柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(16)
庭砂のかわき初てやせみの聲 北 人
朝のうちはしつとり濕つてゐた砂が、日の高く上るにつれてだんだん乾いて來る。今日の日和を卜するやうに、そこらで蟬が鳴き出す、といふのである。句の表には格別時間を現してゐないようであるが、暑くなりさうな夏の日の感じが溢れてゐる。
「かわき初てや」の「や」は必ずしも疑問の意ではない。併し「かわき初むるや」といふのとは、少し意味が違ふ。かういふ言葉の味を說明するのは困難である。これを誦して會得する外はあるまいと思ふ。
[やぶちゃん注:句は「庭砂」は「にはすな」と清音で読みたい。「初てや」は言わずもがなだが、「そめてや」。]
實櫻や古茅はこぶ宮の修理 邑 姿
「修理」は「シユリ」と詰めて讀むのであらうか。普通人名の場合はシユリ、修繕の場合はシウリと發音するやうであるが、こゝは詰めないと調子が惡い。
櫻の實の熟した、もの靜な宮の境內らしい。そこへ宮修理の爲の古茅を運んで來るといふ光景である。櫻の實は境內の土の上に落ちていさうな氣がする。
直に俳畫になり得べき趣である。日本の櫻の實は、花と違つて多くの場合閑却された形であるが、この句は實櫻にふさはしい趣を捉へてゐる。人目は惹かぬけれども、面白い句である。
[やぶちゃん注:「古茅」「ふるかや」。]
晝顏や魚荷過たる濱の道 桃 妖
眼前の景色である。
晝顏の咲いてゐる濱の道を、魚荷を運ぶ人が通る。この句は魚荷が通つたあとの光景らしい。一面の砂濱の日が照りつけてゐる中に、炎威にめげぬ晝顏の花の咲いてゐる樣が眼に浮ぶ。あたりには魚荷の腥い香がまだ漂つてゐさうな氣もする。
飯鮓や竹の廣葉の折かへり 木 因
「月潺堂にまいりて[やぶちゃん注:ママ。]」といふ前書がついてゐる。多分人の住ひであらうと思ふが、よくわからない。句の表は鮓[やぶちゃん注:「すし」。]の寫生が主になつてゐる。
飯鮓[やぶちゃん注:「いひずし」。]の中に入つてゐる笹の廣葉が折返つてゐた、といふだけのことであるが、「折かへり」の一語がこの句に或生趣を與へているやうに思ふ。かういふ微細な寫生が元祿に已に行はれてゐる點に注意すべきである。「隈篠[やぶちゃん注:「くまささ」。]の廣葉うるはし餅粽」といふ岩翁の句なども、元祿の句としては相當印象的であるが、この句の「折かへり」は觀察の點に於て更に一步を進めている。今のやうな握鮓の句でないことは云ふまでもあるまい。
但「月潺堂にまいりて」なる前書に何か意味があつて、飯鮓竝に「折かへり」の語も漫然置いたものでないといふことになれば、更に出直して解釋しなければならぬ。今はさし當り見たまゝの句として置く。
[やぶちゃん注:「月潺堂」は「げつせんだう」。「潺」は「せせらぎ」の意であろう。されば、この堂は小川の畔りにあるか。]
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