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2024/05/28

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「秋」(4)

 

   たばこ呑煙影ある月夜かな 素 人

 

 一見古句らしからざる內容を具えてゐる。明るい月の下に吸う煙草の煙が、ほのかに漂はす影を捉へたのである。元祿俳人の著眼が斯くの如き微細な趣に亙つてゐるのには、今更ながら驚歎せざるを得ない。

 かつて白秋氏の「水墨集」を讀んで、

  月の夜の

  煙草のけむり

  匂のみ

  紫なる。

といふ詩に、この人らしい鮮な感覺を認めたことがあつた。素人の句は表面に何等目立たしいものを持つてゐないに拘らず、悠々として月夜の煙草の趣を捉へ、ほのかな煙の影をさへ見遁さずにゐる。新奇を好む人々は、卷煙草を銜へたことも無い元祿人が、容易にこの種の句を成すことを不思議に思ふかも知れない。句は廣く涉り、多く觀なければならぬ所以である。

[やぶちゃん注:『白秋氏の「水墨集」』は詩集。大正一二(一九二三)年アルス刊。「月光微韻」(短唱 二十二章)の「2」。国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここで視認出来る。]

 

   一すぢの蜘蛛のゐ白き月夜かな 獨 友

 

 張り渡した蜘蛛の絲が一筋白く月に見える。絲は元來一筋だけしか無いのか、一筋だけ特に目に入るのか、それは何れでも差支無い。たゞ白く見えるのは月の光によるだけでなく、露の置いた關係もありはせぬかと思はれる。

「露やふる蜘蛛の巢ゆがむ軒の月」といふ曾良の句は、同じ元祿時代の作だけれども、この句に比すれば纖巧[やぶちゃん注:「せんかう」。]な點に於て遙にまさつてゐる。月のさす軒端の蜘蛛の巢が、露の置くためにゆがむかと疑つたのは、「眉毛に露の玉をぬく」などといふよりも、却つて靜寂な夜の露けさを想はしめる。但その一面に幾分の際どさを含んでゐるだけ、元祿期の句としては、この句の自然なるに如かぬかも知れない。而も月下に白い蜘蛛の絲は、煙草の煙の影ほど特異なものでないにしろ、大まかな觀察者の眼に入る趣ではないのである。

[やぶちゃん注:曾良の句は、国立国会図書館デジタルコレクションでも、ネット検索でも掛かってこない。]

 

   三味線をやめて鼻ひる月見かな 關 雪

 

 月見の座の小景である。今まで三味線を彈いてゐた人が、急に手を止めたと思ふと、大きな嚔[やぶちゃん注:「くさめ」。]をした。本人に在つては滑稽でも何でもないであらうが、慌しく三味線をやめて嚔をしたといふ事實には、慥に或滑稽味が伴つてゐる。更くるに從つて冷えまさる夜氣が、自ら嚔を誘つたのであるといふことは、餘情の範圍として贅言を要せぬであらう。

 

   鳴神のしづまる雲や天の川 桃 鯉

 

 雷雨後の夜景であらう。今まで鳴りはためいてゐた雷は、天の一角にある雲中にをさまつてしまつて、晴れた空には天の川が明に見える。單に雷雨の後の天の川ならば、取立てて云ふほどのこともないが、雨は已に晴れて、而も一方には雷のをさまつた雲が蟠つてゐるといふところに、多少複雜な趣が窺はれる。一朶の雲は全く響を收めてゐても、雷の名殘だけに何となくたゞならぬものがあるやうに思ふ。

 

   耳かきもつめたくなりぬ秋の風 地 角

 

 春先、電車に乘つたりすると、乘降に摑む金屬の棒が、冬と違つて暖くなつてゐることを感ずる。俳句の季題に「水溫む[やぶちゃん注:「みづぬるむ」。]」といふのはあるが、「金溫む」といふのは無い。季題になるならぬは別問題として、天地の春がさういふ人工品にまで及ぶことは、季節を考慮する者の等閑に附すべからざる問題であらう。

 この耳搔の句は、天地の秋が人工の微物に到ることを詠んだのである。耳搔を取上げて耳を掘つて見ると、夏のうちと違つて冷たく感ずる。蹈む足に緣の冷かさを感じ、寐轉んで疊の冷かさを感ずる類は、必ずしも異とするに足らぬが、耳を掘る耳搔の冷たさは、蓋し俳人の擅場ともいふべき微妙な感覺である。それが使ひ馴れた耳搔であることは、「つめたくなりぬ」の中七字によく現れてゐる。

 

   きりぎりす秋の夜腹をさすりけり 靑 亞

 

 必ずしも腹が痛いからさするのではない。長々し夜をひとり寢て、我と我腹をさすつて見る。寢つかれない場合と見るか、夜半の寢覺と見るかは、この句を讀む人の隨意である。近々と鳴く蟋蟀[やぶちゃん注:「こほろぎ」。]の聲を聞きながら、しづかに腹をさする夜長人の姿を想ひ浮べれば、先づこの句の趣を解し得たに近い。

「きりぎりす」と云つて更に「秋の夜」の語を添へるのは、蛇足のやうでもある。少くとも「秋」といふことは不必要のやうに思はれるが、しづかにこの句を三誦すると、「秋の夜」の一語は贅字でないのみならず、長々し夜の趣を現す上に或效果を持つてゐることがわかるであらう。「秋の夜腹をさすりけり」といふ悠揚迫らざる言葉の上に、夜長の趣を感じ得ぬとすれば、俳句に對する味覺を缺いてゐるものと斷言して差支無い。

[やぶちゃん注:「きりぎりす」「蟋蟀」の近現代の反転は、「日本經濟新聞」公式サイト内の桜井豪氏の「コオロギは昔キリギリスだった? 虫の呼び名の謎」を読まれたい。但し、この反転を平安末の時代小説であるからと言って、芥川龍之介の「羅生門」の「きりぎりす」を「コオロギ」とする高校の国語教科書の注にあるのには、私は敢然として異義を唱えるものである。「記憶について 山村暮鳥」の私の注を、是非、読まれたい。]

 

   拍子木のかたき音聞きく夜寒かな 堇 浪

 

 これだけの句である。たゞカチカチと打つて通るのを「かたき音」と形容したのが、この句の眼目であらう。云はれて見れば何でもないやうなものの、「かたき音」といふ一語は拍子木の感じを現し得て妙である。

 秋も夜寒になる頃から、夜廻りなどが拍子木を打つて步くやうになる。若しくはさういふ音に耳を傾けるやうになる。すぐれた句でもないが、季節はよく現れてゐるやうである。

 

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