拂ひ」といふ「まり」を仕(つかまつ)る事也。此作法、加茂の社人の家にのみ傳へて、外にしらざる所作也。
○「武鑑(ぶかん)」に「公人朝夕人(くにんてうじやくにん)」と有(ある)は、公方樣御上洛の時に便器を掌(つかさど)る役也。則(すなはち)。「おかは」の役人也、とぞ。
[やぶちゃん注:「武鑑」江戸時代に出版された大名や江戸幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋・役職・用人などを記した年鑑形式の紳士録。
「公人朝夕人」(くにんじゃくにん)は、当該ウィキによれば、『江戸時代にあった役職の一つ。世襲制』とあり、『高貴な身分の者が衣冠束帯姿である際、排尿が困難となる。衣類の着脱が必要となるが、その猶予が無い際、袴の脇から尿筒(しとづつ。尿瓶(しびん)にあたる銅製の筒。ポータブル』・『トイレの類)を差し込み、排尿中に支えるのが仕事である』。『江戸幕府将軍の上洛・参内、日光東照宮参拝(日光社参)などの際、将軍に近侍した』。『名前の由来は、“朝夕に公務を果たす人”ということから』。『将軍の道中は行列の二番に従う下部の左右にあって、警を唱える。同朋頭支配で定員は』一名で、『扶持高』十『人扶持』であったが、『土田家が』代々『世襲していた。土田家は鎌倉幕府』四『代将軍の藤原頼経の頃から』、『時の将軍に仕え、以降、室町幕府の将軍家(足利家)、織田信長、豊臣秀吉にも仕えていた。近世に入り江戸幕府を創始した徳川家康に仕えたことが幕臣としての始まりで』、『以後』、『土田家は「土田孫左衛門」という名前も世襲したため、公人朝夕人=土田孫左衛門となる』。但し、『身分は武士ではなく』、『武家奉公人いわゆる中間だったといわれている』。『職務は将軍が対象とはいえ、いわゆる「下の世話」なのであるが、鎌倉時代から家が続き代々世襲している事、雲の上の存在である将軍や時の権力者らに近侍すること、公人朝夕人といえば土田家であったこと、などを鑑みるに』、『いわゆる名家として扱われる』。『土田家の由緒書によれば、世襲の由来は』承久元(一二一九)年に『将軍藤原頼経が鎌倉に東下向の際、京都から扈従してまかり下るのに始まるという』。『江戸幕府において世襲となった起因は』、慶長八(一六〇三)年三月二十五日、『家康が将軍拝賀の礼の為に参内した折、尿筒の役「公人朝夕人」を家職としていた土田氏の先祖を召したこととされている』とあった。]
○國初より賓永の比(ころ)迄は、寺社御奉行と云(いふ)者は置(おか)れざる、よし。
「すべて、寺社の事は、護持院・金地院(こんちゐん)の兩寺にて、預り、沙汰せしゆゑ、此兩寺には舊記、おほく、あり。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「國初より賓永の比」江戸幕府開府の慶長八年二月十二日(一六〇三年三月二十四日)から宝永八年四月二十五日(一七一一年六月十一日)まで。
「護持院」江戸神田橋外(現在の東京都千代田区神田錦町)にあった真言宗の寺院。奈良県桜井市の長谷寺一派。当該ウィキによれば、『筑波山の知足院中禅寺(筑波山神社の別当)が起源である。知足院は徳川家康以来、将軍家と幕府の祈祷を行っていた。知足院の江戸別院が湯島にあったのを、元禄元』(一六八八)年、『江戸幕府の』第五『代将軍徳川綱吉が神田橋・一ツ橋の間に移した。護摩堂、祖師堂、観音堂などの大伽藍を整備し、隆光を開山として、護持院と改称した』。享保二(一七一七)年、『火災により』、『一堂も残さずに焼失』したが、『徳川吉宗は同地での再建を許さず、跡地は火除地(護持院ヶ原)となった。護持院は音羽護国寺の境内に移され、護持院住職が護国寺住職を兼任することになった』。同寺は『明治維新後の廃仏毀釈で廃寺となった』とある。「護持院が原跡碑」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。護国寺はここ。
