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2024/04/08

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「春」(20)

 

   梅が香や樣子の替る伯父の跡 岱 水

 

「伯父の跡」といふのは伯父の亡き跡――それも稍〻時間の經過した跡を指すのであらうと思ふ。一家の主人たる伯父が亡くなつて、その跡嗣の時代になると、どこといふことなしに家の樣子が變つて來る。必ずしも舊慣を悉く廢棄するわけでもないが、主人公が異るにつれて、その空氣に變化を生ずるのである。

 變化は家の內にはじまつて、漸次庭にも及んで來る。そこにある梅は昔ながらに咲いてゐるが、あたりの樣子は大分變つた。在りし日のまゝに梅が咲いてゐるといふ方を主とせず、跡の變化した方を描いたのが、この句の主眼であらう。

「伯父の跡」といふ言葉は、嘗て伯父の住んでゐた跡――屋敷跡と解せられぬこともない。その屋敷が人手に渡つて、面目一變したといふ風に見ると、どうやら吾々の周圍によくある現象のやうになつて來るが、强ひてさういふ變革を望むには當らぬ。先づ跡嗣の代になつて家の樣子が大分變つた、といふ程度に見て置きたい。いづれにしてもこの作者が「伯父の跡」の變化を喜んでゐないことだけは明である。

[やぶちゃん注:「岱水」(生没年不祥)江戸蕉門の一人。初め、苔翠と称した。芭蕉庵の近くに住み、芭蕉と頻繁に接していた。「木曽の谿」(宝永元(一七〇四)年序)を編している。岱水亭で開かれた影待(=日待:人々が集まって前夜から潔斎して一夜を眠らず、日の出を待って拝む行事。本来は、旧暦正月・五月・九月の三・十三・十七・二十三・二十七日、或いは吉日を選んで行なうとされるが、毎月とも、正月十五日と十月十五日に行なうともされ、一定しない。ただ、後には大勢の男女が寄り集まって徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものと変じた)で、芭蕉は、以下の一句を詠んでいる。貞享四(一六八七)年五月で田植えを終えているので、十三日以降の四日の孰れかであろう。

     岱水亭影待に

   雨折々思ふことなき早苗哉

と詠んでいる。挨拶句と考えると、岱水も田を持っていたものと思われ、当時の深川には多く田圃が広がっていたことが判る。なお、元禄六(一六九三)年にも同じく、

     岱水亭にて

   影待や菊の香のする豆腐串(とうふぐし)

の句もある。これは秋の句であるから、収穫後の九月吉日の作であろう。]

 

   里坊の碓聞クやむめの花 昌 房

 

「里坊」は「山寺ノ僧ナドノ別ニ人里ニ構ヘ置ク住家」と『言海』に見えている。「里坊に兒やおはしていかのぼり」といふ召波の句の里坊と同じものである。

 米でも搗いてゐるのであらう、ずしりずしりといふ重い碓の音が里坊から聞えて來る、あたりに梅が咲いてゐる、といふ卽景を句にしたもので、里坊を持出して、特に趣向を凝したやうな跡は見えない。そこへ行くと召波の句は、里坊が非常に働いてゐる代りに、多少斧鑿の痕の存するを免れぬ。

 上五字が「里坊に」となつてゐるのもあるが、全體の意味は大差ないやうに思はれる。「聞クや」といふ言葉も、殊更に聽耳を立てたわけでなく、「聞ゆ」といふほどの意に解すべきである。

[やぶちゃん注:「碓」「からうす」。「唐臼」。

「召波」黒柳召波(享保一二(一七二七)年~明和八(一七七一)年)は京都の俳人。別号、春泥舎。服部南郭に漢詩を学ぶ。明和初(一七六四)年頃、蕪村の「三菓社」に加わり、俳諧に精進した。「春泥発句集」が知られる。]

 

   雨氣つく畠の梅のよごれけり 鼠 彈

 

 讀んだ通りの句である。梅の花の白さはあまり鮮麗なものでないから、曇つた日などは多少薄ぼんやりした感じを與へることがある。この句は雨催[やぶちゃん注:「あめもよひ」。]の畠の中にある梅の花で、或は稍〻盛を過ぎてゐるのかも知れない。花の色が汚れて見えるといふのである。

 取立てゝ云ふほどの句でもないし、俳句としては珍しいこともないが、文人趣味、南畫趣味でなしに、野趣橫溢の梅を描いたのが面白い。畫にするならば正に俳畫の世界である。どんよりした空の下に汚れた色の梅が咲いてゐるなどは、漢詩人も歌よみも恐らくは喜ばぬ趣であらう。自然を生命とする俳人の眼は、元祿の昔に於て悠々と如是[やぶちゃん注:「によぜ」。]の景を句中に取入れてゐる。

[やぶちゃん注:「雨氣」「あまけ」。雨の降りそうな様子。雨模様。雨はまだ降っていないので注意。]

 

   鶯の障子にかげや軒づたひ 素 覽

 

 鶯が庭に來て、軒端に近い木を彼方此方[やぶちゃん注:「あちらこちら」。]と飛び移つてゐる、その影が障子にうつる、といふのである。

 歌ならば「軒端木づたふ」といふところであらう。俳句は字數が少いから、「軒づたひ」の五字で濟してしまつたが、鶯の性質から考へて、軒端の木から木へ飛び移りつゝあることは疑を容れぬ。それだけなら平凡に了るべき景色を、障子にうつる影によつて變化あらしめたのが作者の手際である。

 一杯に日の當つた南軒の障子が目に浮んで來る。軒端木づたふ鶯の影は、その障子にはつきりうつるのである。障子のうちの作者は、影法師の動きだけで十分に鶯たることを鑑定し得るのであらうが、それだけではいさゝか曲が無い。一杯に日の當つた南軒の障子に對しても、影の主はその嬌舌を弄する義務がある。

[やぶちゃん注:「嬌舌」(きやうぜつ)は「艶めかしさ」「愛らしさ」の意。]

 

   谷川やうぐひすないて鮠二寸 水 札

 

 まだ谷の戶を出でぬ鶯が頻しきりに啼いている、谷川の鮠は已に二寸位になつている、といふ山間早春の景を敍したのである。「うぐひすないて」といふ中七字は、現在鶯が啼いていることを現すだけでなしに、もう鶯が啼くやうになつたといふ、季節の推移を現しているやうな氣がする。

 鶯と二寸位の鮠との間には、格別交涉があるわけではない。早春の季節が谷川を舞臺として、一見沒交涉らしい兩者を繋ぐ。そこに一種生々の氣が感ぜられる。

[やぶちゃん注:「水札」「すいさつ」であろうが、この語は「けり」も読むと、鳥綱チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus を指す。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 計里 (ケリ)」を見られたいが、この人、鳥好きの俳人であったものと思われる。

「鮠」「はえ」或いは「はや」と読む。複数の淡水魚を指す総称で、「ハヤ」という種はいない。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之上 𮬆 (ハエ) (ハヤ)」の私の注を見られたい。]

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