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2024/05/04

柴田宵曲「古句を觀る」正規表現版電子化注 / 「夏」(20)

 

   賤は猶祭めかしや髮かしら 盛 弘

 

 日頃はなりにもふりにも構はず働いてゐるやうな人達も、祭の日はさすがに髮をきちんとして、如何にも祭らしく見える、といふ意味らしい。今では髮といふと女の世界に限られるやうだけれども、結髮の昔は男と雖も祭の髮を結ひ映えたものに相違無い。

 祭の日の賤の髮が目立つて見える、といふ點に作者は興味を覺えたのである。「猶」といふ言葉は、この場合なるべく輕く見たい。賤は猶の事、といふ風に强く解すると、多少理窟つぽくなる虞がある。

 いゝ句とは思はぬが、元祿の句はかういふ種類の句でも、どことなく重厚なところのあるのに注目しなければならぬ。

 

   長高き法し見らるゝ競馬かな 草 籬

 

 勝負事に熱心な人達の狂奔する今の競馬ではない、五月十五日に行はれる賀茂の競馬の句である。

 競馬を見る群集の中に、目立つて丈たけの高い法師がいる。皆の視線は自らそれに集る。見る人達の側を主とせずに、法師を主にして「見らるゝ」と云つたのである。競馬そのものを描かないで、見物の中の或人間を中心とするやうな手段は、寫生文家の得意とするところであるが、この句も期せずしてさういふ點を捉へてゐる。

 この句を讀むと、「徒然草」の一節を思ひ出す。賀茂の競馬を見に行つたら、樗[やぶちゃん注:「あふち」。]の木に坊主が上つて、木の又のところで見物してゐた。木につかまりながら眠りこけて、落ちそさうになるかと思ふと、ハツと目をさまして又眠り出す。見物がこれを見て嘲る、といふ話である。その坊主は木の上にゐるのだから、別に大きいとも小さいとも書いてない。「長高き」といふのはこの句の働きで、實景から得たものかも知れぬが、競馬の群集中に法師を點じたこと、皆がこれを見るといふあたり、或は「徒然草」から脫化したのではないかといふ氣もする。

[やぶちゃん注:句の「法し」は「法師」で「ほふし」と読む。通常の「法」の歴史的仮名遣は「はふ」であるが、仏教用語の場合は「ほふ」と読む。御存知ない方は、覚えておかれるがよい。

『「徒然草」の一節』「賀茂の競馬を見に行つたら、……」は第四十一段の以下。

   *

 五月(さつき)五日、賀茂の競べ馬を見はべりしに、車の前に雑人(ざうにん)立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下(お)りて、埒(らち)のきはによりたれど、ことに、人おほく立ちこめて、分け入りぬべき樣(やう)もなし。

 かかるをりに、向へなる樗(あふち)の木に、法師の上(のぼ)りて、木の股についゐて、ものみるあり。とりつきながら、いたうねぶりて、落ちぬべき時に、目を醒ます事、たびたびなり。これをみる人、あざけりあさみて、

「世のしれ者かな。かくあやふき枝の上にて、安き心ありて、ねぶるらん。」

といふに、我が心に、ふと、思ひしままに、

「我等が生死(しやうじ)の到來、ただ、いまにもやあらん。それを忘れて、ものみて日を暮らす、おろかなる事は、なほ、まさりたるものを。」[やぶちゃん注:「生死」この場合は「生」は人の存在を漠然と言っているだけで、全体で「死期(しご)」の意味である。]

と言ひたれば、前なる人ども、

「まことに。さにこそさふらひけれ、もつともおろかにさふらふ。」

と言ひて、皆、後(うしろ)をみかへりて、

「ここへ、入(い)らせ給へ。」

とて、ところをさりて、よび入れはべりにき。

 かほどの理(ことわり)、たれかは思ひよらざらんなれども、をりからの、思ひかけぬここちして、胸にあたりけるにや。人、木石(ぼくせき)にあらねば、時にとりて、ものを感ずること、なきにあらず。