「金地院」現在の東京都港区芝公園三丁目に現存する臨済宗南禅寺派の寺院。当該ウィキによれば、元和二(一六一九)年に『開山された。以心崇伝は南禅寺の僧侶で徳川家康の政治顧問を務めていた。そのため、江戸における拠点として与えられたのが当院の由来である。以心崇伝は京都では南禅寺塔頭の金地院を居所としており、江戸での居所も「金地院」と称した。そのため、以心崇伝は別名「金地院崇伝」ともいう』。『これまで当院は江戸城内に置かれていたが、以心崇伝の死後の』寛永一五(一六三八)年、『現在地に移転した。江戸時代の当院は独立性が高く、現在でいうところの「臨済宗系単立寺院」であったが、明治になり、関係の深かった南禅寺に属することになった』。昭和二〇(一九四五)年の「東京大空襲」によって、『本堂が焼失し』、昭和三一(一九五六)年に『再建された』とあった。ここ。]
○「三島こよみ」は、伊豆・相模の二ケ國に、商ふ事、免許なり。曆師河合龍節といふ者、每年、歲暮に江戶へ罷出(まかりいで)、公儀と御三家へ「こよみ」を奉り、目錄を拜領して歸國する事、定(さだま)りたる事也。
[やぶちゃん注:「三島曆」(みしまごよみ)は、室町時代の応安年間、伊豆国の三島神社の川合氏で発行した、極めて細かな仮名で記した暦。江戸時代には幕府の許可を得て、伊豆・相模の二国に行なわれた。なお、その書式から、「こまごました文字でくどくどと書いたものの喩え」にも用いる。「三島摺曆」とも呼ぶ。]
○「はかり座」は、西國・東國と兩人に分(わけ)て仰付(おほせつけ)られて有(あり)。東三十三國は守隨(しゆずい)彥太郞、西三十三ケ國は神谷善四郞、商ふ事也。
○京・大坂・境[やぶちゃん注:底本には編者に拠る補正右傍注があり、『堺』とする。]。長崎等に、「絲割符(いとわつぷ)」と云(いふ)者有(ある)は、皆、往古、異國渡船を仕立(したて)て渡海し、異國へ交易せし者の子孫也。國初、異國渡海の事、禁ぜられし砌(みぎり)、右の者、渡世成(なり)かたきに付(つき)て、「渡り絲の割符」を賜りて、家業とせさせ給ふゆゑ、「絲割符」と云(いふ)也。
[やぶちゃん注:「絲割符」(いとわっぷ)。「白糸割符」(しらいとわりふ)とも。慶長九(一六〇四)年以来、行われた中国産生糸(白糸:上質の絹糸)の一括輸入方式。初めは京都・堺・長崎、後には江戸・大坂を加えた五ヶ所の特定商人が作る「糸割符仲間」に生糸を一括購入させ、それを個々の商人に分配させた。彼らを通じて、それまでポルトガル船が独占していた外国貿易の利益を確保するのが、江戸幕府のねらいであった。十八世紀以降の国産生糸(和糸)の増産により、この糸割符制度は衰退した(主文は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]
○紺屋藍瓶の運上は、每度、瓶壹つに付(つき)、錢四百文づつ出(いだ)す事也。
○「江戸曆問屋」は十一人有(あり)、每年、町奉行より、曆の本紙を賜(たまは)り、再版して商ふ也。町年寄、預り掌る事也。
○淨瑠璃太夫の受領號を稱するは、元來、人形師に付(つけ)たる事也。其始(そのはじめ)、人形をあやどりながら、淨瑠璃をかたりたる故、受領號を免許ありし事也。
[やぶちゃん注:「受領號」底本の竹内利美氏の後注に、『受領は諸国の長官あるいは任国で政務をとる国司の最上席者をいう職名で、通例「守」または「権守」「介」などを称した。また、従五位下に叙せられることにもいわれ、この位は「大夫」、つまり五位の通称に相当する。芸人の大夫名はつまりこうした意味の受領号で、芸人の上位の者をさすことにもなった。そして浄瑠璃かたりの大夫名は、人形つかいからはじまったというのである。播磨掾、豊後掾、山城少掾といったたぐいである』とある。]
○江戶中、髮結の株は、承應(じようおう)年中より定められたる事也。上(かみ)より定(さだめ)られたる札に、皆、「承應」の文字、有(ある)、とぞ。
[やぶちゃん注:「承應年中」一六五二年から一六五五年まで。徳川家綱の治世。]
○連歌師の住宅、江戶は旅宿の御定(おさだめ)也。京都在住の積(つもり)に成(なり)てある事也。
○江戶町家女房、上京するには、御關所御判を頂戴して、登る時、箱根にては御改め一通(ひととほり)也。荒井御關所より、御判物(ごはんもつ)に引(きひ)かへ、日限定(にちげんさだま)りの書付、賜(たまは)る也。其書付の目限より、一日、延引しても、むづかしき事也。尤(もつとも)、書付、懷中して上京致し、歸りに、又、荒井御關所へ納(をさむ)ること也。夫故(それゆゑ)、女中、往還は、はなはだ氣づまりにて、迷惑成(なる)事、とぞ。右、日限に拘らず、上京いたし、
