柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(23)
涼しさや袂にあまる貝のから 一 琴
海邊の土產に貝殼でも持つて歸るやうな場合かと想像する。袂に入れた貝殼が相觸れて鳴る音も涼しいが、長いこと波に洗はれて眞白になつてゐる――動物といふよりも石に近い感じの貝殼であることが、涼しさを加へる所以らしく思はれる。
「袂にあまる」といふ言葉は、「うれしさを何にたとへむから衣袂ゆたかにたてといはましを」の歌以來、つゝむに餘るといふやうな主觀的の場合に用ゐられ易い。この句は實際袂に餘るほど多くの貝殼を獲たのであらうが、それに伴ふうれしさといふものも陰に動いている。少くとも作者はそれを意識して「袂にあまる」の語を置いたのであらう。
[やぶちゃん注:「うれしさを……」の一首は、「古今和歌集」の「卷第十七 雜歌上」の巻頭に載る「題しらず」の「よみ人しらず」の四首の三番目(八六五番)。
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うれしさを何につつまむ唐衣
たもとゆたかにたてといはましを
*]
谷水に松葉の浮てあつさかな 一 楊
谷川といふと、考へただけで淙々の音が耳に迫るやうな感じがするが、一槪にさうきめてかかるわけにも行かぬ。あまり深くない谷の、暑さ續きに水の乏しくなつたところなどは、さう涼しい趣ではない。この句はさういふ小景を描いたのである。
石の間に捗々く[やぶちゃん注:「はかばかしく」。]は流れぬやうな水がよどんでゐる。そこに散つた松葉が、これも流れずに浮んでいる。「淸瀧や浪に散り込む靑松葉」といふやうな背景なら、大に涼しかるべき松の落葉も、却つて暑さうな感じになるのは、谷そのものの感じが涼しくない爲である。俳人はかういふ景色に對し、つくろはざる眞實を描いてゐるのが面白い。
[やぶちゃん注:「淸瀧や浪に散り込む靑松葉」この句については、私の「旅に病んで夢は枯野をかけ𢌞る 芭蕉 ――本日期日限定の膽(キモ)のブログ記事――319年前の明日未明に詠まれたあの句――」を見られたい。実は、この「淸瀧や波にちり込靑松葉」という句は(改作であることを問題としないとすれば)実質上の芭蕉最期の発句ということになる句であるという説があるのである。]
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