柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(31)
網打やとればものいふ五月闇 雪 芝
舟か陸かわからぬが、とにかく投網とあみを打つている男がある。ざぶんと打つ網の音が闇を破つて聞えるが、人は默々として打續けるらしく、五月の闇は濃くその姿をつゝんでゐる。たゞ若干の獲物があつた時だけ、「しめた」とか「今度は捕れた」とか云ふのであらう。何も捕れなければ、默りこくつたまゝ、又ざぶんと投網を打つのである。
獨り言か、誰か側にゐるのか、それはわからぬ。何か捕れゝばその結果としてものを云ひ、獲物が無ければ默つて網打つ動作を繰返しつゝある。網の間に時々閃く銀鱗は、この場合さのみ問題でない。一句の中心をなすものは、闇中に動く黑い男の影だけである。「とればものいふ」の語は、後の太祇の句などに見るやうな使い方で、頗る働いてゐるのみならず、これによつて周圍の闇を一層深からしめてゐる。他の如何なるものを持つて來ても、この七字以上の妙を發揮出來さうもない。異色ある句といふべきであらう。
[やぶちゃん注:「五月闇」「さつきやみ」。]
みじか夜を皆風呂敷に鼾かな 除 風
「浪花より船にのりて明石にわたる乘合あまたにて」といふ前書がついてゐる。さういふ船中の樣子を句にしたのである。
混雜した船の中で、ともかくも眠らうとする。「風呂敷に」といふ言葉が多少不明瞭であるが、風呂敷を顏に當てて眠るか、風呂敷包を枕にするか、眠るに際して風呂敷を用ゐるといふ意味らしい。風呂敷包とすれば、やはり包の字が必要であらうから、こゝは風呂敷を被つて寢ると見た方がいゝかも知れぬ。風呂敷に隱れた顏から鼾の聲が聞えるなどは、短夜にふさはしい趣であらう。
現代の夜汽車の中でも、往々これに似た光景に逢著することがある。昔の船は今の汽車ほど仕切が無いから、「皆」といふ言葉を用ゐるのに都合がいゝやうに思ふ。
世は廣し十疊釣の蚊屋の月 怒 風
この上五字は今の人の氣に入らぬかも知れない。併し作者の主眼は寧ろこゝにあるのであらう。
世の觀じようはいろいろある。人間の眞に所有し得る面積は、坐つて半疊、寢て一疊に過ぎぬといふ說を聞かされたことがあつたが、さういふ見方からすれば、十疊釣の蚊帳も大分廣いことになる。況んやそこに月がさして、のびのびと手足を伸して寢られる以上、「左右廣ければさはらず」の感あることは云ふまでもない。「十疊釣の蚊屋」といふやうな、稍〻說明的な材料を活かす爲には、時に「世は廣し」の如き主觀語を必要とする場合もあるのである。
作者はこの蚊帳について月の外に何も點じて居らぬが、いくら十疊釣の蚊帳だからと云つて、中に大勢人が寢てゐるのでは面白くない。假令一人と限定せぬまでも、「世は廣し」と觀ぜしむるだけの條件は具へてゐなければならぬ。蚊帳の廣さ卽世の廣さだなどと云つて來ると、何だか少し理窟臭くなるけれども、作者がこの蚊帳の中に一の樂地を見出してゐることは事實である。この句を味う爲には、どうしても蚊帳の中に樂寢をしてゐる作者の姿を念頭に浮べる必要がある。
吹おろす風にたわむや蟬の聲 如 行
句の上に場所は現れて居らぬが、先づ山がかつたところと想像する。上からサーツと風が吹きおろすと、山の木が一齊に靡なびいて、鳴きしきつてゐた蟬の聲が、一瞬吹き撓められるやうに感ぜられる、といふのである。
この風は烈風とか、强風とかいふ種類のものではないが、一山の木々が葉裏を見せ翻る程度の風でなければならぬ。蟬は風によつて鳴聲を弱めるわけではない。風聲によつて蟬聲が減殺されるやうになる。それを「たわむ」といふ言葉で現したのが、作者の技巧であらう。「吹落す」となつている本もあるが、「落す」では前のやうな光景は浮んで來ない。「吹おろす」でなければなるまいと思ふ。
野はづれや扇かざして立どまる 利 牛
元祿七年五月、芭蕉が最後の旅行に出た時、東武の門人たちが川崎まで送つて行つた。芭蕉が別れるに臨んで「麥の穗をたよりにつかむわかれかな」と詠んだ、その時の餞別[やぶちゃん注:「はなむけ」。]の句の一である。
芭蕉の姿はだんだん小さくなつて行く。立つて行く芭蕉も、見送る門弟も、これが最後の別にならうとは思ひもよらなかつたに相違無い。ぢつと姿の見えるまでは立つて目送する。今ならハンケチを振るところであらうが、元祿人にはそんな習慣が無い。立止つてかざす扇の白さが目に入る。別離の情はこの一點の白に集つてゐるやうな氣がする。
芭蕉翁餞別といふ背景が無かつたら、この句はさう注意を惹く性質のものではないかも知れぬ。俳人が別離の情を敍するに當つて妄に[やぶちゃん注:「みだりに」。]悲しまず、必ずしも相手の健康を祈らず、不卽不離の裡[やぶちゃん注:「うち」。]に或情味を寓するの妙は、この句からも十分受取ることが出來る。
[やぶちゃん注:「利牛」池田利牛(生没年未詳)は江戸蕉門。越後屋両替店の手代(番頭とも)。元禄七(一六九四)年、志太野坡・小泉孤屋とともに、芭蕉の監修で、江戸蕉門の撰集「炭俵」を編集・刊行した。通称は利兵衛・十右衛門。ここに出た芭蕉の句は、「赤册子草稿」に、
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五月十一日、武府ヲ出て故鄕に趣(おもむく)。
川崎迄人々送けるに
麥の穗を便(たより)につかむ別(わかれ)かな
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と載る。所持する山本健吉「芭蕉全発句」(講談社学術文庫・二〇一二年刊)中七には、『老病に苦しむ芭蕉の、そんな物にもすがってゆくという弱々しさがある』と評しておられる。]
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