『ゆるりと見物せん。』と思ひ、又は、
『歸路に木曾路を通らん。』
など思はば、一旦、上方、親類、有(あり)て、其者の所へ引越(ふつこし)のつもりに、江戶にて申立(まうしたて)、御判を頂戴すれば、右、御判物を、荒井御關所へ、をさむる斗(ばか)りにて、書替の手形、賜る事なく、京都、こゝろよく、一見、をはりて、向方(さきかた)にて、あらたに木曾道中の御判物を頂戴するが、よろし。木曾路は女御改(をんなおあらため)、臼井[やぶちゃん注:底本には「臼」に編者に拠る補正右傍注があり、『(碓)』とする。]御關所斗(ばかり)也。其外は、番所、相斷(あひことわり)て通る斗也。
[やぶちゃん注:「荒井御關所」「新居御關所」の誤り。東海道の関所の一つで、現在の静岡県湖西市新居町(あらいちょう)新居のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった。但し、正式名称は「今切関所」(いまぎれせきしょ)であった。
「碓」「井御關所」「碓氷御關所」の誤り。中山道でここにあった関所。江戸時代には、東海道の箱根関所、中山道の福島関所とともに重要な関所とされた。当該ウィキによれば、『碓井関所は、中山道の福島関所、東海道の箱根関所、奥州街道・日光街道の房川渡中田関所、甲州街道の小仏関所、北国街道の関川関所』『と同様に、「入鉄砲に出女」を取り締まっていた』。『碓井関所では、徳川幕府による留守居証文により一元的に江戸からの不法な出女を監視していたが、関所近隣在住の女性の通関に対しては特別な配慮もあった』とある。]
○淨宗[やぶちゃん注:浄土宗。]に「十夜念佛」と云(いふ)事有(あり)。又、「七夜(ひちや)」・「四十八夜」など云(いふ)事も、あり。皆、別所に念佛を行(ぎやう)ずる事也。
「十夜」の事は、大經(だいきやう)に出(いで)たり。
「七夜」は、「彌陀經」によりて行ずる事也。
「十夜念佛」は、京都眞如堂にて、行じたるを、はじめとす。關東にては、鎌倉光明寺を、はじめとす。
「四十八夜」は、鎭西上人、行じはじめたる事也。
[やぶちゃん注:「大經」これは、その宗派で依るところの大部の経典を指す。浄土宗では「淨土三部經」の総称で知られる「無量壽經」・「觀無量壽經」・「阿彌陀經が根本経典であるが、その他に法然の著した「一枚起請文」と「一紙小消息」が含まれる。
「鎭西上人」弁長(応保二(一一六二)年~嘉禎四(一二三八)年)は平安末から鎌倉初期の浄土宗鎮西派の祖。号は聖光房、「鎭西上人」は敬称。「二祖上人」や勅諡の「大紹正宗國師」とも呼ばれる。寿永二(一一八三)年、比叡山に上り、宝地房証真から天台宗の奥義を受けた。弟の死に当たって無常を感じ、建久八(一一九七)年、法然に師事した。浄土宗の宗要を極めて、大いに念仏を広めた人物として知られる。主著に「浄土宗要集。「徹撰択集」・「末代念仏授手印」がある。現在の浄土宗は、この派の発展したものである(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]
○加州米・羽州秋田米等は、至(いたつ)て下品也。然れども、洒を造(つくる)には、此米ならでは、成(なし)がたし。大坂に來(きた)るといへども、皆、酒米(さかまい)にいたす事也。飯米に成(なり)がたし。
○渡海の船は、「北𢌞り」・「東𢌞り」の定(さだめ)ありて、其制を超(こゆ)る事、あたはず。
「北𢌞り」は、武州浦賀より大坂をへ、出雲の北をめぐりて、羽州秋田土崎湊に至るを限りとす。
「東𢌞り」は、浦賀より常陸をへて、仙臺南部の浦を過(すぎ)、津輕を𢌞り、羽州秋田に至るを限(かぎり)とす。
「北廻り」は、「北𢌞り」の船を用ひ、「東𢌞り」は「東𢌞り」の船を用ゆ。他船をもちて往來する事、嚴禁也。
各船、皆、定額(しやうがく)ある事ゆゑ、「北𢌞り」の船をもちて、津輕に出(いで)、浦賀へ來(きた)る時、其船頭、刑罪に處せらるゝ事也。「東まはり」の舟にて、「北𢌞り」するも、同じ刑に處せらるゝ事也。