   *

「樗」ここは「おうち」で、ムクロジ目センダン科センダン属センダン変種センダン Melia azedarach var. subtripinnata である。「栴檀」の古名・異名。但し、この漢字は「ごんずい」とも読み、その場合は、この漢字の第一義である、バラ類の一群のクロッソソマ目 Crossosomatalesのミツバウツギ科ミツバウツギ属ゴンズイ Staphylea japonica を指す(権萃)。私は若き日に「樗」に出逢ったのが(文章は失念)、「ごんずい」だったので、真っ先に、「ごんずい」と読んでしまう。]

 

   卯の花のちるや流れぬ池のさび 從 吾

 

 水錆の浮いた池水の上に、岸の卯の花がこぼれる。しづかな、陰鬱なやうな光景が眼に浮んで來る。池の水は必ずしも流動する性質のものではないが、場所によつては自ら他と相通ずるものがある。この池はさういふこともなしに、ぢつと湛へてゐるらしい。

「池のさび」はしばらく水錆の意に解したが、「池の寂び」とも見られぬことはない。たゞ卯の花の散るといふことに對しては、水錆の方がいゝかと思ふ。

[やぶちゃん注:この句、断然、水錆で採って、甚だ私の好きな情景である。昔は、鉄錆のような臭気を放つ閉塞した池沼が、私の裏山にはあったものだ。

「從吾」恐らくは金沢蕉門の一人。]

 

   濁江や漬木の陰のかきつばた 東 賀

 

 濁江[やぶちゃん注:「にごりえ」。]の水に材木が浸してある。浮ぶともなく浮んでいるその材木の陰に、燕子花[やぶちゃん注:「かきつばた」。]の花が咲いてゐる、といふのであらう。

 吾々の燕子花に關する感じは、傳統的に庭薗に捉はれ過ぎてゐる。かういふ自然の趣は、ただ燕子花らしい句を案出しようとする者の、所詮逢著し得ざる世界である。この句の强味はそこにある。

[やぶちゃん注:「漬木」「つけぎ」。前の句と親和性があるので、私も好きな句である。]

 

   尼寺にみそ摺る音やほとゝぎす 除 風

 

 小さな尼寺であらう。朝か夕かわからぬが、ゴロゴロと味噌を摺る音が聞える。何處かでほとゝぎすが啼くといふ意味らしい。音に音を取合せるのは、效果の薄い方法のやうにも思はれるが、古人は屢〻この手を用いてゐる。一槪に排し去るべきではあるまい。

 味噌摺る音だけでは平凡であるが、尼寺といふので一種の興味を感ずる。ほとゝぎすとも何となく調和を得てゐるやうである。

 

   草の戶や筵扣ケばぎやうぎやうし 爲 重

 

 この筵は何の筵かわからぬが、上に「草の戶」とあるから、不斷敷いてゐる筵ではあるまいかと思ふ。バタバタ筵を叩く音がする、行々子[やぶちゃん注:「ぎやうぎやうし」。]卽ち剖葦[やぶちゃん注:「よしきり」。]が啼く。これも音と音との取合せである。

 尼寺に味噌摺る音とほとゝぎすの聲とは、必ずしも似通にかよつてゐるわけではない。但趣の上に或調和がある。筵を叩く音と行々子の聲とも、やかましい點では多少共通するかも知れぬが、似てゐるといふことは出來ない。侘しい趣が感ぜられる。

[やぶちゃん注:「行々子卽ち剖葦」スズメ目スズメ亜目スズメ小目ウグイス上科ヨシキリ科ヨシキリ属オオヨシキリ Acrocephalus arundinaceus 、或いは、ヨシキリ属コヨシキリ Acrocephalus bistrigiceps である。博物誌・鳴き声は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 剖葦鳥(よしはらすずめ) (ヨシキリ)」を参照されたい。そこでも示した通り、彼らが「ギョッ、ギョッ」と囀ることから、「行々子」(ギョウギョウシ)の異名を持つに至ったものである。]

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