柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(9)
竹垣や桶の尻干くりの花 可 吟
竹垣に桶を引掛けて、尻の乾くやうにしてある。その邊に栗の木があつて、例の花が垂れてゐる、といふ小景である。
栗の花は一面陰鬱な連想を伴ふやうであるが、必ずしもさうばかりではない。栗の花盛りの梢に日の當つてゐるところなどは、むしろ明るい、鮮な感じがする。「合歡未ださめず栗の花旭に映ず」といふ子規居士の句は、その明るい方の趣を捉へたのである。可吟の句はそれほどはつきりした場合ではないが、桶の尻を干す日和である以上、日の照つてゐる栗の花であることは云ふまでもない。
砂に居る心もさびし袷比 洞 月
「砂に居る」といふ言葉は多少不十分であるが、砂の上に跼んで[やぶちゃん注:「かがんで」。]ゐるとか、腰を下してゐるとか、とにかく極めて砂に親しい感じと思はれる。春が過ぎて夏に入る頃は、身のまはりが輕くなるに從ひ、室內生活から解放されて屋外の空氣に親しむやうになる。其角に「たそがれの端居はじむるつゝじかな」といふ句があつた。「五元集」には上五字が「旦夕の」となつてゐるが、「たそがれ」にしろ「旦夕」にしろ、外氣に親しむ點に變りは無い。「砂に居る」も先づさういふ意味に解すべきであらう。
晚春初夏の明るいながらうらさびしい心持を捉へたのが、この句の眼目である。その心持は完全に描き得てゐないかも知れぬが、袷の句の常套に墮せず、作者が捉へようとしたところには、吾々も同感出來る。
「袷比」は「アハセゴロ」と讀むのであらう。「袷時」といふ言葉もあつたかと思ふ。袷を著る時節といふ意味であるが、漠然たる季節をのみ指すのではない。作者は現に袷を著てゐるのである。
[やぶちゃん注:其角の句は「續虛栗」に、
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春夜
たそがれの端居はじむるつゝじ哉
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とあった。]
五月雨や又一しきり猫の戀 白 雪
猫の戀は春にあるばかりではない。猫の子に夏子も秋子もあるやうに、戀の方にも自ら段落がある。季題によつて季節の連想を限るのは、俳句の長所であると同時に、その短所でもあるが、俳人は時に他の配合物を拉し來つて、季節外れの猫の戀を句にしてゐる。子規居士は寒の內から已に戀ひ渡る猫の聲を聞いて、「凍え死ぬ人さへあるに猫の戀」と、稍〻あさましいといふ見方をした。季題の春を猫の戀のシユンとすれば、寒の內のはハシリであり、梅雨中のは時候おくれのわけである。
梅雨に入つて每日のやうに雨が降る。その雨の中を戀ひ渡る猫の聲が聞える。「また一しきり」[やぶちゃん注:「また」はママ。]といふのは、春以來一時やんでゐた戀猫の聲が、五月雨時になつて再興されて、又一しきり聞えるといふ意味であらう。この「一しきり」は普通に「雨が又一しきり强く降る」などといふほど、短い時間の「一しきり」ではない。長い梅雨の間の一時期を指すものと思はれる。
五月雨や朝行水のたばね髮 洛 翠
行水といふものは大體夕方か、夜のものと相場がきまつてゐる。一日の汗を流す簡單な入浴なのだから、實際問題から云つても、さういふ時間になり易い事情がある。
この句は變つた場合と見えて、特に「朝行水」といふ語を置いた。時節も五月雨だから、所謂行水のシーズンではない。「朝行水のたばね髮」といふ言葉は、束ね髮をして朝行水をする、といふ意味にも取れる。朝行水をした後を束ね髮でゐる、といふ意味にも取れる。後の解の方がよくはないかと思ふ。
「雲萍雜志」の著者は「夏日の七快」の一として「湯あみして髮を梳る[やぶちゃん注:「くしけづる」。]」を擧げた。五月雨時の粘つた膚を朝行水で洗ふのは、爽快でないことはないかも知れぬが、夏日の十快には該當しさうもない。やはり五月雨の鬱陶しさが先に立つからであらう。
[やぶちゃん注:「雲萍雜志」(うんぴょうざっし)は江戸後期の随筆で四巻。文人画家柳沢淇園(きえん)の著と伝えられるものの、未詳。天保一四(一八四三)年刊の和漢混交文の随筆。吉川弘文館『随筆大成』版を所持するが、ここは国立国会図書館デジタルコレクションの「名家漫筆集」(『帝國文庫』第二十三篇・長谷川天渓校訂・昭和四(一九二九)年博文館刊)の正字版の当該部を視認して、以下に示す。読みは一部の留め、二行目以降の字下げは無視した。
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○夏日(かじつ)の七快(くわい)
湯あみして髮を梳る。掃除して打水(うちみづ)したる。枕の紙を新にしたる。雨はれて月のいでたる。水をへだてゝ燈(ともしび)のうつる。淺きながれに魚(うを)のうかみたる。月のさし入(いり)たる。
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ほとゝぎす月夜烏の跡や先 里 東
月夜に浮れて烏が啼く。さうかと思ふと今度はほとゝぎすが啼渡る。月夜烏[やぶちゃん注:「つきよがらす」。]が啼き、ほとゝぎすが啼く、といふ趣を詠んだのである。「跡や先」といふ言葉は、前後して啼くと云つたら、一番わかりいゝかも知れない。
鵑聲と鴉聲とを[やぶちゃん注:「けんせいとあせいとを」。]配したものは、其角に「それよりして夜明烏や時鳥」といふ句がある。ほとゞぎすの聲を聞いてから、ややあつて夜明烏の聲が聞える、といふのである。尤もこの方は聲々相雜るのではない。鵑聲から鴉聲に移ることによつて、夜明に至る時間の經過を現してゐる。(「己が光」には中七字が「それよりして夜明の馬や」となつて居り、傳へ誤つたものかとも思はれるが、明方早く戶外を通る馬の音は、又別個の趣をなしてゐるやうである。一槪に誤傳とすべきではあるまい)
[やぶちゃん注:「それよりして夜明烏や時鳥」は「五元集」に、
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それよりして夜明烏や郭公
の表記で載る。言わずもがなであるが、「郭公」は「ほととぎす」と読む。一方の、「それよりして夜明の馬や」の句形は、俳諧撰集「己が光」に、
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それよりして夜明の馬や蜀魂
の表記で載る。これも言わずもがなであるが、「郭公」は「蜀魂」と読む。これは、蜀の望帝の魂が、化して、この鳥になったという伝説から、ホトトギスの別名となったもの。「蜀魄」「蜀鳥」とも書く。]
螢籠提て聞夜や後夜の鐘 半 殘
螢を追うて知らず知らず遠くまで步いて行つたやうな場合かと想像する。もう大分更けたと見えて、どこかで後夜[やぶちゃん注:「ごや」。午前四時前後。]の鐘を打つのが聞える。作者はこの鐘聲に驚いて、螢籠を提げながら踵[やぶちゃん注:「きびす」。]を囘したことであらう。
この句では「提」の字がよほど句の意味を限定する力を持つてゐる。若しこれが假名で「さげて」とあつたならば、必ずしも螢狩の場合にはならない。軒に螢籠を吊して後夜の鐘を聞くとも解せられる。單に「螢籠」といふ時は、螢狩を連想せぬ方が寧ろ自然かも知れない。けれどもこの句は現在手に提げてゐるのだから、軒端の螢では工合が惡い。夜更に螢籠を提げてゐるとすると、螢狩の句と見るのが妥當らしく思はれる。
但中七字に「聞夜」とあつて、下五字にまた「後夜」とあるのは、文字面ら云つて多少重複の感を免れない。「後夜」は時刻の名には相違ないが、夜であることが明な以上、「聞夜」の「夜」は蛇足のやうである。
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